ある日の早朝、まだ校舎の空気がひんやりと澄みきっている時間帯――。
窓際の席から見える中庭には、昨夜の雨を吸い込んだ土が黒く濡れ、そこに淡い朝日が滲んでいた。葉に残る雫が風に揺れ、静かに落ちる音すら聞こえてきそうなほど、教室は静まり返っていた。
廊下には、遠くから吹き込んだ風がかすかに舞い残した砂埃が漂い、教室に差し込む斜めの光に照らされてふわりと白く浮かび上がっている。それはまるで、時間そのものがまだ目を覚ましていないことを示しているかのようだった。
始業前の教室には、生徒が数人。どこかまだ夢の続きにいるような顔で、誰もが無言のままスマホを見つめたり、指の力だけでページをめくっていた。欠伸を噛み殺す音だけが、小さく繰り返される。
そんな静寂を断ち切るように、ガラリと教室の扉が音を立てた。
「先生、ちょっといいですか」
静まり返った空間に、その低めの声がやけに大きく響いた。ドアの前に立っていたのは鷹取だった。制服の裾は雑にズボンへ押し込まれ、寝ぐせまじりの髪が跳ねたまま。それでも彼の眼差しだけはまっすぐで、担任のもとへと迷いなく歩いていった。
「なんだ鷹取。急に改まって」
担任の小林が不思議そうに眉を上げ、手に持っていた出席簿をそっと机に置く。まるで、これから大事な話が始まると予感しているかのように。
鷹取の顔には、見慣れないほどの真剣さが浮かんでいた。けれど、どこか不器用に唇を引き結び、言葉を探すように視線が泳ぐ。一瞬だけ目を閉じて深く息を吸い、ぽつりと漏らすように言った。
「……父にまた転勤の話が出てまして。俺としては、ここに残るつもりなんですけど、もしかしたら……」
その声は、やけに静かで、どこか震えていた。
担任の小林の目がわずかに揺れた。
「えっ、転勤!?」
反射的に発されたその声は、静寂を一気にかき乱した。思わず俺も振り返る。教室の空気が一変するのが、肌に触れるようにわかった。
「え? 今、転勤って言った?」
「え、てことは転校!?」
「またかよ鷹取~!」
ざわつく声、軋む椅子、教室中の視線が一斉に鷹取へと向けられる。まるで火の点いた導火線に誰もが一気に飛びついたかのような騒がしさだった。
俺は呆れて息を吐き、開きかけた教科書のページをぐしゃっと指で挟んで閉じた。ちらりと鷹取を見やる。
――おいおい、大事になってんぞ。
鷹取は、動けずにいた。肩をすくめ、握りしめた拳がかすかに震えている。強がって見せてるが、本当はとても繊細なやつだ。ざわめく教室の中心で、鷹取はどこか心細げに、俺の方を見つめた。まるで――飼い主を見失った犬みたいに。
「鷹取まーた転校すんだって? 飼い主様を置いてくのか?」
悪ノリする男子の軽口に、教室のあちこちから笑いが起きる。けれど鷹取は、笑われながらも、どこか誇らしげに背筋を伸ばした。
「まだ転校って決まってない。俺だって、青空くんのいるこの学校にいたいから」
一瞬、教室が凍りついた。まるで言葉の意味を、全員が飲み込むまで時が止まったかのように。
そして次の瞬間、爆笑の波が押し寄せた。
「うわ、忠犬ハチ公かよ!」
「重ッ! 言ったなコイツ~!」
「キッショいなあ。でもちょっとかわいいかも」
飛び交う茶化しの声に、鷹取の耳が赤く染まる。それでも彼は、逃げなかった。堂々と胸を張っていた。まるでそれが、なによりの誇りだと言わんばかりに。
その姿に、俺の方が照れくさくなって目を逸らす。
(……ったく、無自覚に爆弾投下すんじゃねえよ)
でも、頬の奥が勝手に緩んでいた。
***
昼休みになると、鷹取の周囲はまるでアイドルの卒業イベントか何かのように騒然としていた。
廊下から教室の入口にかけて、女子たちが列を成して並んでいる。視線はみな鷹取に向けられ、じっと見つめる瞳の数に、空気の密度さえ変わったように感じた。
「最後尾はこっち! ちょっとそこ、割り込まないで!」
同じクラスの女子が、怒鳴りながら列の整理に奔走している。ライブスタッフさながらの真剣さだ。それほど、よそから集まった女子が集まったせいでもあるだろうが。
教室の窓を通して差し込む陽の光すら、ざわめきに霞んで見える。
「鷹取、ちょっといい?」
「私も話が……!」
「鷹取先輩! 好きです、ずっと前から……!」
鷹取が転校するかもしれない――その噂が今朝持ち上がってからというもの、廊下の隅で、教室の角で、屋上へ続く踊り場で。どこへ行っても鷹取の姿は女子に囲まれていた。その度に、俺の胸の奥にわずかな苛立ちが積もっていく。
昼休み、ぽつんと置き去りになった俺の前には、まだ手をつけていない弁当箱。鷹取の声が聞こえない昼は、どこか色のない風景のようだった。
ふと、肩をドンと叩かれる。
「真壁、どうすんの⁉」
目を丸くして振り向くと、クラスの女子が頬を赤らめながらこちらを覗き込んでいる。
「どうもしねえよ」
「ふーん? 飼い犬がよそ見しない自信があるんだ?」
「ああ。まあな」
その言葉が口をついて出た瞬間、女子の瞳がぱあっと見開かれた。
「ちょっ、それって、まさか……!」
「それどころじゃねえっての!」
顔を熱くしながら席を立つ。心臓が、やけにうるさい。鷹取がいなくなる――それだけが、怖くてたまらなかった。
教室の中、行列をかき分けるようにして歩くと。ようやく鷹取の姿が見えた。
鷹取は、女子の前でまっすぐ立っていた。高い背が眩しい陽光に染まり、その横顔は、妙に大人びて見えた。いつもは子犬みたいに目を細めて笑ってるくせに。
「ごめん。俺、好きな人がいるから。その人以外、目に入らないから」
まっすぐなその声は、迷いがなかった。女子はわずかに微笑んで頭を下げ、静かに去っていく。
その背を見送った鷹取が、不意にこちらを振り向いた。
「……あれ、青空くん! 見てたんですか」
無邪気な笑み。さっきの真剣な表情とのギャップに、思わず顔をそむけた。
「ああ。さっさと昼飯食うぞ」
「えへへ、はーい!」
並んで歩き出す。隣にいる鷹取の歩幅は大きくて、けれど俺に合わせて少しだけ緩められていた。
鈍くて、まっすぐで。でも――おまえが誰よりも、俺の名前を呼んでくれる。
だから、もう二度と手放したくなかった。照れくさいから、絶対言ってはやらないけど。それが紛れもない俺の本心だった。
***
放課後。校門をくぐった瞬間、空気が一段と重くなったように感じた。沈んだ鉛色の雲が空を覆い、ビルの影が地面に長く伸びている。風が冷たく頬を撫でたが、それよりも隣を歩く鷹取の沈黙の方がよほど寒々しかった。
