ショッピングモールの裏手を抜けて、駅へ続く坂道を駆けていた。遅い午後、空はどんよりとした雲に覆われ始め、遠くのビル群の輪郭が霞んでいく。さっきまで青空だったのに、まるで誰かの感情が移り変わるように、空気の色が沈んでいった。
 空を見上げると。頬に、ぽつり、ぽつりと冷たいものが落ちる。
 やがて、音を立てて雨が降り出した。傘なんて持ってきてるわけがない。俺は立ち止まり、頬に流れる雨粒を拭おうとして舌打ちする。視界は滲み、濡れた手で髪をかき上げる指が妙に冷たい。
 土砂降りになった雨の下、世界は灰色に溶けていく。ショッピングモールから出てきた人々が、駅に向かって走っていく。傘を差す者、濡れるのを諦めて肩をすくめる者、誰もが自分の居場所へと急いでいた。
 俺も、ただひとりを探して足を早める。レイを拾ったときの空と、同じだと思った。あのときも、急に降りだした雨の中だった。あの日も、道端に子犬はぽつんと座っていたんだ――。
 どれだけ走ったのか。自分の息づかいがうるさくなってきた頃、目に飛び込んできたのはバス停の屋根だった。ほんのわずかな雨除けの下に、人影が見える。
 鷹取が――そこにいた。
 姿勢よく座っていたけれど、肩は小さく震えている。白いシャツは肌に貼りつき、濡れた髪は顔に張り付いていた。その横顔はどこか、ひどく遠いところにあるように見えた。
 俺は思わず、歩みを速める。
「探したぞ」
 声をかけても、鷹取は顔を上げなかった。濡れた前髪の奥で伏せられたままの瞳。唇は真一文字に結ばれ、返事すらない。強情なガキめ、と心の中で毒づいたけれど、どこかで胸がちくりと痛む。俺がそうさせたことは、明白だったから。
「鷹取……」
 呼びかけると、鷹取は小さく肩を震わせ、ぽつりとつぶやいた。
「キモイ俺に、なにか用?」
 刺すような声音だった。さっきは泣いていたのに、今は怒っている。感情の振れ幅が大きすぎて、俺のほうが追いつけない。だけど、その怒りの根っこにあるものは、わかっていた。
 俺の言葉が、鷹取を傷つけたんだ。
 どう謝れば、どんな言葉を選べばいいのか。わからないまま、俺は拳を握ったり、開いたりしていた。雨は斜めに吹きつけ、バス停の屋根の下まで濡らしていく。俺の頬を、鷹取の腕を、無遠慮に打つ雨粒。
 だが、鷹取は動かない。
 冷え切った風が、背中を貫いたとき。ようやく、俺は口を開いた。
「……さっきは、悪かった。ひどいこと、言っちまって」
 それは、いつもの俺じゃない、素直すぎるくらいの声だった。鷹取はその声を聞いて、ゆっくりと顔を上げる。濡れた睫毛が、しっとりと頬に張り付き、その隙間から覗く瞳が、静かに俺を捉えた。
 悲しげで、どこか諦めたような目。それでも、どこかで俺を信じていようとする細い光。
 ふたりの間に、湿った静寂が流れる。雨の音さえも遠のいたようだった。
「勝手にひとりになるな。俺の犬だろ」
 冗談めかした言葉に、鷹取の口元がわずかに揺れる。
青空(そら)くんは、俺のことが嫌い?」
「は……?」
「俺は、好きだよ。大好き。ずっと青空(そら)くんのそばにいたいし、青空(そら)くんの飼い犬でいたい」
 まっすぐで、誤魔化しのない言葉だった。皮膚を裂いて、心の奥まで届いてくるような、真っ直ぐさ。嘘でも、冗談でもないことは、すぐにわかった。
 じゃあ、俺は、どうなんだ。俺は鷹取をどう思ってる――?
