レイの通う動物病院の診察室には、いつものように消毒薬のにおいが漂っていた。
 診察台の上、レイが不安げに俺にしがみついてくる。まだ体重三キロにも満たない小さな身体が、震えていた。俺は腕の中で子犬の体温を感じながら、獣医の言葉を反芻する。
「そろそろ、去勢手術をしたほうがいいですね」
 明るく淡々とした声だった。仕事に慣れた医者の、それでいて優しさの滲むトーンだった。
 俺の腕の中、子犬はぶるりと小さく震えた。まるで言葉の意味を理解しているように。ふいに抱いていた温もりの重さが、鋭利な刃物のように現実味を帯びる。俺は無意識にレイの背を撫でていた。
「去勢手術、ですか」
 喉が少し乾いた。分かってはいた。避けられない選択だってことは、頭のどこかでずっと覚悟していたはずだった。
「ええ。手術は強制ではありませんが、将来的な病気のリスクを考えると、やったほうが安心ですよ」
 医者は穏やかに言いながら、レイの喉元をそっと撫でた。
 俺はレイを見下ろす。大きな黒い瞳が、頼るようにこちらを見つめていた。
「きゅーん……」
 情けない声で鳴いたレイの顔が、ふいに小さな子どもと重なった。「嫌だよ、怖いよ」と言っているように聞こえた。
 こいつにとって、なにが一番いいのか。人間の都合じゃなくて、レイにとって。俺は考えた。
 きゅ、と鳴くレイの声が胸に沁みた。
「……やります。お願いします」
 俺は覚悟を込めて言った。撫でる手に力が入る。レイの柔らかい毛並みの下、かすかに鼓動が跳ねていた。俺の決断を察したかのように、レイは小さく身じろぎした。撫でる手に込めたのは、ただの優しさじゃなく、信頼の証だ。おまえを守るためなんだ、と。
 それから術前の血液検査をして、心電図を取って。流れ作業のように準備が進むうちに、目の前の現実がどんどん固まっていくのがわかった。曖昧だった「その日」が、輪郭を持った。
 ――そして、手術当日。
 朝の空気はやけに澄んでいた。桜並木の下を歩く道すがら、レイはずっと無言だった。いつもならリードを見ただけで喜ぶレイも、今日は不安そうに尻尾を巻き込んでいた。
 賢いやつだから、わかっているんだろう。これから、自分になにが起こるのか。
 病院のケージに入れられると、レイは小刻みに震え、尻尾すら動かさなかった。
「じゃあな、レイ。すぐに迎えに来るから……頑張れ」
 病院のケージの中、レイは不安げにこちらを見ていた。つぶらな黒目が、俺を探るようにじっと見てくる。いつもは聞き分けのいい子なのに、今日は名残惜しそうに、金網越しに鼻を寄せてきた。
 俺はケージの柵越しに、レイの頭を撫でる。触れると、ぬくもりの奥で心臓が跳ねるのがわかった。怖いのは、俺のほうかもしれない。
 隣にいた鷹取は、珍しく黙っていた。いつもは意味不明なことばかり言ってるくせに、こういうときは急にシリアスになるのがずるい。
 俺が踵を返しかけたとき、鷹取がぽつりと呟いた。
「……おい」
 低く、落ち着いた声。
 振り返ると、鷹取がまっすぐレイに視線を向けていた。その目は、冗談ひとつない。
「青空くんは俺に任せておけ。……生きて帰って来いよ」
 真顔だった。まるで戦場に送り出す兵士を見送るかのような、妙に重々しい空気があった。
 ――犬相手に、ずいぶんシリアスだな。
 俺は怪訝に思いつつ鷹取を横目で見た。やつはちっともふざけていなかった。真剣だった。
 鷹取はそのままなにも言わず、さっさと病院の廊下を歩き出す。後ろ姿だけ見ると、頼り甲斐があるように見えた。
「意外だな」
 俺が言うと、鷹取は振り向きもせず「はい?」とだけ返す。
「おまえがレイを励ます日が来るなんてさ」
「……まあ、あいつにはムカつきますけど」
 ぶっきらぼうな声。でも、少しだけ眉尻が下がっていた。
「あいつに何かあったら、青空くんが泣いちゃうじゃないですか」
「泣かねーよ!」
