「う……頭いてえ」
目を開けた瞬間、鋭い痛みが頭蓋の内側から突き上げてくる。太陽の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいて、それさえもまぶしくて目を細めた。視界が少し滲んでいる。喉の奥は乾いて引っかかり、関節は金属を仕込まれたかのように重い。悪寒と倦怠感。
これは、たぶん――風邪、だろうな。……最悪だ。
額に手を当てると、掌が触れた瞬間に熱を持っているのがわかった。体の内側にこもった熱が、じわじわと意識を侵食していく。思考は鈍く、何を考えるのも億劫だった。
「青空、私とみらいはもう行くね……ってあんた、どうしたの」
ドアが半開きになって、廊下から母さんが顔を覗かせた。彼女の表情が一瞬で険しくなる。すっと眉間に皺が寄って、まるで何かを見透かすように俺の顔を見つめていた。
「あー……なんか風邪ひいたっぽい」
声がひどく枯れていた。喋るだけで咳が出そうになる。母さんはその言葉を聞いて顔をしかめ、すぐに背後の幼い妹――みらいの手をぎゅっと握った。
「嘘、やだ! みらいに移さないようにしてね? 学校はどうすんの、休む?」
「……いや、行く」
口から出た言葉は、俺自身の意思とは少しズレていた。ただ、習慣のようにそう言ってしまったのだ。だけど――身体はついてこなかった。
ベッドから身体を起こそうとした瞬間、重力が何倍にもなったみたいに腕も足も動かない。視界がぐにゃりと歪み、天井が波打って見える。気づけば、俺はシーツの上に力なく倒れ込んでいた。思っているより熱が出ているようだ。
「なにしてんの! その体調じゃ無理でしょ。あんたは寝てなさい」
母さんの語気が強まる。呆れたような、でも心配を隠しきれない声。
「高校には病欠連絡しとくから。あと、ごはんはリビングにパウチのお粥置いとくね」
「うん……」
「じゃ、行ってきます」
小さなスニーカーの足音と、母さんのヒールの音が遠ざかっていく。玄関のドアが閉じる音がして、それから家の中は静寂に包まれた。ひとりきりになった空間が、やけに広く感じられる。
こうして完全な静けさの中に取り残されるのは、いつぶりだろう。いつもは誰かの声や生活音があった。テレビの音や、みらいの笑い声。今は、時計の針が刻む微かな音と、時折窓から入り込む風の音だけが、空間を支配していた。
喉が渇いているのに、立ち上がる気力もない。枕に沈む頭は、自分のものじゃないみたいに重かった。
――そのとき。
「くぅん……」
扉の向こうから、かすかな爪音と、寂しげな鳴き声が聞こえた。
「……なんだよ、レイ」
声を出すと同時に咳が込み上げる。重い身体をどうにか起こしてドアを開けると、そこにいたのは、我が家の子犬――レイだった。小さな身体を揺らしながらこちらを見上げて、鼻をぴすぴす鳴らしている。
そのまま、ふわりと抱き上げる。レイは前脚を俺の腕にかけて、じっと俺の顔を覗き込んでいた。黒目がちな瞳が、明らかに「心配してるよ」と訴えている。
「一丁前に心配してんのか? 大丈夫だよ」
「……きゅう?」
首を傾げたレイに、思わず笑ってしまう。喉がひりついたけれど、少しだけ心が和らいだ。
「一緒に寝るか」
「わん!」
元気な返事と同時に、レイが俺の胸に顔をうずめる。毛の柔らかい感触と、微かな体温。そんな小さな命に癒されながら、俺は再びベッドに倒れ込んだ。
***
再び目を覚ましたとき、室内の空気は重く、額には汗が滲んでいた。熱はさっきよりも明らかに上がっている。手足は鉛のようにだるく、体温が高いというより、熱に喰われている感覚だ。
壁掛け時計を見ると、針は昼の12時を指していた。
腹が鳴った。そういえば、朝からなにも食べていなかった。
レイはまだ布団の上にいて、俺の動きに気づいて目を細める。
「悪い、起こしたか。おまえは寝てな」
レイの頭を軽く撫で、布団から這い出るようにして立ち上がった。足元がふらつく。頭は鈍く、壁に手をついてようやくバランスを取る。
リビングへ向かう途中、ふわっと香ばしい匂いが鼻を掠めた。出汁の匂いだ。
――誰もいないのに、なんでこんな匂いがするんだ……?
