休日の朝。ゆるやかにカーテン越しの光が部屋を満たし、鳥のさえずりが遠くで響いていた。まだ眠気の残る空気の中、「ピンポーン」と、玄関のチャイムがひときわ明るく鳴り響いた。
「はいはーい」
 キッチンで湯気を立てる鍋に目をやりながら、母さんが上機嫌に返事をした。ラジオからは懐メロが流れていて、朝食の準備の音と混ざり合い、いつもの平和な朝だと思っていた。
 だが、その数秒後。
「きゃあっ!」
 悲鳴が弾けた。
「どうした!?」
 慌てて立ち上がる。椅子がガタンと音を立てて倒れ、リビングの空気が一気に緊迫したものへと変わる。俺は部屋の隅に立てかけてあった野球バットを引き寄せ、そのまま玄関へ駆け出した。廊下の壁を手で支えながら曲がり角を飛び抜けると――
「……な、なんだこれ」
 そこには、足の踏み場もないほど積み上げられた大量の段ボール箱があった。そしてその段ボールの壁に囲まれたように立ち尽くす、呆然とした母さん。配達員の青年は、キャップの下から前髪を汗で濡らしながら、肩で息をしていた。目の下にはくっきりと疲労のクマ。
「えーと、真壁さんのお家で合ってますよね? これ、全部お届け物です」
「全部ぅ!?」
 母さんの声が裏返る。あんぐりと口を開けているのが、逆に笑えてくるほどだった。
 段ボールにはメーカー名が印字され、ラベルには「キッチン用品」「トレーニング器具」「ガールズファッション」と、まるで家族全員の希望が詰め込まれたようなラインナップが書かれている。
青空(そら)、あんた買い物しすぎよ!」
「俺じゃねえって!」
 母さんと言い合いになる。そのうち、家族の誰も買い物していないことが判明した。空から突然降ってきたわけでもないし、誰かの嫌がらせか? と頭を捻る。
 俺たちは、大量の荷物を睨みつけた。
「送り主は誰だよ?」
 疑念と怒りを胸に伝票に目をやる。そこには、達筆とも悪筆とも言えぬクセ字でこう記されていた。
 ――鷹取玲。
 ぎゅっと眉間にしわを寄せる。スマホを取り出して、駄犬の名前を呼び捨てで呟いた。
「鷹取ィ……!」
 ぶちっ、と理性の糸が切れる音がした。俺はスマホの発信ボタンを強く押し込む。数回のコール音のあと、いつもの能天気な声が響いた。
『あ、青空(そら)くん! プレゼントは届きましたかっ?』
 無邪気な声。悪びれる様子など微塵もなく、むしろどこか得意げですらある。
「おい鷹取、こんなに送り付けてきて、いったいなんのつもりだよ!」
『え? いつもお世話になってるので。ほんの気持ちです』
 電話の向こうで「えへへ」と笑う声がした。ほんの、じゃねえだろ。荷物の山に囲まれてるんだぞ、こっちは。
「加減ってもんを知らねえのか、てめえは? 開封するの手伝いに来い!」
『わっかりましたあ~! えへ、休日デートですねっ』
「違っ――」
 俺が否定する前に、通話はぷつりと切れた。
 スマホを持ったまま、言葉にならない叫びをあげて天井を睨む。喉の奥からこみ上げる苛立ちと照れを必死で噛み殺していると――ふわふわの毛のかたまりが足元に寄ってきた。柔らかい毛が、足首をくすぐる。
「わん?」
 子犬のレイが、くりくりとした目で俺を見上げる。首を傾げて、その小さな顔に「なに騒いでんの?」と書いてあるようだった。そして、俺のイライラなどお構いなしに、ぺろりと足を舐めてきて――少しだけ、肩の力が抜けた。
 それから、鷹取は本当にすぐにやってきた。荷物が届いてから一時間も経っていなかった。まるで近所の電柱の影にでも隠れて待っていたんじゃないかというほどの素早さだ。
「おまえなあ、こんなもん貰ってどうしろってんだよ?」
 玄関前で腕を組んで睨む俺の前に、鷹取はニコニコと笑顔で立っていた。真っ白なシャツにデニム。涼しげな装いなのに、顔が暑苦しい。というか、うるさい。