彼は、ほとんど口を利かなかった。それは俺も同じだった。
言いたいことなら腐るほどあった。なのに喉の奥で言葉たちは渋滞して、いざとなるとどれも出てこない。まるで罪状を抱えた共犯者同士が、裁きの場へと向かっているような無言の行進だった。だが、その沈黙は不快ではなかった。むしろ心地よい――この距離感を、鷹取とだから許せる気がした。ぴたりと揃った足音が、互いの心臓のリズムみたいに響いてくる。
ふと横を見ると、鷹取の横顔がどこか無防備だった。普段は理知的な表情が売りのくせに、今は眉根がわずかに寄っていて、まるで迷子の犬みたいな顔をしていた。少し笑えた。
タワーマンションが見えてくる。校舎の窓からでも一目でわかる、あのデカさと存在感。さすがは外交官の家といったところか。上層階に住むってのは、もはや金持ちのお決まり事なんだろう。
エントランスをくぐると、大理石の床が冷ややかに光り、革靴の足音が反響した。受付のコンシェルジュが、妙に格式ばった角度で目礼してくる。俺もそれに釣られて慌てて会釈する。乾いた唇を舌でなぞりながら、場違いな場所に足を踏み入れてしまった感を噛み締めた。
「エレベーター、こっちです」
鷹取の声はやけに小さく、どこか頼りない。誘導するように先に歩くその背中に、珍しく緊張の色が滲んでいた。袖口をそっと掴まれたとき、俺の心臓が一瞬だけ跳ねたのを、なんとか顔に出さずやり過ごす。
上層階専用のエレベーターは四方が鏡張りの密室で、逃げ場がない。
映し出された俺と鷹取が、互いに目を合わせずに立っている様は、まるで推理ドラマの犯人と容疑者の対面シーン。沈黙が濃く、重く、じわじわと湿度を上げていく。
「……父さんは、たぶん反対すると思います」
ぽつりと落ちたその言葉は、ガラスの中で幾重にも反響した気がした。
「そりゃそうだろ。未成年が『一人暮らしします』って言い出したら、普通は止めるからな」
「そうじゃなくて……」
なにか言いかけた唇が、また閉じられる。その横顔を盗み見た俺は、目元に浮かんだ不安の色に、わけもなく胸がちくりとした。鷹取が、こんな顔をするなんて。
エレベーターが最上階で止まり、やけに重たいチャイムが鳴る。
ドアが開いたその先――待ち構えていたように、スーツ姿の父親と、ふんわりしたワンピース姿の母親が並んで立っていた。見事な布陣。視線が刺さる。息が詰まりそうだった。
テーブルの奥からこちらを睨む鷹取父の顔は、まさに“威圧”の権化。眉間の皺が常設されているかのような圧。一方、鷹取母は視線を彷徨わせながら、指先でもじもじとテーブルクロスを弄っている。動揺の度合いがガチ。
「……そちらは?」
抑えた声に、体が反射でビクついた。
「こっちに来てから仲良くしてもらってる……真壁青空くん」
鷹取の声が、少し上ずる。早口気味に紹介しながら、俺の袖を無意識にぎゅっと掴んだ。正直、ちょっとかわいいと思ってしまった自分がいた。
「ご挨拶が遅れました。真壁です。本日は……貴重なお時間をありがとうございます」
俺が頭を下げると、鷹取の父親の目が、俺の頭からつま先までを冷静にスキャンした。空港のX線検査より精密な視線だ。
「なるほど。……君に言われたから、息子は私たちについてこないつもりなのか?」
「それは……」
「違う。俺が自分で決めたんだ」
鷹取が一歩前に出る。震えた声は、だが確かに強かった。
「俺、ここで……やっと本当の自分を見つけたんだ。青空くんと過ごして、自分の意思で生きてみたいって思った」
父親の眉間が、さらに深く刻まれる。
「……なんだ、いまさら反抗期か? どうせ泣きつくことになる」
「そんなことしない!」
鷹取が珍しく声を荒げた。父親は一瞬、目を瞬いた。
「自分が“このままでいい”って思える場所なんだ。俺、転校したくない。青空くんと、もっと一緒にいたい。俺は、ここにいたい」
言い終わったとき、部屋の空気が張り詰めていた。まるで全員が息を止めていたみたいに。冷房じゃない寒さが、足元から這い上がる。
そして俺は、緊張のあまり変なテンションで言ってしまった。
「どうしても心配なら、うちに居候してもらっても大丈夫です。母も了承済みで、妹とペットの犬とも仲がいいですし……ちょっと変わったコミュニケーション取ってますけど」
俺はお互いに吠えまくる鷹取とレイの攻防を思い返した。あれはあれで、仲がいい……はずだ。
鷹取父の顔は変わらなかったが、母親が俺をまじまじと見つめたあと、そっと夫の袖を引いた。
「ねえ……ここまで言ってくれるお友達がいるのよ? 玲が本気だって、見てわかるじゃない。いちど、お母様とお話してみてもいいんじゃないかしら?」
「……」
「玲がこんなに引っ越しを嫌がるなんて、初めてよ。親離れの時期かもしれないわ」
「そうです!」
母の援護射撃を受けた鷹取が、勢いよく頷く。まるで戦国武将のような凛々しさで。
「……話すだけなら、まあ。いいだろう」
そうしてついに、鉄の門は開かれた。
それから――我が家のダイニングにて、“話し合い”と称された両家顔合わせが開幕した。
鷹取の両親、俺の母さん、そして俺と鷹取。妹のみらいと子犬のレイは邪魔をするため別室に隔離された。楕円形のダイニングテーブルを囲むこの人数は、うちでは前代未聞だ。法事でもない、正月でもない、なのに空気だけはお通夜のように緊張している。背筋が勝手に正されるのは、きっと空気がピリついているせいだ。
「で、うちに鷹取くんを住まわせるって話だけど?」
母さんの声は相変わらずふんわりとしたトーン。けれど、その切り出し方はどこか容赦がない。まるで、カスタードプリンの真ん中にナイフを突き刺すような感じ。甘いようで、刃先は鋭い。俺も思わず背筋が伸びる。
「うちの子、ちょっと強面だけど……面倒見はいいんですよ」
「うちの子、ちょっとおバカですけど……素直な子で……」
鷹取の母さんはやたらと笑顔が濃い。手土産として持ち込まれたお茶菓子は、すでにダイニングのテーブル半分を埋め尽くし、もはや戦場ではなく茶会のような様相を呈していた。
それに負けじと母さんの「どうぞ」が連打され、テーブルの上に焼き菓子の山が築かれていく。この攻防、明らかに“物量戦”だ。
一方、鷹取の父さんはといえば、腕を組んだまま微動だにせず、まるで動かない将軍像のような佇まい。眼鏡の奥の視線が、まっすぐ俺たちに刺さってくる。鋭い。この人、目だけで圧力かけてくるタイプだ。シンプルに怖い。
「愚息をお宅に預けるとなると、ご迷惑がかかるでしょう。……いくら息子さんの友達とはいえ、男子高校生がもうひとり増えたら、いろいろと大変かと……」
