それは、月曜日の午後。眠たくなるはずの英語の授業中に――事件は起きた。
 チャイムが鳴ってしばらく経った頃。午後の陽射しが教室の窓ガラスを斜めに照らし、ノートに落ちた光が白く滲んでいた。蒸し暑さを含んだ空気がじっとりと肌にまとわりつき、意識が徐々に眠気に沈もうとしていた、そのとき。
「はい、じゃあ次。鷹取くん! 41ページの頭から読んでみて」
 前方に立つ英語の加藤先生が、教卓越しに柔らかく目を細めた。鷹取が転校してきてから、ちょうど二週間。美しい外見とは裏腹に奇天烈な言動で周りの度肝を抜いていた鷹取も、なんだかんだでクラスに馴染み始めていた。そろそろ学校にも慣れ、勉強にも身が入る頃だ――と、先生なりに気を遣ったつもりなのだろう。声にはささやかな期待がにじんでいた。
 鷹取は狼狽える様子もなく、英語のテキストを片手に、すっと静かに立ち上がった。そしてテキストを読み上げた。
「 ……She was so smart that she wouldn't accept his offer」
 それは、とても滑らかで流暢な発音だった。
 加藤先生は驚きで目を見張り、クラスメイトたちは一斉に息を呑み、鷹取を見つめる。
「あら、鷹取くん素晴らしい発音ね! 英会話を習ってたの?」
 加藤先生の問いに、鷹取はなんでもない顔をして答える。
「いえ、海外生活が長かったので」
「そうなのね」
 加藤先生は納得したように頷く。
「え、帰国子女⁉︎」
 クラス内が衝撃の事実に、ざわつき始めた。いくら変態とはいえ、帰国子女となれば話は違う――とばかりに、女子たちは目の色を変えた。暴落したはずの鷹取の株が、不思議なことにまた上昇し始めたのだ。
「……ねえ、鷹取くん? どこの国に住んでたの~?」
 近くの女子が、机に身を乗り出すようにして尋ねた。机と椅子がぎしりと音を立てる。周囲からも「どこどこ?」「海外すご〜」と小さな声があがり、鷹取の席のまわりだけ空気が沸騰しはじめる。
「どこって、いろいろだけど」
 鷹取は目線を落としながら少し首を傾け、考えるようにして続けた。
「アメリカ、イギリス、オーストラリア……あと、マレーシアとかも行った」
 真面目な声色。でも、どこか遠くを見るような眼差し。鷹取の答えに、女子たちの目が星でも浮かんだように輝いた。
「え~! すっごいねえ! だから英語ペラペラなんだあ、かっこいい」
 女子にちやほやされる鷹取。鷹取はいつもの変態仕草はどこへやら、真面目な顔をしている。黙ってればイケメンなのにと散々思っていたが、本当に今はただのイケメンにしか見えなかった。クラスの女子もそう思ったのか、だんだんと鷹取を取り囲む人数が増えだしていた。
 ――英語が話せりゃなんでもいいのかよ。
 なんだか面白くない。俺は目を細めて鷹取を眺め、ため息をついた。
 賢くて、英語が話せてただのイケメンな鷹取なんて、つまらなかった。勝手に飼い主呼ばわりしてくるあいつに困っていたくせに、普通になってしまった鷹取は知らないやつみたいで……。
青空(そら)くん? どうかしましたか」
 鷹取が不思議そうに尋ねてくる。その瞳は、ガラスみたいに綺麗で、透き通っている。
「……なんでもねえよ」
 視線をそらし、窓の外に流れる雲に目を向けた。口の中が乾く。教室の喧騒が遠くに霞んでいくなか、鷹取の無垢な眼差しだけが胸に刺さった。
 俺の飼い犬――そう勝手に決めつけたくせに、その"犬"が人並みにモテて、すました顔をしてるのが腹立たしかった。俺にしか見せなかった、あの奇妙な甘えや距離感。今は全部、なかったことみたいに消えていた。
 それが、妙に寂しくて。なのに自分でも、なんでそんな気持ちになるのかがわからなくて。