 言葉が喉で詰まる。名前のつけられなかった感情が、胸の内でじわじわと形になっていく。
 鷹取がいないと、うまく呼吸ができないような気がする。そばにいないと、苛立って、寂しくて、なにかが足りない。
 あいつが笑えば嬉しくて、泣けば胸が痛い。誰かに触れられるのが嫌だと思ってしまう。この感情は、もうただの所有欲じゃない。友情でも、同情でもない。
「ちゃんと言葉にしてもらわないと、わからないよ。俺は馬鹿な犬だからね」
 鷹取が、拗ねたように言う。その言い方が、あまりに子どもっぽくて、胸の奥が柔らかくなる。自然と、頬が緩んでしまっていた。
「……好き、だ」
 簡単な言葉なのに、どうしてこんなにも難しかったんだろう。ようやく口に出せたとき、世界の色が、ふっと変わった気がした。冷たく見えていた周りの風景が、彩りを取り戻す。
 車の走行音が遠くなり、雨音すら背景になっていく。まるでこの世界に、俺と鷹取しかいないみたいだった。
「おまえがいないと、調子狂うんだよ。だから……」
 ――隣にいろよ。
 その言葉が届いたのか、鷹取がふっと微笑んだ。その答えを最初から知っていた、と言わんばかりに。
 座ったままの鷹取が、そっと俺の手を取る。その指は冷たいのに、心地よかった。引き寄せられるように、俺の身体が傾く。鷹取の手が俺の顎を優しく掬う。
 そして、唇が重なった。
 雨に濡れた身体。けれど、唇の熱だけがやけに鮮明だった。凍えそうな風の中で、そこだけが火照っていた。
 拒まないまま、鷹取にキスを許していると、おもむろに舌が触れた。唇を舐められた瞬間、電気が走ったように身体が跳ねる。
「ッ……犬か、おまえは!」
「うん。犬だよ。青空(そら)くんだけの、犬」
 まるで歌うように、楽しそうに鷹取が言った。その顔があまりにも愛しくて、馬鹿馬鹿しくて、俺は、つい笑ってしまった。
 雨はまだ降り続いているけれど。今、世界は少しだけ、温かい。
 灰色の空の下、バス停の屋根の下に二人並んで座る。傘を差さずに来たから、服の袖は少し濡れていて、肩口がひんやりと冷たかった。
 そのとき、隣に座る鷹取が、なんの前触れもなく俺の手をそっと握ってきた。
 指先から伝わるのは、ごつごつとした関節の形。男らしい骨格。そして、それとは裏腹に熱くて、やわらかい温もり。握られた手のひらがじわりと熱を帯び、やがてその熱が、胸の奥にまで染み込んでいく気がした。
 声はなかった。言葉もない。けれど、無言のまま流れる空気は不思議と心地よくて、俺は身を委ねるように、そっと背もたれに身体を預けた。
 静かな沈黙が、ふたりのあいだに柔らかく流れる。
 しばらくして、鷹取が口を開いた。
「実は……俺が家出した日に、父親から『転勤するかも』って言われてたんです」
 ぽつりと、雨の音に紛れそうなほど小さな声だった。けれど、そのひと言で、まるで心臓を直接掴まれたようにドクンと胸が鳴った。
「え、転勤?」
 思わず聞き返すと、鷹取は横目でこちらを見て、こくりと頷いた。
「はい」
 その言葉のあとに続く沈黙が、嫌な予感をより確かなものに変えていく。
「このまえ引っ越してきたばっかじゃねえか」
 少し掠れた声で言うと、鷹取は口角をかすかに動かして、わずかに笑った。
「いつもそうなんですよ。前に言ったでしょ? ひとつの場所に定住したことなかった、って」
「そうだけど……」
 それ以上、言葉が続かなかった。喉の奥がきゅっと締めつけられる。
 ようやく心が繋がったと思えた矢先に、離れ離れの予感なんて。冷たい風が心の隙間に入り込んでくるような、そんな感覚に襲われた。
「……転校……しちまうのか?」
 問いかけてから、俺は後悔した。聞きたくなんかなかった。答えなんか、知りたくなかった。
 鷹取は少しだけ身体を傾け、俺の顔を覗き込んできた。そして、悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
「俺がいなくなったら、嫌なんですか?」
 冗談っぽい口ぶり。でも、その瞳はまっすぐで、逃げ場がなかった。
 視線を合わせるのが恥ずかしくて、俺はそっぽを向いたまま、肩をすくめる。