 そして、鷹取は俺が手にしていたメリケンサックを奪い取ると――なんの迷いもなく、俺の指にはめてきた。
「喧嘩するときに使うかなーと思ったので。わあ、よく似合ってますよ!」
「……殴られたいのか?」
「とんでもない!」
 目がきらきらしてやがる。
 ――バカ犬め。
 胸の内で零した言葉は、棘があるのに、密かに奥でなにかが小さく笑っていた。
 ため息をついて、周りを見回すと。段ボールの山が、いつの間にかリビングの床を埋め尽くしていた。開封し終えた包み紙がくしゃくしゃに丸められ、辺りに散らばっている。部屋には、段ボール特有の紙と梱包材の匂いがわずかに立ち込めていた。
「ふう……」
 床にぺたんと座り込み、額の汗をぬぐう。腕時計をちらりと見ると、すでに昼の1時を過ぎていた。腹がすいていることを思い出した瞬間、胃が自己主張するように「ぐう」と鳴いた。
「こんなにたくさん貢物してくれなくてもよかったのに。高かったでしょ?」
 母さんが鷹取に微笑みかけながら訊いた。決して遠慮する気などないその声音に、思わず肩をすくめる。返品する気なんて微塵もないらしい。貰い慣れているというか、ちゃっかりしているというか……。
「このまえ、泊めていただいたお礼も兼ねているので。気にしないでください」
「あら、そう? じゃあ、有難くもらっちゃおうかしらね」
 頬を緩ませて言う母の横で、妹のみらいが歓声をあげた。
「おひめさま、かあいいっ!」
 鷹取にもらったピンクのチュールスカートとティアラを手に持ち、くるくるとその場で回っている。ティアラが光を受けて、ガラス窓の外から差し込む陽光にきらりと輝いた。
「鷹取くんも一緒に昼ご飯食べに行こうよ。ペット同伴OKのとこに行くからさ」
 子犬のリードを手にした母が、まるで家族の一員であるかのように自然に鷹取を誘う。その自然さに、一瞬だけ胸の奥がきゅっとした。
 図々しい、と。鷹取を叱るべきなのに、なにも言えなかった。鷹取の家庭事情を知ってしまったからかもしれない。
「はい、ぜひ!」
 いつも通りの人懐っこい笑顔で頷く鷹取。その姿を見て、俺は小さくため息を吐いた。
(母さんにも犬扱いされてるのに、それでいいのかよ……)
 けれど、鷹取の瞳にはまったく気にする様子はなくて。むしろ嬉しそうだった。やっぱり鷹取は変なやつだ。

 ――数十分後、車がゆっくりとカフェの駐車場に滑り込んだ。外観は白を基調としたナチュラルテイストの建物で、看板には「Dog Friendly Café」と手描きのフォント。木製のテラス席には何組かの客が座っていて、それぞれの足元には大人しく伏せる犬たちの姿があった。
「わんわんがいっぱい……!」
 妹が窓の外を見て目を輝かせる。俺の膝の上で抱えられていたレイも、くんくんと鼻を鳴らしてソワソワしだした。
 入口の前に、小さな段差がある。何気なく足を上げた瞬間――。
青空(そら)くん、きをつけてくださいね」
 隣からそっと伸びてきた手が、俺の手を包んだ。
「……手なんて繋がなくても、登れるっつの」
 顔をしかめながらも、鷹取の手は妙にあたたかく、拒絶のタイミングを逃した。
 鷹取は、どこか満足げな顔でにこりと笑う。その姿は犬というより、まるで貴族の執事気取りだ。俺の足元でレイがしらけた顔で鷹取を見上げ、「なにこいつ」とでも言いたげに鼻を鳴らしていた。
 カフェの中は観葉植物とウッド調のインテリアに囲まれ、落ち着いた雰囲気だった。窓から差し込む午後の光が、テーブルの上に小さな影を落としている。
 みらいは子ども用の椅子に乗せられ、足をぶんぶん振っていた。
「こら、行儀よくしろ」
 注意すると、隣の鷹取がくすっと笑った。
「なんだよ?」
「いえ、別に。青空(そら)くん、お父さんみたいですね」
「はあ?」
「父親が単身赴任するようになってから、青空(そら)は面倒見が良くなったからねえ」
