コーヒーの苦さを知る頃に

 朝、食卓に漂う焼きたてのパンの香ばしい匂い。 湯気の立つ、ミルクたっぷりのカフェオレ。
 制服は母が毎日アイロンをかけてくれていて、リビングには季節の花が欠かさず飾られている。

 私の毎日は、誰が見ても「幸せな子ども」だ。

 実際、困ることなんて何もなかった。
 塾も家庭教師も用意されていたし、テストで悪い点を取ったこともない。
 部活の送り迎えも、スマホの管理も、将来の話も……全部、親が“してくれた”。
 いや、“してしまった”のかもしれない。


 “私は親に愛されている”
 それは事実だったと思う。

 「将来は安定した職業がいいわよ、花ちゃん。看護師とか、薬剤師とか、花ちゃんは手先も器用だし」
 「だから花ちゃんは、まず医療系の大学進むために今頑張らないとね。お母さんも頑張るからね」

 そう言って笑う母の顔を、私は否定できなかった。

 でも、あの日。
 ふと立ち寄った美術館で見た。
 キャンバスいっぱいに広がる、誰かの叫び声のような赤。それは、心の奥底を無理やりこじ開けられるような衝動だった。
 私はそんな絵の前で、ただ立ち尽くした。

 一つの絵に、胸がぎゅっと締めつけられた日のことを――きっと、両親は知らない。

 窓の外を、鳥がひと声鳴いて飛んでいく。
 あの羽のように、軽やかに生きることを、私は知らない。

 ____私は一体、誰の人生を歩んでいるのだろう。
 夕飯の最中、母の「大学のパンフレット取り寄せておいたからね」の一言に、私の箸が止まった。
 またその話か_____。胸の奥がきゅっとなる。夕飯のたびに聞かされるその言葉は、今日で何度目だっただろう。

「どうして、私の将来を、勝手に決めるの?」

 その一言が、口をついて出た瞬間、母の表情が固まった。

 リビングには、静かな緊張が走る。
 いつもなら、にこやかに受け流してくれるはずの母が、その日ばかりは、はっきりと眉をひそめた。

 「勝手に、って……花ちゃんのためを思って言ってるのよ」
 「私の“ため”って、何? 私の気持ちなんて、一度でも聞いたことある?」

 その声が、いつもより大きかったことに、自分でも驚いた。

 母の口が動きかけて、でも言葉は出てこなかった。
 静寂の中で、私は立ち上がる。
 鞄をつかんで、乱暴に玄関を出た。
 「おい、待て。花!」という父の声が背中越しに飛んできたけど、もう聞きたくなかった。

 制服のまま、駅へ向かう。
 涙が出るはずなのに、出てこなかった。感情のスイッチが壊れたみたいに。ただ、心の中で何かが弾けていた。

 こんな家、もう知らない。

 行き先も決めずに飛び乗った電車の中。
 家にも帰れない、でもどこに行けばいいのかも分からない。
 車窓に映る自分を見ながら、ふと頭に浮かんだのは――学校近くの、あのカフェだった。
 同じクラスの子が雰囲気が落ち着いていて、夜遅くまでやっていると言っていた場所。
 私も何度か友人と学校帰りに行ったことがある場所。

 逃げ場所になんて思っていなかった。でも、気づいたら足が向いていた。

 カラン。

 ドアを開けた瞬間、カウベルの音が響き、コーヒーの香りがふわっと鼻をくすぐった。
 店内には柔らかいジャズが流れていて、街灯の光が優しく窓にきらめく。

 「いらっしゃいませー」
 「……っ!」

 聞き覚えのある声に、肩がすくんだ。
 そっと踵を返し、違う場所に移ろうとしたとき

 「……あれ、同じ学校の子だよね?」

 軽く茶色がかった髪、どこか掴みどころのない笑顔。
 同じクラスの大崎玲央(おおさき れお)が、私に話しかける。
 学校では有名な存在だったけど、彼と話すのはこれが初めてだった。