疑問に思いながら足を進めた。すると……。
「……あ!」
突然、明るく響く声が飛んできた。
「青空くん、熱あるのに起きてきちゃダメですよ!」
「なんでいるんだよ!?」
そこにいたのは――鷹取だった。なぜかエプロンまで着けて、完全に“家の人”の顔をしている。他人のくせに。俺は警察に通報するべきなのか、少し迷った。違和感の塊だった。
キッチンからは電子レンジの音が聞こえ、レンジの中では湯気の立った茶碗が静かに蒸気を吐いている。
「いまお粥を持っていきますから、青空くんは寝ていてください」
「いや、だからなんでおまえが――」
「いいから、寝てて!」
ぐいぐいと押し返される。まるで体重差が逆転したかのような強引さで、あっという間に寝室へ押し戻された。
鷹取は羽毛布団を俺の肩までかけ、勝ち誇ったように笑った。
「……そこの犬は全然使えませんねえ。飼い主が寝込んでるのに、することが添い寝だけなんて。怠惰もいいとこですよ!」
「ウ―……わん! わんわん!」
レイが牙を剥いて鷹取に向かって吠えた。毛を逆立てて、尻尾をピンと立てている。鷹取を完全に“敵”認定しているらしい。
「わあ、熱のある青空くんの耳元で吠えるなんて。信じられない!」
芝居がかった声色で、鷹取はレイを指差す。まるで舞台の上の役者のように、表情をくるくると変えながら騒ぎ立てるその様子に、頭痛が倍増した気がした。
――静かに寝かせてくれよ……。
咳がこみ上げる。いつもの俺なら「うるせえ」と一喝していただろう。だが今日は、怒鳴る気力すらない。
俺はレイの背中を撫でながら、目を閉じた。喉が焼けるように痛かった。でも、心の中には、なぜかほんの少しのぬくもりが残っていた。
こんな日にも、誰かがいてくれる――それだけで、ほんの少しだけ、体温が和らぐ気がした。
「……それで? なんでおまえが家にいんだよ。今からでも通報できるぞ」
掠れた声で、ベッドの上から睨みつける。まだ微熱が残る身体に、微妙な重さとだるさがまとわりついていた。
その視線の先で、鷹取はいつものように飄々と笑っていた。手には、湯気の立ち上るレンゲを持ったまま。俺の顔を覗き込んでいる。
「それはですね、今朝、玄関先で青空くんのお母様と鉢合わせまして。『息子の看病をお願いね』と、直々に頼まれたんです!」
「はあ?」
唖然とした。あの母親が、よりにもよってこいつに任せるとは。いや、たぶん笑顔にだまされたんだ。鷹取の顔は詐欺師向きだからな。
「っつーか、おまえも学校休んでどうするよ。担任にキレられんぞ」
薄手の布団をずるりと持ち上げながら言う。枕元に置いたペットボトルの水を一口すすると、乾いた喉に冷たさが沁みていった。
「大丈夫です。俺、成績優秀なので!」
「……成績よくても出席日数には関係ねえだろ」
ぽそりと呟く。
胸を張る鷹取の顔は、どこか自信に満ちていた。けれど、その裏にある“青空くんのために”という気持ちが、透けて見えてしまうのが悔しい。
中学時代の、出席日数ギリギリで担任に怒鳴られた記憶がよみがえる。だからこそ、自分のせいでこいつの出欠に傷がつくのが嫌だった。誰かに借りを作るのは、どうにも苦手だ。
「飼い主の一大事ですよ? こんなとき、飼い犬なら駆けつけないと! 学校の授業なんてどうでもいいですよ」
「よかねーよ」
ため息とともに口に運んだお粥が、予想以上に熱くて、思わず舌を引っ込めた。
「熱っ……!」
その瞬間、するりとレンゲが引き抜かれる。
「貸してください。冷ましてあげますね」
レンゲを持つ鷹取の指先が一瞬だけ震えたように見えた。目を伏せて、丁寧に息を吹きかける姿は、妙に神妙で、普段の彼とはまるで別人だった。
人間なのに飼い犬だと言い張る変人。平然と他人の家に上がり込み、あまつさえ俺のベッドの横に座っている奴。そんな鷹取の顔を、ぼんやりと見つめる。
――改めて見ると、こいつ、やけに整った顔してんな。腹立つ。
高すぎない鼻梁に、優しい形の唇。目元は柔らかく、けれど、どこか芯の通った光を湛えていた。鷹取の中身を知らなければ、キッチン家電の広告塔かなにかだと信じてしまいそうだった。
「青空くん? どうぞ」
差し出されたレンゲ越しに、鷹取が静かに微笑む。口元の端がほんの少し持ち上がったその笑顔に、妙な胸のざわつきを覚えた。
「……あ? あ、うん」
腕を動かすのも面倒だった。ぼんやりとした頭で、鷹取のレンゲを口に含む。米の粒が柔らかく、卵の優しい甘みが、喉の奥へと広がっていく。まるで、子どもの頃に母さんが作ってくれたお粥の味だ。
「青空くん、いつも頑張ってますから。こういうときにしっかり休んでください」
「主人を気遣う犬、ってか」
「そうですよ」
返ってきた声は、思いのほか静かで、深くて――優しかった。
妙な気持ちになる。
「便所」
照れくさい気持ちを隠すように、俺は立ち上がる。
便所に行く。それだけのつもりだった。けれど、熱に浮かされた身体は思った以上に重く、起き上がった瞬間に視界がぐらりと傾いた。足元から血の気が引いていく感覚。脳が身体についてこない。全身がふわりと浮いたように頼りなく、視界の端が白く霞む。重心がどこにあるのかもわからないまま、俺は思わず手すりにすがろうとして空を掴んだ。
「青空くん……!」
慌てたような声がして、すぐに鷹取が俺のほうへ手を伸ばしてくる。その動きは普段の彼からは想像できないほど俊敏だった。焦りが見て取れる表情。だが、その指先が俺の腕に届く前に、身体がふらりと前のめりに崩れる。
