ある静かな夜のことだった。
 母さんとみらいはすでに寝室に引き上げ、家中にはしんとした静けさが広がっている。暗がりに包まれたリビングには、冷蔵庫のモーター音だけが一定のリズムで鳴っていた。まるで時を刻むようなその低い音が、やけに耳に残る。
 喉が渇いて目を覚ました俺は、キッチンの蛍光灯を点け、コップに水を注いだ。蛇口から流れ出る水の音が、やけに響く。冷えた水を一口含んだときだった。
 ――ガタン。
 不意に、窓の外から何かが倒れるような音がした。
 全身に緊張が走る。思わず水を飲みかけたまま固まり、耳を澄ます。心臓が一度、どくんと跳ねた。
(泥棒か? 不審者か?)
 息を潜め、キッチンの隅にあった鍋の蓋を手に取る。少しでも武器になりそうなものをと反射的に掴んだそれは、冷たくてずっしりと重い。慎重に足音を忍ばせ、リビングのカーテンへと近づく。
 ガラス越しにうっすら見える人影。
 胸が高鳴る。怖い、けれど確認しなければ。
 息を詰めてカーテンをそっと開けると――
「……っ、おまえ、なにしてんだ!?」
 思わず声を上げた。
 暗闇の中、見慣れた顔がそこにいた。鷹取だった。
 月明かりに照らされて、彼は家の壁の縁に両手をかけ、必死にしがみついている。その表情は真剣というより、どこか切実で、かすかに寂しげだった。
青空(そら)くん、入れてください……」
 窓越しに話しかける鷹取の指先が、窓枠をカリカリと引っ掻く。本当に犬のような仕草だった。
「ここ二階だぞ? おまえ、忍者かよ」
 冗談交じりに返すも、内心は焦っていた。こんな深夜に壁をよじ登ってくるなんて、常識では考えられない。誰かに見られていたら、通報されていてもおかしくなかった。
 ため息をつきながら、そっと鍵を外して窓を開ける。冷たい夜風が吹き込んできて、肌がひやりとした。
「こんな夜更けに、なんの用だよ。ってか、普通に玄関から入ってこい」
「だって、チャイム鳴らしたらお義母様とみらいちゃんが起きちゃうでしょ」
「だからって、普通は壁をよじ登らねーんだよ」
「俺は普通に捉われない男なので」
 どや顔で胸を張る鷹取に、思わず口元が緩みそうになる。いや、笑ってる場合じゃねえ。
 俺は鷹取を手招きし、物音を立てないよう気を配りながら自室へと誘導した。
 部屋に入ると、部屋の隅で丸くなっていたレイが目を細めてこちらを見た。犬のくせに、まるで「またこいつかよ」と言いたげな視線を寄越してきて、再び目を閉じる。
「……それで? なにがあったんだよ」
 ベッドの端に座りながら問いかけると、鷹取は窓際の椅子に腰を下ろした。月の光に照らされたその横顔は、いつになく陰りを帯びている。鷹取は自分を犬だと思っている様子のおかしい男だが、夜中に押し掛けてくるような迷惑をかけるタイプじゃなかった。きっとそれほどのなにかが起きたのだろう、と俺は思った。
「実は……」
 鷹取はうつむき、言いにくそうに少しの間を置いた。そして、ぼつりと言った。
「親と喧嘩して、家出してきました」
「はあ!?」
 思わず大きな声が出てしまった。足元のレイが驚いたように身じろぎし、「わふっ」と小さく鳴いた。
「なにしてんだよ。今ごろ親御さんたち、心配してるかもしれないだろ」
「あの人たちは心配なんてしませんよ」
 その言い方があまりに淡々としていて、逆に胸が締めつけられた。
「そんなことない……」
 反論しかけた俺の言葉を、鷹取がきっぱりと断ち切る。
「そういう親もいるんです。青空(そら)くんには、わからないかもしれませんが」