 そう言って、思わずやつの頭をどついた。鷹取は「いてっ」と言って頭をさすりながら、ふっと笑った。
 レイは今日一日、病院に預けられ、経過観察のために一泊入院する。わかってはいた。でも、玄関を出た瞬間に、ぽっかりとなにかが抜け落ちたような気がした。
 ――時計の針は、やけにのんびり進んでいるようだった。
 昼飯を食っても、なんとなく味がしない。いつもの散歩の時間になっても、リードは壁にかけられたままだ。いつも一緒だった、小さな足音がない。
 その日の午後、鷹取と駅前のカフェに入った。いつもなら「このドリンクにキャラメルソース追加すると、神ですよ!」とか言い出すくせに、今日は黙ってコーヒーを啜っていた。
「……あいつ、大丈夫ですかね」
 ぼそりと鷹取がつぶやいた。
「大丈夫だって。先生がそう言ってたろ」
 そう言ってみても、鷹取の顔は明るくならなかった。
 ため息をひとつしてから、俺はまた口を開く。
「帰り、病院寄ってくか」
「そうですね……」
 夕方、もう一度病院に寄った。
 病院の照明は相変わらず白く、どこか冷たい。その冷たさが、逆に安心させてくれる気もした。変わらないことの安心。人間って、勝手だ。
 静まり返った診察室の奥。ケージに近づくと、レイは目を細めてこちらを見た。眠そうな、けれどほっとしたような、安心しきった目だ。まだ麻酔が残っているのか、ぐったりとしている。けれど、尻尾が弱々しくもパタパタと左右に揺れた。
 ――ひとまず、大丈夫そうだ。よかった。
 俺はほっと息をついた。
 医者によると、手術は無事に終わり、問題はないという。明日には退院できるらしい。
「よかったな、レイ。明日、迎えに来るからな」
 その声に、レイはゆっくりとまばたきを返した。弱っていても、俺の声は分かるらしい。愛しいという感情が、胸の奥にじんわりと湧いてきた。
「早く……帰ってこいよな。おまえがいないと、張り合いないから」
 不意に、鷹取がまるで独り言みたいに言った。そのとき――
 レイが、鷹取の差し出した指先を、ぺろりと舐めた。
「……っ!」
 鷹取が目を見開く。その驚きように、つい笑ってしまった。
「なんだよ。おまえら、仲良くなってんじゃん」
「ちっ、違いますよ! これは……その、同じ主を持つ者としての激励の言葉に過ぎませんから!」
 必死で言い訳する鷹取を横目に、レイは小さく「くうん」と鳴いた。まるで笑ってるみたいだった。病室の空気が、少しだけ軽くなった気がした。
 帰り道。沈みかけた夕日が、川沿いの道を朱に染めていた。いつもの道なのに、空気が少しだけ違って感じた。子犬がいないだけで、こんなにも静かで、寂しいなんて。
 レイがいて、鷹取がいて。くだらないことで笑ったり怒ったりしてる日常が、思ったよりも俺の生活に根を下ろしていたんだと、実感した。
「おまえさ、意外と……まともだよな」
 歩きながら言うと、鷹取はきょとんとした顔で俺を見る。
「俺は初めからまともですよ?」
「……あーそうかよ」
 笑って、俺は夕方の空気を吸い込んだ。静かな、でもどこか暖かい風だった。
 笑いながら、ふと考える。家に帰っても、玄関にレイがいない。走ってきて、靴下を咥えて逃げるあのイタズラっ子がいない。それだけで、なんだか妙に胸の中が空っぽに感じた。ひとつ欠けただけで、穴があくなんて。
 でも、明日になれば、またあのちっちゃい足音が戻ってくる。またいつもの俺たちに――ふたりと一匹に、戻れる。
 そう思うだけで、ほんの少し、心が温かくなった。



   ***



 翌日。
 午前中いっぱい、不安で落ち着かなかった気持ちを胸に抱えながら、俺は動物病院のガラス扉を押し開けた。中に差し込む春の日差しはやけにまぶしく、待合室に流れるクラシック音楽が、かえって不自然なほど静けさを際立たせていた。
 レイは元気そうだった。
