朝、玄関を開けると犬がいた。
「おはようございます! あなたの飼い犬がお迎えにあがりましたよ!」
俺は条件反射でドアを閉めた。金属の蝶番が悲鳴を上げ、バタンという音が朝の静寂を裂く。手のひらには、鈍い反響音とともに微かな震えが残った。
玄関の外から、くぐもった声が聞こえてくる。
「あれ? 青空くん? 閉まっちゃいましたよ」
――閉めたんだよ!
鷹取はガチャガチャとドアノブを引っ張っている。むりやりに捻られたドアノブは、そのうち嫌な音をたてだした。
「おいやめろ! 壊れちまう」
俺はしぶしぶドアを開けた。
「おい、なんで朝からてめえの面拝まなきゃならねーんだよ」
「……? 飼い犬と飼い主の関係なので!」
「だからおまえを飼うつもりはないって……はあ……」
ため息をついていると、小さな足音がとてとてと廊下の奥から弾むように近づいてくる。振り返るより早く、ズボンの裾がくいっと引かれた。
「にいに〜!」
柔らかな声と一緒に、甘い朝の匂いが漂う。ミルクと石けんの匂いだ。
「なんだよみらい、保育園の時間はまだだぞ?」
駆け寄ってきた妹を抱き上げる。みらいは俺の腕の中でぐるんと向きを変え、鷹取をじっと見つめた。そして小さな人差し指をやつに突きつける。
「……だれ?」
「俺は鷹取玲、青空くんの飼い犬です!」
「わんわん?」
「はい!」
鷹取は無邪気に笑っている。
俺はすかさず「妹に嘘教えんじゃねえ」と鷹取の頭を叩いた。
だが、鷹取は痛みをものともしない。しゃがみこみ、みらいと視線の高さを合わせる。頬を緩めた笑顔はまぶしくて、まるで小さな太陽みたいだった。
「青空くんの妹さん、お名前は?」
「……みらい」
「みらいちゃん! かわいい名前だね」
みらいに向かってにっこりと微笑む鷹取。忘れていたが、こいつは外見だけは上等だった――端正な顔立ちを持つ爽やかな少年を見て、みらいはとたんに目を伏せ、頬を赤らめる。もじもじと俺のシャツの裾を握り、ちら、と鷹取を見上げた。
「う、うん……ありがと」
「どういたしまして! そうだ、飴ちゃんあげる!」
「わあ〜!」
鷹取に棒つき飴をもらったみらいは、歓声を上げ、その場でくるくると回り始めた。
「知らない人……いや、知らない犬に食べ物なんてもらうんじゃない」
俺は妹の頭を撫でる。みらいは兄の進言なんてどこ吹く風で、飴を舐め出している。
鷹取はそんなみらいを優しい顔で眺めていた。まるで、まともな人間みたいに。
「……おまえ、子どもにはまともなのな」
「俺はいつだってまともですよ?」
鷹取は、なにも考えていない間抜けのように笑っている。
でも、ふと疑念が湧いた。
鷹取の奇行。あれって、実はぜんぶ演技なのでは……? そうする理由が一ミリもわからないが。
鷹取の横顔に目をやる。笑っている――けれど、その笑顔は目元だけがやけに静かだった。わずかに顎が震えていたような、気のせいのような。
――演技か?
心の奥に、氷のような違和感がひとしずく落ちた。
――考えすぎ、か。
俺は鷹取に振り回されている場合じゃないことを思い出す。登校前に、犬の散歩に行かなければ……。
子犬のレイにリードをつけ、抱き抱えた。レイは嫌がることもなく、大人しかった。そして玄関を出て歩き出すと、当然のような顔をして鷹取もついてきた。
背後を振り返り、鷹取に人差し指を突きつける。
「ついてくんな。これから犬の散歩なんだよ」
「犬の散歩なら、俺も行かないと」
「……犬自認なの、やめれる?」
「無理です! 俺は青空くんの飼い犬なので!」
鷹取は元気よく返してきた。
――こいつがまともかもとか思ったの、やっぱ勘違いだわ……。
俺は一旦、鷹取の存在を無視することにした。
車の通っていない路地まで歩き、子犬を地面に下ろす。地面に下ろされたレイは、パッと耳を立てて、尻尾を小刻みに揺らした。アスファルトに鼻を近づけては、草むらの影を覗き込む。ときおり、不安げにこちらを振り返るその黒目は、まるで「ついてきてるよね?」と俺に訊いているみたいだった。
レイが俺に視線を向けるたびに、隣にいる鷹取が威嚇の唸り声を上げた。
「犬ぅ……! 俺の青空くんに色目使うんじゃねえ……」
「俺のとかキショいこと言うなら殴るぞ」
「ごめんなさい……」
鷹取がしゅんと項垂れる。すると、子犬は「ふぅん!」と満足げに鼻を鳴らした。まるで勝ち誇っているかのようだ。当然、鷹取は怒り出す。
「おい、いま俺のこと笑っただろ! 笑ったよなあ⁉︎」
「くぅん?」
「ぶりっ子してんじゃねえよ、犬ぅ‼︎」
「鷹取、うるせえぞ」
「……だって、だって、そいつが俺のこと笑ったんですよ……」
それから散歩が終わるまで、鷹取はずっと泣き真似をやめなかった。鬱陶しいことこの上ない。鷹取は、さっきから鼻をすんすん鳴らしている。喉の奥でわざとらしく立てられるしゃくりあげに、空の清涼感が台無しだ。
家に帰ってから、高校へ向かう道にも、鷹取はついてきた。
秋の風が制服の隙間から入り込んで、ひやりと肌を撫でた。空は高く、どこまでも青い。暑くもなく、寒くもない。心地良い気温に、自然と心も解けていくような朝だ。
なのに俺の隣には、飼い犬志望の変態野郎という災害が、のうのうと歩いている。気分を台無しにする男。
「……それにしても、青空くんは朝から爽やかでかっこいいなあ。モテるんじゃないですか? この〜元ヤン眼鏡さん!」
俺を褒め称える(?)鷹取。まったく嬉しくない。また微妙に褒めてないし。
「あのさ、昨日から気になってはいたんだけど」
「なんです?」
「おまえって、男が好きなSM趣味なわけ?」
「へ……」
鷹取はぽかんと口を開けたまま固まった。次の瞬間、耳まで真っ赤に染まる――りんごみたいに。首元を押さえて視線を泳がせ、ちらっと俺を見上げて、すぐに目を逸らす。
――ああ、完全に混乱してやがる。面白いくらい分かりやすい。