「……それは……言わせんじゃねーよ、わかるだろ」
「ふふふ……しょんぼりしてる青空(そら)くん、かわいいですね」
 嬉しそうに言って、鷹取は俺をそっと抱きしめた。大きな腕のなかにすっぽりと包まれて、思わず息を呑む。すぐそばで感じる心音、衣擦れの音、温もり。それが妙にリアルで、俺の心臓が変なリズムを刻み始めた。
「……あーもう! ふざけてねえで、ちゃんと答えろよ。転校すんのか、しないのか!?」
 焦れたように言うと、鷹取はわざとらしく「うーん……」と唸ってみせる。
「もったいぶってんじゃねーぞ、コラ」
 睨みを利かせると、彼は両手を上げて「降参、降参です!」とすぐに白旗を振った。
「最初は、これまで通り親についていこうと思ってました。反抗しても無駄だろうって。でも、考えが変わったんです」
 口調が、急に真面目になる。
 鷹取は空を仰いだ。鈍い雲の隙間から、わずかに夕陽の光が滲んでいる。
青空(そら)くんに出逢って、やっと本当の自分を見つけられたのに、離れるなんて嫌です。むりです。考えただけで、泣いちゃいます」
「泣いてばっかだな、おまえは。っつーかどうせ泣き真似だろ」
 思わず突っ込むと、「バレてました?」と目を細めて笑った。でも、その笑顔の奥に、覚悟みたいなものが確かに見えた。
「まあ、とにかくですよ。俺は、親に歯向かうことにしたんです。青空(そら)くんの隣に、これからもいたいから」
 最後の言葉は、不意打ちだった。まっすぐすぎて、まともに受け止めきれなかった。
 ――嬉しい、けど。そんなこと言われんの初めてすぎて、どうすりゃいいのかわかんねえよ……。
 胸がいっぱいで、言葉にならない。顔が熱くなって、耳の裏まで火照っているのが自分でもわかる。
 だから、俺はそっぽを向いたまま、ぽつりと呟いた。
「あっそう。なら、いいけど」
「ええ~? それだけですか。もっとこう、『感動した!』とか、『よくやった!』って褒めてくれませんか?」
「バーカ。その様子じゃ、まだ親御さんと話し合ってねえんだろ? 褒めるのはちゃんと解決してからだ」
「……うう……そうですよね、はあ……」
 がっくりとうなだれる鷹取の背中を、軽く小突く。
「……ひとりで説得できなさそうなら、俺も手伝ってやっから」
「ほんとですかっ!? 青空(そら)くんがいるなら百人力ですよ!」
「大袈裟なやつだな……」
 思わず笑いながら言うと、鷹取はぱっと顔を輝かせ、嬉しそうにはしゃぎだす。その姿は、どこか子どもみたいで、見ているだけで笑えてくる。
 ふと、風の匂いが変わった。頬を撫でる空気に、冷たさはもうなかった。
 顔を上げると、いつの間にか雨は止んでいた。
 アスファルトには大きな水たまりが点々と残り、そこに映る街灯の光がきらきらと揺れている。西の空には薄橙の夕焼けが差し始めていた。
「……帰るか」
 俺が呟くと、隣から「はいっ!」と元気な声が返ってきた。
 ふたりの手は、まだ繋がれたままだった。その手をほどく理由なんて、もうどこにもなかった。
 俺たちはゆっくりと立ち上がり、濡れた路面に反射する夕光の中を、並んで歩き出した。



   ***



 玄関の扉を開けると、真っ先に音もなく滑り込んできた影が足元を駆け抜けた。
「おかえり!」と言わんばかりに、子犬が尻尾をブンブン振りながら青空の足にまとわりつく。しっとりとした瞳が見上げてくるたび、心のどこかがふわりとほぐれる。
「ただいま。おまえ元気すぎだろ」
 しゃがみこんで撫でてやると、レイはうっとりと目を細め、喉を鳴らすように鼻を鳴らした。
 そのとき、後ろからぬっと現れた鷹取を見た瞬間、レイの態度が豹変する。低く鼻を鳴らし、露骨に眉間に皺を寄せる犬。「おまえもいたのかよ」と声が聞こえてくるようだ。鷹取を睨むその目つきは、まるで自分の縄張りに入ってきたライバルを威嚇する小さなライオンみたいだった。
 それを見た鷹取は、してやったりという顔でニヤリと笑った。
「おっと? そんな態度取っちゃっていいのかな? 俺、もう“ただの飼い犬”じゃないんだけど?」
 鷹取は俺の肩に手をかけ、首を傾けて挑発的に言い放つ。視線はまっすぐレイへ向けられており、その目の奥に宿る勝ち誇った色は隠そうともしない。