 鷹取を飼い犬だと認めたくなかった。でも、俺の飼い犬らしく振る舞わない鷹取は、何故かひどく俺を苛立たせた。



   ***



 その日の最後の授業は、いつもよりざわついていた。机を動かす音や紙のこすれる音、ペンのカチカチという準備音が教室中に散っていく。
 今日のグループワークのテーマは「学校を紹介するポスターを作ろう」。グループワークなんて、やる気があるやつだけがやればいいと思っていた俺は、絵心のかけらもないくせに、中心メンバーに組み込まれてしまっていた。
 そして、俺の隣には、いつものようにぴたりと鷹取がくっついていた。転校してきてから二週間。毎日欠かさず、まるで日課のように鷹取は俺を追いかけ回した。最初は「変態かもしれない」と俺が警戒していたやつなのに、気づけば自然と一緒にいることが増えた。なんでか知らないが、鷹取は俺のそばを離れない。それも、距離感を誤ってるんじゃないかってくらい近くに。
青空(そら)くん、これはここに貼るのどうでしょう?」
 控えめに差し出された紙片には、鷹取が書いた学校のロゴの案が描かれていた。几帳面な筆跡に、くすぐったいような妙な誠実さを感じる。
「……まあ、いいんじゃね」
 正直よくわからなかったが、適当に返す。鷹取はそれだけでぱっと顔を明るくして、「よかった」と小さく呟いた。
 グループにはほかにも、美術部の女子ふたりと、クラスで目立つわけでもない男子がもうひとり。一見バラバラのメンバーだったが、美術部女子が絵を描き、俺ともうひとりの男子がキャッチコピーを考え、鷹取がレイアウト案を整えるという流れで、なんだかんだまとまってきた。
 俺は机に肘をつき、カリカリと色鉛筆を走らせる美術部女子の手元をぼんやり眺めたあと、隣で作業を続ける鷹取にふと訊いてみた。
「おまえ、海外を転々としてたっつってたよな。転校ばっかだったのか?」
 たわいもない興味だった。けれど、鷹取の手がぴたりと止まったのに気づいて、俺は思わず目を向けた。
 下を向いたままの横顔が、静かに翳る。
 ああ――しまった。
 鷹取にも、触れられたくない領域があったらしい。てっきり、こいつには羞恥心もなにもないんだと思ってた。飼い犬だの飼い主だの、俺に平気で変なこと言ってくるようなやつだから。
「……まあ、はい。ひとつの場所に、長くいたことはないです」
 か細い声だった。教室のざわめきの中で、かろうじて聞き取れる程度の。肩をすくめ、鷹取は笑った。でもその笑みは、口の端だけでつくられたもので、目元に光がない。
 もしこいつが本当に犬だったら、耳も尻尾も全部ぺたんと寝かせて、地面に伏せてしまいそうなくらい、見ていてしょげた様子だった。
 ――こんな顔、初めて見た。
 罪悪感で胸がチクリと痛む。誤魔化すように、俺は半笑いで話を続けた。
「親の仕事、海外転勤多いんだな。もしかして、外交官とか?」
 半分冗談だった。いや、冗談にしたかっただけかもしれない。
 だが、鷹取はためらいながらも頷いた。
「はい。父がそうです」
 マジかよ、とつい口に出た。さすが、浮世離れした雰囲気してるわけだ。こっちは団地育ちの庶民派だってのに。
「超エリートじゃねーか。すげえな」
 褒めるつもりだった。けど、鷹取の顔はそれを聞いて、ますます沈んだ。
「……ごめんなさい、青空(そら)くん。家族の話はあんまりしたくなくて」
 そっけない、けれど、どこか懇願するような声だった。
「ああ……わかった」
 言葉に詰まりそうになるのを、むりやり押し出す。俺のせいだった。無神経だった。無防備に突っ込んで、過去を引っ張り出した。
 鷹取は、薄く笑う。今にも消えそうなほど頼りない笑顔だった。
「どこに行っても、憂鬱でした。仲良くなっても、またすぐに別れが来るのがわかってるから……最初から期待もしないようにしてました」