鷹取父のその言葉に、俺はつい、反射的に口を滑らせてしまった。
「迷惑なんて、とっくにですよ。だってこいつ、うちに何回も泊ってます」
「そうそう。俺と青空くん、もう何度も一緒に寝てますけど?」
俺の援護をするように、鷹取が誤解を生みそうな発言をした瞬間――時が、止まった。
カチリと、目に見えないスイッチが切り替わったような静寂。三人の大人が、まるでリモコンで一時停止されたビデオのようにフリーズする。箸を持ちかけた母さんの手は空中で固まり、湯呑を口元に運んでいた鷹取母は、ぴたっとそのまま停止。鷹取父に至っては、飲んでいたお茶を噴き出し、ゴホゴホと咳をしていた。
俺は思わず、鷹取の口を両手で押さえた。出しちゃいけない発言だった。いや、まだそんな関係じゃないから誤解に過ぎないが。
「…………え?」
最初に口火を切ったのは、母さんだった。その声は、耳慣れた柔らかさに、確実に俺に対する威圧が混じっていた。まるで「妹もいるこの家で不埒な真似したんじゃないでしょうね!?」と問いただしているかのようだ。
「いや、誤解っす。寝てるって言葉の意味通りの添い寝だけです。健全です。ベッドインじゃなくて、シーツインだけです。清い関係です」
慌てて弁解する俺の横で、鷹取は真っ赤になって俯いていた。耳まで真っ赤ってこういうことを言うのかと思うレベルの赤さ。肩をすぼめて、床の模様でも観察してるのかってくらい目線を逸らしている。
――おまえ、普段は無駄に肝が据わってるくせに、こういうときだけ“純情乙女”モードになるのやめてくれ。紛らわしい。
沈黙。沈黙。沈黙……。場の空気は、冷蔵庫の中より冷たい。
やがて、鷹取の父親が重い口を開いた。その視線の先に、鷹取。
「……おまえ、本気なんだな」
その声は、思っていたよりも低く、そして、思っていたよりも穏やかだった。諦めではない。叱責でもない。その奥にあるのは、納得と、少しの寂しさ。
「親が子供を引っ張っていくものだと思ってた。特にうちの場合はおまえが大人しかったしな。でも……おまえ、もう親より前を見ていたんだな」
その言葉に、鷹取の瞳が揺れた。水面が静かに波打つように、その瞳の奥に感情がにじむ。だが、涙はこぼれない。彼は、ただ一度、強く、そして静かにうなずいた。
「俺、青空くんのそばにいたら、自分のことを好きになれそうなんだ」
その言葉が落ちた瞬間、鷹取の母親が、テーブルの下でそっとハンカチを目頭にあてた。
「……もう、泣かせないでよ。親って、年取ると涙腺弱くなるのよ」
母さんも、ふっと笑ってうなずく。笑いながらも、目はどこか潤んでいた。
「泣いてもいいと思いますよ。だって、いい子たちじゃないですか」
カーテンの隙間から差し込んだ夕陽が、テーブルの上をやわらかく染める。クッキーの欠片まで、ほんのりと金色に照らされていた。
ダイニングに流れる空気は、少しだけあたたかい。あの瞬間の沈黙が嘘みたいに。
きっと、今日を境に、俺たちの日々は変わる。これまでよりも少しだけ複雑で、でもそれ以上に――優しいものへと。
***
翌朝から、母さんによる鷹取の“同居試験”が開始された。
「うちに住むことになったからには、家事全般をできるようになってもらいます! 手始めにまずは料理からね!」
ダイニングの中央で仁王立ちする母さんの背後から、朝の光がスポットライトのように差し込んでいた。まるで地獄の特訓が始まるアニメの第一話だ。俺は、黙って牛乳を飲み干しながら、現実逃避を決め込んでいた。
一方の鷹取はというと、「頑張ります!」と歯を食いしばり、緊張でやや引きつった顔のままエプロンを装着。真面目な性格が災いしてか、その手つきはまるで出陣前の武士のようにやたらと慎重で――いや、緊張のせいかぎこちない。
やがて、キッチンからは包丁のリズミカルな音、鍋が煮えるくつくつという小さな音が漏れ聞こえてきた。時折、調味料の瓶を倒すガチャリという音が混ざってくるあたり、緊張も相当らしい。
俺がこっそりのぞき見すると、鷹取は真剣な顔で味噌汁の味見をしていた。小さなスプーンを持ち、舌に乗せてはうんうんと小刻みに頷く姿は、さながら研究所の科学者。視線が鋭すぎて、「おまえはなにと戦ってるんだ」とツッコミたくなった。
やがて、食卓に並べられた朝食を口にした母さんは、目を丸くした。
「うん、おいしい! 鷹取くん、料理うまいわね」
目を輝かせながら、親指を立てて「グッジョブ」。まるでお気に入りのカフェメニューに出会ったときのテンションだ。
すると鷹取は、いきなり椅子を蹴って立ち上がり、「お褒めの言葉、光栄であります!」とビシッと敬礼した。背すじを伸ばすと、前髪がピョコンと揺れた。
――なんだ、そのテンプレ軍人リアクション。母さんのこと、もしかして上官扱いしてんのか。
俺はやれやれと頭を横に振った。
「卵焼きは『しょっぱいのが好き』って青空くんが言ってたので、塩で味付けしました」
その一言に、母さんの顔がにんまりと緩んだ。
「……合格!」
語尾に“!”がついて見えるほど、嬉しそうに宣言する母さん。表情はもはや教師がテストで満点を取った生徒に向けるそれだった。
料理は問題なし。となれば、次の課題は――洗濯、掃除。
「どれほどの腕前か、見せてもらおうじゃないの」
腕を組んで立ちはだかる母さんの目が光った。やたらキラキラしていて怖い。
「なに、その“次の刺客を出すボス”みたいな登場の仕方……」
俺はテンション高めの二人に挟まれ、重たい溜息をついた。まるで学園祭の実行委員会に巻き込まれたモブ男子の気分だ。
それからの鷹取は、みらいと子犬のレイが「わーっ!」と駆け回る廊下を水拭き・乾拭きの二段構えで攻め、洗面台を鏡までピカピカに磨き上げ、洗濯物を肩にかけてベランダへ颯爽と運んだ。シーツが風にたなびく中、軽やかな手つきでピンチハンガーに靴下を吊るす姿は、もはや家事代行サービスのプロというより、洗濯洗剤のCMに出てくる“爽やか俳優”。
俺が呆気にとられていると、ちょうど窓を拭き終えた鷹取が、額の汗をぬぐってにかっと笑った。
――まさか。これ、前から練習してた? 同居の可能性を見越して、こっそり修行でもしてたのか? その努力、どこに向けてんだよ。
鷹取の家事の能力を褒めるべきか悩んでいると、これまでの様子を見守っていた母さんふらっと姿を現した。
「……うーん、文句のつけどころがないわね! 鷹取くん、いつでもうちに婿入りしてらっしゃい!」