 なんで、こんな場所に。
 彼の言葉を遮るように私はそっと振り返り、私はポツリとつぶやいた。

 「……コーヒー、ください」

 彼は一瞬驚いた顔をしたがやがて、口角を少し上げ、「お好きなお席におかけになってお待ちください」と店員らしく振舞い、私に踵を返した。
 
 もう後に引けなくなった私は、とりあえず店内に視線を向けないような窓際のカウンターを選択し、腰を下ろした。

 夕食時の時間帯。
 軽食までしか出してないこのカフェは、この時間帯閑散としていて静かだった。
 ゆったりとしたジャズの音が、先ほどまで高ぶっていた私の気持ちを、やさしくなでてくれているような、そんな気がした。
 
 ポケットに入れていたスマートフォンが先ほどから激しく揺れている。
 思わずため息が漏れ、私はそっとスマートフォンを取り出し、そのまま電源を切った。
 これでもう、私を邪魔するものは何もない。

 「お待たせしました」

 ふと後ろから聞こえた声にびくっと肩を震わせる。
 振り返る間もなく、私の目の前に真っ白なティーカップに入れられたホットコーヒーが優しく置かれた。
 コーヒーのいい匂いが胸いっぱいに広がるのを感じ、思わず目を細める。 
 
 まずは一口飲んでから、これからのことを考えよう。
 そう思い、コーヒーカップに手を伸ばそうとしたとき。
 コーヒーを持ってきた人物が、一瞬ためらったような仕草のあと、私の隣の席に腰を下ろした。

 「……え」

 思わず、そう声に出すと、彼はその特徴的な八重歯を見せて笑う。

 「まあ、まず冷めないうちに飲んでよ」
 「そんなに見られていると飲みづらいんだけど」
 「……しょうがないなー」

 彼はそういって渋々カウンターの席を回し私に背を向ける。
 その間に私は先ほど伸ばしかけた手でコーヒーカップを持ち、ゆっくりと一口飲んだ。
 大人な苦さが口いっぱいに広がる。

 「……どう?」

 彼は私が飲むのを見計らったように、再度席を回転させ、私のほうへ視線を向ける。

 「……苦い」

 思わず苦笑した私に、彼はまたあの八重歯をのぞかせた。

 いつも朝は甘いカフェラテ。
 カフェに行っても頼むのは必ず砂糖やミルクがたっぷり入った甘い飲み物だった。

 「だろうね。青崎()さ、いつもここ来て頼むの甘いものだから。珍しいなーと思って」

 彼はそういってカウンターに体重を預け私のほうを見ながら、人懐っこく笑った。
 言えない。
 大人を象徴するホットコーヒーに惹かれてつい頼んでしまったなんで、そんなの言えない。

 「大崎くんは……、ここで働いているの?」

 私はコーヒーカップを一度置き、ごまかすようにそう彼に尋ねる。

 「うん。でも、夕方はここの学校の人お客さんでよく来るからキッチンにほとんどいる。夜はこうやって出てきてるけど」
 「そっか。……大変?」
 「んー、楽ではないけど。よくしてもらってるし、自分のためにやってるから。大変ってほどではないよ」

 そう言って笑いながら自分のことを離す彼が私にはまぶしくて、ぐっと胸が締め付けられるのを感じ思わず彼から目をそらした。
 そしてごまかすように、その苦いコーヒーを一口口に含む。

 「言いたくないならいいけどさ。今日は、どうした?」

 私の様子を見てか、彼はそう私にやさしく問いかける。
 一瞬だけ、何もかも言ってしまおうかと思ったが、同じクラスメイトかつあの”大崎玲央”にこんな私のこの状況を伝えることに引け目を感じ、私はゆっくりと首を横に振った。
 彼はそれ以上は何も詮索してこず、「そっか」と優しく笑ってゆっくり席を立つ。

 「俺、21時上がりだから。もし、それくらいに帰るなら送ってく」

 彼はそう私の背中にそう言い残して、キッチンのほうへと向かっていった。
 苦いコーヒーの余韻が、私の胸の奥にじんわり残っていた。_____まるで、少しだけ大人になったみたいに。

