朝、食卓に漂う焼きたてのパンの香ばしい匂い。 湯気の立つ、ミルクたっぷりのカフェオレ。
 制服は母が毎日アイロンをかけてくれていて、リビングには季節の花が欠かさず飾られている。

 私の毎日は、誰が見ても「幸せな子ども」だ。

 実際、困ることなんて何もなかった。
 塾も家庭教師も用意されていたし、テストで悪い点を取ったこともない。
 部活の送り迎えも、スマホの管理も、将来の話も……全部、親が“してくれた”。
 いや、“してしまった”のかもしれない。


 “私は親に愛されている”
 それは事実だったと思う。

 「将来は安定した職業がいいわよ、花ちゃん。看護師とか、薬剤師とか、花ちゃんは手先も器用だし」
 「だから花ちゃんは、まず医療系の大学進むために今頑張らないとね。お母さんも頑張るからね」

 そう言って笑う母の顔を、私は否定できなかった。

 でも、あの日。
 ふと立ち寄った美術館で見た。
 キャンバスいっぱいに広がる、誰かの叫び声のような赤。それは、心の奥底を無理やりこじ開けられるような衝動だった。
 私はそんな絵の前で、ただ立ち尽くした。

 一つの絵に、胸がぎゅっと締めつけられた日のことを――きっと、両親は知らない。

 窓の外を、鳥がひと声鳴いて飛んでいく。
 あの羽のように、軽やかに生きることを、私は知らない。

 ____私は一体、誰の人生を歩んでいるのだろう。