椅子の脚がきい、と嫌な音を立てた。次の瞬間には、俺の身体ごと椅子が横倒しになって、視界がぐるりと反転する。倒れ込んだ床の冷たさが、背中を通じてじわじわと伝わってきた。
だが、それよりも先に感じたのは――顔に触れる柔らかな感触。
ふわりとした、けれど確かな温度と弾力。その感触に、脳が処理を止めた。時間が凍ったかのような数秒。身体は仰向けで、なにかが顔に触れている。なにか――誰かが。
目を開けた。
視界いっぱいに飛び込んできたのは、驚くほど間近な鷹取の顔。すぐそこにある切れ長の瞳が、信じられないものを見るようにこちらを凝視している。
――まさか。
視線を少し下げる。そこには。
「……っ!」
鷹取の唇が、俺の唇に触れていた。
事故だ。完全に事故。それ以外の何物でもない。けれど、あまりにもしっかりと重なっていて、それが言い訳のように感じられてしまうほどだった。
「うわあああッ!」
叫ぶように声を上げて跳ね起きる。身体がふわりと浮き、まるで床に置かれていたバネが一気に解放されたかのようだった。後退りしながら距離を取ると、顔が灼けるように熱い。熱のせいなのか、羞恥のせいなのか、もうわからなかった。
鷹取はといえば、床に座り込んだまま、目をまんまるに見開いて、口をぽかんと半開きにしていた。
「い、今のって……」
「犬にでも噛まれたと思え! 忘れろ!」
俺の口から飛び出した台詞に、自分でも頭を抱えたくなる。けれど、今の状況に対処できるまともな言葉なんて、どこにも転がってなかった。
すると鷹取は、突如として顔を真っ赤にし、ぶるぶると震え出した。そして、両手で自分の口元をぎゅっと押さえて――。
「そ、そんなあ……無理ですよ! う、奪われちゃった……」
「キモイ言いかたすんな!」
思わず怒鳴る。だが、それでも彼は目を潤ませてこちらを見つめてくる。その視線はやけに真剣で、どこか芝居がかったような、けれど本気のようでもあった。
「責任取ってください~!」
「なんでだよ!? 事故だっつーの」
じりじりと距離を詰めてくる鷹取に、俺は半身を引きつつ、身構える。だが、熱で力が入らない身体では、まともに抵抗できる気がしなかった。
すると、足元で子犬のレイが「キャン!」と一声吠える。小さな身体を震わせながら、鷹取の足元に飛びかかろうとするが、鷹取はひょいと身を引くだけであっさりとかわしてしまう。
「そうだ! ここで既成事実を作ってしまえば、こっちのものなのでは……?」
「おい、俺はいま病人だぞ! 病人に変なことすんじゃねえ!」
ますます熱くなる顔。頭の中が霞んで、ますます思考がまとまらない。反射的に自分の身体を抱くように腕を回し、防御の構えを取る。
すると、鷹取はふっと笑い、肩をすくめて一歩後ろに下がった。
「……わかってます、冗談ですよ。はいはい、病人はもう寝てくださいねー」
その表情には、どこか照れくさそうな気配があった。普段の余裕たっぷりな態度とは違う、素の少年っぽさが垣間見える。
俺はため息をつきながらベッドに戻り、毛布をめくる。熱はまだ引かず、胸の鼓動も速いままだ。身体は横たわったが、思考は乱れたままで落ち着かない。
視線の端に、ベッドの下へと潜り込んでいく鷹取の姿が映る。やがて彼はそこに横になり、丸くなって寝る体勢をとった。
「なんでおまえが俺の家で、俺の部屋のベッドの下に丸まってんだよ……」
ぼやきつつも、どこかおかしくて笑ってしまう。
子犬のレイも、最初は警戒していたが、徐々にその場に落ち着いたように鷹取の隣に座り込む。こちらをちらりと見てから、しばらくじっと動かない。警戒はまだ解けていないが、興味のほうが勝っているのかもしれない。
やがて、静かな寝息が聞こえてきた。
――鷹取だった。すうすうと規則正しい呼吸をしていて、まるでなにもなかったかのような寝顔をしていた。あどけないその顔に、なんとなく視線が止まる。
「……なんでこいつがいるのが自然みたいになってんだ」
呟きながら、ベッドから手を伸ばして毛布を一枚取り上げる。
そっと、彼の肩にかけた。鷹取の髪に触れた指先が、ふわりとした感触に包まれる。横顔を見た途端、先ほどの“事故”が頭をよぎる。
胸の奥が、きゅうっと疼いた。喉が渇いたような気がして、ごくりと唾を飲み込む。慌てて毛布を離し、布団の中へ潜り込む。
――なんなんだ、あいつ。
迷惑なやつだ。押しかけてきて、寝込みを襲って、キスまでして。けれど……。
隣で寝息を立てている鷹取を見ていると、不思議と怒る気にはなれなかった。
俺は目を閉じ、深く息を吸う。毛布の中、まだ胸の奥がかすかに熱を持っていた。
***
夕方、暮れかけた光がカーテン越しに部屋へ差し込む。うっすらと金色を帯びた柔らかな光が、俺の寝転ぶ布団の縁を淡く染めていた。
その穏やかな空気を破るように、階下から「ただいまー!」という甲高い声が響いた。
みらいのパタパタとした足音が、まるで子猫の駆け足みたいに軽やかに近づいてくる。そして勢いよく俺の部屋のドアが開かれた。
「にいに、かじぇだいじょうぶー?」
顔を覗かせたみらいの目が、心配げに揺れている。その手には、どこからか摘んできたのか、小さなクローバーが握られていた。
「おう、にいには平気だから。みらいは向こう行ってな。移っちまう」