 ポスターの台紙に目を落としたまま、鷹取は続けた。
「外見だけ見て近づいてくる人ばかりで。言葉も、態度も、本音じゃなかった。本当に俺を必要としてくれた人はいなかった。俺はただ、透明な存在でいたほうが楽でした」
 静かな教室の一角で、時間が止まったような気がした。
 目の前で絵を描いていた美術部女子の手が、一瞬動きを止めたようにも思えたが、すぐにまたカリカリと色鉛筆が走り出す。
「でも、今は違うんです」
 鷹取が顔を上げる。伏し目がちだった瞳が、まっすぐ俺を射抜いてくる。
「今は、毎日がすごく楽しい。……青空(そら)くんと一緒にいる時間が、本当に幸せです」
 その表情は真剣だった。甘ったるくも、芝居がかった様子もない。
「俺、なにもしてねえけど」
 ぼそりと返したのは、照れ隠しだった。なにかを期待されたくなかった。俺は別に、いいやつでも救世主でもない。
 けど、鷹取は力をこめて、言葉を重ねた。
「それでも。……俺、青空(そら)くんの飼い犬でいられる今が、一番幸せなんです」
 拳をぎゅっと握りしめていた。その手の甲が、白くなるほどに。
 視線がぶつかる。あまりにまっすぐで、あまりに切実だった。
 俺は――なにか、壊しちゃいけないもんを見てる気がした。慌てて目をそらす。黒板の落書きに、窓の外の曇り空に。なんでもいい、鷹取の視線から逃げたかった。
「……知るかよ」
 ぼやくように言った声は、自分でも思ったより優しくて、腹が立った。
 こいつが何を抱えて生きてきたのかは知らない。でも――悲しい顔をしないでほしかった。
 飼い犬だの、変なこと言ってるやつだけど。俺にとっては、気づけば隣にいるやつで。その鷹取が、今、自分の場所をようやく見つけたみたいな顔しているのを、どうしてだろう。無下にすることができなかった。
 ポスターは完成に近づいていた。女子たちの色塗りが終われば、あとは細かな装飾だけ。いつもより少しだけ、教室の空気があたたかく思えた。
 そう――もしかすると、少しくらいなら、こいつの飼い主でいてやってもいいかもしれない、なんて。口が裂けても言わないけどな。



   ***



 子犬のレイの散歩に、鷹取がついてくるのは、もはや日課のようになっていた。
 午後の陽射しがやわらかく公園の芝を照らす中、今日も当然のように隣を歩いてくる。
 そんなある日のことだった。
「今のボールは俺に投げてくれたんだよっ!」
「ウーッ! わん! わん、わん!」
 青々とした芝生の真ん中で、俺が投げたボールを巡り、子犬と鷹取が小競り合いを始めていた。
 芝生の端で子どもを見守っていた若い母親が、目をぱちくりと見開く。まるで、現実にありえない光景を見てしまったような表情だ。
 そりゃそうだろ。犬と本気で張り合ってる高校生なんて、見たことねえって。
 ――頼むから、他人のふりさせてくれ……。
 顔から火が出そうになりながら、俺は小さくため息をつき、前髪を影にして目を伏せながら、鷹取の首根っこを引っ掴みにいった。
「……おまえ、少しは周りの目、気にしろっての」
「へ? なんですか? あ、ボールは俺が勝ち取りましたよ!」
 得意げに、胸を張ってボールを掲げる鷹取。歯まで見せてにこにこと笑う姿に、レイがじとっと睨みをきかせていた。その目はまるで「こいつ、ほんとに人間かよ」と言いたげだ。
 俺は呆れて、眉をしかめる。
「相手は子犬だぞ。手加減してやれよ……ってか、その前に犬と本気で喧嘩すんな」
「違いますよ! あっちから仕掛けてきたんですってば!」
「グルルルル……わんわんわん!」
「ああもう、うるせえーっ‼」
 思わず怒鳴った、その瞬間だった。