 ケージの中、白い毛並みを震わせてこちらを見つめると、俺と鷹取の姿を認めて立ち上がり、甲高く「わんわん」と鳴いた。尻尾を振る勢いが強すぎて、腰ごと揺れている。まるで「早く帰ろうよ」とせがむように愛嬌を振りまく姿が、おかしくもあり、安心もした。
「真壁さん、先生から注意事項について説明があるので」
「あっ、はい」
 受付スタッフの声に、俺は曖昧に頷いて立ち上がる。
 鷹取には「ちょっと待ってろ」と言い残して診察室へ向かった。背後で彼が小さく「了解」と返す声が聞こえる。
 白を基調とした診察室には、わずかに消毒薬の匂いが漂っていた。レイを抱いたまま医者の話に耳を傾ける。
「手術は無事に終わっています。麻酔の覚めも順調で、今のところ経過に問題はありません。ですが、今日はまだ体調が万全ではないので、あまり興奮させないように」
「わかりました。ありがとうございました」
 俺が頭を下げる間も、腕の中のレイは、じろりと医者を睨んでいた。あのクリクリした瞳でなにを思ってるのか。「また変なことをするんじゃないだろうな」とでも言いたげな、胡乱な視線だ。
 会計を済ませて外へ出ようとすると、不意に違和感が生まれた。いつもなら現れるはずの人影が見えない。
 鷹取が、いない。
「……あれ?」
 俺は病院のエントランスを見回した。周囲には数人の客がいるが、あの長身のシルエットはどこにもなかった。
 そのとき、レイが急に腕の中で吠えた。じたばたと暴れ始めたので、慌てて地面に下ろすと、子犬はくんくんと鼻を鳴らしながら地面を嗅ぎ回り、やがてある一点でぴたりと立ち止まった。
「わん、わんわん!」
 そこに落ちていたのは、黒の革製チョーカー。リングチャームが太陽に照らされて鈍く光っている。
 それは鷹取がいつも首に巻いていたものだった。以前、やつが「首輪が欲しい」なんて騒いだから、レイとお揃いで買って与えたもの。
 ――それが、こんなところに落ちている。
 胸の奥がさっと冷たくなった。
「あいつ、なにかあったのか?」
 鷹取が、なにも言わずに俺の前から消えるなんておかしい。やつは飼い犬を自称するだけあって、律儀な男だ。考えられるとしたら、なにかに巻き込まれた。あるいは、誰かとむりやり会わされたか。
 咄嗟にスマホを取り出し、鷹取の名前をタップして発信する。鼓膜に伝わる呼び出し音が、いつもより長く感じられた。
 ――ぷつっ。
 通話が繋がった。だが、次に耳に届いたのは、聞き慣れた声ではなかった。
『……よお、この間ぶりだなあ? 真壁』
 一瞬、思考が停止する。心臓が跳ねた。
「ッ、おまえ、赤城か!?」
『ピンポーン! 大正解~』
 電話の向こうから、下品な笑い声が響いてくる。赤城の取り巻きたちの声だ。耳がじわりと熱くなった。
『この前は、不完全燃焼だっただろ? だから、再戦といこうや』
「ふざけんな。俺はもう喧嘩なんか――」
『あれれ~? そんなこと言っちゃっていいのかな? おまえの彼氏はここにいるけど?』
 赤城の放ったその言葉に、ゾクリとした。
 それに続いて、ノイズ混じりに聞こえてきた叫び声。
『離せ!』
 鷹取だ。間違いない。少しかすれた声は、押し殺した怒りと苦しさに震えていた。
『彼氏を返してほしけりゃ、今から送る住所に来い』
 ぷつん、と通話が切れる。
 直後、スマホに通知音。赤城から送られてきた位置情報。表示された場所は、市内のはずれにある廃工場跡地だった。
「……クソが」
 無意識に舌打ちが漏れた。
 自分の胸に、冷たい怒りがじわじわと広がっていくのがわかる。
 ――いつか、こうなることはわかっていたはずだった。
 だから俺は、高校に入学してからというもの、誰とも深く関わらずに過ごしてきた。優等生を演じて、愛想笑いを貼りつけ。誰とも本音を交わさず、ただ流れに従って生きてきた。誰かを好きになることも、恨まれることもないように。
 なのに――あいつは、唐突に俺の生活に土足で入り込んできた。