 レイは「なんだよ、それ」とでも言いたげに、目を細めて鼻をひくつかせた。
「俺と青空くんは、愛し合ってる仲なんですぅ! おまえは負けたの。わかる?」
 レイの耳がぴくりと跳ねる。次の瞬間、突如として怒涛の吠え声が爆発した。
「わんわんわん! わんわんわん‼」
 まるで反論するかのように吠えまくるレイ。その小さな身体からどうしてこんな音量が出るのか不思議になるほど、迫力ある怒声だった。
「おまえら、いっつも喧嘩してんのな……」
 両者の睨み合いに呆れつつ、俺は靴を脱ぎながらリビングの方へ視線を向ける。
 すると、奥の方から小さな足音が聞こえてきた。
「にいに……!」
 ちょこまかと現れたのは、みらいだった。俺に向かって両手をひらひらと振りながら、レイの元へ一直線に駆け寄っていく。
「れーちゃん、おかえりーっていってるのお?」
 その無垢な声に、レイはふいに大人しくなった。みらいの前にちょこんと座り、しっぽだけを小刻みに振っている。小さな子には吠えない――彼なりの優しさかもしれなかった。
 一方で、鷹取も自然と表情を緩めた。無意識に息を吐いて緊張を解くその仕草は、どこか照れくさそうでもあった。
「仲良しかよ」
 喧嘩してみたり、双子みたいにそっくりだったり。鷹取と子犬の関係は飼い主の俺にもよくわからなかった。
 そのとき、リビングの奥から現れた母さんが笑い声をあげる。エプロン姿で、手にはミトンをつけたままだ。
「あら、鷹取くんと仲直りできたのね。夜ごはん、食べていく?」
「はい、ぜひ! というか……できれば、お泊りもしていいですかっ」
 身を乗り出して尋ねる鷹取。その真剣な目が母さんに向けられる。
「もちろん。いいに決まってる」
 その言葉を聞いた瞬間、鷹取は「よっしゃ!」と両拳を握ってガッツポーズを決めた。喜びがあふれすぎて、つい飛び跳ねそうになるのを抑えきれていない。
 ――……少しは遠慮しろよ。
 思わず乾いた笑いが漏れた。でも、内心はそれほど悪い気はしていなかった。むしろ、嬉しかった。まだもう少し鷹取と一緒にいたい――そんな気持ちが、言葉になる前に心の奥で波紋のように広がっていた。

 夜ご飯を食べ終わったあと。部屋のドアノブをひねると、湿った静けさが一歩先に迎え入れてきた。ほんのりと立ちこめる木材と古い本の匂い。それはこの部屋にしかない空気で、俺の呼吸がゆっくりと深くなる。
 カーテン越しに差し込む午後の残光が、ほこりを浮かべながら部屋の輪郭を淡く縁取っていた。長年使い込まれたソファは、背もたれが少しくたびれて、まるで「おかえり」と言ってくるかのように沈んで見える。ローテーブルには、読みかけの文庫本と、昨日飲み干したままのコーヒーカップ。生活の名残が確かにそこにあって、それだけで不思議と胸の奥が緩む。
「……ふぅ」
 言葉ではなく、ただ吐き出した息に、自分の疲労が滲んでいた。靴を脱ぎ、足元からゆっくりと絨毯の感触を確かめながらソファに沈み込むと、背筋からじわじわと体温が溶け出すような心地よさが広がった。
 そのとき、廊下の奥からぱたぱたと軽やかな足音が響いてきた。
「……レイ?」
 次の瞬間、ふわふわの毛並みを小刻みに揺らしながら、レイが勢いよくこちらへ駆けてきた。トリミング仕立ての毛が陽に透けて金色にきらめいている。尻尾をこれでもかと振り、瞳を爛々と輝かせながら、レイは俺の膝に飛び込んできた。
「おーおー、元気だな。おまえもお疲れさん」
 前脚で俺の膝をちょんちょんと突き、鼻先を遠慮なくすり寄せてくる。くすぐったくて笑いそうになる。指先でレイの首元を撫でようと手を伸ばしたその刹那――
「ずるい!」
 背後から、男の声が割り込んできた。次の瞬間、俺の膝の上にどすんと重みが落ちてくる。
「おいおい……重っ!」
 ずしりと乗せられた頭にバランスを崩し、俺は思わずソファの背に身体を預けた。顔を上げると、鷹取が膝に顔を埋めている。表情は見えないが、頬をくすぐる吐息がこそばゆい。
「おまえ、体格考えろって。犬と競うな、犬と」
「えー? 俺だって、青空くんに甘えたいんですけどぉ〜?」