 その声には諦めと、どこか悲しみに似た響きがあった。肩を落とし、視線を床に落とした鷹取の表情は、いつもの調子者の顔とはまるで別人だ。
「遠くない未来、ここから連れ出されてしまうかも。でも、俺はここにいたいんです……!」
 その言葉に、何かを懇願するような必死さがにじんでいた。
「俺、青空(そら)くんの家族になっちゃダメかな」
「……もう家族みてえなもんだろ」
 その一言に、鷹取の目がぱっと見開かれる。
「もっと、確実な家族になりたいんです。あの人たちを納得させるために」
「はあ?」
 なにを言い出すんだ、こいつは。
「そうだ……青空(そら)くん、俺と結婚してくれませんか」
「はあ!? なに言ってんだ、そもそもできねーだろ」
「あっそうか。じゃあ、俺をこの家の養子にしてもらえないですかね?」
「なんでそうなる。むりだろ」
「そんなあ……」
 鷹取はがっくりと肩を落とし、膝の上に顔を伏せた。
「なにがあったのか知らねえけど、親御さんとちゃんと話し合ってこい」
「……むりですよ。あの人たちは、俺の言うことなんて聞いてくれません」
 静かな口調の裏に、深い絶望が見えた。
 俺は鷹取の家庭事情が普通じゃないことくらい知っていた。でも、今夜の様子は、いつにも増しておかしい。
「なあ、なにがあったんだ? 暴力でも振るわれたのか?」
「いいえ」
 鷹取は首を振った。その仕草は穏やかだったが、逆に何かを押し殺しているようで、言いようのない不安が胸をよぎった。
青空(そら)くん……」
 名前を呼ばれた瞬間、目の前に鷹取の姿が迫っていた。
「うわっ」
 そのまま、鷹取は俺にぎゅっと抱きついてきた。温もりが一気に全身に触れ、どぎまぎと身をよじる。
「ひっつくな」
 腕で押し返そうとするが、鷹取はそれでも離れようとしない。
「……もう少し、こうさせてください」
 その声は、どこか切実で、震えていた。
 抱きしめられたまま、俺はふと鷹取の顔を見る。閉じられた目蓋の下には、長くて繊細な睫毛が影を落としていた。ごくり、と無意識に喉が鳴った。何気ない仕草ひとつすら、なぜか目を離せなかった。
 意図せず鷹取の唇へ視線が落ちる――形のいい唇は、耐えるように引き結ばれていた。あの唇に触れたときのことを思い出す。予想していたよりも柔らかかった感触が蘇る。
 そのとき、不意に鷹取が目を開け、俺を見上げた。
 途端、心臓が大きく跳ねた。まるで胸の奥を貫かれたような衝撃だった。
 黙ったまま鷹取を見つめる。すると、鷹取はなにを思ったのか、段々と顔を近寄せてくる。やつの視線の先には、俺の唇。早く押しのけないと、と思うのに。どうしてか、拒絶したくなかった。
 ……身体が動かなかった。
 ごくり、と喉が鳴る。逃げろ、と頭のどこかで警鐘が鳴っているのに、心臓はまるで別のリズムを刻んでいた。熱を帯びた鷹取の吐息が肌をなぞる距離まで迫ってきたところで、ようやく俺は我に返った。
「ば、ばか、なにしてんだっ」
 突き飛ばすほどの勢いで肩を押し返すと、鷹取は抵抗せず、そのまま素直に離れた。けれどもその目は、諦めることを知らない犬のように、じっと俺を見据えていた。
「ごめんなさい。でも、青空(そら)くんが拒まないから……」
「いや、拒む暇もなかったわ!」
 心臓がうるさい。脈が耳まで届きそうなほど暴れている。冷静になれ、落ち着け、と自分に言い聞かせるが、頬がじんじんと熱い。
 鷹取はといえば、いつも通りの無表情をほんの少し崩し、どこか申し訳なさそうに目を伏せた。
「……本当は、黙っていようと思ってたんです。こんな気持ち、迷惑だろうし。だけど、さっきの一言が……」