動揺する鷹取の姿に、俺は少しだけ留飲を下げた。
「す、すすす好き⁉︎ ま、まあ、好きですけど……恋人になるのは、ちょっと早くないですかっ⁉︎」
「誰も恋人になろうなんて言ってねえよ」
「えっ、あれっ……?」
「バーカ、ポジティブ早とちり王」
「な……な、な、な……!」
わなわなと震える鷹取。
「これ以上、夢中にさせて。俺をどうするつもりなんですか⁉︎」
鷹取が顔を真っ赤に染めて、眉尻を下げた。なのに口元には、かすかに笑みの残骸みたいなものが貼りついてる。
「……罵られると夢中になんのかよ。おまえの性癖、エグいな……」
そう言った俺の声も、どこか引きつっていた。
二人の間に、唐突に静けさが落ちる。風の音すら遠のいた気がした。
(まだ十代なのに。そんな年でこんなに拗れてんのか)
胸の奥が、かすかにざらつく。鷹取が、ちょっとかわいそうに思えてきた。
***
昼休みの教室に、紙の擦れる音が唐突に響いた。
「見てください、青空くんっ!」
俺が弁当の箸を止めたのとほぼ同時に、目の前に差し出されたのは、何の変哲もない――いや、このタイミングで見せられる状況は変哲でしかないが――ペット用品の通販カタログだった。
ずずい、と掲げられたページをよく見ると、そこには煌びやかな装飾を施された首輪が、ズラリと並んでいる。犬用とは思えないデザインも混じっている。レザーにスタッズ、金属製のリング付き。中にはリボンと鈴がついたものまで。人間用のアクセサリーより値が張りそうなものばかりだ。
「青空くんはどの首輪が俺に似合うと思いますかっ?」
「……は?」
「俺としてはやっぱり黒がシックでかっこいいと思うんですけどぉ〜。あ、でも俺ってかわいいとこもあるんで、意外とピンクなんかも似合っちゃったり……⁉︎ いや、待ってください、逆に水色で爽やか系も――」
俺は、箸を置いた。というか、置かざるを得なかった。昼休みに飯を食う権利は、クラスメイト全員に与えられているはずだが、それを妨害してくる男がここにいる。
鷹取玲。転校してきてからまだ数日のはずなのに、なぜかやたら懐かれている。
いや、懐かれているというか――
「うるせえー!」
怒鳴った声が教室に響いた。とたんに教室内の空気が、凍りついたように静まり返る。
俺は自分の声の大きさに気づき、すぐに周囲の視線が突き刺さるのを感じた。見回すと、弁当の箸を止めた者、スマホの手を止めた者、何人ものクラスメイトが、驚き半分、呆れ半分の顔でこちらを見ていた。
と、その中のひとりが、鼻で笑いながらつぶやく。
「変態プレイはよそでやってくれない?」
「ちげっ……違うよ! 誤解だよ。俺が真面目で品行方正な人間なのは、知っているよね」
慌てて声を上げたが、すでに取り返しはつかない。笑い声が数カ所からこぼれたかと思えば、別の女子が冷たい声で言い放った。
「いや、知らんけど」
バッサリと切られたその一言に、俺は机に突っ伏したくなった。
――どうして、俺がこんな目に……。
「いやあ……空気読めなくてすみませんっ!」
鷹取が教室中に向かって土下座しかけたのを見て、俺は無言でカタログを閉じさせた。
「やめろ。今すぐ、やめろ。なにもかもやめろ」
「でも、俺、青空くんの飼い犬ですから……」
「言うなっつってんだろ、それを!」
ふざけているように見えて、たぶん本気なのが厄介だ。
俺は、思わず頭を抱えた。
「鷹取……頼むから、普通にしてくれ」
「俺の普通がこれなんですけど?」
「終わってんな」
鷹取はそれを褒め言葉と受け取ったらしい。嬉しそうに首をかしげた。
「じゃあ、青空くんの飼い犬として相応しい首輪を、俺、探しておきますね」
「もう喋るな、お願いだから」
「リードも選びます?」
「おい、俺は人間を繋いで散歩させる趣味ねえから!」
そんなやりとりをしている間に、教室内の空気は少しだけ緩んでいた。クスクスと笑う女子。肩をすくめる男子。どうやら彼らなりに、諦めと慣れが芽生えてきたらしい。
俺はふと、先ほどの怒鳴り声を思い出し、そっとため息をついた。荒々しく誰かに怒鳴るなんて、ここ数年していなかったのに。
大声を出してしまったことを、後悔していないわけじゃない。けれど――
「青空くんって、怒っても怖くないんですよねー。もっとキツく叱ってもいいんですよ?」
「俺にそういう趣味はねえっつってんだろ!」
鷹取の頬に浮かぶ笑顔が、どこまでも嬉しそうだった。
……まあ、笑ってるなら、いいか。
そう思ってしまう自分に、密かに頭を抱えるのだった。
***
風がまだ冷たい午後三時。
校門を出た瞬間、ひやりとした風が首筋をなでた。その冷たさと一緒に、妙なざわつきが背中を這い上がる。誰かに見られている――そんな直感が、喉奥をきゅっと締めつけた。ちらりと振り返れば、予想通りだった。十メートルほど後ろに、鷹取玲がいる。制服の裾を揺らしながら、まっすぐこちらを見つめていた。
「……おい、またついて来てんのかよ」
声をかけると、鷹取は、まるで待ち焦がれていた恋人に出会ったかのように、目尻をきゅっと下げて小さく手を振った。その仕草には子犬のような無邪気さと、どこか常軌を逸した確信めいたものが同居している。笑ってはいるが、足取りは一定。まるで訓練された番犬のように、ぴたりと距離を保ってついてくる。
俺は大きくため息をついて、歩く速度を上げた。
が、それでも鷹取の足音は変わらない。
――律儀すぎて怖いんだよ、お前は。
角を曲がっても、信号を渡っても、ずっとついてくる。
道中で缶コーヒーを買おうとしただけで「ブラックは今日三本目ですね」と言われたときは、さすがに背筋が冷えた。
「……おい、おまえさ。下校くらいひとりにしてくれよ」
「でも、俺の飼い主がどこに行くのか、見守らないと。飼い犬の義務なので」
「当然みたいな口ぶり、なに? いったいどこの界隈の常識なんだよ、それ」
俺はやれやれと頭を掻いた。