 *




 大崎くんが私の席を離れた後。
 この先、どうしようか。現実味のない考えばかりが、泡のように浮かんでは消えていった。
 
 「青崎。俺、帰るけど……帰る?」

 ぼんやりと窓の外を眺めていた私に、背後から声がかかる。
 はっとして時計を見ると、もう夜の9時。
 店には私以外のお客さんはもう誰もいなかった。

 人生初の”家出”をしてから、既に2時間以上。
 これ以上無断で家を空けると、親が何をしでかすかわからない。

 冷めきったコーヒーを一気に飲み干し、帰ろうと思ったその時。

 「玲央、帰る?って何よ。女の子をこの時間に一人で返すなんてどんな神経してたらその選択肢でてくるの。あなたが送っていきなさい!」

 力強い声がキッチンのほうから聞こえたと思い、思わず振り返る。

 ______この人、噂になっていた人だ。

 学校で、“綺麗な人が働いている”って話題になっていた。
 透き通るような白い肌に、艶やかな黒髪。すらりとした長身。まるでスクリーンから抜け出してきたようで、どこか現実感がなかった。
 そして、そんな綺麗な人が今、眉間にしわを寄せてこちらを睨んでいる。

 「ちょ、麻衣さん。そんな美人が台無しな顔しないでって。ほら、もし彼氏とかいたら別の男に送られるの嫌かなとか思ってさ」
 「そんな男いたら、さっさと振っちゃいなさい。器の小さい男なんて、この先付き合っててもろくなことないから」
 「いやいや、全人類がそんな麻衣さんみたい割り切れるタイプじゃないから……」

 テンポ良く繰り広げられるふたりの言い合い。
 その空気は、なぜかあたたかかった。
 思わず、口元が緩む。

 「わりぃ、青崎。麻衣さん少し口が荒っぽくてさ。んで、どうする?」

 そう言って彼は選択を私に委ねる。
 ここで「大丈夫」と首を振ったら、麻衣さんの眉間のしわがもう一段深くなりそうだった。

 「じゃあ……お願いしようかな」

 私はそういって、コーヒーのお代である500円を彼に差し出した。
 彼は少し「ごめんな」と小さく言ってそれを受け取り、麻衣さん手渡した。
 麻衣さんは満足げに「お疲れ」と言ってキッチンの中へまた消えていった。

 私は急いで荷物をまとめ、彼はカウベルの鳴る扉を開け私を待つ。

 外に出ると、初夏の生ぬるい風が私の頬をかすめた。

 「青崎って、家どこだっけ?」

 外に出て彼は立ち止まり、スマートフォン片手に私のそう聞いてくる。

 「吉祥寺」
 「おっけ。じゃあまず駅だからあっちか」

 彼はそういって、初夏の夜道を歩きだす。
 私もその背中に続く。
 彼は自然と車道のほうを歩き、歩幅を私に合わせてくれる。

 _____噂通りに人だと、そう思った。

 「大崎くんってさ」
 「ん?」
 「……よく、"優しい"って言われるでしょ?」

 私の問いに、彼はふっと笑った。
 街灯に照らされて、その横顔がかすかに緩むのが見えた。

 「うん、そうだね。よく言われる」

 そして、そういってから少し彼の視線が落ちた。

 「でも、本当は、あんまり優しくなんかないよ」

 そういった彼の横顔は少し悲しげだった。

 「”優しい”って言われるのは慣れているし、嬉しくないわけじゃないけど……。なんかうわべだけって感じであんまり好きな言葉じゃないんだよね。昔から、人の顔色見て動くのが癖になっててさ。気づけば、“優しい”って言葉だけが残ってた」

 そう言ってから、彼が無理に笑うのが分かる。

 彼とちゃんと話すのは今日が初めてだけど、不思議と彼の心の輪郭が見えた気がした。
 彼にとってこの笑顔は……自分の身を守るための”仮面”なのだろう。
 その仮面の下にある素顔を、夜風みたいに、そっと覗いてみたくなった。