 母さんの何気ないひと言に、俺は言葉を失った。自分の変化なんて、考えたこともなかった。
 鷹取は、目を輝かせながら親指を立ててくる。
「家族思いの青空(そら)くん、素敵です! それでこそ俺の飼い主です!」
「……おい、店の中で飼い主とか言うなよ」
 ツッコミながら、軽く鷹取の額を指ではじいた。
 ちょうどそのとき、店員が料理を運んできた。湯気の立つステーキプレート。鉄板がじゅうっと音を立てると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
 その瞬間、鷹取がプレートをすっと自分のほうに引き寄せた。
「なにしてんだよ」
 俺が文句を言う前に、鷹取はナイフとフォークを手に取り、器用に肉を切り分け始めた。カットされた肉は綺麗に並べられ、まるでフレンチの皿のようだった。
「はい、どうぞ」
 皿が押し戻される。俺は言葉も出ずにそれを受け取った。
(なに今の。なんか……彼氏っぽい)
 突如胸をよぎった思考に、自分で自分が嫌になる。ぶん、と首を振って打ち消す。
(バカ、俺はあいつの“飼い主”だろ。彼氏とか、あるわけない)
 なんとか平常心を取り戻して食事を始めたそのとき――。
青空(そら)くん、こっちも美味しいですよ。はい、あーん」
「なにが『あーん』だよ。やらねえっての」
 鷹取は笑顔で、自分の皿からフォークに料理を刺し、俺に向かって差し出してきた。店の空気が一瞬だけ静まったような錯覚がした。
 足元でレイが吠える。「俺が食べる!」と主張しているように聞こえる。
青空(そら)、いじわるしてないで、『あーん』くらいしてあげなさいよ」
 母さんまで加勢してくる始末。鷹取の手元のフォークはぶれず、じっとこちらを見つめている。
(うわ……こいつ、顔だけはマジでいい)
 視線の先の鷹取は、光の加減でまつげが長く見えて、歯の白さがやたら眩しかった。
 ――料理のCMでも狙ってんのか? なんだこれ、地味に耐えられねえ。
 俺はふいっと目を背けた。
「にいに、あーんもできないの?」
 妹からの煽りが、トドメを刺す。思わず舌打ちをして、俺は口を開けた。
「……あーもう! わかったよ、寄こせ」
「やったあ! あーん」
 フォークに刺さったニンジンのソテーを受け取るように口に含んだ瞬間、甘みと塩気のバランスのいい味が広がった――けれど、味なんて正直どうでもよかった。
 鷹取の顔が近かった。表情が、やけに優しかった。
 心臓が高鳴って、うるさい。
「あ、ここついてるよ」
 鷹取の指がそっと俺の唇の端を拭う。そして――その指を、ぺろりと舐めた。
 一瞬、時間が止まった。
「なっ……」
 視線が泳ぐ。耳の奥が、じんじんする。心臓が騒ぎすぎている。俺は溺れた魚のように、口をぱくぱくと開けては閉めた。
「あらやだ、青空(そら)、顔真っ赤よ。熱でもあんの?」
 母が額に手を当ててくるのを、慌てて振り払う。鷹取は、にやにやしながらこちらを見ていた。
「……レイ、ちょっと鷹取に噛みついてくれないか?」
「くーん?」
 子犬は少し困った顔で、俺を見上げた。すぐに横から非難の声が上がる。
青空(そら)くん!? なにお願いしてるんですか!」
 俺の願いは叶わなかったが、俺たちの会話を聞いていた母さんとみらいが笑ってくれた。それだけが救いだった。



   ***



 カフェを出たあとの午後の空気は、ほんのり甘く湿っていた。初夏の日差しが、街路樹の葉を透かして舗道に影を落としている。風に揺れる葉擦れの音に、どこか遠くの車のクラクションが混じった。
「映画、観に行こうか」
 母さんがそう言って、スマホをしまいながら笑う。みらいが「やったー!」と両手を上げて跳ね、レイがつられて尻尾を振った。