 ボールをめぐる言い合いに気を取られていた俺の目の前で、首を振った拍子に、レイの首輪が、くいっとずれて地面に落ちた。音もなく、地面に転がる革の輪。
「待て、レイ――!」
 レイは一瞬こちらを振り返る。が、次の瞬間には小さな身体をしならせ、公園の外へと駆け出していった。
 心臓が跳ね、反射的に駆けだした。だが、犬の脚力は人間とは比べものにならない。あっという間に、子犬の背中は街角の向こうへと消えてしまった。
(近くには大きい国道も走ってる。飛び出して、車に轢かれでもしたら……)
 思い浮かべたのは、公園を出た先にある国道だった。あそこに飛び出せば、レイの小さな身体なんて……。
 最悪の光景が脳裏をよぎり、足元から血の気が引いた。冷水をぶちまけられたような、現実味のない寒気が背中を這いのぼる。
 冗談でも、もしもの話でもない。これは現実だ。俺のせいで、せっかく助けた命を――また失うかもしれない。恐怖というには重すぎる感情が、腹の底に沈み込んでいった。
「鷹取! 俺はこっちを探す、おまえは反対側を!」
「了解です!」
 いつもと違い、鷹取の声に冗談はなかった。表情から笑顔が消え、まっすぐ頷く。
 ふたりで別々の道へと走り出す。レイが逃げ込めそうな場所――木陰、茂みの奥、民家の門の下、室外機の裏。息が切れても止まらない。だが、どこにもいない。
 ほどなくして、鷹取が戻ってきた。肩で息をしながら、首を振る。
「……いなかったです、向こうにも」
「俺のせいだ……首輪が緩くなってたのをちゃんと見てれば、防げたのに」
 ぎゅっと拳を握る。自分の不注意が、あの小さな命を危険にさらした。
「青空くんのせいじゃないですよ」
 鷹取の言葉に、顔を上げる。
「……誰も、悪くないです」
 意外だった。てっきり、ここぞとばかりにレイを責めると思っていた。
「怒らないのか? 『飼い犬なのに逃げんじゃねえ!』とでも言うかと」
「あいつも逃げようとして逃げたんじゃないでしょう。せっかく青空(そら)くんの飼い犬になれたのに、逃げようと思うわけないです。はぐれ犬になるのは、悲しい生き方だから……」
「はぐれ犬?」
「はい。捨て犬でも、迷い犬でもなく、はぐれ犬です。帰る場所があるのに、取り残されてる犬のことです」
 遠くを見つめるような鷹取の声に、どこか哀しみが滲んでいた。
 俺は空を見上げた。西日が傾き、木々の影が細長く伸びている。
 あいつは、今どこで震えているんだろう。
「……だったら、俺らでちゃんと見つけてやらねえとな」
 自分でも驚くくらい、声がかすれていた。
「はい! あの犬にはムカつきますけど、また野良になるのは可哀想ですからね」
 言葉とは裏腹に、鷹取の目は真剣だった。陽に透けた睫毛が、やけに長く見えた。
 そうして、俺たちは子犬捜索を再開した。範囲を広げてひとつ向こうの道路を歩く。信号のある交差点に差しかかると、向こう側に、人だかりが見えた。
 その足元に、震える小さな塊。
「レイ!」
 叫んで駆け寄ろうとした瞬間、誰かに腕をつかまれる。ガッと強い力で引き留められた。
「……あ? 誰かと思ったら、真壁じゃねえの」
 振り返ると、そこには――男がいた。見覚えがある。確か「赤城」って名前のやつだ。中学時代に何度も拳を交えた、腐れ縁の厄介者。
「離せ。そいつは俺の飼い犬だ」
「え~? どうしよっかなあ?」
 ニヤつきながら、レイと俺を交互に見比べる赤城。その口元は、絡んでやろうという悪意に満ちていた。
 ――クソッ、こんなとこで嫌な野郎に出くわすなんてな。
「……知り合いですか?」
「中学のときに、ちょっとな」
 赤城は、荒れてた中学時代に何度か喧嘩したことのある、他校の生徒だった。当時かなりボコボコにしてやったので、恨みを持たれている自覚はある。でも、今ここで再会するなんて……。最悪のタイミングだった。