放っておけば本当に家まで来そうだったので、途中の公園で足を止める。
「犬の散歩してから帰る。おまえは帰れ」
言いながら、ポケットから買ったばかりのリードを取り出す。
あの子犬――昨夜も一緒に寝た、ふわふわの毛玉――が、家で俺の帰りを今か今かと心待ちにしているだろう。
鷹取はそれを見つけた途端、きらりと目を輝かせる。
「俺もリード、つけて行きましょうか?」
「つけるな。犬は一匹で十分だ」
「じゃあ、首輪だけでも――」
「言ってて恥ずかしくねえのか!? 人間だよな、おまえ!」
「飼い犬ですけど」
返ってきたのは、いつもの笑顔。にこりと笑うその顔に悪意はない。ただ純粋で、まっすぐで――だからこそ、質が悪い。
「……だめだこいつ」
思わずそう呟いていた。
そのあと――公園で犬のレイと遊んでいる間も、鷹取は現れた。
「……いた」
「うわっ!? おまえ、どこから湧きやがった!?」
俺は食べていたパンを落としかけ、慌ててキャッチした。
振り返れば、すでに鷹取が俺の隣に座っている。いつ来た、というかどうやって来た。
「この公園、月曜日と木曜日の散歩の休憩によく使ってますよね」
「どこまで把握してんだよ」
「記録してますから。ほら」
そう言って鷹取は、まるで自慢の作品を見せる画家のように、そっとメモ帳を差し出した。表紙には「本日の観察メモ♡」と丸い字で書かれており、ところどころに犬や猫のシールが貼られている。だが、その中身は――禍々しいほどに綿密で、俺の一挙手一投足が、まるで監視カメラのような正確さで記されていた。
びっしりと書かれた文字列。「青空くんの好きなパン→チョココロネ。食べる時の順番→しっぽから。癖→食べる前に袋の裏のカロリーを見てため息をつく」「今日の青空くんは、5時間目に窓の外を見て3回ため息をつきました」などなど、妙にリアルで怖い。
――なにが目的なんだ、こいつは。
恐怖を通り越して呆れた。
「それ、捨てろ。今すぐに」
「無理です。俺の宝物なので」
笑顔は満開。
気持ち悪い。ホラー映画でもこんな無邪気な執着は見たことがない。
「……はあ。俺、今ほんとに犬と話してる気分だわ」
「ワンって鳴きましょうか?」
「やめろ! 食欲がなくなる!」
頭を抱える俺をよそに、鷹取は、ふわりと笑みを浮かべながらバッグをごそごそと漁った。やがて、両手で丁寧に包んだ紙袋を差し出す。その仕草はまるで、神に供物を捧げる巫女のように静かで慎重だった。
「栄養偏ってますから、これもどうぞ。昨日も夕飯はカップ麺でしたよね?」
差し出してきたのは、彩りの良いサラダと、フルーツヨーグルト。細かく刻まれた赤パプリカや紫キャベツ、淡いオレンジの柿とキウイ。見た目にも栄養バランスが考え抜かれていて、いかにも「手作り」と言いたげな佇まいだ。
「なに勝手に俺の健康管理してんだよ!?」
「飼い主が倒れたら、寂しいので」
「おまえの感情のために俺の胃腸があるんじゃねえ!」
思わず立ち上がりかけたが、鷹取の表情がわずかに曇るのを見て、俺は慌てて腰を戻した。
なにが「寂しいので」だ。意味がわからない。何重にも謎がある。だけど、ふと漂ってきた酸味のあるドレッシングの香りに、鼻がひくりと動く。
一口。いや、ほんの少しだけ味を見てやろうと、フォークを手に取った。
――……うまい。しかも、俺の好みに寄せてある。酸味とコクのバランスが絶妙だ。なんで知ってるんだ、こんなこと。
咀嚼するたびに、敗北感がじわじわと腹の底に滲んでくる。顔には出すまいと唇を引き結んだが、きっともうバレている。鷹取が視線を外さないから。
心底意味がわからない。けど――このサラダ、くそ美味いんだよ。
俺は敗北感でいっぱいだった。
そうして――俺は疲れ果てて家に帰った。子犬のレイはまだ元気いっぱいで、小さな尻尾を全力で振って、嬉しそうに足にじゃれてくる。
「……はー、おまえだけだよ、癒しは」
靴を脱ぎながら、俺はしゃがみ込んで子犬の頭を撫でる。
「おまえが鷹取だったらな……まあ、それはそれで困るか」
くぅんと鳴いて、子犬が鼻先を寄せてくる。
「つーかあいつ、人間なのに犬名乗ってんの、どう考えてもおかしいよな。しかも、首輪つけたがるとか。俺、どんどん学校で変態キャラになってるっつーの……」
愚痴りながら、ソファに沈む。
「……はあ。あいつ、黙ってりゃイケメンなのにな。ムカつく」
つい口をついて出たぼやきに、犬が元気よく「わんっ」と鳴いた。
「おまえは可愛いのにな」
ため息まじりに笑って、子犬の頭をぽすぽすと撫でた。
しかしそのとき、スマホが振動する。画面には見慣れない番号からのメッセージ。
《青空くんの犬のリードを引っ張る姿、似合ってましたよ》
「……なに見てんだよおおおお!!!」
俺の情けない叫び声が響き渡った。
***
日曜の午後。ショッピングモールの一角、ペット用品専門店の店頭のガラスには、丸い瞳でこちらを見つめる子犬たちの写真が貼られていた。どれも計算された角度で愛らしさを切り取られており、その裏に見え隠れする商業主義が妙に生々しかった。
「ほらよ。レイ、入るぞ」
腕の中に抱えた白いポメラニアンが、もふりと毛を揺らして顔を上げる。つぶらな瞳がくるりと俺を見上げた。ふわふわの体温が、二の腕に心地よく触れる。まだ生後四ヶ月。小さな首輪はゆるく、すぐに抜けてしまいそうだった。きちんとしたものを買わなきゃ――そんな思いつきで、俺はこの店に立ち寄った。
引き戸のセンサーが反応し、店内に入る。冷房の効いた空気に包まれ、かすかに動物用シャンプーの匂いが鼻をくすぐる。棚にはカラフルなドッグフード、おもちゃ、リード、ケージ――整然と並んだ商品群が、機能美のように視界に広がっていた。ガラスケースの中、白い子猫が丸まって眠っている。かすかな寝息が曇りガラスにしみつきそうだった。