「……ってか、彼氏じゃねえっつの。否定し忘れたじゃねえか……」
 ひとりごちた声が部屋の壁に吸い込まれる。膝の上で丸まっていたレイが、「きゅうん……」と鼻を鳴らした。大きな瞳が、不安げに俺を見上げている。
 レイの背中を撫でてやる。やわらかな毛並みの感触に、少しだけ呼吸が整った。
「大丈夫だ。ちょっと迎えに行くだけだ。すぐ戻る」
 言い残し、俺はドアを開けて駆け出した。
 
 外に出ると、日は暮れ、街はすっかり薄闇に包まれていた。ビルの谷間を抜け、工場跡地へと足を向ける。人影のない敷地は、まるで廃墟のように静まり返っていた。赤錆びたトタンと、雑草の茂った地面が、夜の湿気を吸ってぬめるように沈黙している。
 その沈黙を、薄笑いと足音が破った。
「よお、真壁」
 声がした方を見ると、赤城が鉄骨の陰から現れた。その後ろに、数人の取り巻きたち。スポットライトのように外灯が照らす下、地面に転がる影の中に、縄で縛られた鷹取の姿があった。
 シャツの袖は泥にまみれ、頬の端から血がにじんでいる。だが、それでも彼は俺を見つけると、弱々しく微笑んだ。
「鷹取……!」
 俺は駆け出そうとした。が、すかさず赤城が一歩前に出て、俺の進路をふさぐ。
「おっと、慌てんな。ヒーロー気取りで助けに来たつもりかもしれねえけど、タダで返すわけねーだろ」
 赤城の声は嘲りに満ちていた。俺は睨み返す。
「……離せよ、赤城」
「やだね。身代金、百万円。持ってきたか?」
 背後の取り巻きたちがゲラゲラと下品に笑った。俺は鼻で笑ってやる。
「持ってるわけねーだろ、バーカ」
「おいおい、そんなこと言っていいのかよ? 彼氏がどうなっても知らねえぞ?」
「彼氏じゃねえ!」
 怒鳴った声が、冷たい空気に弾けた。その瞬間、鷹取の肩がぴくりと震える。
 俺はわずかに息を吸い、吐き出すように言った。
「そいつは……俺の飼い犬だ」
 その言葉に、鷹取の目が見開かれる。やがて――まるで救われたかのように、かすかな笑みを浮かべた。
「……チッ。やっちまえ!」
 赤城の号令に、取り巻きたちが動いた。
 空気が一瞬、鋭く切り裂かれた。
 鉄パイプがうなりを上げて振り下ろされる。俺は身を翻して避け、反撃に出た。拳を振るい、顎を撃ち抜く。別のやつの腹を蹴り、もう一人の手からバットを奪って叩きつけた。
 次々と倒れていく取り巻きたち。気づけば、地面に転がる呻き声の山の中に俺は立っていた。
「……なんだよ、弱っちいな」
 汚れた手を払い、俺は肩を竦めた。
 だが――まだ終わっていない。
 赤城が目を血走らせていた。懐から、銀色に光るものを取り出す。折り畳みナイフ。反射する刃先が、俺の喉元を狙って光った。
「危ねっ!」
 俺は横へ跳びのいた。冷たい夜風が、ナイフの軌道を掠めていった。
 赤城の顔は、もはや理性を失った獣のようだった。俺を睨みつけるその目には、憎しみと焦燥が渦巻いている。
「得物を持ち出すとか……恥ずかしくねえのかよ?」
 挑発するように言うと、赤城は唇を歪め、突進してきた。
 ――そして、そのときだった。
 ナイフの刃が、俺の目の前まで迫る。避けきれない。間に合わない。だが、衝撃は来なかった。
 開いた目に映ったのは、俺を庇って立ちふさがる男の背中。
「鷹取⁉」
 いつの間に縄を解いたのか。鷹取は素手でナイフを受け止めていた。赤城の手首を握るその指から、じわりと赤い血が滴る。
青空(そら)くんを……俺の飼い主を傷つけるなんて、許さない」
 その声音は静かだった。だが、まっすぐに向けられた視線には、鋼のような強さが宿っていた。
 鷹取は射抜くような鋭い瞳で赤城を睨み据えた。血の滲んだ指先を構えたまま、一歩も引かない。痛みなど意に介していないその姿に、空気がぴしりと張り詰めた。
 赤城はその目に怯んだのか、舌打ちひとつ。引きつった笑みを浮かべ、目を逸らす。