 わざとらしく語尾を引き伸ばすその声は、いつもの軽薄な調子だけれど……肩の辺りがわずかに震えていた。疲れてるのか、それとも、本気で俺に甘えたい気分なのか。子どもみたいな顔をして、こういうときだけ容赦なく距離を詰めてくる。
 場所を取られたレイが、不満げに低く唸る。「ぐるるっ」と喉の奥から音を鳴らしたかと思うと、ついに我慢の限界が来たのか、鷹取の頬を爪でひっかいた。
「痛っ!? こら、本気で引っ掻くなって!」
 頬に走った赤い線を手で押さえながら、鷹取は苦笑いを浮かべた。目尻にわずかな痛みの皺を寄せながらも、どこか楽しそうで、唇の端が緩んでいる。まるで、怒られることさえ嬉しいみたいな顔だった。
「ほんと、どっちが犬だよ……」
「わんっ!」
 レイの吠え声に、鷹取まで声を張る。
「わんわんわーん!」
「おまえまで吠えんな!」
 ソファの上で、ひとりと一匹が完全に犬の権利をめぐって争っている。毛が舞い、鷹取の腕が空を切り、レイの耳がばさばさとはためく。どちらが本物かなんて、もはやどうでもいい。
「……二匹まとめて外に出すぞ」
 真顔で立ち上がり、腕まくりをすると。ふたりの動きがぴたりと止まった。
「やですっ!」「わんっ!」
 息ぴったりの返事に、俺は思わず噴き出しそうになる。レイは尻尾を巻き、鷹取は俺の腕にしがみつく。瞳を潤ませ、なぜか同じタイミングで「反省しています」アピールをしてきた。
 ――まったく……手のかかるやつらだ。
 怒ろうとしていたのに、鷹取とレイが双子のように息ぴったりだったので、面白くなってきていた。
「夜なんだから騒ぐんじゃねえよ。ほら、もう寝るぞ」
 リビングにぽつりと灯ったスタンドライトが、ゆらゆら揺れる影を壁に落とす。柔らかい光の下でレイはピクリと耳を動かすと、尻尾をふりふり振りながら素直にベッドへ歩いていった。小さな身体がふわふわのクッションに沈み、くるんと丸くなる。息を吐きながら、俺はその横に客用の布団を広げた。
 フローリングの冷たさがじわりと膝に伝わる。そのとき、隣でごそごそと音がした。
「ねえ、青空くん。布団、ひとつでよくない?」
「……は?」
 声の主は鷹取。わざとらしく肩をすくめ、膝を抱えるように座ってこちらを見上げていた。部屋の灯りが彼の黒目に映り込み、しっとりと濡れたように輝く。
「だって寒いしさ。ほら、くっついて寝た方があったかいし」
 言葉と一緒に、唇を尖らせて上目遣い。頬を膨らませるような仕草まで加えて、絵に描いたような「お願いモード」だった。
「おまえな……絶対わざとだろ、それ」
 呆れたように息をついたが、心の奥に浮かぶものは、それとは裏腹のざわめきだった。
「……嫌ですか?」
 急に、声音が変わる。ふざけた調子が消え、途端に影を落としたようなか細さで囁かれる。その一言に、心臓がきゅっと収縮するのを感じた。
 ――やめろよ、そんな顔。
 不安げに揺れる瞳。どこかで置き去りにされるのを恐れているような、子どものような目だった。
 数秒の沈黙。部屋の中を、時計の針の音がやけに大きく刻んでいた。
 そして次の瞬間。
 もぞもぞと音がして、鷹取が当然のように布団へ滑り込んできた。
「……おまえな……」
「だって、青空くんが好き。もう彼氏なんだから、いいですよね?」
 背中にぴたりと感じる体温。鷹取の腕がするりとまわり、腹の前でそっと組まれた。その抱擁は、ただの恋人同士のものというよりも、傷ついた誰かを包み込むような――守るような温かさだった。
 ――うわ、心臓がうるせえ。
 耳の奥で、鷹取の鼓動がドクン、ドクンと伝わってくる。それは俺のものよりも遥かに熱く、真っ直ぐで、脈打つたびに胸の奥を揺さぶってくる。
「……まだ彼氏って認めてないけど」
 ちょっとした意地悪のつもりだった。が、背後で鷹取がぴくりと反応し、驚いたように目を見開くのが伝わってきた。
「えっ、違うんですか?」
「付き合うのは、親御さんとの話し合いが終わってから、な」
「そんなあ……」
 しゅんと肩が落ちる気配。鷹取の気持ちに水を差したようで、内心、少しだけ胸が痛んだ。
 けれど。
 ――あいつがもし親を説得できなかったら? また転校して、遠くに行ってしまったら?