 「さっきさ」

 ぽつりと、言葉を私はこぼす。

 「”今日はどうした?”って聞いてくれたよね」

 さっき彼に言われた言葉を繰り返す。

 「うん、そうだね。言ったね」
 「私ね……家出してきたの」

 私の言葉に彼は特に反応せず、「うん」とだけ相槌を打ったのが分かった。

 「私ってさ、自分でいうのも変な話なんだけど。割と”当たり”の家に生まれたとは思ってるの。生活するにしても何不自由なくて。欲しいものは大体手に入る。両親も健康で私のことかわいがってくれていることはすごく伝わってくる」

 「うん」

 「だから私は”幸せ者なんだ”って。そういう風に周りから言われてきたし、自分でもそう思ってた」

 「うん」

 「だけど、ふと思ったの。両親が引いてきたレールの上をただただ何の疑問もなく歩んできた私は、一体誰の人生をを行きているんだろうって」

 「うん、そっか。それで、今日出てきたの?」

 「うん、そう。初めて母親に反抗したの」

 私の言葉に少し彼が笑ったのが分かった。

 「なんて言ったの?」

 「んーなんだったかな。”どうして、私の将来を、勝手に決めるの?”とかだったと思う」

 「それは親もびっくりしただろうね」

 「……くだらないかな……?」

 私のその問いに、彼は足を止めた。
 しばらく沈黙が流れ、夜の風が私たちの間を吹き抜けた。
 足を止めてはじめて、そこはもう駅であることに気が付く。

 「くだらなくなんかない。それでしんどくなって、今日出てきたんでしょ?」

 そう、目を細めて笑う彼はやっぱり優しい人だと、そう思った。

 「おめでとう」

 そして、彼はそういって口角を上げて笑う。
 何に対してのおめでとうなのか、私にはわからず思わず首をかしげる。

 「親に本音言うことってなかなか難しいけど、やってのけたんだね。青崎は頑張ったじゃん。初反抗記念日だね」

 そういって、彼は踵を返し、改札のほうへ向かう。
 私も置いて行かれまいと彼の背中を追いかける。
 彼は慣れた足取りで電車のホームへと向かう。
 そこでちょうど目当ての電車が着て、私たちはその電車に乗り込んだ。










 この時間帯の上り電車はすいていたため、私たちは自然と横並びで座席に座った。

 「なんかさ」

 電車が発車して、しばらく沈黙が続いた後、彼が口を開いた。

 「俺、小学校の時に一回だけ、まじで家出しようと思ったことがあるんだよね」

 「え、そうなの?」

 意外過ぎて、思わず笑いそうになる。
 でも彼の顔は真剣で、冗談ではないとすぐに分かった。

 「家族と喧嘩したとかじゃなくって……なんていうか、ここにいても意味ないなって、ふと思っちゃったんだよね」

 「……そっか」

 彼の言葉は、どこか私の気持ちと重なっていて、胸の奥が少しだけチクリとした。

 「でも、結局、コンビニでおにぎり買って、近くの公園で食べて帰った。全然ドラマみたいな展開じゃなかったけど」
 「何それ、かわいい」

 思わず口元が緩む。
 彼も「だろ?」と少し照れたように笑った。

 「でも今思えば、それでも少しだけ、自分で何か決めたって感じがしてさ」

 「うん」

 「俺にとってはそれがちょっとした”始まり”だった気がするんだよね」

 窓の外を見ながら彼がそうつぶやく。

 流れていく街の明かりが、まるで過ぎていく今日の出来事をなぞっているみたいだった。
 窓に映る自分の顔は、少しだけ違って見えた。
 その隣に、彼が静かに座っている。

 「……ねえ、大崎くん」
 「何?」

 少し勇気を出して、私は口を開く。

 「今日のこと、誰にも言わないでくれる?」

 彼になら、少なくとも私の仮面の下は見せてもいいかな。そう思った。

 「もちろん」

 彼は私の問いに対して、優しく笑う。

 「ありがとう」

 彼は一瞬だけいたずらっぽく目を細めて、「秘密の共有だね」と、軽くウィンクしてみせた。
 私の中の”家出”は、きっと今日限りのものだけど。
 何かが少しだけ変わった気がした。