腕組みのまま満面の笑みを浮かべた母さんは、なぜか鷹取の背後に後光をまとっていた。たぶん俺の目の錯覚だけど。
「ありがとうございます‼」
鷹取も負けじと満面の笑顔で直立し、またしても敬礼ポーズ。やっぱり軍人かおまえは。
すると、みらいが首を傾げながら鷹取に問いかけた。
「たかとり、むこになるのー?」
その純粋すぎる疑問に、一瞬場が和んだ。さらに、子犬のレイまでおめでたい雰囲気に影響されたのか、くるくると自分の尻尾を追い回して回転を始める。
「なにが婿入りだよ……」
そうぼやきながらも、俺は思わず笑っていた。胸の奥が、じんわりと温かくなった。
***
あれから数日後――。
昼下がりの光は眩しいほどに明るく、うっすらと黄色みを帯びた陽が、街のアスファルトにじんわりと染み込んでいた。木々はまだ芽吹きの途中で、道端の沈丁花がかすかに甘い匂いを運んでくる。
玄関のチャイムが鳴り、扉を開けると。目の前に、鷹取が立っていた。
細身のジーンズにグレーのスウェット。いつもと変わらない無造作な髪が、乾いた風にふわりと揺れている。両腕に抱えたダンボールが三箱。その上に載った紙袋がゆらりと傾き、彼は慣れた動作で顎を使って器用にバランスを取っていた。
荷物の隙間から覗く、本の背表紙やマグカップの持ち手。どれも見慣れないくせに、なぜか「らしい」と思ってしまう。彼の暮らしが、もうすぐ俺の生活の中に紛れ込んでくるのだという実感が、喉の奥を少しだけ締めつけた。
「……本当に来たんだな、おまえ」
ただそこに立っている姿に、俺は思わずそう呟いていた。
「当然です。俺の未来は、青空くんの隣にありますから」
決定事項ですとばかりに、鷹取は即答した。
真顔のくせに、口元だけがわずかに緩んでいて――そのふざけたようでどこまでも真剣な表情に、不意を突かれた。うっかり感動させられて、鼻の奥がじんわり熱くなる。
――やめろよ。そういうストレートなことを、当たり前みたいな顔で言うな。
と、思った瞬間。
「わんわんわんっ!」
全速力で玄関から毛玉が飛び出してきた。レイだ。
小型犬らしからぬ瞬発力で、鷹取の足元に突進する。滑るように突っ込んで、そのまま彼の脛に全体重をぶつけてきた。
「うおっ……!? ちょ、危なっ!」
鷹取がバランスを崩しかけ、荷物がゆらりと揺れる。咄嗟に俺が手を伸ばし、上に載っていた紙袋をキャッチした。
レイは尻尾を逆立て、ガルルルと唸りながら、まるで俺を取られることを拒絶するかのように鷹取へ牙を見せていた。もうすっかり顔馴染みだし、レイだって鷹取のことをそれなりに受け入れているように見えたが、それでも日に一度は喧嘩しないと気が済まないらしい。
「いい加減、普通に穏やかに仲良くできねえか? レイ……」
俺が額に手をやると、鷹取はまったく悪びれもせず、苦笑しながら肩をすくめた。
「無理じゃない? だって俺、そこの毛玉よりも青空くんに愛されてるもんね~」
「わんっ!? わんわんっっっ!」
まるで意味がわかったみたいに、レイは怒り心頭でソファの周囲をぐるぐる回りはじめた。滑りそうになりながらフローリングを爪でかきむしるように走り回り、ラグの角をめくりあげる。
「おまえなあ……火に油を注ぐなよ。ほら、落ち着けって……」
俺はしゃがみ込み、レイの頭を撫でなた。その尻尾の強烈なバタつきに苦笑しつつ、片手で鷹取のダンボールをひとつ受け取った。
段ボールの角が手のひらにぐっと食い込む。そこから伝わる重みは、ただの物理的な重さじゃない。誰かが「ここに居たい」と思って持ち込んだ、人生の一部。
そう思うと、手のひらが少しだけ震えた。
日が落ちる頃には、部屋の隅にはきれいに積まれた鷹取の荷物と、折り畳まれた空のダンボールたちが静かに並んでいた。リビングの窓から差し込む夕暮れの光が、それらを淡く照らしている。
俺たちはソファに並んで腰を下ろした。
肩と肩の間にあるのは、数センチの余白。でもそこには、もうなにも詰めなくていい安心感があった。
テレビではバラエティ番組が流れていたけれど、どちらも見てはいなかった。沈黙は気まずくもなく、まるで波のように、ゆるやかに空間を包み込んでいた。
しばらくして、鷹取がぽつりと呟いた。
「俺、今日からは正式に青空くんの恋人ってことで、いいんだよね?」
その声は、やけに静かで、真っ直ぐで、すこし震えていた。茶化しでもなければ、演技でもない。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥の、深く沈んだ場所に、ぽとんと石を落とされたみたいだった。
俺はちょっとだけ考えてから、口を開いた。
「……どうだろ」
「えっ、いまさら断るなんてなしですよ!?」
「ちげーよ。そうじゃなくて……」
言葉を切ってから、無意味にレイが前に齧ったソファの端っこを指で弄る。鷹取は俺の答えを前のめりになりながら待っている。
「なんだろ。恋人以上、家族未満?」
冗談めかして言ったつもりだったのに、舌の奥が少しだけ痺れていた。
最初はただうざったいだけだった鷹取の存在は、もう「恋人」とか「同居人」とか、そういう言葉じゃ言い切れない場所にまで来ていた。
俺は視線をテレビから外さず、ぼそりと付け足した。
「いや、もう……家族でもいいんじゃねえの」
その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。冬の朝、毛布の中でうとうとしているときに感じる、あのささやかな幸福感。世界のすべてが優しくなったような、静かで、あたたかな感覚だった。
「……それ、結婚のプロポーズってことでいい?」
軽口のつもりだった。でも鷹取にそう言われると、自分の鼓動がやけにうるさく聞こえた。
俺は少しだけ顔をそむけ、「うるせえ、寝ろバカ」とぼやいた。平気な顔を作ったつもりだった。けれど、顔がどんどん熱を持っていく。きっと今の俺は耳の先まで真っ赤で、まるで桜の花びらみたいに色づいているだろう。
照れてると揶揄われる前に、寝てしまおう――そう思って、ソファから立ち上げりかけた。でも、ぐいっと手を引かれて横に倒れ込む。体勢を元に戻そうと起き上がる前に、軽いリップ音と共に頬に柔らかい感触が降ってくる。
「おい……!」
「青空くん、好き。大好きです!」
そんな告白のあと、鷹取は俺の顔のあちこちにキスをしまくった。
「ちょっ、やめろって」
笑いながら鷹取を押しのけていると、ソファの下で、レイが「ふぅん」とため息のような音を漏らした。
