*
夕飯の食卓には、いつも通りの味噌汁と焼き魚、母の作る定番の煮物が並んでいた。
テレビの音だけが淡々と部屋に響いていて、私はお箸を持つ手に力が入っているのを感じていた。
昨日担任から進路を決めるための三者面談があると告げられ、各々希望進路を記入する用紙が配布された。
提出期限は1週間後。
言わなきゃ。今しかない。
「……ねぇ」
その一言が、ひどく大きく響いた気がした。
父が箸を止める。母も、私の顔を見た。
「私、進路……決めたの」
静まり返った食卓。父がテレビのリモコンを手に取り、無言で音を下げた。
「学芸員になりたい。大学で勉強して、博物館とか、美術館とか……そういう場所で働けたらって、思ってる」
自分の声が少しだけ震えていた。けれど、はっきり言えた。そう思った瞬間だった。
「は? 学芸員?」
父の声が、ピシャリと冷たく割り込んできた。
「そんなの、仕事になるわけないだろ」
「どうせ給料だって安いだろうし、正社員の枠も少ないって聞くよ」
母も、いつになくきつい口調で言った。
「もっと現実的に考えなさい。大学まで行かせて、そんな曖昧な仕事に就きたいって、どういうつもり?」
私は、何かを飲み込むように口を閉じた。
以前、少しずつ私の気持ちを聞いてくれるって言った言葉は、嘘だったの?
きっと、これが私の“夢”だと言えば、笑われる。
馬鹿にされる。
“現実を見ろ”って言葉の方が、ずっと正しいみたいに。
「……じゃあ、何なら“いい”の?」
そう反射的に聞いた声は、自分でも驚くほど強かった。
「世の中には、ちゃんとした仕事がいくらでもある。公務員とか、教師とか、看護師とか……安定してて、真面目な仕事よ」
両親が目を合わせ、母が私を説得しにかかる。
「私は、興味があることを学びたくて——」
「それは趣味でやればいい話だろ。人生は遊びじゃないんだぞ、花」
父がため息まじりに言ったその言葉に、私は言葉が詰まった。
「そんなに現実が大事なら、私の気持ちなんて、最初から関係ないよね」
立ち上がった私は、そのまま箸を置き、椅子を引いた。
「ごちそうさまでした」
後ろから呼ばれる声もなかった。
自室のドアを閉めた瞬間、目に熱いものがこみ上げてきた。
——わかってた。反対されるのなんて、最初から。
でも、傷つかないわけじゃない。
夢を語ることが、どうしてこんなに、罪みたいになるんだろう。
部屋のカーテン越しに、夜の闇が静かに降りていた。
✳
バイトが終わった帰り道、私はいつもより遠回りをして、商店街の端にある小さな公園に立ち寄った。ベンチに腰を下ろし、スマホも見ず、ただ黙って夜風を浴びていた。
すると、後ろから聞き慣れた自転車のブレーキ音が聞こえてきた。
「……青崎?」
声をかけてきたのは大崎くんだった。
制服の上からパーカーを羽織り、少しだけ息を切らしている。
「ここにいる気がした」
そう言って、大崎くんは私の隣に座った。
私が何も言わなくても、大崎くんは黙って待ってくれる。
「なんか今日、いつもと顔が違った」
「え?」
「無理して笑ってた。目が笑ってなかった。青崎って、そういうの隠すの下手だし」
私は小さく笑った。けれど、それはすぐにかすれて、喉の奥に戻っていった。
「……親に言ったんだ。進路のこと」
「うん」
「学芸員になりたいって。でも……全否定された」
口にした瞬間、堰が切れたみたいに、言葉があふれ出した。
「“そんな仕事、現実的じゃない”って。給料も低いし、ちゃんとした職業じゃないって……なんで、夢を語るだけで怒られなきゃいけないの? なんで、“好き”って気持ちより、“安定”ばっかりが正解みたいに言われるの?」