「一言?」
「『もう家族みてえなもんだろ』て。青空(そら)くんが、そう言ってくれたから」
 ああ、しまった。適当に言ったつもりだった。でも、鷹取は一言一句を胸に刻むようなやつだ。そんなやつに、ああいう台詞は効きすぎる。
「だからって、抱きついてくんじゃねえよ」
 気まずさを隠すように視線を逸らすと、鷹取がぽつりと呟く。
「誰かに抱きしめられたの、何年ぶりかも思い出せないんです。温かいですね」
 その言葉は、笑顔と涙の中間みたいな響きで、心にずしんと重くのしかかる。
「……おまえ、今夜は泊まってけ」
 俺の口から、自然とその言葉がこぼれた。自分でも驚くくらい、躊躇いがなかった。鷹取は、驚いたように目を瞬かせる。
「いいんですか?」
「勝手に忍び込んできたやつを追い出せるかよ。みらいが起きたら厄介だしな」
 冗談っぽく言ったつもりだったが、声がうまく笑わなかった。鷹取はゆっくりと頷き、「ありがとう」と小さく呟く。
 俺は鷹取のために押入れから予備の布団を引っ張り出し、ベッドの横に敷いた。
「明日、ちゃんと家に連絡入れろよ。心配してるかもしれねえし」
「……はい」
 返事はあったが、それに従う気があるかは怪しい。けれども、これ以上はなにも言わなかった。
 布団にくるまった鷹取は、天井をじっと見つめながらぽつりと呟いた。
青空(そら)くんがいてくれて、よかった」
 その声はやけに静かで、でも、妙に胸に残った。
 ――そして、夜が明ける。



   ***



 翌朝、母さんがいつもより早く起きて、味噌汁の匂いが台所に広がっていた。俺は眠い目をこすりながらリビングへ向かうと、鷹取がすでに座布団の上に正座していた。その横では、レイが一心不乱に餌を食べていた。
「おはようございます。昨晩は突然の訪問、申し訳ありませんでした」
 母さんとみらいが目を丸くしている。
「え、えっと……鷹取くん? いつの間にうちに来てたの?」
「ちょっと事情があって……」と俺がフォローを入れたが、母さんの眉はすぐに下がる。
「なにかあったの?」
「まあ、ちょっと家出してきたんだってさ。……でも、今日には戻るって」
 母さんは心配そうに鷹取を見つめるが、それ以上追及はしなかった。
「ご飯、食べていきなさい」
「ありがとうございます」
 鷹取が頭を下げる。その姿はどこか健気で、みらいですら「わんわんみたい……」と呟いていた。
 朝食の間も、鷹取は静かだった。口数が少なく、味噌汁を啜る姿は、まるでこの家の空気を壊さないようにしているみたいだった。
 朝食後、鷹取はようやくスマホを取り出し、実家に連絡を入れた。電話の向こうから怒声が漏れ聞こえる。けれども、鷹取は「はい」「はい」と小さく頷くだけで、まるで慣れきっているようだった。
 電話を切ると、彼は苦笑して言った。
「……やっぱり、心配なんかしてなかったみたいです」
「それでも、おまえが元気でいるのを知れたら、少しは違うだろ」
 そう信じたかった。信じてほしかった。
青空(そら)くんは優しいですね」
 それにどう返せばいいか分からず、俺は肩をすくめてみせた。
「いいか。また夜中に来たら、本気で通報するからな」
「じゃあ今度は昼間に来ます」
「いや、そうじゃねえ!」
 冗談を言い合いながら、鷹取は少しだけ笑った。その笑顔は、本当にほんの少しだけ、前の晩よりも柔らかかった。

 午後、駅まで送る道すがら、鷹取が不意に俺の袖をつかんだ。
「……また、つらくなったら来てもいいですか?」
 その問いに、俺は少しだけ間を置いてから答えた。