子犬のあいつがいちばん大人なのかもしれないなと、俺は思った。
窓際の席から見える中庭には、昨夜の雨を吸い込んだ土が黒く濡れ、そこに淡い朝日が滲んでいた。葉に残る雫が風に揺れ、静かに落ちる音すら聞こえてきそうなほど、教室は静まり返っていた。
廊下には、遠くから吹き込んだ風がかすかに舞い残した砂埃が漂い、教室に差し込む斜めの光に照らされてふわりと白く浮かび上がっている。それはまるで、時間そのものがまだ目を覚ましていないことを示しているかのようだった。
始業前の教室には、生徒が数人。どこかまだ夢の続きにいるような顔で、誰もが無言のままスマホを見つめたり、指の力だけでページをめくっていた。欠伸を噛み殺す音だけが、小さく繰り返される。
そんな静寂を断ち切るように、ガラリと教室の扉が音を立てた。
「先生、ちょっといいですか」
静まり返った空間に、その低めの声がやけに大きく響いた。ドアの前に立っていたのは鷹取だった。制服の裾は雑にズボンへ押し込まれ、寝ぐせまじりの髪が跳ねたまま。それでも彼の眼差しだけはまっすぐで、担任のもとへと迷いなく歩いていった。
「なんだ鷹取。急に改まって」
担任の小林が不思議そうに眉を上げ、手に持っていた出席簿をそっと机に置く。まるで、これから大事な話が始まると予感しているかのように。
鷹取の顔には、見慣れないほどの真剣さが浮かんでいた。けれど、どこか不器用に唇を引き結び、言葉を探すように視線が泳ぐ。一瞬だけ目を閉じて深く息を吸い、ぽつりと漏らすように言った。
「……父にまた転勤の話が出てまして。俺としては、ここに残るつもりなんですけど、もしかしたら……」
その声は、やけに静かで、どこか震えていた。
担任の小林の目がわずかに揺れた。
「えっ、転勤!?」
反射的に発されたその声は、静寂を一気にかき乱した。思わず俺も振り返る。教室の空気が一変するのが、肌に触れるようにわかった。
「え? 今、転勤って言った?」
「え、てことは転校!?」
「またかよ鷹取~!」
ざわつく声、軋む椅子、教室中の視線が一斉に鷹取へと向けられる。まるで火の点いた導火線に誰もが一気に飛びついたかのような騒がしさだった。
俺は呆れて息を吐き、開きかけた教科書のページをぐしゃっと指で挟んで閉じた。ちらりと鷹取を見やる。
――おいおい、大事になってんぞ。
鷹取は、動けずにいた。肩をすくめ、握りしめた拳がかすかに震えている。強がって見せてるが、本当はとても繊細なやつだ。ざわめく教室の中心で、鷹取はどこか心細げに、俺の方を見つめた。まるで――飼い主を見失った犬みたいに。
「鷹取まーた転校すんだって? 飼い主様を置いてくのか?」
悪ノリする男子の軽口に、教室のあちこちから笑いが起きる。けれど鷹取は、笑われながらも、どこか誇らしげに背筋を伸ばした。
「まだ転校って決まってない。俺だって、青空くんのいるこの学校にいたいから」
一瞬、教室が凍りついた。まるで言葉の意味を、全員が飲み込むまで時が止まったかのように。
そして次の瞬間、爆笑の波が押し寄せた。
「うわ、忠犬ハチ公かよ!」
「重ッ! 言ったなコイツ~!」
「キッショいなあ。でもちょっとかわいいかも」
飛び交う茶化しの声に、鷹取の耳が赤く染まる。それでも彼は、逃げなかった。堂々と胸を張っていた。まるでそれが、なによりの誇りだと言わんばかりに。
その姿に、俺の方が照れくさくなって目を逸らす。
(……ったく、無自覚に爆弾投下すんじゃねえよ)
でも、頬の奥が勝手に緩んでいた。
***
昼休みになると、鷹取の周囲はまるでアイドルの卒業イベントか何かのように騒然としていた。
廊下から教室の入口にかけて、女子たちが列を成して並んでいる。視線はみな鷹取に向けられ、じっと見つめる瞳の数に、空気の密度さえ変わったように感じた。
「最後尾はこっち! ちょっとそこ、割り込まないで!」
同じクラスの女子が、怒鳴りながら列の整理に奔走している。ライブスタッフさながらの真剣さだ。それほど、よそから集まった女子が集まったせいでもあるだろうが。
教室の窓を通して差し込む陽の光すら、ざわめきに霞んで見える。
「鷹取、ちょっといい?」
「私も話が……!」
「鷹取先輩! 好きです、ずっと前から……!」
鷹取が転校するかもしれない――その噂が今朝持ち上がってからというもの、廊下の隅で、教室の角で、屋上へ続く踊り場で。どこへ行っても鷹取の姿は女子に囲まれていた。その度に、俺の胸の奥にわずかな苛立ちが積もっていく。
昼休み、ぽつんと置き去りになった俺の前には、まだ手をつけていない弁当箱。鷹取の声が聞こえない昼は、どこか色のない風景のようだった。
ふと、肩をドンと叩かれる。
「真壁、どうすんの⁉」
目を丸くして振り向くと、クラスの女子が頬を赤らめながらこちらを覗き込んでいる。
「どうもしねえよ」
「ふーん? 飼い犬がよそ見しない自信があるんだ?」
「ああ。まあな」
その言葉が口をついて出た瞬間、女子の瞳がぱあっと見開かれた。
「ちょっ、それって、まさか……!」
「それどころじゃねえっての!」
顔を熱くしながら席を立つ。心臓が、やけにうるさい。鷹取がいなくなる――それだけが、怖くてたまらなかった。
教室の中、行列をかき分けるようにして歩くと。ようやく鷹取の姿が見えた。
鷹取は、女子の前でまっすぐ立っていた。高い背が眩しい陽光に染まり、その横顔は、妙に大人びて見えた。いつもは子犬みたいに目を細めて笑ってるくせに。
「ごめん。俺、好きな人がいるから。その人以外、目に入らないから」
まっすぐなその声は、迷いがなかった。女子はわずかに微笑んで頭を下げ、静かに去っていく。
その背を見送った鷹取が、不意にこちらを振り向いた。
「……あれ、青空くん! 見てたんですか」
無邪気な笑み。さっきの真剣な表情とのギャップに、思わず顔をそむけた。
「ああ。さっさと昼飯食うぞ」
「えへへ、はーい!」
並んで歩き出す。隣にいる鷹取の歩幅は大きくて、けれど俺に合わせて少しだけ緩められていた。
鈍くて、まっすぐで。でも――おまえが誰よりも、俺の名前を呼んでくれる。
だから、もう二度と手放したくなかった。照れくさいから、絶対言ってはやらないけど。それが紛れもない俺の本心だった。
***
放課後。校門をくぐった瞬間、空気が一段と重くなったように感じた。沈んだ鉛色の雲が空を覆い、ビルの影が地面に長く伸びている。風が冷たく頬を撫でたが、それよりも隣を歩く鷹取の沈黙の方がよほど寒々しかった。
彼は、ほとんど口を利かなかった。それは俺も同じだった。