 今まで通りの私じゃない。
 でも、これからの私もまだ知らない。

 でも____

 「……今日が”始まり”なら、いいな」

 そう心の中で呟いた時。
 電車が吉祥寺駅に到着した。

 電車が止まり、ドアが開いた。

 「こっち?」

 彼の問いかけに頷くと、彼は改札へと歩きだす。
 自動改札を通ると、駅前の人の気配はすっかり減っていて、静かな夜がそこにはあった。

 「……ごめんね、付き合わせちゃって」

 私がそういうと、彼は軽く首を振った。

 「別に。こういう日があってもいいじゃん。俺は割と好きだよ、夜の散歩」

 そう言って、彼はポケットからイヤフォンを取り出すと、片方を私に差し出した。

 「……聴く?」

 一瞬、胸の奥がくすぐったくなる。
 誰かと音楽を“分け合う”なんて、たぶん初めてだった。しかも、男の子と。


 「何が流れてるの?」
 「さあ、適当にシャッフルしてるから。でも、大体、ゆるいやつ」

 私は受け取ったイヤフォンを恐る恐る耳に差さす。
 少しだけ古びた音が流れ始めた。どこか懐かしくて、あたたかい。

 「……なんか意外。てっきり、もっと今どきのとか聴いているかと思った」
 「よく言われる。でもこっちのほうが、余白があって落ち着くんだよね」

 ”余白”という言葉が何だか耳に残る。
 道すがら、家近くのコンビニの明かりがちらほらと見えてくる。

 「ねえ、大崎くん」
 「何?」
 「少し、遠回りなんてしていい?」
 「もちろん。じゃあさ、曲がり角が来たとき、どこに進むかは一緒に決めよう。俺はどっちが青崎の家かはわからないから完全に勘だけど。なんとなくこっちに曲がりたいと思ったら、そっちに曲がって進んでいこう」
 「……何それ。そういうのあり?」
 「ありでしょ」

 その一言が妙にあたたかかった。

 そして私たちは曲がり角が来るたびに、右!左!なんて言いながら、夜道を練り歩く。
 だけど、着々と私の家には近づいていて、いつまでも続けばいいと思っていた時間は、終わりを迎えようとしていた。

 「ここでいい?」

 数時間前に出ていった家が目の前にある。
 別れ際、イヤフォンを外した耳に、夜の風がひやりと通り、現実へと私を押し戻す。

 「うん、ありがとう。……ほんとうに、ありがとう」

 私がそういうと、彼は「どういたしまして」と言って、手を軽く振った。

 ここから先は、私ひとりの時間だ。
 甘くなんてない。でも、苦さごと受け止める覚悟くらい、今の私にはある。

 意を決して玄関の扉を開く。
 ふと、振り返るも、もうそこに彼の姿はなかった_____。





 玄関のドアを開けた瞬間、ひやりとした空気が肌にまとわりつく。まるで家全体が怒りを抱えて沈黙しているようだった。

 「おかえりなさい」

 リビングから聞こえた母の声は静かだった。
 静かで、けれどどこか怒りを押し殺したような響きを持っていた。

 私は靴を脱ぎながら、心の中でカウントダウン始めた。

 3、2、1___

 「どういうつもりなの?」

 やっぱり来た。
 振り返れば、母がリビングのドアの前に立っていた。
 腕を組み私をじっと見据えるその視線は、普段のやさしさのベールを完全にはぎ取っていた。

 「電話もLINEも無視して……どこにいたの? こんな時間まで……!」
 「……外」
 「ふざけないで。心配して、どれだけ……!」

 母の声が震えている。
 怒りよりも、感情の渦に吞まれて、泣き出す寸前のように。
 私は一瞬たじろぐも、今日の出来事がそっと私の背中を押した。

 「心配かけたのはごめんなさい。だけど、私だって……苦しい」
 「苦しい? 何が?」

 母は眉を顰め、少し身を乗り出す。

 「お母さんは、私のためにっていろいろしてくれるだろうけど……全部、決めつけだから」
 「決めつけ?」
 「将来のこと、学校のこと……私の”好き”とか”やりたいこと”とか聞いてくれたこと、あった?」