俺はレイを抱いたまま歩を進め、首輪売り場の一角で足を止めた。ふと、背中に熱のようなものを感じる。空調の風とは明らかに違う。
――この気配。間違いない。
「っ……またかよ」
振り返らずともわかる。背後から忍び寄る、軽い足音。わざとらしく間を空けながらも、確実に俺を追ってくる気配。目を向けずとも、誰かがそこにいると確信できるほどに、俺の“勘”は鷹取に毒されていた。
「青空くん〜〜〜! やっぱり来てましたねっ!」
案の定だった。
満面の笑みで走り寄ってくるのは、休日仕様のパーカーにジーンズ姿の鷹取。なぜ週末の俺の行動をピンポイントで把握しているのか、冗談抜きでGPSを疑いたくなる出現率だ。瞳は嬉々と輝き、両手を大きく広げてくるさまは、まるで愛犬を出迎える飼い主のようだった――立場が完全に逆なのに。
「首輪! 買ってください〜!」
「おまえのじゃねえ。レイのだ」
「え〜、つまんない。俺のも買ってくださいよぉ。ご主人とおそろいのやつ!」
レイを抱き上げたまま、俺は動けなくなった。全身が瞬間接着剤で固められたように凍りつく。背後から視線が刺さるたび、背中がじわりと汗ばんだ。笑い声、商品棚のきしむ音、ショッピングカートの軋む車輪――店内のすべてが、まるで俺をあざ笑っているように耳に入ってくる。
「なあ、鷹取……」
俺は声を低くした。
「いいから黙れ。ここ、公共の場な」
「えっ、俺、なにか変なこと言いました?」
「言っただろうが。てめえとおそろいの首輪なんか、買うわけねぇだろ」
「ちょっと待ってください、それ、言い方キツすぎません!? さすがに傷つきます!」
鷹取は肩を落とし、ズルズルと棚に顔を伏せた。まるで「誰か引き取ってください」と貼り紙された売れ残りのぬいぐるみのように、自分の存在を棚の隙間に押し込んでいく。その背中が、なんとも言えず哀れで、なのにやっぱりウザい。
――くそっ、こうなると余計目立つ。
周囲をぐるりと見回し、小さく舌打ちした。あからさまに避けて通る親子連れが目に入った。レイがクンクンと鼻を鳴らし、ソワソワし始める。犬にまで気を使わせる事態とは何事だ。
「……いいから、こっち来い」
「えっ? おそろいですか? もしかして、ペアの首輪!?」
「声がデカい!」
そのまま鷹取のフードを引っ張って強引に隣の棚へ移動し、店員に声をかける。
「犬と人間がつけられるデザインのペアアクセって、あります?」
店員の口角がピクリと引きつり、目が一瞬だけ泳いだ。明らかに「関わりたくない」と書かれた表情を、必死に接客スマイルで塗りつぶしている。
「……あ、はい、こちらですね。えっと、最近は“ペットとおそろい”のネックレスやブレスレットが人気でして」
「首輪、あります?」
「人間用の“風”になりますが……こちらです」
案内されたのは、革製でリングチャームのついたシンプルなデザイン。首輪というよりチョーカーに近い。犬用と人間用で微妙にサイズが違うだけの、完全ペアデザイン。
「……チッ、こいつと一緒かよ」
子犬のレイを見下ろし、不満げに鷹取が唇を尖らせた。子犬も、心なしか目を細めていた。俺は値札をちらりと見て、眉をひそめる。
「不満なら返品するぞ」
「え〜〜ダメです! もうこれは俺のですから!」
鷹取はチョーカーの箱を両手で大事そうに抱きしめた。箱の角を親指で撫でながら、うっすらと目を細めている。その目には、長年探していた宝物をやっと見つけた少年のような、無垢でまっすぐな光が宿っていた。
「じゃあレジ行くぞ。さっさと買って、帰るからな」
「はいっ、青空くんの家に直行ですね!」
「寄らねえよ」
「え〜! じゃあせめて、青空くんがつけてくださいよ。俺、青空くんに首輪つけてもらわないと燃えないんで!」
「変態発言やめろっつってんだろ!」
再び周囲の視線が集まる。俺は咄嗟にレイを掲げ、犬に罪をなすりつけるように言った。
「……すいまっせーん、うちの犬がちょっと吠えまして」
「えっ!? こいつ悪さしたんですか!? けしからんですね!」
「いいから黙れ鷹取!」
結局、鷹取の騒ぎに根負けした真壁は、レジでふたつのペア首輪を買い、店を出たところで肩を落とした。
「もう……勘弁してくれ……」
「青空くん!」
鷹取がぴょんと横に立ち、首輪の箱を抱えたまま、無邪気な笑顔を向けてきた。
「俺、この首輪、一生大事にしますね。青空くんに選んでもらったやつですし」
「……捨てるなよ。燃えるゴミじゃねえからな」
「捨てるわけないじゃないですか! 俺にとっては婚約指輪みたいなもんですよ〜」
「首輪が?」
「はい。愛の証!」
「おまえ、脳みそミジンコレベルになってねえか?」
「えっ、じゃあ飼い主の青空くんが俺を躾けてください!」
「だから俺に変態プレイをさせんなって……」
「ちょっとだけ。ちょっとだけでいいですからっ!」
俺は子犬を抱きなおし、視線をそらす。
うるさくて、迷惑で、ストーカーじみてる。
でも――
ふと、横目で見る。首輪の箱を胸に抱きながら、鷹取は軽やかな足取りで歩いていた。まるで足元に音符が踊っているみたいに、スキップしそうな勢いで。箱の上に添えた親指が、リング部分をそっと撫でている。その表情は、宝物を手に入れた少年――いや、飼い主に愛を示された犬のように、嬉しさで顔がほころびきっていた。その姿に、思わずため息が漏れる。
まったく、どうしてこいつは、こんなに無邪気に懐いてくるのか。
「……レイ。おまえ、いつかあいつに噛みついてくれ」
レイはピクリと耳を動かし、小さく「くぅん」と鳴いた。
「おはようございます! あなたの飼い犬がお迎えにあがりましたよ!」
俺は条件反射でドアを閉めた。金属の蝶番が悲鳴を上げ、バタンという音が朝の静寂を裂く。手のひらには、鈍い反響音とともに微かな震えが残った。
玄関の外から、くぐもった声が聞こえてくる。
「あれ? 青空くん? 閉まっちゃいましたよ」
――閉めたんだよ!