言いたいことなら腐るほどあった。なのに喉の奥で言葉たちは渋滞して、いざとなるとどれも出てこない。まるで罪状を抱えた共犯者同士が、裁きの場へと向かっているような無言の行進だった。だが、その沈黙は不快ではなかった。むしろ心地よい――この距離感を、鷹取とだから許せる気がした。ぴたりと揃った足音が、互いの心臓のリズムみたいに響いてくる。
ふと横を見ると、鷹取の横顔がどこか無防備だった。普段は理知的な表情が売りのくせに、今は眉根がわずかに寄っていて、まるで迷子の犬みたいな顔をしていた。少し笑えた。
タワーマンションが見えてくる。校舎の窓からでも一目でわかる、あのデカさと存在感。さすがは外交官の家といったところか。上層階に住むってのは、もはや金持ちのお決まり事なんだろう。
エントランスをくぐると、大理石の床が冷ややかに光り、革靴の足音が反響した。受付のコンシェルジュが、妙に格式ばった角度で目礼してくる。俺もそれに釣られて慌てて会釈する。乾いた唇を舌でなぞりながら、場違いな場所に足を踏み入れてしまった感を噛み締めた。
「エレベーター、こっちです」
鷹取の声はやけに小さく、どこか頼りない。誘導するように先に歩くその背中に、珍しく緊張の色が滲んでいた。袖口をそっと掴まれたとき、俺の心臓が一瞬だけ跳ねたのを、なんとか顔に出さずやり過ごす。
上層階専用のエレベーターは四方が鏡張りの密室で、逃げ場がない。
映し出された俺と鷹取が、互いに目を合わせずに立っている様は、まるで推理ドラマの犯人と容疑者の対面シーン。沈黙が濃く、重く、じわじわと湿度を上げていく。
「……父さんは、たぶん反対すると思います」
ぽつりと落ちたその言葉は、ガラスの中で幾重にも反響した気がした。
「そりゃそうだろ。未成年が『一人暮らしします』って言い出したら、普通は止めるからな」
「そうじゃなくて……」
なにか言いかけた唇が、また閉じられる。その横顔を盗み見た俺は、目元に浮かんだ不安の色に、わけもなく胸がちくりとした。鷹取が、こんな顔をするなんて。
エレベーターが最上階で止まり、やけに重たいチャイムが鳴る。
ドアが開いたその先――待ち構えていたように、スーツ姿の父親と、ふんわりしたワンピース姿の母親が並んで立っていた。見事な布陣。視線が刺さる。息が詰まりそうだった。
テーブルの奥からこちらを睨む鷹取父の顔は、まさに“威圧”の権化。眉間の皺が常設されているかのような圧。一方、鷹取母は視線を彷徨わせながら、指先でもじもじとテーブルクロスを弄っている。動揺の度合いがガチ。
「……そちらは?」
抑えた声に、体が反射でビクついた。
「こっちに来てから仲良くしてもらってる……真壁青空くん」
鷹取の声が、少し上ずる。早口気味に紹介しながら、俺の袖を無意識にぎゅっと掴んだ。正直、ちょっとかわいいと思ってしまった自分がいた。
「ご挨拶が遅れました。真壁です。本日は……貴重なお時間をありがとうございます」
俺が頭を下げると、鷹取の父親の目が、俺の頭からつま先までを冷静にスキャンした。空港のX線検査より精密な視線だ。
「なるほど。……君に言われたから、息子は私たちについてこないつもりなのか?」
「それは……」
「違う。俺が自分で決めたんだ」
鷹取が一歩前に出る。震えた声は、だが確かに強かった。
「俺、ここで……やっと本当の自分を見つけたんだ。青空くんと過ごして、自分の意思で生きてみたいって思った」
父親の眉間が、さらに深く刻まれる。
「……なんだ、いまさら反抗期か? どうせ泣きつくことになる」
「そんなことしない!」
鷹取が珍しく声を荒げた。父親は一瞬、目を瞬いた。
「自分が“このままでいい”って思える場所なんだ。俺、転校したくない。青空くんと、もっと一緒にいたい。俺は、ここにいたい」
言い終わったとき、部屋の空気が張り詰めていた。まるで全員が息を止めていたみたいに。冷房じゃない寒さが、足元から這い上がる。
そして俺は、緊張のあまり変なテンションで言ってしまった。
「どうしても心配なら、うちに居候してもらっても大丈夫です。母も了承済みで、妹とペットの犬とも仲がいいですし……ちょっと変わったコミュニケーション取ってますけど」
俺はお互いに吠えまくる鷹取とレイの攻防を思い返した。あれはあれで、仲がいい……はずだ。
鷹取父の顔は変わらなかったが、母親が俺をまじまじと見つめたあと、そっと夫の袖を引いた。
「ねえ……ここまで言ってくれるお友達がいるのよ? 玲が本気だって、見てわかるじゃない。いちど、お母様とお話してみてもいいんじゃないかしら?」
「……」
「玲がこんなに引っ越しを嫌がるなんて、初めてよ。親離れの時期かもしれないわ」
「そうです!」
母の援護射撃を受けた鷹取が、勢いよく頷く。まるで戦国武将のような凛々しさで。
「……話すだけなら、まあ。いいだろう」
そうしてついに、鉄の門は開かれた。
それから――我が家のダイニングにて、“話し合い”と称された両家顔合わせが開幕した。
鷹取の両親、俺の母さん、そして俺と鷹取。妹のみらいと子犬のレイは邪魔をするため別室に隔離された。楕円形のダイニングテーブルを囲むこの人数は、うちでは前代未聞だ。法事でもない、正月でもない、なのに空気だけはお通夜のように緊張している。背筋が勝手に正されるのは、きっと空気がピリついているせいだ。
「で、うちに鷹取くんを住まわせるって話だけど?」
母さんの声は相変わらずふんわりとしたトーン。けれど、その切り出し方はどこか容赦がない。まるで、カスタードプリンの真ん中にナイフを突き刺すような感じ。甘いようで、刃先は鋭い。俺も思わず背筋が伸びる。
「うちの子、ちょっと強面だけど……面倒見はいいんですよ」
「うちの子、ちょっとおバカですけど……素直な子で……」
鷹取の母さんはやたらと笑顔が濃い。手土産として持ち込まれたお茶菓子は、すでにダイニングのテーブル半分を埋め尽くし、もはや戦場ではなく茶会のような様相を呈していた。
それに負けじと母さんの「どうぞ」が連打され、テーブルの上に焼き菓子の山が築かれていく。この攻防、明らかに“物量戦”だ。
一方、鷹取の父さんはといえば、腕を組んだまま微動だにせず、まるで動かない将軍像のような佇まい。眼鏡の奥の視線が、まっすぐ俺たちに刺さってくる。鋭い。この人、目だけで圧力かけてくるタイプだ。シンプルに怖い。
「愚息をお宅に預けるとなると、ご迷惑がかかるでしょう。……いくら息子さんの友達とはいえ、男子高校生がもうひとり増えたら、いろいろと大変かと……」