わざとぶっきらぼうに言うと、みらいはこくりと素直に頷いた。けれどそのとき、部屋の奥に座っている鷹取の姿に気づき、「あっ」と小さな声を漏らした。
瞬間、みらいの顔が茹でたてのエビみたいに真っ赤に染まる。目をぱちぱちさせながら、ドアの陰に身を隠すようにして、ちらりと鷹取を見上げていた。
「みらいちゃん、こんにちは」
鷹取はにっこりと優しく微笑んだ。その笑顔は無意識のうちに人を虜にする破壊力があって、まるで春の陽だまりのように柔らかい。
「……うん……」
みらいは恥ずかしそうに頷いたかと思うと、足早にリビングへ逃げるように駆けていった。彼女の小さな背中が見えなくなったドアの向こうで、どたどたと床を鳴らす音が聞こえた。
「みらいのやつ、完全におまえの顔面にやられてんじゃねーか。……鷹取、うちの妹を誘惑してんじゃねえよ」
「へ、誘惑? してませんよ、そんな。滅相もない!」
鷹取は両手をぶんぶん振って否定する。けれどその仕草がまた妙に可愛げがあって、ますます腹が立つ。
「はあー……」
俺はわざとらしく、どでかいため息をついた。こいつ、自分の顔面偏差値の高さをちっとも自覚してないな……。
軽く文句をぶつけてやろうと口を開いた、そのとき――。
「鷹取くん、よかったら夕ご飯食べていって! 今日のお礼したいから」
母さんが不意にドアを開けて、顔を覗かせてきた。エプロン姿のまま、にこにこと人懐っこい笑みを浮かべている。
「え、いいんですかっ?」
鷹取はぱっと顔を輝かせた。瞳が文字通りきらきらと光を湛える。
「もちろん。あ、おうちの人がダメって言うかな?」
「……うちに帰っても誰もいないんで。平気ですよ」
その声色には、ほんのひとかけら、寂しさが混じっていた。けれど鷹取はすぐに笑みを取り戻して、「ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。
母さんは気にも留めず、「あっそう? ならよかった」とにこやかに笑った。
リビングに移り、カレーの香りが湯気とともに部屋中に広がっていく。みらいも嬉しそうに椅子によじ登っている。テーブルには湯気を立てた甘口のカレーライス。リンゴと蜂蜜の香りが、どこか懐かしい。
鷹取は座るなり、目を丸くして「わっ、すっごい美味しそう!」と声を上げた。スプーンを手にとり、ひとくち口に運ぶと、頬がふにゃあと緩む。笑った目が糸みたいに細くなっていた。
「おい、鷹取。ここにいるの当然、みたいな顔してっけどさ。おまえ、赤の他人だからな?」
「え? 俺、青空くんの犬なのに?」
「バッ……! 母さんとみらいの前でふざけたこと抜かすんじゃねえ。殴るぞ」
俺は思わずスプーンを握り直し、やや前屈みに振り翳した。
「わあ、怖い~!」
「にいに、おこっちゃ、め!」
鷹取の芝居がかった怯え顔に、みらいが口をとがらせて抗議してきた。その様子が可笑しくて、思わず喉の奥で笑ってしまう。
「鷹取くん、うちの青空がいつも迷惑かけてない? この子、血の気が多いからさ」
母さんが鷹取に訊く。
――迷惑かけられてんのは俺のほうだって。
俺はスプーンをテーブルに置いて、心の中で突っ込んだ。そう言ってやりたかったが、鷹取の普段の奇行をわざわざ母さんに伝えるのも、なんだか憚られた。
「青空くんはとっても優しくて、頼りになりますよ!」
鷹取は満面の笑みでそう言った。その表情に、まったく嘘がないのがまた腹立たしい。
「……俺、親が転勤族なので、転校してばっかだったんですけど。青空くんに出逢って、初めてちゃんとした学校生活を送れてます」
「あらー、そうなの」
母さんは感心したように何度も頷いていた。
俺は箸を止め、鷹取の言葉を思い返した。普段の鷹取の様子――俺の行く先々をついて回る鷹取。首輪がほしいと公共の場で駄々をこねる鷹取。子犬と同等に争う鷹取……。どう考えても『ちゃんとした』生活ではない。だが、転校ばかりだった鷹取にとっては、誰かと繋がれることそのものが、特別だったのかもしれない。
「ご両親、転勤が多いと大変でしょうねえ」
「まあ、そうかもしれません」
鷹取の表情が、ふと翳る。どこか遠くを見るように、視線が宙を彷徨った。
「でも、転勤のたびに息子を連れてくなんて、よっぽど愛されてるんじゃない?」
その一言に、鷹取の肩がわずかに揺れた。スプーンを持つ手が、皿の上で止まる。視線は下を向き、なにかを耐えるように唇を噛み締めている。
「愛されてなんて……いないですよ」
鷹取は自嘲するように呟く。口元が歪む。笑っているのに、それは泣きたいのをごまかすための表情だった。
「あの人たちにとって、俺は付属品でしかないです。金持ちは犬を飼って、どこにでも連れていくでしょう? あれと同じです。俺はあの人たちに飼われてる犬なんです。反抗もできず、ただ餌を与えられるだけの……」
「鷹取、おまえ……」
胸の奥に、少しだけ重いものが残った。
鷹取がやけに「飼い犬」に拘る理由。深く考えてみたことなんてなかったが、『飼い犬』発言の裏に、そんな過去があったのかと思った。鷹取の本心が、少し垣間見えた気がした。
「でも、もういいんです。今は青空くんっていう素晴らしい飼い主に巡り合えましたから! 初めて会ったときに思ったんです……この人なら、ちゃんと『家族として』飼ってくれる! って。予想通りでした」
「あらま、そうなの。泣けるわね~」