鷹取はガチャガチャとドアノブを引っ張っている。むりやりに捻られたドアノブは、そのうち嫌な音をたてだした。
「おいやめろ! 壊れちまう」
俺はしぶしぶドアを開けた。
「おい、なんで朝からてめえの面拝まなきゃならねーんだよ」
「……? 飼い犬と飼い主の関係なので!」
「だからおまえを飼うつもりはないって……はあ……」
ため息をついていると、小さな足音がとてとてと廊下の奥から弾むように近づいてくる。振り返るより早く、ズボンの裾がくいっと引かれた。
「にいに〜!」
柔らかな声と一緒に、甘い朝の匂いが漂う。ミルクと石けんの匂いだ。
「なんだよみらい、保育園の時間はまだだぞ?」
駆け寄ってきた妹を抱き上げる。みらいは俺の腕の中でぐるんと向きを変え、鷹取をじっと見つめた。そして小さな人差し指をやつに突きつける。
「……だれ?」
「俺は鷹取玲、青空くんの飼い犬です!」
「わんわん?」
「はい!」
鷹取は無邪気に笑っている。
俺はすかさず「妹に嘘教えんじゃねえ」と鷹取の頭を叩いた。
だが、鷹取は痛みをものともしない。しゃがみこみ、みらいと視線の高さを合わせる。頬を緩めた笑顔はまぶしくて、まるで小さな太陽みたいだった。
「青空くんの妹さん、お名前は?」
「……みらい」
「みらいちゃん! かわいい名前だね」
みらいに向かってにっこりと微笑む鷹取。忘れていたが、こいつは外見だけは上等だった――端正な顔立ちを持つ爽やかな少年を見て、みらいはとたんに目を伏せ、頬を赤らめる。もじもじと俺のシャツの裾を握り、ちら、と鷹取を見上げた。
「う、うん……ありがと」
「どういたしまして! そうだ、飴ちゃんあげる!」
「わあ〜!」
鷹取に棒つき飴をもらったみらいは、歓声を上げ、その場でくるくると回り始めた。
「知らない人……いや、知らない犬に食べ物なんてもらうんじゃない」
俺は妹の頭を撫でる。みらいは兄の進言なんてどこ吹く風で、飴を舐め出している。
鷹取はそんなみらいを優しい顔で眺めていた。まるで、まともな人間みたいに。
「……おまえ、子どもにはまともなのな」
「俺はいつだってまともですよ?」
鷹取は、なにも考えていない間抜けのように笑っている。
でも、ふと疑念が湧いた。
鷹取の奇行。あれって、実はぜんぶ演技なのでは……? そうする理由が一ミリもわからないが。
鷹取の横顔に目をやる。笑っている――けれど、その笑顔は目元だけがやけに静かだった。わずかに顎が震えていたような、気のせいのような。
――演技か?
心の奥に、氷のような違和感がひとしずく落ちた。
――考えすぎ、か。
俺は鷹取に振り回されている場合じゃないことを思い出す。登校前に、犬の散歩に行かなければ……。
子犬のレイにリードをつけ、抱き抱えた。レイは嫌がることもなく、大人しかった。そして玄関を出て歩き出すと、当然のような顔をして鷹取もついてきた。
背後を振り返り、鷹取に人差し指を突きつける。
「ついてくんな。これから犬の散歩なんだよ」
「犬の散歩なら、俺も行かないと」
「……犬自認なの、やめれる?」
「無理です! 俺は青空くんの飼い犬なので!」
鷹取は元気よく返してきた。
――こいつがまともかもとか思ったの、やっぱ勘違いだわ……。
俺は一旦、鷹取の存在を無視することにした。
車の通っていない路地まで歩き、子犬を地面に下ろす。地面に下ろされたレイは、パッと耳を立てて、尻尾を小刻みに揺らした。アスファルトに鼻を近づけては、草むらの影を覗き込む。ときおり、不安げにこちらを振り返るその黒目は、まるで「ついてきてるよね?」と俺に訊いているみたいだった。
レイが俺に視線を向けるたびに、隣にいる鷹取が威嚇の唸り声を上げた。
「犬ぅ……! 俺の青空くんに色目使うんじゃねえ……」
「俺のとかキショいこと言うなら殴るぞ」
「ごめんなさい……」
鷹取がしゅんと項垂れる。すると、子犬は「ふぅん!」と満足げに鼻を鳴らした。まるで勝ち誇っているかのようだ。当然、鷹取は怒り出す。
「おい、いま俺のこと笑っただろ! 笑ったよなあ⁉︎」
「くぅん?」
「ぶりっ子してんじゃねえよ、犬ぅ‼︎」
「鷹取、うるせえぞ」
「……だって、だって、そいつが俺のこと笑ったんですよ……」
それから散歩が終わるまで、鷹取はずっと泣き真似をやめなかった。鬱陶しいことこの上ない。鷹取は、さっきから鼻をすんすん鳴らしている。喉の奥でわざとらしく立てられるしゃくりあげに、空の清涼感が台無しだ。
家に帰ってから、高校へ向かう道にも、鷹取はついてきた。
秋の風が制服の隙間から入り込んで、ひやりと肌を撫でた。空は高く、どこまでも青い。暑くもなく、寒くもない。心地良い気温に、自然と心も解けていくような朝だ。
なのに俺の隣には、飼い犬志望の変態野郎という災害が、のうのうと歩いている。気分を台無しにする男。
「……それにしても、青空くんは朝から爽やかでかっこいいなあ。モテるんじゃないですか? この〜元ヤン眼鏡さん!」
俺を褒め称える(?)鷹取。まったく嬉しくない。また微妙に褒めてないし。
「あのさ、昨日から気になってはいたんだけど」
「なんです?」
「おまえって、男が好きなSM趣味なわけ?」
「へ……」
鷹取はぽかんと口を開けたまま固まった。次の瞬間、耳まで真っ赤に染まる――りんごみたいに。首元を押さえて視線を泳がせ、ちらっと俺を見上げて、すぐに目を逸らす。
――ああ、完全に混乱してやがる。面白いくらい分かりやすい。
動揺する鷹取の姿に、俺は少しだけ留飲を下げた。