鷹取父のその言葉に、俺はつい、反射的に口を滑らせてしまった。
「迷惑なんて、とっくにですよ。だってこいつ、うちに何回も泊ってます」
「そうそう。俺と青空くん、もう何度も一緒に寝てますけど?」
俺の援護をするように、鷹取が誤解を生みそうな発言をした瞬間――時が、止まった。
カチリと、目に見えないスイッチが切り替わったような静寂。三人の大人が、まるでリモコンで一時停止されたビデオのようにフリーズする。箸を持ちかけた母さんの手は空中で固まり、湯呑を口元に運んでいた鷹取母は、ぴたっとそのまま停止。鷹取父に至っては、飲んでいたお茶を噴き出し、ゴホゴホと咳をしていた。
俺は思わず、鷹取の口を両手で押さえた。出しちゃいけない発言だった。いや、まだそんな関係じゃないから誤解に過ぎないが。
「…………え?」
最初に口火を切ったのは、母さんだった。その声は、耳慣れた柔らかさに、確実に俺に対する威圧が混じっていた。まるで「妹もいるこの家で不埒な真似したんじゃないでしょうね!?」と問いただしているかのようだ。
「いや、誤解っす。寝てるって言葉の意味通りの添い寝だけです。健全です。ベッドインじゃなくて、シーツインだけです。清い関係です」
慌てて弁解する俺の横で、鷹取は真っ赤になって俯いていた。耳まで真っ赤ってこういうことを言うのかと思うレベルの赤さ。肩をすぼめて、床の模様でも観察してるのかってくらい目線を逸らしている。
――おまえ、普段は無駄に肝が据わってるくせに、こういうときだけ“純情乙女”モードになるのやめてくれ。紛らわしい。
沈黙。沈黙。沈黙……。場の空気は、冷蔵庫の中より冷たい。
やがて、鷹取の父親が重い口を開いた。その視線の先に、鷹取。
「……おまえ、本気なんだな」
その声は、思っていたよりも低く、そして、思っていたよりも穏やかだった。諦めではない。叱責でもない。その奥にあるのは、納得と、少しの寂しさ。
「親が子供を引っ張っていくものだと思ってた。特にうちの場合はおまえが大人しかったしな。でも……おまえ、もう親より前を見ていたんだな」
その言葉に、鷹取の瞳が揺れた。水面が静かに波打つように、その瞳の奥に感情がにじむ。だが、涙はこぼれない。彼は、ただ一度、強く、そして静かにうなずいた。
「俺、青空くんのそばにいたら、自分のことを好きになれそうなんだ」
その言葉が落ちた瞬間、鷹取の母親が、テーブルの下でそっとハンカチを目頭にあてた。
「……もう、泣かせないでよ。親って、年取ると涙腺弱くなるのよ」
母さんも、ふっと笑ってうなずく。笑いながらも、目はどこか潤んでいた。
「泣いてもいいと思いますよ。だって、いい子たちじゃないですか」
カーテンの隙間から差し込んだ夕陽が、テーブルの上をやわらかく染める。クッキーの欠片まで、ほんのりと金色に照らされていた。
ダイニングに流れる空気は、少しだけあたたかい。あの瞬間の沈黙が嘘みたいに。
きっと、今日を境に、俺たちの日々は変わる。これまでよりも少しだけ複雑で、でもそれ以上に――優しいものへと。
***
翌朝から、母さんによる鷹取の“同居試験”が開始された。
「うちに住むことになったからには、家事全般をできるようになってもらいます! 手始めにまずは料理からね!」
ダイニングの中央で仁王立ちする母さんの背後から、朝の光がスポットライトのように差し込んでいた。まるで地獄の特訓が始まるアニメの第一話だ。俺は、黙って牛乳を飲み干しながら、現実逃避を決め込んでいた。
一方の鷹取はというと、「頑張ります!」と歯を食いしばり、緊張でやや引きつった顔のままエプロンを装着。真面目な性格が災いしてか、その手つきはまるで出陣前の武士のようにやたらと慎重で――いや、緊張のせいかぎこちない。
やがて、キッチンからは包丁のリズミカルな音、鍋が煮えるくつくつという小さな音が漏れ聞こえてきた。時折、調味料の瓶を倒すガチャリという音が混ざってくるあたり、緊張も相当らしい。
俺がこっそりのぞき見すると、鷹取は真剣な顔で味噌汁の味見をしていた。小さなスプーンを持ち、舌に乗せてはうんうんと小刻みに頷く姿は、さながら研究所の科学者。視線が鋭すぎて、「おまえはなにと戦ってるんだ」とツッコミたくなった。
やがて、食卓に並べられた朝食を口にした母さんは、目を丸くした。
「うん、おいしい! 鷹取くん、料理うまいわね」
目を輝かせながら、親指を立てて「グッジョブ」。まるでお気に入りのカフェメニューに出会ったときのテンションだ。
すると鷹取は、いきなり椅子を蹴って立ち上がり、「お褒めの言葉、光栄であります!」とビシッと敬礼した。背すじを伸ばすと、前髪がピョコンと揺れた。
――なんだ、そのテンプレ軍人リアクション。母さんのこと、もしかして上官扱いしてんのか。
俺はやれやれと頭を横に振った。
「卵焼きは『しょっぱいのが好き』って青空くんが言ってたので、塩で味付けしました」
その一言に、母さんの顔がにんまりと緩んだ。
「……合格!」
語尾に“!”がついて見えるほど、嬉しそうに宣言する母さん。表情はもはや教師がテストで満点を取った生徒に向けるそれだった。
料理は問題なし。となれば、次の課題は――洗濯、掃除。
「どれほどの腕前か、見せてもらおうじゃないの」
腕を組んで立ちはだかる母さんの目が光った。やたらキラキラしていて怖い。
「なに、その“次の刺客を出すボス”みたいな登場の仕方……」
俺はテンション高めの二人に挟まれ、重たい溜息をついた。まるで学園祭の実行委員会に巻き込まれたモブ男子の気分だ。
それからの鷹取は、みらいと子犬のレイが「わーっ!」と駆け回る廊下を水拭き・乾拭きの二段構えで攻め、洗面台を鏡までピカピカに磨き上げ、洗濯物を肩にかけてベランダへ颯爽と運んだ。シーツが風にたなびく中、軽やかな手つきでピンチハンガーに靴下を吊るす姿は、もはや家事代行サービスのプロというより、洗濯洗剤のCMに出てくる“爽やか俳優”。
俺が呆気にとられていると、ちょうど窓を拭き終えた鷹取が、額の汗をぬぐってにかっと笑った。
――まさか。これ、前から練習してた? 同居の可能性を見越して、こっそり修行でもしてたのか? その努力、どこに向けてんだよ。
鷹取の家事の能力を褒めるべきか悩んでいると、これまでの様子を見守っていた母さんふらっと姿を現した。
「……うーん、文句のつけどころがないわね! 鷹取くん、いつでもうちに婿入りしてらっしゃい!」
腕組みのまま満面の笑みを浮かべた母さんは、なぜか鷹取の背後に後光をまとっていた。たぶん俺の目の錯覚だけど。