「勝手に来んな、連絡よこせよ。そしたら追い出したりはしねえ」
 それで十分だろ。そう呟くと、鷹取はまたあの目をした。忠犬のような、まっすぐな、そしてどこか切ない目。
「ありがとう」
 その言葉が、なんだかやけに重く感じたのは――たぶん、あいつが本気でそう思っているからだ。
 電車がホームに滑り込んできて、鷹取が一歩、後ずさるように離れた。
「じゃあ、また明日!」
「……ああ」
 扉が閉まり、車両が遠ざかっていく。その背中が見えなくなったあとも、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(また来るんだろうな、あいつ)
 それがなぜか、少し楽しみになっている自分に気づいて、俺は小さく苦笑した。
 ――なあ、鷹取。おまえは本当に、犬みてえなやつだよ。でも……悪くねえよ。



   ***



 あの夜中、家に忍び込んできた日を境に、鷹取の様子はさらに壊れた。もとより妙な奴ではあったが、最近は俺が少しでも離れようとするたびに大騒ぎをするようになった――
「捨てないでくださいぃ~~!」
 教室の空気が、一瞬で湿っぽくなった。
 休み時間、立ち上がった俺の腕を掴み、鷹取が机の上で泣き喚く。目の縁は赤く、鼻水まじりの嗚咽が止まらない。俺のシャツの袖を握る手には変な力が入っていて、今にも破れそうだ。
 教室中が一瞬ざわついたが、誰も顔を上げない。ちらっと視線を寄越すくらいで、みんなもう慣れていた。「なんだ、また鷹取か」とでも言いたげに、スマホに目を戻す。
「……俺は便所にも行けねえのかよ」
 俺は肩をすくめて隣の席に腰を下ろし、やれやれとため息をつく。机に肘をついたまま、鷹取はなおも鼻を啜り、泣き真似を続けていた。やけに器用な嗚咽のバリエーションに、少し感心すら覚える。
 そのとき、隣の列の女子が振り向いて言った。
「それ、分離不安症じゃない? うちの猫もなったよ。泣き喚いて大変だった」
「は? 猫?」
 思わず聞き返すと、女子は涼しい顔で頷いた。まるで鷹取が人間じゃない前提で話が進んでいる。
「ああ……なんかそれ、聞いたことあんな……」
「ちょっとずつお留守番させるといいらしいよ。最初は五分とかから」
「へえ、サンキューな」
 俺が素直に礼を言うと、女子は苦笑交じりに「しつけ、大変だよねー。ま、ガンバ」と手を振ってくる。
 ――おい、そこの男子生徒一名、普通にペット扱いされてるぞ。
 俺は鷹取に向けて含み笑いを浮かべたが、当の本人はまったく気にすることもなく、真剣だった。
「そ、そんなっ……お留守番なんて……むりです!」
 鷹取が、わかりやすくショックを受けた顔で、首をぶんぶんと横に振る。涙で濡れた頬がきらりと光る。目元は腫れぼったく、潤んだ瞳が俺をひたすら見上げてくる。
「あいにく、俺には連れションする趣味はねえんだよ」
「いいじゃないですか、連れションぐらい! 俺も連れていって‼」
「嫌だっつってんだろ! 離せって!」
「俺も行きますうううう!」
 鷹取が全力で学ランの袖を引く。その細い腕のどこにこんな力があるのか。ミシッと嫌な音がして、俺は慌てて袖を振りほどくと、トイレへダッシュした。
 背後から、「うわああああん!」という絶叫が響く。教室のドアを通り抜け、廊下へ出てもなお、声が追いかけてくるようだった。
 校舎の静かな通路を走り抜けると、曲がり角で担任とすれ違った。聞こえてきた鷹取の奇声に、担任は目を細め、実に満足そうな笑みを浮かべる。
「おー。鷹取、うちに馴染んできたみたいでよかった、よかった」
 ――いや、それでいいのか?