 目的地は、歩いてすぐの大型商業施設。話題の新作アクション映画が公開中らしく、母さんがそれを楽しみにしていたのだ。ちょうど同じフロアにペットサロンが入っているので、レイのトリミングも一緒に済ませてしまおうということになった。
 商業施設に着くと、冷房の効いた空気が肌を撫でる。レイを預けるとき、ガラス越しに見えたサロンの中では、シャンプーの泡に包まれたトイプードルが目を丸くしていた。レイは少し不安げに俺の腕にすがりついたが、「すぐ戻るからな」と言い聞かせて預ける。
 映画館のロビーは、週末らしい雑多な賑わいを見せていた。子どもを肩車した父親、チュロスを分け合うカップル、パンフレットを熱心に読む高校生たち――人のざわめきとポップコーンの香りが空気に溶けている。
 俺はみらいとはぐれないように手を繋ぎ、母さんのあとについて歩く。そのすぐ横で、当然のように並んで歩く男がいた。
「……当たり前の顔してついてきてるし」
 思わず呟くと、当の本人――鷹取はキョトンと目を瞬かせてこちらを見た。
「え、なんですか? 映画、楽しみですね!」
 声も表情も純度百パーセント。俺の嫌味に、一ミリも気づいていない。間抜けな鷹取の顔に、なんだか毒気を抜かれてしまう。
 座席に腰を下ろすや否や、鷹取はもうわくわくとポップコーンに手を伸ばしていた。袋の音をカサカサと鳴らしながら、口にぽいぽいと運んでいく。まだ本編も始まってないのに、気づけばポップコーンは半分以下に減っていた。餌を食い尽くす犬そのものだった。
 やがて館内が暗くなり、予告編が終わって、本編の幕が上がる。大画面に映し出される冒頭の爆破シーンに、観客たちが息を呑んだ。俺も自然と前のめりになって、スクリーンに集中していた――そのときだった。
 ……ふと、温もりを感じた。左手の甲に、やわらかな熱。
 目をやれば、鷹取の手がそろりと俺の手に重ねられている。まるで偶然を装うように、しかし明確な意図を持って、添えられている。
「なにしやがる」
 小声で呟いて乗せられた手を叩くと、鷹取は「えへへ」と悪びれもせず唇を尖らせた。
 集中できないで遊び出すガキかよ――俺は呆れつつ、また映画に視線を戻した。
 だが、やつは諦めなかった。それどころか、しばらくしてまたそろそろと手を伸ばしてきて、俺の小指に触れたり、手の甲に指を這わせたり。隣でもぞもぞ動かれてちゃ、映画に集中できるはずもない。俺は苛立ち始めた。
 3回目、4回目……鷹取は、触れる回数を重ねるごと、完全に映画より“手繋ぎチャレンジ”に夢中になっていやがった。
 5回目に差しかかった頃。俺の堪忍袋はぷつんと音を立てた。
「おまえなあ、映画見に来たんだぞ⁉ 何回俺の手ぇ握れば気が済むんだよ!」
 怒りが口を突いて出る。周囲が一瞬こちらに視線を投げた。しまった、と思った瞬間には遅く、鷹取が俺の腕を引き寄せながら、慌てた声で言った。
「……青空(そら)くん、シイーッ! 大きい声出さないで」
 お前のせいだろ、という言葉が喉まで出かかったところで、鷹取がにゅっと人差し指を伸ばしてきて――俺の唇を、そっと塞いだ。
「……ッ」
 むにっと柔らかい感触が指先越しに伝わる。体温が、思ったより高い。不意打ちに、かあっと顔が熱を持った。目の奥がチカチカする。
(なにやってんだこいつ……!)
 人は混乱すると、咄嗟に動けないみたいだ。俺はその場で震えることしかできなかった。
「怖いから、手。握っててください」
 ぽつりと、鷹取が言った。冗談にも聞こえない口調。目は真剣で、しかも――さっきより少しだけ寂しそうだった。逃げる間もなく、彼の手が俺の手を掴む。こんどは迷いも遠慮もなく、指を絡めてきた。恋人繋ぎだ。
 暗闇に慣れた視界の端で、鷹取の横顔がゆるやかに笑っているのが見えた。
 心臓が、不穏なリズムで鳴る。振りほどこうにも、暴れれば前後の観客に迷惑がかかる。
 ――あいつ、完全にこの状況を計算してやがる……!