「なに、おまえさ、今は優等生ってか? 眼鏡までかけちゃってさあ。海南中の一匹狼さんよお!」
 その声が終わらぬうちに、拳が飛んでくる。即座に横に跳ね、紙一重で躱す。
「チッ……口だけは達者なまんまだな」
 俺は学ランのボタンを外し、首をぐるりと回す。鳴る骨の音が、身体を戦闘モードに切り替える。
 もう二度と暴力は振るわないと決めてた。だけど――飼い犬のためなら、話は別だ。
「かかってこいや、赤城!」
 そう口にした瞬間、全身が戦闘態勢に切り替わった。重力がぐっと濃くなる。空気が張り詰め、あたりの喧騒が一気に遠のいた気がした。聞こえるのは、自分と鷹取の呼吸、そして地面に爪を立てるレイのかすかな音だけ。
 赤城の口角が上がる。その背後に立つ、取り巻きたちがざり、と足をずらした。
「言ったな、真壁。あの頃のケリ、つけてやるよ」
「ケリなんてついてたろ。負け犬が吠えてんじゃねえ」
 舌打ちをひとつ。赤城が一歩、二歩と間合いを詰める。俺も左足を引いて構える。骨の軋みが懐かしい。
 次の瞬間、赤城の拳が振り抜かれた。視界に入った瞬間には、すでに目の前に来ていた。ギリギリで体を横に捻ってかわす。空を裂くような風圧が頬をかすめた。
「……ッチ、相変わらず回避だけは一丁前だな!」
「喧嘩ってのはな、当たらなきゃ意味ねえんだよ!」
 勢いをつけて踏み込み、右フックを放つ。拳が赤城の顎をかすめた。手応えはない。だが、動きが鈍った。その隙を逃さず、ボディに一撃を叩き込む。
「ぐッ……!」
 赤城の腹が沈む。だが、倒れない。膝をつく寸前で体を支え、そのまま組みついてきた。
「クソッ、しつけえ!」
 絡まった腕を振りほどこうとした刹那、後ろから別の手が伸びてくる。
 ――囲まれてる!
 視界の端で動く影。赤城の取り巻きのひとりが、鉄パイプを振りかぶっている。
青空(そら)くん、下がって!」
 叫びとともに、鷹取が飛び込んできた。長い脚が唸りを上げて振り抜かれ、男の肩にクリーンヒットする。
「ぐえっ……!」
 衝撃で男が吹き飛び、鉄パイプが地面に転がった。ガランという金属音が辺りに響き渡る。
 鷹取の体が、一瞬沈み込み――次の瞬間、バネのように跳ねた。しなやかで無駄のない動きだ。まるで武道を心得ているような、迷いのない足運びで次々と敵の懐に入り、手刀や掌底で確実に仕留めていく。
「おまっ……なんでそんなに動けんだよ!」
「え? 体幹トレーニングと、毎朝のお散歩のおかげですかねっ!」
 ――笑顔で言ってる場合じゃねえ!
 そう叫びかけた瞬間、赤城が再び襲いかかってくる。その拳を半身でかわし、すれ違いざまに肘を突き上げる。こめかみに決まった。
 赤城がよろけ、膝をついた。
「昔のままじゃ、通用しねえんだよ。俺たちはもう、あの頃とは違う」
 吐き捨てるように言ったそのとき。背後から誰かが飛びかかってきた。肩に衝撃。体勢を崩し、地面に倒れ込む。
「真壁ッ……!」
 赤城が立ち上がる。目が血走っていた。理性が吹き飛んだ顔だ。
「潰す……今度こそおまえを、ぶっ潰してやる!」
 肩にしがみついてくる手を引き剥がそうとしたが、赤城が上から馬乗りになり、拳を振り上げ――
「やめろっ!」
 その声とともに、レイの吠え声が響いた。続いて、鷹取の脚が赤城の脇腹にめり込む。
「がっ……!?」
 赤城が吹き飛ばされる。空中で体が折れ曲がり、そのままアスファルトに転がった。
青空(そら)くん、大丈夫ですか!?」
 鷹取が駆け寄ってくる。肩を貸して起こしてくれながら、目を見開いて俺の状態を確認する。
「大丈夫……だ。サンキュ」