「……チッ、きょ、今日はこの辺にしといてやるよ……!」
 強がり混じりの声。まるで敗北を自覚しつつも、威厳だけは保とうとしているかのようだった。だが、その口ぶりはどこか情けない。
 転がるようにその場を去っていく赤城の背中を、俺は睨みながら叫んだ。
「なに言ってんだ、次てめえと会ったら警察に通報すっからなー! そのツラ見せんじゃねえぞ!」
 声が闇に吸い込まれていく。辺りは人気のない廃工場跡地、鉄骨の軋む音と、どこか遠くで鳴く野良犬の声だけが響いていた。
 ふと、背中に残る気配に意識を戻す。くるりと振り返ると、鷹取がそこにいた。片膝をつき、左手で右手を押さえながら、わずかに肩で息をしている。口元は笑っていたが、色のない顔色がその笑顔の嘘を物語っていた。
「……おい、大丈夫か?」
 駆け寄って、彼の手をそっとひっくり返す。皮膚がざっくりと裂け、赤黒い血がまだ滲んでいる。だが幸い、深くはなかった。骨までは届いていない。ほっと胸を撫で下ろすと、代わりに怒りが沸騰した。
「ナイフを掴むなんて、なに考えてんだ!」
 思わず声が荒くなる。自分でも驚くほどだった。
「ご、ごめんなさい……」
 鷹取はびくりと肩を震わせ、素直に頭を垂れた。まるで叱られた犬のように、耳を伏せるような仕草で。額には土埃がついていて、戦いの最中にどれだけ這いつくばったかが想像できた。
「相手がアホの赤城だったからよかった。もっとヤバイやつ相手だったら、おまえ死んでたぞ」
 俺の声に苛立ちが混じるのを止められなかった。なのに、鷹取はうっすらと笑みを浮かべて、呟くように言った。
「でも、青空(そら)くんが刺されそうと思ったら、身体が勝手に……」
 その声音には迷いも、後悔もなかった。無謀とも思える行動を、彼は真っ直ぐな目で語る。誰かのために、痛みを引き受けることにためらいがない。俺は思わず目を逸らした。
「赤城に人を刺すような気概はねえんだよ。大人しく捕まっときゃいいのに」
 吐き捨てるように言うと、鷹取は項垂れた。だが、次の瞬間、なにかを思い出したかのように顔を上げ、うっそりと唇の端を持ち上げた。
「……そういえば、さっき俺のこと『飼い犬』って認めましたよね」
「え? あー、そんなこと言ったか」
 あの場で言葉を選ぶ余裕なんてなかった。けれど――。
 鷹取の目が、ぱあっと輝いた。頬に泥がついていても、髪が乱れていても、そこだけは無垢な光を放っていた。
「これはもう、見習い卒業して真・飼い犬として名乗ってもいいってことですよね!?」
 腕も足も傷だらけで、服はボロボロ。唇の端にうっすらと血が滲んでいる。なのに、目だけが無邪気で、子供のように浮かれていた。あれほど危険な目に遭ったあとだというのに。
(なんだよ、それ。アホか)
 そのバカみたいな明るさが、ひどく愛おしく思えた。
 ――こいつは、俺のために命を張ったんだ。
 その現実が、胸にずしりと沈んでいく。気づけば、俺の唇の端もゆっくりとほぐれていた。
「……ああ、いいよ。おまえは俺の飼い犬だ」
 静かに、けれどはっきりと頷いた。
 すると鷹取はその場でぴょんと飛び跳ね、ガッツポーズを空に向かって突き上げた。
「やったあ!」
 廃工場に彼の声がこだまする。誰もいないはずの夜の空間に、二人だけの笑い声が弾けて響いた。
 その瞬間、ふわりと夜風が吹いた。鉄と油のにおいを運びながら、どこか優しい風だった。空を見上げれば、雲の切れ間から星がひとつ、顔を出していた。
 こんな場所で、こんな時間に、こんなやつとバカをやっている。世間から見れば、ろくでもないことばかり。 
 だけど、きっとこの記憶は、一生忘れない。そんな予感がした。
「ほら、さっさと帰って傷の手当てすんぞ!」
「はいっ!」
 鷹取の、傷のついていないほうの手を握った。泥だらけだったが、じんわりと温かかった。
 視線を上げると、幸せそうに見つめ返してくる瞳と、目が合った。