 そんな未来が現実味を持って迫る。胸の内に、どうしようもない不安が巣食っていた。
 結局、俺はまだまだ弱い人間だった。この関係にすがるには、俺はまだ臆病すぎる。
 ちらりと横を向けば、鷹取が布団の中でこちらを見ていた。じっと、静かに。それはなにも言わずともすべてを見透かしてくるような視線だった。
「……わかりました。親を説得してみせますから。待っててくださいね」
 その言葉が落ちると、ふっと力が抜けた。
 優しく背中を包むぬくもり。どこか懐かしいような、安心に似た気配。まるで安全地帯にいるかのようで、まぶたが自然と閉じた。
 次に意識が浮上したとき、世界は既に朝を迎えていた。
 朝の光はまだ部屋のカーテン越しにぼんやりと滲み、静かに明けようとしていた。だが、俺の安眠は突然終わりを告げる。
 冷たい空気が、寝間着の隙間からひゅうっと入り込む。妙に背中が寒い。布団の中で手を伸ばすと、そこにはあるはずの温もりが消えていた。嫌な予感に眉を寄せながら、ゆっくりと目を開ける。
 そして、信じがたい光景を目にすることになる。
 ――鷹取が、床にいた。
 正確には、丸めた毛布を抱いて、床の上で震えている。頬をほんのり赤く染め、肩をすぼめ、まるで雨に打たれた子犬のような姿だ。
「……は?」
 声が漏れる。だがその違和感の原因は、すぐにわかった。
 ベッドの上。俺の枕を堂々と占領しているのは、レイだった。ちんまりとした身体を大の字に広げ、満足げに尻尾を小さく振りながら、鼻先で寝息を立てている。まるでこの家の(あるじ)とでも言いたげな、王様然とした寝相だ。
 その姿を見た瞬間、鷹取がガバッと身を起こした。
「……俺の居場所を……奪った……?」
 ボソリと低く唸る声は、もはや人間のものではない。乱れた前髪の奥からギラリと覗く視線。毛布を肩にかけたその姿は、どこからどう見ても“犬モード”全開だった。
「この恨み……はらさでおくべきか……ッ!」
 不穏な気配を感じ取ったのか、レイが目を覚ます。ぱちりと目を開けると、鷹取を一瞥。次の瞬間、吠えた。
「ワンッ!」
「ガルルルル……!」
 まさかの、遠吠えバトル第二ラウンド。それも、早朝から。
 鷹取の低い唸り声に、レイの甲高い吠え声が応戦する。床の上とベッドの上で、唸り声と遠吠えが飛び交い、朝の静けさなど跡形もない。
「……おまえら、朝からうるせえよ!」
 たまらず、俺は枕を手に取って振り上げる。遠慮など一切なし。そのまま容赦なく、ひとりと一匹に向かって振り下ろした。
「キャンッ!」
「ごめんなさぁいっ!」
 レイが情けない声で飛び上がり、ベッドの端へ転がる。鷹取も派手にのけぞって、床を転がった。まるで打ち上げられた魚のような動きに、俺の肩の力が抜ける。
 しばらくの沈黙。
 静まり返った部屋の中で、レイがしょんぼりと耳を垂らし、鷹取は口をとがらせながら布団の隅に腰を下ろす。やれやれと額に手を当てつつも、なぜだか笑みがこぼれそうになるのを堪えきれなかった。
 ――静かな朝は、今日もやってこない。
 けれど、この騒がしさがなくなる未来なんて、今の俺には想像できなかった。
 いや――たぶん、このうるさい日常を、どこかで望んていた。