 くそっ……と、俺はその手に全力で握り返した。ぎゅうううう、と意地でも手を潰すつもりで力を込める。
「ぅ、いッ……ッッ」
 横から、小さく情けない呻き声が漏れる。でもスクリーンから響く銃撃音がすべてかき消した。
 このあとの映画の内容は、正直ほとんど覚えていない。
 映画のエンドロールが終わり、照明がじわじわと劇場内を照らし出すと、鷹取は――どういう心境の変化か、いつも以上に堂々と、俺の肩にがっつりと腕を回してきた。べったり、という形容がこれほど似合うやつもいない。
 密着した鷹取の体温がじんわりと染みてくる。肩に落とされた腕は妙に重く、なのに、そこに宿る温もりだけは妙に心地よくて。反射的に身を引きたいのに、引けない。まるで、甘やかされすぎて重たく育った大型犬が懐いてじゃれついてくるような――そんな図だ。
「じゃ、レイを迎えに行こうか」
 母さんの一言で、俺たちはモールの中へと歩き出した。
 モールの天井は高く、ガラス張りの吹き抜けには西日が差し込んでいた。きらきらと反射する光が床のタイルに模様を描き、人々の足音や子どものはしゃぐ声が交差する。
 そんな賑やかな空間の中で、俺たちは目立っていた。
 なにせ、でかい男が、俺に密着して歩いているのだ。周囲の客がちらちらと視線を投げる。すれ違うたび、くすくすと笑いが漏れる。
 分かってる。原因は鷹取だ。
 こいつはまるで、俺という“お気に入りのぬいぐるみ”を手放したくない幼児のように、片時も離れず歩いている。まるで俺が、鷹取のアクセサリーかなにかみたいに見えてくる。
 冗談じゃない。
 俺の中で、羞恥と苛立ちがぐつぐつと煮えはじめる。けれど、背中にじんわりと広がる体温が、それらを打ち消すように優しくて――そのことが、また余計に腹立たしい。
 まるで、甘い毒に侵されてるみたいだ。
「……いい加減にしろっつってんだよ!」
 限界だった。俺は振り払うように叫び、鷹取の腕を乱暴に引き剥がした。
 思った以上に大きな声が出てしまったらしい。隣を歩いていたみらいがぴくっと肩を震わせ、その場でぽろぽろと泣き出した。母さんはすぐにみらいを抱き上げ、困ったように俺を睨む。
青空(そら)、大きい声出さないで」
「だって、こいつが……!」
 俺は言い訳のように鷹取を指差す。
 鷹取は、怒られた大型犬そのものだった。眉をへの字に落とし、目をうるうると潤ませながら、俺をちらちらと見上げている。下唇を噛みそうな顔で、黙っていた。
 その表情に、心臓がどくりと鳴る。
 ――なんで、そんな顔すんだよ。ずるいだろ。
 自分が、少しでも同じ体温を欲してしまったこと。あのときのキスや、触れられた感触を、まだどこかで期待してしまっていること――そんな自分が、無性に腹立たしかった。
「鷹取、人前でべたべたすんな。周りの人に笑われてんの、気づいてねえのか?」
 声が少し、震えていた。それを隠すために、言葉を硬くした。
 鷹取はうつむいて、小さく呟いた。
「だって、いつ一緒にいられなくなるか……わからないから」
「は? いなくなる予定でもあんのかよ?」
「それは……」
 語尾が濁る。
 そこで、俺はなぜか焦る。答えを聞きたくないと思った。無意識に、核心を避けるように声を上げる。
「……っ、普通、男同士はこんなべったりしねぇんだよ。キモイから、やめろ」
 言った瞬間、喉が痛くなった。鋭く吐き出したその言葉が、自分の胸を突き刺していた。
 その場に立ち尽くす鷹取は、まるで突風に吹かれた子犬のように、体をこわばらせていた。その瞳が、涙で濡れていく。
 そして次の瞬間、わっと泣き出す勢いで、鷹取は反転し、走り出した。
 俺が反応するより早く、すでに人混みの中に姿が消える。
「あ、おい……!」