 顔をひくつかせつつも、俺は黙って頭を下げ、すれ違った。今ここで教師にツッコミを入れると、話が長くなる。それに、教師に目をつけられたくはない。
「……やばいっ、漏れる!」
 俺は冷や汗をかきながらトイレへ走った。鷹取のせいで、尿意はもう限界寸前だった。



   ***



 放課後、教室に残っていたのは俺と鷹取だけだった。
 ほとんどの生徒が帰ったあとの教室は、やけに広く、がらんとしている。開け放たれた窓から差し込む西日が、黒板の下を淡く照らし、カーテンが風に揺られてゆらり、ゆらりと舞っていた。窓際の席に座る鷹取の肩に、その光が淡く降り注いでいる。
「それ……書かないのか?」
 俺は、窓辺に腰かけながら、隣の席に座る鷹取に目をやった。彼の机の上には、進路希望票が裏返しのまま置かれている。薄い紙が、微かに風に揺れた。
 けれど、鷹取はそれに目もくれず、ただじっと黙りこくっていた。
「未提出なの、もうおまえだけだぞ。担任に全員分集めろって言われてんだけど」
 指先で進路希望票の角を軽く叩く。だが鷹取は、紙に視線を落としたまま、小さく身じろぎしただけだった。長い前髪の隙間からのぞいた唇が、かすかに震えているのが見える。
「わかってます。でも俺、なにを書けばいいのか、わかんなくて」
 その声は、教室の隅に吸い込まれるようにして、かすれた。まるで、自分の存在が誰にも気づかれないことを望むような、儚い音だった。
「……あれか。親とうまくいってないからか?」
 俺が問うと、鷹取は一瞬間を置いてから、静かに頷いた。その動作さえ、どこか脆い。
 やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。まっすぐな視線が、俺を射抜く。光に透けるような色素の薄い瞳の奥には、戸惑いと、かすかな決意が浮かんでいた。
「俺がどれだけ、青空(そら)くんの飼い犬になれて嬉しかったか……知らないでしょ」
 まさか、そこでそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
 思わず、息が詰まる。
 鷹取の声は、喉の奥でちぎれそうになりながらも、確かに震えていた。
「俺、ずっとひとりで……消えても誰も気づかないって思ってて。でも、青空(そら)くんを知った日から、俺……期待、し始めちゃったんです。思うように生きてもいいのかもしれない、って」
 誰にも望まれなかった生に、ひとしずくの希望を落とされたような――そんな語り方だった。
 気づけば俺は、鷹取の前に立っていた。コツンと机の脚が冷たく脛に当たる。
「おまえ、ほんとバカだな」
 ため息を吐くようにそう言って、鷹取の髪をくしゃりと撫でた。その瞬間、彼の肩がびくんと跳ねる。まるで触れられたことに慣れていない動物のようだった。
「今……撫でました……?」
 鷹取は目を見開き、ゆっくりと俺を見上げた。その瞳には、どこか子どものような戸惑いと、強く縋るような切実さがあった。
 窓の外は、もうすぐ夜に沈もうとしている。教室を染める夕日のオレンジが、鷹取の頬に色を差していた。うっすらと紅潮しているようにも見える。
 そのときだった。
 鷹取が、俺の手をそっと掴んだ。細く、冷たい指先。そしてそのまま、ゆっくりと指を絡めてくる。まるで――恋人みたいに。
「なにすんだよ」
 振りほどこうとした瞬間、鷹取が口を開いた。
「生きかたを選べるなら、俺はずっと青空(そら)くんの飼い犬でいたい」
 その声に、俺は動けなくなった。強くも弱くもない、ただ真っ直ぐな言葉だった。
 繋がった指先から、じんわりと熱が伝わってくる。どくん、と鼓動が鳴る。自分のものか、鷹取のものか、それすらも曖昧だった。