母さんが感極まったように目頭を押さえる。その隣で、鷹取も目を潤ませていた。
俺は、聞き流していた会話の内容がどこかおかしなことに気づき、声を上げた。
「……ん? 待てよ、なんかナチュラルにおまえが俺の飼い犬ってこと知られてねえか?」
「うん。だって、今朝会ったときに『青空くんに飼われてます! 鷹取です!』って伝えてるもん」
「人の親になに吹き込んでんだ、てめえええええーッ‼」
怒鳴った瞬間、喉に痛みが走って、激しく咳き込む。すぐに鷹取が水の入ったコップを差し出してきた。
「あーほら、まだ風邪治ってないのに大声出すから」
やれやれとでも言いたげな顔。俺は水を飲み干しながら、咳の合間に睨んでやった。
鷹取を小突こうと手を伸ばしかけたところで、「コラっ」と母さんの平手が俺の頭を叩いた。
「鷹取くんはいろいろと苦労してんのよ。飼ってあげるくらい、いいでしょうが」
「母さんもなに言ってんだ!」
「まあまあ。犬だろうと人間だろうと、どっちでもいいけどさ。鷹取くん、いつでもうちに来て。もうあなたはここの家族の一員みたいなものよ」
「お義母様……!」
鷹取は感激したように涙ぐんだ。
「人の母親をお義母様呼びしてんじゃねえええーっ‼」
俺の擦れた絶叫が、ご近所中に響き渡った。
目を開けた瞬間、鋭い痛みが頭蓋の内側から突き上げてくる。太陽の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいて、それさえもまぶしくて目を細めた。視界が少し滲んでいる。喉の奥は乾いて引っかかり、関節は金属を仕込まれたかのように重い。悪寒と倦怠感。
これは、たぶん――風邪、だろうな。……最悪だ。
額に手を当てると、掌が触れた瞬間に熱を持っているのがわかった。体の内側にこもった熱が、じわじわと意識を侵食していく。思考は鈍く、何を考えるのも億劫だった。
「青空、私とみらいはもう行くね……ってあんた、どうしたの」
ドアが半開きになって、廊下から母さんが顔を覗かせた。彼女の表情が一瞬で険しくなる。すっと眉間に皺が寄って、まるで何かを見透かすように俺の顔を見つめていた。
「あー……なんか風邪ひいたっぽい」
声がひどく枯れていた。喋るだけで咳が出そうになる。母さんはその言葉を聞いて顔をしかめ、すぐに背後の幼い妹――みらいの手をぎゅっと握った。
「嘘、やだ! みらいに移さないようにしてね? 学校はどうすんの、休む?」
「……いや、行く」
口から出た言葉は、俺自身の意思とは少しズレていた。ただ、習慣のようにそう言ってしまったのだ。だけど――身体はついてこなかった。
ベッドから身体を起こそうとした瞬間、重力が何倍にもなったみたいに腕も足も動かない。視界がぐにゃりと歪み、天井が波打って見える。気づけば、俺はシーツの上に力なく倒れ込んでいた。思っているより熱が出ているようだ。
「なにしてんの! その体調じゃ無理でしょ。あんたは寝てなさい」
母さんの語気が強まる。呆れたような、でも心配を隠しきれない声。
「高校には病欠連絡しとくから。あと、ごはんはリビングにパウチのお粥置いとくね」
「うん……」
「じゃ、行ってきます」
小さなスニーカーの足音と、母さんのヒールの音が遠ざかっていく。玄関のドアが閉じる音がして、それから家の中は静寂に包まれた。ひとりきりになった空間が、やけに広く感じられる。
こうして完全な静けさの中に取り残されるのは、いつぶりだろう。いつもは誰かの声や生活音があった。テレビの音や、みらいの笑い声。今は、時計の針が刻む微かな音と、時折窓から入り込む風の音だけが、空間を支配していた。
喉が渇いているのに、立ち上がる気力もない。枕に沈む頭は、自分のものじゃないみたいに重かった。
――そのとき。
「くぅん……」
扉の向こうから、かすかな爪音と、寂しげな鳴き声が聞こえた。
「……なんだよ、レイ」
声を出すと同時に咳が込み上げる。重い身体をどうにか起こしてドアを開けると、そこにいたのは、我が家の子犬――レイだった。小さな身体を揺らしながらこちらを見上げて、鼻をぴすぴす鳴らしている。
そのまま、ふわりと抱き上げる。レイは前脚を俺の腕にかけて、じっと俺の顔を覗き込んでいた。黒目がちな瞳が、明らかに「心配してるよ」と訴えている。
「一丁前に心配してんのか? 大丈夫だよ」
「……きゅう?」
首を傾げたレイに、思わず笑ってしまう。喉がひりついたけれど、少しだけ心が和らいだ。
「一緒に寝るか」
「わん!」
元気な返事と同時に、レイが俺の胸に顔をうずめる。毛の柔らかい感触と、微かな体温。そんな小さな命に癒されながら、俺は再びベッドに倒れ込んだ。
***
再び目を覚ましたとき、室内の空気は重く、額には汗が滲んでいた。熱はさっきよりも明らかに上がっている。手足は鉛のようにだるく、体温が高いというより、熱に喰われている感覚だ。
壁掛け時計を見ると、針は昼の12時を指していた。
腹が鳴った。そういえば、朝からなにも食べていなかった。
レイはまだ布団の上にいて、俺の動きに気づいて目を細める。
「悪い、起こしたか。おまえは寝てな」
レイの頭を軽く撫で、布団から這い出るようにして立ち上がった。足元がふらつく。頭は鈍く、壁に手をついてようやくバランスを取る。
リビングへ向かう途中、ふわっと香ばしい匂いが鼻を掠めた。出汁の匂いだ。
――誰もいないのに、なんでこんな匂いがするんだ……?