言いながら、泣きそうになるのを必死でこらえていた。
大崎くんは、すぐに何も言わなかった。ただ、そっと私に缶コーヒーを差し出してきた。ぬるくなった缶の温もりが、かえって今の私にはちょうどよかった。
「……ありがとう」
そう言って受け取ると、大崎くんは前を向いたまま、ぽつりとつぶやいた。
「俺さ、小学生のとき、ずっとプロ野球選手になりたかったんだ」
「え?」
突然の話に、思わず顔を上げる。
「でも、恥ずかしい話。俺の家は母親1人しかいなくて、野球をやろうとするにしても道具を揃えることが必要で、子どもながらに無理なんだと悟った。それ以来、誰にも言わなくなった。どうせ無理って、自分でも思うようにしてた」
大崎くんの声は、穏やかだけど、どこか遠くを見るような響きがあった。
「夢って、自分だけのもんじゃないんだなって思ってた。環境によっては、言うのも怖くなるし、言っちゃいけないようなそんな気になる……自分の夢なのにさ」
私は唇をかんだ。
大崎くんも、同じように——いや、もっとずっと早くから、自分の気持ちを飲み込んできたんだ。
「でも、俺は思うよ。青崎が“やりたい”って思うこと、誰かに否定されたり、諦めて終わるようなもんじゃないって」
そう言って、大崎くんは少しだけ私のほうを見て、目を細めた。
「俺は、いいと思う。青崎が博物館で働く姿、なんか似合ってるし。……きっと、子どもたちにめっちゃ丁寧に説明してると思う。ちょっとテンパりながら」
「……なにそれ」
笑いかけて、また少し涙がにじんだ。
「……ありがと。大崎くん」
「俺は味方だよ」
その言葉が、どんな慰めよりも、まっすぐ胸に届いた。
なんとなく今日分かった。
大崎くんの仮面の下。
きっと、いろんな人の気持ちがわかる人だから、ぐっと自分の気持ちを押し殺して今日まで生きてきたんだろう。
私はこのままでいいのか。
このままもらいっぱなしでいいのか。
「大崎くん」
今なら聞けるような気がした。
「ん?」
「大崎くんの夢は、やりたいことは……なんなの?」
風がブワッと強く吹く。
葉桜がハラハラと鳴る。
大崎くんの口元に八重歯が見えた。
「……まだ、探し中」
大崎くんのその言葉に、何か遠い日の寂しさの影を見た気がした。
夜風がまた吹いて、缶コーヒーが少しだけ冷たくなった。けれど、心の奥にあったわだかまりは、ほんの少しだけ、溶けていくような気がした。
夕飯の食卓には、いつも通りの味噌汁と焼き魚、母の作る定番の煮物が並んでいた。
テレビの音だけが淡々と部屋に響いていて、私はお箸を持つ手に力が入っているのを感じていた。
昨日担任から進路を決めるための三者面談があると告げられ、各々希望進路を記入する用紙が配布された。
提出期限は1週間後。
言わなきゃ。今しかない。
「……ねぇ」
その一言が、ひどく大きく響いた気がした。
父が箸を止める。母も、私の顔を見た。
「私、進路……決めたの」
静まり返った食卓。父がテレビのリモコンを手に取り、無言で音を下げた。
「学芸員になりたい。大学で勉強して、博物館とか、美術館とか……そういう場所で働けたらって、思ってる」
自分の声が少しだけ震えていた。けれど、はっきり言えた。そう思った瞬間だった。
「は? 学芸員?」
父の声が、ピシャリと冷たく割り込んできた。
「そんなの、仕事になるわけないだろ」
「どうせ給料だって安いだろうし、正社員の枠も少ないって聞くよ」
母も、いつになくきつい口調で言った。
「もっと現実的に考えなさい。大学まで行かせて、そんな曖昧な仕事に就きたいって、どういうつもり?」
私は、何かを飲み込むように口を閉じた。
以前、少しずつ私の気持ちを聞いてくれるって言った言葉は、嘘だったの?