 少し遅れて、体にじわじわと痛みが湧いてくる。だが、それ以上に、胸の奥に熱いものが渦巻いていた。怒りじゃない。焦りでも、後悔でもない。守りたいものがある。それだけだ。
「おい、赤城。もうやめとけ」
 地面に這いつくばる赤城を見下ろしながら、俺は言う。
「おまえがなにを思って生きてきたか知らねえけどよ。いま俺には、守んなきゃなんねえもんがあるんだ。これ以上、それに手ェ出すってんなら……容赦はしねえ」
「クソッ……なんで、てめえだけ……!」
 赤城の悔しそうな叫びが、風にさらわれるように消えた。
 遠くから、甲高いサイレンの音が聞こえてきた。
青空(そら)くん……パトカーですよ!」
「……クソ、面倒ごとはごめんだ!」
 俺はすかさずレイを抱きかかえ、鷹取の腕を引っ掴んで駆けだす。息を切らしながら、雑踏の中を縫って逃げる。背後で、パトカーのサイレンが一層大きくなった。
 赤城が捕まるかどうかなんて、正直どうでもいい。今は、とにかくこの犬と、この変人を連れて、安全な場所まで逃げ切る――それだけだ。
 鷹取は途中で派手に転びかけ、靴を脱ぎかけ、それでも笑いながら必死に走っていた。
「はーっ、はーっ……これだから……青春はやめられませんねっ!」
「うるせえ、バカ!」
 俺は怒鳴り返しながら、ようやく家の近くの路地裏まで戻った。
 三人――いや、二人と一匹は、コンクリの壁に背を預け、ぜえぜえと息を整えながら、しばしその場に座り込んだ。胸の奥には、まだ残り火のように熱が残っている。でも、それは悪くない感覚だった。
 背後を振り返ると、警官も赤城の姿もなかった。どうやら巻けたらしい。
「は、はあ……生きてる……。み、水……」
 鷹取は体力がないようだ。肩で息をしながら、顔を真っ赤にしてへたり込んだ。持っていたペットボトルを差し出してやると、鷹取は感謝もそこそこに勢いよく飲み干した。
「はーっ……生き返った……それにしても青空(そら)くん、喧嘩強いですね! さすが元ヤン!」
「おい。元ヤンって誉め言葉じゃねえからな?」
 腕の中のレイが、ようやく落ち着いたように「くうん」と鳴く。毛並みに手をやりながら、俺は目を細めた。
「あの男たち、中学の知り合いって言ってましたよね。高校からはなんで優等生キャラでいこうと思ったんですか」
「それは……」
 鷹取に訊かれて、俺は当時の記憶を思い出した――。
 通っていた海南中学校で頭を張っていたやつらにムカついて、喧嘩をしてばかりだった日々。全員ぶっ倒し、晴れて中学の頭となってからは、絡んでくる他校のやつらと戦っていた。
 そんな暴力まみれだった生活を卒業するきっかけになったのは……父親の単身赴任が決まってからだった。ある日、見てしまったのだ。母親が、産まれたばかりの妹を抱えて泣いていたところを。自分がこんな状態だから、母さんにつらい思いをさせている――そう気づいて、馬鹿なことはもうやめようと目が覚めた。習慣づいていた喧嘩癖をこらえるのは骨が折れたが、家族を想えばどうってことなかった。俺は高校に上がると、過去を捨て去り、眼鏡をかけた。優等生の仮面をつけるようになった。
「――ってなわけよ。ま、さっき喧嘩しちまったけどな」
 これまでの事情を鷹取に説明し終わると、鷹取は潤んだ目でこちらを見ていた。
「な、なんだよ、その顔は」
「感動しました!」
「……は?」
「やっぱり、青空(そら)くんほど俺の飼い主に相応しい人はいません!」
「なんでそうなるんだよ!?」
「これからも末永くお世話になります!」
「決定事項みたいに言うんじゃねえ!」
 ――こいつ、本当に人間か? いや、それ以前に、いったい何者なんだよ……。
 胸の奥で、謎がまたひとつ増えた気がした。
 鷹取はなにかわけがあって、進んでピエロの役を演じているのか。はたまた、ただのアホなのか。答えは未だに出なかった。