疑問に思いながら足を進めた。すると……。
「……あ!」
突然、明るく響く声が飛んできた。
「青空くん、熱あるのに起きてきちゃダメですよ!」
「なんでいるんだよ!?」
そこにいたのは――鷹取だった。なぜかエプロンまで着けて、完全に“家の人”の顔をしている。他人のくせに。俺は警察に通報するべきなのか、少し迷った。違和感の塊だった。
キッチンからは電子レンジの音が聞こえ、レンジの中では湯気の立った茶碗が静かに蒸気を吐いている。
「いまお粥を持っていきますから、青空くんは寝ていてください」
「いや、だからなんでおまえが――」
「いいから、寝てて!」
ぐいぐいと押し返される。まるで体重差が逆転したかのような強引さで、あっという間に寝室へ押し戻された。
鷹取は羽毛布団を俺の肩までかけ、勝ち誇ったように笑った。
「……そこの犬は全然使えませんねえ。飼い主が寝込んでるのに、することが添い寝だけなんて。怠惰もいいとこですよ!」
「ウ―……わん! わんわん!」
レイが牙を剥いて鷹取に向かって吠えた。毛を逆立てて、尻尾をピンと立てている。鷹取を完全に“敵”認定しているらしい。
「わあ、熱のある青空くんの耳元で吠えるなんて。信じられない!」
芝居がかった声色で、鷹取はレイを指差す。まるで舞台の上の役者のように、表情をくるくると変えながら騒ぎ立てるその様子に、頭痛が倍増した気がした。
――静かに寝かせてくれよ……。
咳がこみ上げる。いつもの俺なら「うるせえ」と一喝していただろう。だが今日は、怒鳴る気力すらない。
俺はレイの背中を撫でながら、目を閉じた。喉が焼けるように痛かった。でも、心の中には、なぜかほんの少しのぬくもりが残っていた。
こんな日にも、誰かがいてくれる――それだけで、ほんの少しだけ、体温が和らぐ気がした。
「……それで? なんでおまえが家にいんだよ。今からでも通報できるぞ」
掠れた声で、ベッドの上から睨みつける。まだ微熱が残る身体に、微妙な重さとだるさがまとわりついていた。
その視線の先で、鷹取はいつものように飄々と笑っていた。手には、湯気の立ち上るレンゲを持ったまま。俺の顔を覗き込んでいる。
「それはですね、今朝、玄関先で青空くんのお母様と鉢合わせまして。『息子の看病をお願いね』と、直々に頼まれたんです!」
「はあ?」
唖然とした。あの母親が、よりにもよってこいつに任せるとは。いや、たぶん笑顔にだまされたんだ。鷹取の顔は詐欺師向きだからな。
「っつーか、おまえも学校休んでどうするよ。担任にキレられんぞ」
薄手の布団をずるりと持ち上げながら言う。枕元に置いたペットボトルの水を一口すすると、乾いた喉に冷たさが沁みていった。
「大丈夫です。俺、成績優秀なので!」
「……成績よくても出席日数には関係ねえだろ」
ぽそりと呟く。
胸を張る鷹取の顔は、どこか自信に満ちていた。けれど、その裏にある“青空くんのために”という気持ちが、透けて見えてしまうのが悔しい。
中学時代の、出席日数ギリギリで担任に怒鳴られた記憶がよみがえる。だからこそ、自分のせいでこいつの出欠に傷がつくのが嫌だった。誰かに借りを作るのは、どうにも苦手だ。
「飼い主の一大事ですよ? こんなとき、飼い犬なら駆けつけないと! 学校の授業なんてどうでもいいですよ」
「よかねーよ」
ため息とともに口に運んだお粥が、予想以上に熱くて、思わず舌を引っ込めた。
「熱っ……!」
その瞬間、するりとレンゲが引き抜かれる。
「貸してください。冷ましてあげますね」
レンゲを持つ鷹取の指先が一瞬だけ震えたように見えた。目を伏せて、丁寧に息を吹きかける姿は、妙に神妙で、普段の彼とはまるで別人だった。
人間なのに飼い犬だと言い張る変人。平然と他人の家に上がり込み、あまつさえ俺のベッドの横に座っている奴。そんな鷹取の顔を、ぼんやりと見つめる。
――改めて見ると、こいつ、やけに整った顔してんな。腹立つ。
高すぎない鼻梁に、優しい形の唇。目元は柔らかく、けれど、どこか芯の通った光を湛えていた。鷹取の中身を知らなければ、キッチン家電の広告塔かなにかだと信じてしまいそうだった。
「青空くん? どうぞ」
差し出されたレンゲ越しに、鷹取が静かに微笑む。口元の端がほんの少し持ち上がったその笑顔に、妙な胸のざわつきを覚えた。
「……あ? あ、うん」
腕を動かすのも面倒だった。ぼんやりとした頭で、鷹取のレンゲを口に含む。米の粒が柔らかく、卵の優しい甘みが、喉の奥へと広がっていく。まるで、子どもの頃に母さんが作ってくれたお粥の味だ。
「青空くん、いつも頑張ってますから。こういうときにしっかり休んでください」
「主人を気遣う犬、ってか」
「そうですよ」
返ってきた声は、思いのほか静かで、深くて――優しかった。
妙な気持ちになる。
「便所」
照れくさい気持ちを隠すように、俺は立ち上がる。
便所に行く。それだけのつもりだった。けれど、熱に浮かされた身体は思った以上に重く、起き上がった瞬間に視界がぐらりと傾いた。足元から血の気が引いていく感覚。脳が身体についてこない。全身がふわりと浮いたように頼りなく、視界の端が白く霞む。重心がどこにあるのかもわからないまま、俺は思わず手すりにすがろうとして空を掴んだ。
「青空くん……!」
慌てたような声がして、すぐに鷹取が俺のほうへ手を伸ばしてくる。その動きは普段の彼からは想像できないほど俊敏だった。焦りが見て取れる表情。だが、その指先が俺の腕に届く前に、身体がふらりと前のめりに崩れる。
椅子の脚がきい、と嫌な音を立てた。次の瞬間には、俺の身体ごと椅子が横倒しになって、視界がぐるりと反転する。倒れ込んだ床の冷たさが、背中を通じてじわじわと伝わってきた。
だが、それよりも先に感じたのは――顔に触れる柔らかな感触。