「す、すすす好き⁉︎ ま、まあ、好きですけど……恋人になるのは、ちょっと早くないですかっ⁉︎」
「誰も恋人になろうなんて言ってねえよ」
「えっ、あれっ……?」
「バーカ、ポジティブ早とちり王」
「な……な、な、な……!」
わなわなと震える鷹取。
「これ以上、夢中にさせて。俺をどうするつもりなんですか⁉︎」
鷹取が顔を真っ赤に染めて、眉尻を下げた。なのに口元には、かすかに笑みの残骸みたいなものが貼りついてる。
「……罵られると夢中になんのかよ。おまえの性癖、エグいな……」
そう言った俺の声も、どこか引きつっていた。
二人の間に、唐突に静けさが落ちる。風の音すら遠のいた気がした。
(まだ十代なのに。そんな年でこんなに拗れてんのか)
胸の奥が、かすかにざらつく。鷹取が、ちょっとかわいそうに思えてきた。
***
昼休みの教室に、紙の擦れる音が唐突に響いた。
「見てください、青空くんっ!」
俺が弁当の箸を止めたのとほぼ同時に、目の前に差し出されたのは、何の変哲もない――いや、このタイミングで見せられる状況は変哲でしかないが――ペット用品の通販カタログだった。
ずずい、と掲げられたページをよく見ると、そこには煌びやかな装飾を施された首輪が、ズラリと並んでいる。犬用とは思えないデザインも混じっている。レザーにスタッズ、金属製のリング付き。中にはリボンと鈴がついたものまで。人間用のアクセサリーより値が張りそうなものばかりだ。
「青空くんはどの首輪が俺に似合うと思いますかっ?」
「……は?」
「俺としてはやっぱり黒がシックでかっこいいと思うんですけどぉ〜。あ、でも俺ってかわいいとこもあるんで、意外とピンクなんかも似合っちゃったり……⁉︎ いや、待ってください、逆に水色で爽やか系も――」
俺は、箸を置いた。というか、置かざるを得なかった。昼休みに飯を食う権利は、クラスメイト全員に与えられているはずだが、それを妨害してくる男がここにいる。
鷹取玲。転校してきてからまだ数日のはずなのに、なぜかやたら懐かれている。
いや、懐かれているというか――
「うるせえー!」
怒鳴った声が教室に響いた。とたんに教室内の空気が、凍りついたように静まり返る。
俺は自分の声の大きさに気づき、すぐに周囲の視線が突き刺さるのを感じた。見回すと、弁当の箸を止めた者、スマホの手を止めた者、何人ものクラスメイトが、驚き半分、呆れ半分の顔でこちらを見ていた。
と、その中のひとりが、鼻で笑いながらつぶやく。
「変態プレイはよそでやってくれない?」
「ちげっ……違うよ! 誤解だよ。俺が真面目で品行方正な人間なのは、知っているよね」
慌てて声を上げたが、すでに取り返しはつかない。笑い声が数カ所からこぼれたかと思えば、別の女子が冷たい声で言い放った。
「いや、知らんけど」
バッサリと切られたその一言に、俺は机に突っ伏したくなった。
――どうして、俺がこんな目に……。
「いやあ……空気読めなくてすみませんっ!」
鷹取が教室中に向かって土下座しかけたのを見て、俺は無言でカタログを閉じさせた。
「やめろ。今すぐ、やめろ。なにもかもやめろ」
「でも、俺、青空くんの飼い犬ですから……」
「言うなっつってんだろ、それを!」
ふざけているように見えて、たぶん本気なのが厄介だ。
俺は、思わず頭を抱えた。
「鷹取……頼むから、普通にしてくれ」
「俺の普通がこれなんですけど?」
「終わってんな」
鷹取はそれを褒め言葉と受け取ったらしい。嬉しそうに首をかしげた。
「じゃあ、青空くんの飼い犬として相応しい首輪を、俺、探しておきますね」
「もう喋るな、お願いだから」
「リードも選びます?」
「おい、俺は人間を繋いで散歩させる趣味ねえから!」
そんなやりとりをしている間に、教室内の空気は少しだけ緩んでいた。クスクスと笑う女子。肩をすくめる男子。どうやら彼らなりに、諦めと慣れが芽生えてきたらしい。
俺はふと、先ほどの怒鳴り声を思い出し、そっとため息をついた。荒々しく誰かに怒鳴るなんて、ここ数年していなかったのに。
大声を出してしまったことを、後悔していないわけじゃない。けれど――
「青空くんって、怒っても怖くないんですよねー。もっとキツく叱ってもいいんですよ?」
「俺にそういう趣味はねえっつってんだろ!」
鷹取の頬に浮かぶ笑顔が、どこまでも嬉しそうだった。
……まあ、笑ってるなら、いいか。
そう思ってしまう自分に、密かに頭を抱えるのだった。
***
風がまだ冷たい午後三時。
校門を出た瞬間、ひやりとした風が首筋をなでた。その冷たさと一緒に、妙なざわつきが背中を這い上がる。誰かに見られている――そんな直感が、喉奥をきゅっと締めつけた。ちらりと振り返れば、予想通りだった。十メートルほど後ろに、鷹取玲がいる。制服の裾を揺らしながら、まっすぐこちらを見つめていた。
「……おい、またついて来てんのかよ」
声をかけると、鷹取は、まるで待ち焦がれていた恋人に出会ったかのように、目尻をきゅっと下げて小さく手を振った。その仕草には子犬のような無邪気さと、どこか常軌を逸した確信めいたものが同居している。笑ってはいるが、足取りは一定。まるで訓練された番犬のように、ぴたりと距離を保ってついてくる。
俺は大きくため息をついて、歩く速度を上げた。
が、それでも鷹取の足音は変わらない。
――律儀すぎて怖いんだよ、お前は。
角を曲がっても、信号を渡っても、ずっとついてくる。