 母はその場に立ち尽くしたまま、何も言わなかった。
 私は構わず続けた。

 「良かれと思ってっていうのはわかってる。でも私は親の引いたレールの上を走っているだけだったから、自分がどこに向かっているのかわからなくなって、急に怖くなったの。だから、今日初めて自分の意志で立ち止まった。考えたの、自分のこと」
 「……そんなの、相談してくれればよかったじゃない……」

 母が絞り出すようにそういった。

 「言えなかったよ。だって、言ったら”そんなことよりも勉強しなさい”ってそうなるでしょ。いつも、そうだったじゃん」

 静まり返るリビング。
 時計の針の音がやけに耳についた。

 「私、間違ってるのかな?」

 そう問いかけると、母はふっと目を伏せた。そして少しだけ震える声で、答えた。

 「……間違ってない。でも、怖いの。あなたが自分の選んだ道で、傷ついたり、後悔したりするのが」
 「それでも、自分で選びたいの」

 その言葉が部屋の空気を変えたのが分かった。
 母は深く息を吐き、ゆっくりと頷いた。

 「……わかった。全部じゃなくてもいい。少しずつ、話してくれる?」

 母は少し目を赤くしながら、それでもまっすぐ私を見つめて言った。
 私は目を見開き、ふと笑みが溢れた。

 「……うん」

 初めて母と衝突した。
 だけど、”始める”と決めて自分の意志でぶつかって壊れなかった。

 大崎くん___
 私もどうやら始められた気がするよ。

 今頃、あの”余白”いっぱいの音楽を聴きながら夜道を歩いている彼に向かって、私はそっとそう心の中で呟いた。







 翌日の昼休み、教室の窓際からそっと視線を巡らせる。

 「どうした、花? だれか探してるの?」

 高校に入って仲良くなった高橋文乃(たかはし ふみの)が私の様子を見て少し不審がる。

 「んー、ちょっとね」

 昨日のことはお互い内緒にする約束。
 だから、いくら仲のいい文乃であっても、昨日のことは言えなかった。

 そうこうしているうちに私は目当ての人物を見つけ、席を立つ。
 少し胸が高鳴った、そんな気がした。

 「ごめん、文乃。ちょっとトイレ」

 私はそう一言残して、教室を出た。
 教室の廊下で彼を見つけ、思わず声を張った。

 「大崎くん!」

 何人かの友人と一緒に教室に戻ろうとしていた彼に、私はそう声かけた。
 一瞬声をかけるのを躊躇したが、昨日のことがあったせいで今私は怖いもの知らずになっている部分があり、そんな恐怖は軽々と飛び越えてしまった。
 振り返った彼は、特徴的な八重歯を見せて笑った。

 「おはよう、じゃないか。こんにちは?」

 そして、そういたずらっぽく彼は話す。
 周囲の人たちは、気を利かせたのか、そそくさと教室へ入っていった。

 「昨日のことで……」

 私がそう話し出すと彼は、人差し指を自分の口元に寄せてウィンクをした。

 「秘密、なんでしょ?」

 彼の言葉を聞いて、昨日自分がこの話題は秘密にしてほしいといったことを思い出す。
 昨日の話を覚えていてくれていたことに、また心臓の音が高鳴ったのが分かった。

 「だから……。まあ、青崎がよければだけど」

 彼はそういって、自分のスマートフォンを操作し、LINEのQRコードを私に差し出した。

 「これだと、話しやすいでしょ?」

 そう言って、彼は優しく笑う。
 私は、自分のスマートフォンを取り出し、彼の差し出してくれたQRコードを読み込んだ。

 「ありがと」
 「どういたしまして」

 彼はそういって、教室の中に入っていく。
 私も続けて入ると、彼の取り巻きの中から「告白?」と私が近くにいるのにも変わらず、そんな話が聞こえてきて急に顔がほてる。

 「違うよ。俺が落とした物拾って届けてくれたの」

 しかし、彼はそんな揶揄に対して、さらりと嘘を吐き、「な?」とその後ろをちょうど通り過ぎようとした私に視線を向けた。思わず頷いてしまった私。周囲は「なんだー」とつまらなそうに反応し、すぐ別の話題へと移っていった。