ふわりとした、けれど確かな温度と弾力。その感触に、脳が処理を止めた。時間が凍ったかのような数秒。身体は仰向けで、なにかが顔に触れている。なにか――誰かが。
目を開けた。
視界いっぱいに飛び込んできたのは、驚くほど間近な鷹取の顔。すぐそこにある切れ長の瞳が、信じられないものを見るようにこちらを凝視している。
――まさか。
視線を少し下げる。そこには。
「……っ!」
鷹取の唇が、俺の唇に触れていた。
事故だ。完全に事故。それ以外の何物でもない。けれど、あまりにもしっかりと重なっていて、それが言い訳のように感じられてしまうほどだった。
「うわあああッ!」
叫ぶように声を上げて跳ね起きる。身体がふわりと浮き、まるで床に置かれていたバネが一気に解放されたかのようだった。後退りしながら距離を取ると、顔が灼けるように熱い。熱のせいなのか、羞恥のせいなのか、もうわからなかった。
鷹取はといえば、床に座り込んだまま、目をまんまるに見開いて、口をぽかんと半開きにしていた。
「い、今のって……」
「犬にでも噛まれたと思え! 忘れろ!」
俺の口から飛び出した台詞に、自分でも頭を抱えたくなる。けれど、今の状況に対処できるまともな言葉なんて、どこにも転がってなかった。
すると鷹取は、突如として顔を真っ赤にし、ぶるぶると震え出した。そして、両手で自分の口元をぎゅっと押さえて――。
「そ、そんなあ……無理ですよ! う、奪われちゃった……」
「キモイ言いかたすんな!」
思わず怒鳴る。だが、それでも彼は目を潤ませてこちらを見つめてくる。その視線はやけに真剣で、どこか芝居がかったような、けれど本気のようでもあった。
「責任取ってください~!」
「なんでだよ!? 事故だっつーの」
じりじりと距離を詰めてくる鷹取に、俺は半身を引きつつ、身構える。だが、熱で力が入らない身体では、まともに抵抗できる気がしなかった。
すると、足元で子犬のレイが「キャン!」と一声吠える。小さな身体を震わせながら、鷹取の足元に飛びかかろうとするが、鷹取はひょいと身を引くだけであっさりとかわしてしまう。
「そうだ! ここで既成事実を作ってしまえば、こっちのものなのでは……?」
「おい、俺はいま病人だぞ! 病人に変なことすんじゃねえ!」
ますます熱くなる顔。頭の中が霞んで、ますます思考がまとまらない。反射的に自分の身体を抱くように腕を回し、防御の構えを取る。
すると、鷹取はふっと笑い、肩をすくめて一歩後ろに下がった。
「……わかってます、冗談ですよ。はいはい、病人はもう寝てくださいねー」
その表情には、どこか照れくさそうな気配があった。普段の余裕たっぷりな態度とは違う、素の少年っぽさが垣間見える。
俺はため息をつきながらベッドに戻り、毛布をめくる。熱はまだ引かず、胸の鼓動も速いままだ。身体は横たわったが、思考は乱れたままで落ち着かない。
視線の端に、ベッドの下へと潜り込んでいく鷹取の姿が映る。やがて彼はそこに横になり、丸くなって寝る体勢をとった。
「なんでおまえが俺の家で、俺の部屋のベッドの下に丸まってんだよ……」
ぼやきつつも、どこかおかしくて笑ってしまう。
子犬のレイも、最初は警戒していたが、徐々にその場に落ち着いたように鷹取の隣に座り込む。こちらをちらりと見てから、しばらくじっと動かない。警戒はまだ解けていないが、興味のほうが勝っているのかもしれない。
やがて、静かな寝息が聞こえてきた。
――鷹取だった。すうすうと規則正しい呼吸をしていて、まるでなにもなかったかのような寝顔をしていた。あどけないその顔に、なんとなく視線が止まる。
「……なんでこいつがいるのが自然みたいになってんだ」
呟きながら、ベッドから手を伸ばして毛布を一枚取り上げる。
そっと、彼の肩にかけた。鷹取の髪に触れた指先が、ふわりとした感触に包まれる。横顔を見た途端、先ほどの“事故”が頭をよぎる。
胸の奥が、きゅうっと疼いた。喉が渇いたような気がして、ごくりと唾を飲み込む。慌てて毛布を離し、布団の中へ潜り込む。
――なんなんだ、あいつ。
迷惑なやつだ。押しかけてきて、寝込みを襲って、キスまでして。けれど……。
隣で寝息を立てている鷹取を見ていると、不思議と怒る気にはなれなかった。
俺は目を閉じ、深く息を吸う。毛布の中、まだ胸の奥がかすかに熱を持っていた。
***
夕方、暮れかけた光がカーテン越しに部屋へ差し込む。うっすらと金色を帯びた柔らかな光が、俺の寝転ぶ布団の縁を淡く染めていた。
その穏やかな空気を破るように、階下から「ただいまー!」という甲高い声が響いた。
みらいのパタパタとした足音が、まるで子猫の駆け足みたいに軽やかに近づいてくる。そして勢いよく俺の部屋のドアが開かれた。
「にいに、かじぇだいじょうぶー?」
顔を覗かせたみらいの目が、心配げに揺れている。その手には、どこからか摘んできたのか、小さなクローバーが握られていた。
「おう、にいには平気だから。みらいは向こう行ってな。移っちまう」
わざとぶっきらぼうに言うと、みらいはこくりと素直に頷いた。けれどそのとき、部屋の奥に座っている鷹取の姿に気づき、「あっ」と小さな声を漏らした。
瞬間、みらいの顔が茹でたてのエビみたいに真っ赤に染まる。目をぱちぱちさせながら、ドアの陰に身を隠すようにして、ちらりと鷹取を見上げていた。
「みらいちゃん、こんにちは」
鷹取はにっこりと優しく微笑んだ。その笑顔は無意識のうちに人を虜にする破壊力があって、まるで春の陽だまりのように柔らかい。
「……うん……」
みらいは恥ずかしそうに頷いたかと思うと、足早にリビングへ逃げるように駆けていった。彼女の小さな背中が見えなくなったドアの向こうで、どたどたと床を鳴らす音が聞こえた。
「みらいのやつ、完全におまえの顔面にやられてんじゃねーか。……鷹取、うちの妹を誘惑してんじゃねえよ」