道中で缶コーヒーを買おうとしただけで「ブラックは今日三本目ですね」と言われたときは、さすがに背筋が冷えた。
「……おい、おまえさ。下校くらいひとりにしてくれよ」
「でも、俺の飼い主がどこに行くのか、見守らないと。飼い犬の義務なので」
「当然みたいな口ぶり、なに? いったいどこの界隈の常識なんだよ、それ」
俺はやれやれと頭を掻いた。
放っておけば本当に家まで来そうだったので、途中の公園で足を止める。
「犬の散歩してから帰る。おまえは帰れ」
言いながら、ポケットから買ったばかりのリードを取り出す。
あの子犬――昨夜も一緒に寝た、ふわふわの毛玉――が、家で俺の帰りを今か今かと心待ちにしているだろう。
鷹取はそれを見つけた途端、きらりと目を輝かせる。
「俺もリード、つけて行きましょうか?」
「つけるな。犬は一匹で十分だ」
「じゃあ、首輪だけでも――」
「言ってて恥ずかしくねえのか!? 人間だよな、おまえ!」
「飼い犬ですけど」
返ってきたのは、いつもの笑顔。にこりと笑うその顔に悪意はない。ただ純粋で、まっすぐで――だからこそ、質が悪い。
「……だめだこいつ」
思わずそう呟いていた。
そのあと――公園で犬のレイと遊んでいる間も、鷹取は現れた。
「……いた」
「うわっ!? おまえ、どこから湧きやがった!?」
俺は食べていたパンを落としかけ、慌ててキャッチした。
振り返れば、すでに鷹取が俺の隣に座っている。いつ来た、というかどうやって来た。
「この公園、月曜日と木曜日の散歩の休憩によく使ってますよね」
「どこまで把握してんだよ」
「記録してますから。ほら」
そう言って鷹取は、まるで自慢の作品を見せる画家のように、そっとメモ帳を差し出した。表紙には「本日の観察メモ♡」と丸い字で書かれており、ところどころに犬や猫のシールが貼られている。だが、その中身は――禍々しいほどに綿密で、俺の一挙手一投足が、まるで監視カメラのような正確さで記されていた。
びっしりと書かれた文字列。「青空くんの好きなパン→チョココロネ。食べる時の順番→しっぽから。癖→食べる前に袋の裏のカロリーを見てため息をつく」「今日の青空くんは、5時間目に窓の外を見て3回ため息をつきました」などなど、妙にリアルで怖い。
――なにが目的なんだ、こいつは。
恐怖を通り越して呆れた。
「それ、捨てろ。今すぐに」
「無理です。俺の宝物なので」
笑顔は満開。
気持ち悪い。ホラー映画でもこんな無邪気な執着は見たことがない。
「……はあ。俺、今ほんとに犬と話してる気分だわ」
「ワンって鳴きましょうか?」
「やめろ! 食欲がなくなる!」
頭を抱える俺をよそに、鷹取は、ふわりと笑みを浮かべながらバッグをごそごそと漁った。やがて、両手で丁寧に包んだ紙袋を差し出す。その仕草はまるで、神に供物を捧げる巫女のように静かで慎重だった。
「栄養偏ってますから、これもどうぞ。昨日も夕飯はカップ麺でしたよね?」
差し出してきたのは、彩りの良いサラダと、フルーツヨーグルト。細かく刻まれた赤パプリカや紫キャベツ、淡いオレンジの柿とキウイ。見た目にも栄養バランスが考え抜かれていて、いかにも「手作り」と言いたげな佇まいだ。
「なに勝手に俺の健康管理してんだよ!?」
「飼い主が倒れたら、寂しいので」
「おまえの感情のために俺の胃腸があるんじゃねえ!」
思わず立ち上がりかけたが、鷹取の表情がわずかに曇るのを見て、俺は慌てて腰を戻した。
なにが「寂しいので」だ。意味がわからない。何重にも謎がある。だけど、ふと漂ってきた酸味のあるドレッシングの香りに、鼻がひくりと動く。
一口。いや、ほんの少しだけ味を見てやろうと、フォークを手に取った。
――……うまい。しかも、俺の好みに寄せてある。酸味とコクのバランスが絶妙だ。なんで知ってるんだ、こんなこと。
咀嚼するたびに、敗北感がじわじわと腹の底に滲んでくる。顔には出すまいと唇を引き結んだが、きっともうバレている。鷹取が視線を外さないから。
心底意味がわからない。けど――このサラダ、くそ美味いんだよ。
俺は敗北感でいっぱいだった。
そうして――俺は疲れ果てて家に帰った。子犬のレイはまだ元気いっぱいで、小さな尻尾を全力で振って、嬉しそうに足にじゃれてくる。
「……はー、おまえだけだよ、癒しは」
靴を脱ぎながら、俺はしゃがみ込んで子犬の頭を撫でる。
「おまえが鷹取だったらな……まあ、それはそれで困るか」
くぅんと鳴いて、子犬が鼻先を寄せてくる。
「つーかあいつ、人間なのに犬名乗ってんの、どう考えてもおかしいよな。しかも、首輪つけたがるとか。俺、どんどん学校で変態キャラになってるっつーの……」
愚痴りながら、ソファに沈む。
「……はあ。あいつ、黙ってりゃイケメンなのにな。ムカつく」
つい口をついて出たぼやきに、犬が元気よく「わんっ」と鳴いた。
「おまえは可愛いのにな」
ため息まじりに笑って、子犬の頭をぽすぽすと撫でた。
しかしそのとき、スマホが振動する。画面には見慣れない番号からのメッセージ。
《青空くんの犬のリードを引っ張る姿、似合ってましたよ》
「……なに見てんだよおおおお!!!」
俺の情けない叫び声が響き渡った。
***
日曜の午後。ショッピングモールの一角、ペット用品専門店の店頭のガラスには、丸い瞳でこちらを見つめる子犬たちの写真が貼られていた。どれも計算された角度で愛らしさを切り取られており、その裏に見え隠れする商業主義が妙に生々しかった。
「ほらよ。レイ、入るぞ」