 私も先ほど座っていた席に戻ると、文乃がじっとこちらを見続けていることに気づく。

 「花」

 うん、声色からして文乃は若干怒ってる。

 「ごめん、急に飛び出して行って」

 とりあえず、先ほど急に席を立ったことについては謝っておく。

 「それはいいけど……私、聞いてないんですけど?」
 「え?」
 「あの、大崎くんと何かあったの?」
 「……何って程じゃ……」
 「王子様とお近づきになれそうな話があるなら、私にも教えてくれてもよくない?」

 文乃はそういって、目をキラキラとさせて私のことを見つめてくる。
 胸が痛いが、秘密にしてしまった以上、本当のことを話すことはできない。

 「落とし物拾ったから届けただけなの」

 私はそう、彼が先ほど使った嘘を再度利用する。
 「罪悪感」という言葉が胸を締めつけるけれど、この状況では仕方がなかった。
 文乃は私の言葉を聞くと、「なーんだ」と、先ほどの彼の取り巻きと同じような反応を示した。

 そこで、授業開始のベルが鳴り、各々自席へ戻っていく。
 その瞬間スマートフォンが震え、1件の通知が画面に表示された。

 《大崎玲央:昨日あれからどうだったか、教えてね》

 通知の内容を見て、胸が高鳴る。
 意見を押し付けるわけでもなく、話を聞いてくれないわけでもない。
 私には彼という____話を聞いてくれる存在がいる。
 それだけで、私はなんだか昨日の自分よりも少し強くいられるような、そんな気がした。

 授業中ではあったが、先生の目を盗んで、昨日のことをLINEを通じて、彼に報告をした。
 母とぶつかったこと。ぶつかったけれど最終的には私の気持ちを”少しずつ”聞くという風に言ってくれたこと。
 すると彼からは、
 《やったじゃん》
 というメッセージとともに、何やらクマが踊っているようなそんなスタンプも一緒に送られてきて、思わず口元が緩む。
 授業中、人を笑わせにくるの本当にやめてほしい。

 《ありがとう。大崎くんのおかげ。大崎くんは嫌がるかもしれないけど、そのやさしさに私は少なくとも助けられたよ》

 そのメッセージを送ったあと、なんとなく思った。私と彼の関係は、これで終わるのかもしれない。
 そんな勘が働いた。

 案の定、そのメッセージは既読にはなっているのに、返信は来ない。
 ちらりと、周りにばれないように、大崎くんの座っている席に目線を移すと、もう彼は、何事もなかったかのように教科書に視線を落としていた。

 ____彼は、仮面をかぶるのが得意だ。
 もちろん、それは私の前でも例外ではなく、周りが彼に”かぶってほしい”と願う仮面をかぶるのが得意。
 そして、近づいてその仮面をとられない距離を彼は維持するのが得意なんだろう。

 私は昨日、初めて“これだ”と思えることを、自分で決めた。
 まず、一つ目が自分で自分のレールを引けるようにすること。
 そして、もうひとつ目が____

 《私ね、1つ大崎くんにお願いしたいことがあるんだけど》

 途切れたメッセージに私は重ねてそう送った。

 そうだ。
 今日の私は怖いもの知らずなんだ。

 《何?》
 《私も、あのカフェで働いてみたいんだけど、いいかな》

 ___あの、大崎くんの仮面の下を知る。
 ただの好奇心かと言われれば、否定はできない。
 だけど、私は”なりたい”と思ってしまったから。
 彼のように、自由に選択できるようになりたいと、そう思ってしまったから。
 だから___どうかわたしを近づかせてほしい。

 《ちょっと、麻衣さんに聞いてみる》

 しばらくたった後、そのメッセージが着て私は思わずガッツポーズをとりそうになる。

 また一つ、自分の意志で選んだ。
 そう思えただけで、昨日の私より少し誇らしかった。