 取り残された俺の隣で、母さんが盛大なため息を吐いた。
青空(そら)、今の言いかたは酷いんじゃない?」
 母さんの声は、モールの柔らかい空調音の中でもはっきりと響いた。広い通路のガラス壁に、俺たちの姿がぼやけて映っている。そのなかで、まるで自分だけが色褪せた影のように立ち尽くす俺の姿が、なんとも情けなかった。
「……」
 言い返す言葉が見つからない。喉の奥に引っかかるような後悔だけが、じわじわと広がっていく。
「あんなに青空(そら)のこと愛してくれる人、これから先もう現れないかもよ? それでも拒絶するの?」
 母さんは静かに言ったが、その言葉は不意打ちのように鋭く刺さった。思わず息を飲んでしまう。目を逸らすと、隣でみらいがまだ頬を膨らませたまま、俺と母さんを交互に見ていた。小さな手を俺のシャツの裾に握って、なにかを訴えかけてくる視線が痛い。
「だって、あいつが、あんまりにも引っ付いてくるから……」
 口から出た言葉は、言い訳にしか聞こえなかった。自分でもそう思っている。だけど、それしか言えなかった。あの距離の近さが、怖い。あいつがくれる好意が心地よくて、そのぶん恐ろしかった。どこまでも甘えてしまいそうで……。
 母さんは腕を組み直して、ひとつ息を吐いた。
「別にいいでしょ。あんただって、鷹取くんのこと好きなんでしょうが。なにをモジモジしてんだか」
「ちょっ……母さん!」
 思わず語気を強める。周囲の視線がこちらに集まりかけて、俺は慌てて声を落とした。だけど、母さんはにやりと笑って、まるですべて見透かしたような顔をする。
「なによ、本当のことでしょ」
「……」
 反論したかった。けど、できなかった。なにを言っても、ぜんぶ否定するための言葉になってしまいそうだった。
 悔しかった。母さんに指摘されなくたって、分かってる。鷹取が隣にいる時間が、いつのまにか当たり前になってた。静かに入り込んできて、気づけば俺の中に根を張っていたみたいに。
 あいつがいない頃の自分に、もう戻れる気がしなかった。
 ペットサロンの前に着くと、ショーウィンドウ越しに見えたレイがぴょんっと跳ねた。艶やかな毛並みが整えられていて、まるでどこかの看板犬みたいだ。尻尾を勢いよく振りながら俺のところへ駆け寄ってくると、しばらく足元にすり寄ってから、「あれ?」という顔できょろきょろと周囲を見回した。
 ――あいつがいないことに、気づいたんだな。
 レイは何度か鼻を鳴らし、落ち着かない様子でしきりに俺の方を振り返る。
「……ごめんな。今日は俺、ちょっと酷かったかも」
 誰に言うでもなく呟いた声が、胸の奥に重く沈んでいく。レイにリードをつけ、モールの通路を抜けて駐車場へ向かう。
 すると、そのとき――。
「わん!」
 レイが突然吠えた。警戒の色はなく、むしろなにかを知らせるような鳴き方だった。目線の先を追うと、アスファルトの隅に、見覚えのあるチョーカーが落ちていた。
(……鷹取のだ)
 俺が買ってやったやつだ。黒地に銀の鋲が並ぶ、どこか獣っぽいデザインのもの。何度も落として、拾って、またつけて。懲りない奴だといつも文句を言ってたけど、今日は違う。
 チョーカーを拾い上げると、指先に伝わるひやりとした金属の感触に、胸が締めつけられた。
 ――今度は、俺のせいで、落としたんだ。
 唇を噛む。乾いた風が頬を撫でていく。レイがもう一度、小さく「わん」と鳴いた。
 今度は、まるで背中を押すように。
「……母さん、先に帰ってて。俺、あいつを探しに行ってくる」
「うん。そうしな」
 母さんの返事は、予想よりもずっと柔らかかった。振り返ると、ほんの少しだけ、笑っていた気がした。
 俺はチョーカーをしっかりと握りしめて、駆け出した。
 遠ざかる足音の先に、探している“あいつ”がいる気がして――。