「へ、誘惑? してませんよ、そんな。滅相もない!」
鷹取は両手をぶんぶん振って否定する。けれどその仕草がまた妙に可愛げがあって、ますます腹が立つ。
「はあー……」
俺はわざとらしく、どでかいため息をついた。こいつ、自分の顔面偏差値の高さをちっとも自覚してないな……。
軽く文句をぶつけてやろうと口を開いた、そのとき――。
「鷹取くん、よかったら夕ご飯食べていって! 今日のお礼したいから」
母さんが不意にドアを開けて、顔を覗かせてきた。エプロン姿のまま、にこにこと人懐っこい笑みを浮かべている。
「え、いいんですかっ?」
鷹取はぱっと顔を輝かせた。瞳が文字通りきらきらと光を湛える。
「もちろん。あ、おうちの人がダメって言うかな?」
「……うちに帰っても誰もいないんで。平気ですよ」
その声色には、ほんのひとかけら、寂しさが混じっていた。けれど鷹取はすぐに笑みを取り戻して、「ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。
母さんは気にも留めず、「あっそう? ならよかった」とにこやかに笑った。
リビングに移り、カレーの香りが湯気とともに部屋中に広がっていく。みらいも嬉しそうに椅子によじ登っている。テーブルには湯気を立てた甘口のカレーライス。リンゴと蜂蜜の香りが、どこか懐かしい。
鷹取は座るなり、目を丸くして「わっ、すっごい美味しそう!」と声を上げた。スプーンを手にとり、ひとくち口に運ぶと、頬がふにゃあと緩む。笑った目が糸みたいに細くなっていた。
「おい、鷹取。ここにいるの当然、みたいな顔してっけどさ。おまえ、赤の他人だからな?」
「え? 俺、青空くんの犬なのに?」
「バッ……! 母さんとみらいの前でふざけたこと抜かすんじゃねえ。殴るぞ」
俺は思わずスプーンを握り直し、やや前屈みに振り翳した。
「わあ、怖い~!」
「にいに、おこっちゃ、め!」
鷹取の芝居がかった怯え顔に、みらいが口をとがらせて抗議してきた。その様子が可笑しくて、思わず喉の奥で笑ってしまう。
「鷹取くん、うちの青空がいつも迷惑かけてない? この子、血の気が多いからさ」
母さんが鷹取に訊く。
――迷惑かけられてんのは俺のほうだって。
俺はスプーンをテーブルに置いて、心の中で突っ込んだ。そう言ってやりたかったが、鷹取の普段の奇行をわざわざ母さんに伝えるのも、なんだか憚られた。
「青空くんはとっても優しくて、頼りになりますよ!」
鷹取は満面の笑みでそう言った。その表情に、まったく嘘がないのがまた腹立たしい。
「……俺、親が転勤族なので、転校してばっかだったんですけど。青空くんに出逢って、初めてちゃんとした学校生活を送れてます」
「あらー、そうなの」
母さんは感心したように何度も頷いていた。
俺は箸を止め、鷹取の言葉を思い返した。普段の鷹取の様子――俺の行く先々をついて回る鷹取。首輪がほしいと公共の場で駄々をこねる鷹取。子犬と同等に争う鷹取……。どう考えても『ちゃんとした』生活ではない。だが、転校ばかりだった鷹取にとっては、誰かと繋がれることそのものが、特別だったのかもしれない。
「ご両親、転勤が多いと大変でしょうねえ」
「まあ、そうかもしれません」
鷹取の表情が、ふと翳る。どこか遠くを見るように、視線が宙を彷徨った。
「でも、転勤のたびに息子を連れてくなんて、よっぽど愛されてるんじゃない?」
その一言に、鷹取の肩がわずかに揺れた。スプーンを持つ手が、皿の上で止まる。視線は下を向き、なにかを耐えるように唇を噛み締めている。
「愛されてなんて……いないですよ」
鷹取は自嘲するように呟く。口元が歪む。笑っているのに、それは泣きたいのをごまかすための表情だった。
「あの人たちにとって、俺は付属品でしかないです。金持ちは犬を飼って、どこにでも連れていくでしょう? あれと同じです。俺はあの人たちに飼われてる犬なんです。反抗もできず、ただ餌を与えられるだけの……」
「鷹取、おまえ……」
胸の奥に、少しだけ重いものが残った。
鷹取がやけに「飼い犬」に拘る理由。深く考えてみたことなんてなかったが、『飼い犬』発言の裏に、そんな過去があったのかと思った。鷹取の本心が、少し垣間見えた気がした。
「でも、もういいんです。今は青空くんっていう素晴らしい飼い主に巡り合えましたから! 初めて会ったときに思ったんです……この人なら、ちゃんと『家族として』飼ってくれる! って。予想通りでした」
「あらま、そうなの。泣けるわね~」
母さんが感極まったように目頭を押さえる。その隣で、鷹取も目を潤ませていた。
俺は、聞き流していた会話の内容がどこかおかしなことに気づき、声を上げた。
「……ん? 待てよ、なんかナチュラルにおまえが俺の飼い犬ってこと知られてねえか?」
「うん。だって、今朝会ったときに『青空くんに飼われてます! 鷹取です!』って伝えてるもん」
「人の親になに吹き込んでんだ、てめえええええーッ‼」
怒鳴った瞬間、喉に痛みが走って、激しく咳き込む。すぐに鷹取が水の入ったコップを差し出してきた。
「あーほら、まだ風邪治ってないのに大声出すから」
やれやれとでも言いたげな顔。俺は水を飲み干しながら、咳の合間に睨んでやった。
鷹取を小突こうと手を伸ばしかけたところで、「コラっ」と母さんの平手が俺の頭を叩いた。
「鷹取くんはいろいろと苦労してんのよ。飼ってあげるくらい、いいでしょうが」
「母さんもなに言ってんだ!」
「まあまあ。犬だろうと人間だろうと、どっちでもいいけどさ。鷹取くん、いつでもうちに来て。もうあなたはここの家族の一員みたいなものよ」
「お義母様……!」
鷹取は感激したように涙ぐんだ。
「人の母親をお義母様呼びしてんじゃねえええーっ‼」
俺の擦れた絶叫が、ご近所中に響き渡った。