きっと、これが私の“夢”だと言えば、笑われる。
馬鹿にされる。
“現実を見ろ”って言葉の方が、ずっと正しいみたいに。
「……じゃあ、何なら“いい”の?」
そう反射的に聞いた声は、自分でも驚くほど強かった。
「世の中には、ちゃんとした仕事がいくらでもある。公務員とか、教師とか、看護師とか……安定してて、真面目な仕事よ」
両親が目を合わせ、母が私を説得しにかかる。
「私は、興味があることを学びたくて——」
「それは趣味でやればいい話だろ。人生は遊びじゃないんだぞ、花」
父がため息まじりに言ったその言葉に、私は言葉が詰まった。
「そんなに現実が大事なら、私の気持ちなんて、最初から関係ないよね」
立ち上がった私は、そのまま箸を置き、椅子を引いた。
「ごちそうさまでした」
後ろから呼ばれる声もなかった。
自室のドアを閉めた瞬間、目に熱いものがこみ上げてきた。
——わかってた。反対されるのなんて、最初から。
でも、傷つかないわけじゃない。
夢を語ることが、どうしてこんなに、罪みたいになるんだろう。
部屋のカーテン越しに、夜の闇が静かに降りていた。
✳
バイトが終わった帰り道、私はいつもより遠回りをして、商店街の端にある小さな公園に立ち寄った。ベンチに腰を下ろし、スマホも見ず、ただ黙って夜風を浴びていた。
すると、後ろから聞き慣れた自転車のブレーキ音が聞こえてきた。
「……青崎?」
声をかけてきたのは大崎くんだった。
制服の上からパーカーを羽織り、少しだけ息を切らしている。
「ここにいる気がした」
そう言って、大崎くんは私の隣に座った。
私が何も言わなくても、大崎くんは黙って待ってくれる。
「なんか今日、いつもと顔が違った」
「え?」
「無理して笑ってた。目が笑ってなかった。青崎って、そういうの隠すの下手だし」
私は小さく笑った。けれど、それはすぐにかすれて、喉の奥に戻っていった。
「……親に言ったんだ。進路のこと」
「うん」
「学芸員になりたいって。でも……全否定された」
口にした瞬間、堰が切れたみたいに、言葉があふれ出した。
「“そんな仕事、現実的じゃない”って。給料も低いし、ちゃんとした職業じゃないって……なんで、夢を語るだけで怒られなきゃいけないの? なんで、“好き”って気持ちより、“安定”ばっかりが正解みたいに言われるの?」
言いながら、泣きそうになるのを必死でこらえていた。
大崎くんは、すぐに何も言わなかった。ただ、そっと私に缶コーヒーを差し出してきた。ぬるくなった缶の温もりが、かえって今の私にはちょうどよかった。
「……ありがとう」
そう言って受け取ると、大崎くんは前を向いたまま、ぽつりとつぶやいた。
「俺さ、小学生のとき、ずっとプロ野球選手になりたかったんだ」
「え?」
突然の話に、思わず顔を上げる。
「でも、恥ずかしい話。俺の家は母親1人しかいなくて、野球をやろうとするにしても道具を揃えることが必要で、子どもながらに無理なんだと悟った。それ以来、誰にも言わなくなった。どうせ無理って、自分でも思うようにしてた」
大崎くんの声は、穏やかだけど、どこか遠くを見るような響きがあった。
「夢って、自分だけのもんじゃないんだなって思ってた。環境によっては、言うのも怖くなるし、言っちゃいけないようなそんな気になる……自分の夢なのにさ」
私は唇をかんだ。
大崎くんも、同じように——いや、もっとずっと早くから、自分の気持ちを飲み込んできたんだ。
「でも、俺は思うよ。青崎が“やりたい”って思うこと、誰かに否定されたり、諦めて終わるようなもんじゃないって」
そう言って、大崎くんは少しだけ私のほうを見て、目を細めた。
「俺は、いいと思う。青崎が博物館で働く姿、なんか似合ってるし。……きっと、子どもたちにめっちゃ丁寧に説明してると思う。ちょっとテンパりながら」
「……なにそれ」
笑いかけて、また少し涙がにじんだ。
「……ありがと。大崎くん」
「俺は味方だよ」
その言葉が、どんな慰めよりも、まっすぐ胸に届いた。
なんとなく今日分かった。
大崎くんの仮面の下。
きっと、いろんな人の気持ちがわかる人だから、ぐっと自分の気持ちを押し殺して今日まで生きてきたんだろう。
私はこのままでいいのか。
このままもらいっぱなしでいいのか。
「大崎くん」
今なら聞けるような気がした。
「ん?」
「大崎くんの夢は、やりたいことは……なんなの?」
風がブワッと強く吹く。
葉桜がハラハラと鳴る。
大崎くんの口元に八重歯が見えた。
「……まだ、探し中」
大崎くんのその言葉に、何か遠い日の寂しさの影を見た気がした。
夜風がまた吹いて、缶コーヒーが少しだけ冷たくなった。けれど、心の奥にあったわだかまりは、ほんの少しだけ、溶けていくような気がした。