「ありがとうございます‼」
鷹取も負けじと満面の笑顔で直立し、またしても敬礼ポーズ。やっぱり軍人かおまえは。
すると、みらいが首を傾げながら鷹取に問いかけた。
「たかとり、むこになるのー?」
その純粋すぎる疑問に、一瞬場が和んだ。さらに、子犬のレイまでおめでたい雰囲気に影響されたのか、くるくると自分の尻尾を追い回して回転を始める。
「なにが婿入りだよ……」
そうぼやきながらも、俺は思わず笑っていた。胸の奥が、じんわりと温かくなった。
***
あれから数日後――。
昼下がりの光は眩しいほどに明るく、うっすらと黄色みを帯びた陽が、街のアスファルトにじんわりと染み込んでいた。木々はまだ芽吹きの途中で、道端の沈丁花がかすかに甘い匂いを運んでくる。
玄関のチャイムが鳴り、扉を開けると。目の前に、鷹取が立っていた。
細身のジーンズにグレーのスウェット。いつもと変わらない無造作な髪が、乾いた風にふわりと揺れている。両腕に抱えたダンボールが三箱。その上に載った紙袋がゆらりと傾き、彼は慣れた動作で顎を使って器用にバランスを取っていた。
荷物の隙間から覗く、本の背表紙やマグカップの持ち手。どれも見慣れないくせに、なぜか「らしい」と思ってしまう。彼の暮らしが、もうすぐ俺の生活の中に紛れ込んでくるのだという実感が、喉の奥を少しだけ締めつけた。
「……本当に来たんだな、おまえ」
ただそこに立っている姿に、俺は思わずそう呟いていた。
「当然です。俺の未来は、青空くんの隣にありますから」
決定事項ですとばかりに、鷹取は即答した。
真顔のくせに、口元だけがわずかに緩んでいて――そのふざけたようでどこまでも真剣な表情に、不意を突かれた。うっかり感動させられて、鼻の奥がじんわり熱くなる。
――やめろよ。そういうストレートなことを、当たり前みたいな顔で言うな。
と、思った瞬間。
「わんわんわんっ!」
全速力で玄関から毛玉が飛び出してきた。レイだ。
小型犬らしからぬ瞬発力で、鷹取の足元に突進する。滑るように突っ込んで、そのまま彼の脛に全体重をぶつけてきた。
「うおっ……!? ちょ、危なっ!」
鷹取がバランスを崩しかけ、荷物がゆらりと揺れる。咄嗟に俺が手を伸ばし、上に載っていた紙袋をキャッチした。
レイは尻尾を逆立て、ガルルルと唸りながら、まるで俺を取られることを拒絶するかのように鷹取へ牙を見せていた。もうすっかり顔馴染みだし、レイだって鷹取のことをそれなりに受け入れているように見えたが、それでも日に一度は喧嘩しないと気が済まないらしい。
「いい加減、普通に穏やかに仲良くできねえか? レイ……」
俺が額に手をやると、鷹取はまったく悪びれもせず、苦笑しながら肩をすくめた。
「無理じゃない? だって俺、そこの毛玉よりも青空くんに愛されてるもんね~」
「わんっ!? わんわんっっっ!」
まるで意味がわかったみたいに、レイは怒り心頭でソファの周囲をぐるぐる回りはじめた。滑りそうになりながらフローリングを爪でかきむしるように走り回り、ラグの角をめくりあげる。
「おまえなあ……火に油を注ぐなよ。ほら、落ち着けって……」
俺はしゃがみ込み、レイの頭を撫でなた。その尻尾の強烈なバタつきに苦笑しつつ、片手で鷹取のダンボールをひとつ受け取った。
段ボールの角が手のひらにぐっと食い込む。そこから伝わる重みは、ただの物理的な重さじゃない。誰かが「ここに居たい」と思って持ち込んだ、人生の一部。
そう思うと、手のひらが少しだけ震えた。
日が落ちる頃には、部屋の隅にはきれいに積まれた鷹取の荷物と、折り畳まれた空のダンボールたちが静かに並んでいた。リビングの窓から差し込む夕暮れの光が、それらを淡く照らしている。
俺たちはソファに並んで腰を下ろした。
肩と肩の間にあるのは、数センチの余白。でもそこには、もうなにも詰めなくていい安心感があった。
テレビではバラエティ番組が流れていたけれど、どちらも見てはいなかった。沈黙は気まずくもなく、まるで波のように、ゆるやかに空間を包み込んでいた。
しばらくして、鷹取がぽつりと呟いた。
「俺、今日からは正式に青空くんの恋人ってことで、いいんだよね?」
その声は、やけに静かで、真っ直ぐで、すこし震えていた。茶化しでもなければ、演技でもない。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥の、深く沈んだ場所に、ぽとんと石を落とされたみたいだった。
俺はちょっとだけ考えてから、口を開いた。
「……どうだろ」
「えっ、いまさら断るなんてなしですよ!?」
「ちげーよ。そうじゃなくて……」
言葉を切ってから、無意味にレイが前に齧ったソファの端っこを指で弄る。鷹取は俺の答えを前のめりになりながら待っている。
「なんだろ。恋人以上、家族未満?」
冗談めかして言ったつもりだったのに、舌の奥が少しだけ痺れていた。
最初はただうざったいだけだった鷹取の存在は、もう「恋人」とか「同居人」とか、そういう言葉じゃ言い切れない場所にまで来ていた。
俺は視線をテレビから外さず、ぼそりと付け足した。
「いや、もう……家族でもいいんじゃねえの」
その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。冬の朝、毛布の中でうとうとしているときに感じる、あのささやかな幸福感。世界のすべてが優しくなったような、静かで、あたたかな感覚だった。
「……それ、結婚のプロポーズってことでいい?」
軽口のつもりだった。でも鷹取にそう言われると、自分の鼓動がやけにうるさく聞こえた。
俺は少しだけ顔をそむけ、「うるせえ、寝ろバカ」とぼやいた。平気な顔を作ったつもりだった。けれど、顔がどんどん熱を持っていく。きっと今の俺は耳の先まで真っ赤で、まるで桜の花びらみたいに色づいているだろう。
照れてると揶揄われる前に、寝てしまおう――そう思って、ソファから立ち上げりかけた。でも、ぐいっと手を引かれて横に倒れ込む。体勢を元に戻そうと起き上がる前に、軽いリップ音と共に頬に柔らかい感触が降ってくる。
「おい……!」
「青空くん、好き。大好きです!」
そんな告白のあと、鷹取は俺の顔のあちこちにキスをしまくった。
「ちょっ、やめろって」
笑いながら鷹取を押しのけていると、ソファの下で、レイが「ふぅん」とため息のような音を漏らした。
子犬のあいつがいちばん大人なのかもしれないなと、俺は思った。