「……」
「もう少し。もう少しでもいいから……俺の飼い主でいてください……」
 消えるような声で呟いた鷹取の手が、俺の袖をきゅっと掴んだ。まるでこの一瞬を、時間ごと閉じ込めてしまいたいかのように。その指は、ひどく細く、儚かった。折れそうで、守りたくなるくらいに。
 カーテンがふわりと揺れ、教室の空気がかすかに香った。チョークの粉と、秋の終わりの冷たい匂い。静かな時間だけが、ふたりを包み込んでいた。
 鷹取の手は、まだ俺の袖を掴んだままだった。頼るような、縋りつくような仕草。不器用で、こんなにも必死に縋られたことが、これまであっただろうか――俺は息を呑んだ。
「……俺」
 鷹取がぽつりと呟いた。その声は風にかき消えそうなくらいか細くて、でも、その語尾には鋭い棘があった。
「家族のこと、あんまり好きじゃないんです」
 聞かれたわけでもないのに、言葉が零れ落ちていく。鷹取は少し顔を伏せて、教室の床の一点をじっと見つめていた。
「親は、俺がなにを好きかなんて一度も聞いてこなかった。父親は外務官僚で、いわゆるエリートってやつで……俺にもその道を歩けって、そればっかで」
 指先に力が入ったのか、掴まれた袖が少しだけ皺になったのがわかった。
「成績も、進路も、友達付き合いまで、全部チェックされてた。引っ越しばっかだから、友達なんてほとんどいなかったのに。俺がどんな音楽聴いてるか、どんな漫画読んでるか。ばれたら全部否定されるから、隠してた」
 言葉のひとつひとつが、胸に鋭く刺さる。
「俺が俺でいることを、許されなかった。親の望む抜け殻のまま、ずっと生きてきた。だから、青空(そら)くんに会ったとき――すごく嬉しかったんです。自由で、まっすぐで、なにかに媚びなくても、笑ってて……俺なんかでも、そばにいたら強くなれるって思えた」
 俺はなにも言えなかった。ただ、こいつの中にどれだけの寂しさと期待が入り交じっていたのかを思うと、軽々しく言葉を投げる気になれなかった。
 けど、ひとつだけ、心の中で強く響いていた。
(俺だって……たいした人間じゃねえ。だけど……)
 鷹取が本当の自分を誰にも認められずに育ってきたのなら――俺くらいは、ちゃんと本当の鷹取を見ていたいと思った。都合のいい存在じゃなく、ひとりの人間として、鷹取自身を。
 そのとき、校内放送のチャイムが鳴った。夕方の終わりを知らせるその音が、やけに遠く胸に響いた。カーテンの揺れが止み、最後の一筋の西日が、黒板の縁をかすめて消えていく。
 明日の気配が、すぐそこまで来ていた。
「帰ろうぜ」
 俺は立ち上がり、鷹取の手をそっと袖から外した。手の温もりが、どこか名残惜しかった。鷹取は少しだけ躊躇ってから、小さく頷いた。
 ガラリと教室の扉を開けると、廊下にはもう誰もいなかった。白い蛍光灯の光がひどく冷たくて、床に落ちる影は長く、ゆっくりとふたりの後ろに伸びていく。並んで歩く俺たちの足音が、やけに響いた。
 階段を降り、昇降口のドアを開けると、外の空気は少し冷えていた。空には夕焼けの残り香が浮かび、沈みきらない陽が雲の端を赤く染めている。
 遠くで電車の音がした。どこか知らない場所へ向かって、誰かが明日に向かっていく。
青空(そら)くん」
 隣で鷹取が呼んだ。
「……ありがとう。俺、ちゃんと……俺自身のまま、生きていける気がする」
 その言葉に、俺はふっと鼻から息を抜いた。なにを守れるわけでもないくせに、なんでこんなに、胸が痛えんだよ。
「ばーか。おまえ、まだ希望票出してねえだろ。明日、絶対書けよ」
「うん」
 鷹取は、小さく笑った。ほんの少し震えてたけど、それでも確かに――鷹取玲らしく、生きていた。
 俺たちは、夕闇に包まれながら、ゆっくりと並んで歩き出した。