腕の中に抱えた白いポメラニアンが、もふりと毛を揺らして顔を上げる。つぶらな瞳がくるりと俺を見上げた。ふわふわの体温が、二の腕に心地よく触れる。まだ生後四ヶ月。小さな首輪はゆるく、すぐに抜けてしまいそうだった。きちんとしたものを買わなきゃ――そんな思いつきで、俺はこの店に立ち寄った。
引き戸のセンサーが反応し、店内に入る。冷房の効いた空気に包まれ、かすかに動物用シャンプーの匂いが鼻をくすぐる。棚にはカラフルなドッグフード、おもちゃ、リード、ケージ――整然と並んだ商品群が、機能美のように視界に広がっていた。ガラスケースの中、白い子猫が丸まって眠っている。かすかな寝息が曇りガラスにしみつきそうだった。
俺はレイを抱いたまま歩を進め、首輪売り場の一角で足を止めた。ふと、背中に熱のようなものを感じる。空調の風とは明らかに違う。
――この気配。間違いない。
「っ……またかよ」
振り返らずともわかる。背後から忍び寄る、軽い足音。わざとらしく間を空けながらも、確実に俺を追ってくる気配。目を向けずとも、誰かがそこにいると確信できるほどに、俺の“勘”は鷹取に毒されていた。
「青空くん〜〜〜! やっぱり来てましたねっ!」
案の定だった。
満面の笑みで走り寄ってくるのは、休日仕様のパーカーにジーンズ姿の鷹取。なぜ週末の俺の行動をピンポイントで把握しているのか、冗談抜きでGPSを疑いたくなる出現率だ。瞳は嬉々と輝き、両手を大きく広げてくるさまは、まるで愛犬を出迎える飼い主のようだった――立場が完全に逆なのに。
「首輪! 買ってください〜!」
「おまえのじゃねえ。レイのだ」
「え〜、つまんない。俺のも買ってくださいよぉ。ご主人とおそろいのやつ!」
レイを抱き上げたまま、俺は動けなくなった。全身が瞬間接着剤で固められたように凍りつく。背後から視線が刺さるたび、背中がじわりと汗ばんだ。笑い声、商品棚のきしむ音、ショッピングカートの軋む車輪――店内のすべてが、まるで俺をあざ笑っているように耳に入ってくる。
「なあ、鷹取……」
俺は声を低くした。
「いいから黙れ。ここ、公共の場な」
「えっ、俺、なにか変なこと言いました?」
「言っただろうが。てめえとおそろいの首輪なんか、買うわけねぇだろ」
「ちょっと待ってください、それ、言い方キツすぎません!? さすがに傷つきます!」
鷹取は肩を落とし、ズルズルと棚に顔を伏せた。まるで「誰か引き取ってください」と貼り紙された売れ残りのぬいぐるみのように、自分の存在を棚の隙間に押し込んでいく。その背中が、なんとも言えず哀れで、なのにやっぱりウザい。
――くそっ、こうなると余計目立つ。
周囲をぐるりと見回し、小さく舌打ちした。あからさまに避けて通る親子連れが目に入った。レイがクンクンと鼻を鳴らし、ソワソワし始める。犬にまで気を使わせる事態とは何事だ。
「……いいから、こっち来い」
「えっ? おそろいですか? もしかして、ペアの首輪!?」
「声がデカい!」
そのまま鷹取のフードを引っ張って強引に隣の棚へ移動し、店員に声をかける。
「犬と人間がつけられるデザインのペアアクセって、あります?」
店員の口角がピクリと引きつり、目が一瞬だけ泳いだ。明らかに「関わりたくない」と書かれた表情を、必死に接客スマイルで塗りつぶしている。
「……あ、はい、こちらですね。えっと、最近は“ペットとおそろい”のネックレスやブレスレットが人気でして」
「首輪、あります?」
「人間用の“風”になりますが……こちらです」
案内されたのは、革製でリングチャームのついたシンプルなデザイン。首輪というよりチョーカーに近い。犬用と人間用で微妙にサイズが違うだけの、完全ペアデザイン。
「……チッ、こいつと一緒かよ」
子犬のレイを見下ろし、不満げに鷹取が唇を尖らせた。子犬も、心なしか目を細めていた。俺は値札をちらりと見て、眉をひそめる。
「不満なら返品するぞ」
「え〜〜ダメです! もうこれは俺のですから!」
鷹取はチョーカーの箱を両手で大事そうに抱きしめた。箱の角を親指で撫でながら、うっすらと目を細めている。その目には、長年探していた宝物をやっと見つけた少年のような、無垢でまっすぐな光が宿っていた。
「じゃあレジ行くぞ。さっさと買って、帰るからな」
「はいっ、青空くんの家に直行ですね!」
「寄らねえよ」
「え〜! じゃあせめて、青空くんがつけてくださいよ。俺、青空くんに首輪つけてもらわないと燃えないんで!」
「変態発言やめろっつってんだろ!」
再び周囲の視線が集まる。俺は咄嗟にレイを掲げ、犬に罪をなすりつけるように言った。
「……すいまっせーん、うちの犬がちょっと吠えまして」
「えっ!? こいつ悪さしたんですか!? けしからんですね!」
「いいから黙れ鷹取!」
結局、鷹取の騒ぎに根負けした真壁は、レジでふたつのペア首輪を買い、店を出たところで肩を落とした。
「もう……勘弁してくれ……」
「青空くん!」
鷹取がぴょんと横に立ち、首輪の箱を抱えたまま、無邪気な笑顔を向けてきた。
「俺、この首輪、一生大事にしますね。青空くんに選んでもらったやつですし」
「……捨てるなよ。燃えるゴミじゃねえからな」
「捨てるわけないじゃないですか! 俺にとっては婚約指輪みたいなもんですよ〜」
「首輪が?」
「はい。愛の証!」
「おまえ、脳みそミジンコレベルになってねえか?」
「えっ、じゃあ飼い主の青空くんが俺を躾けてください!」
「だから俺に変態プレイをさせんなって……」
「ちょっとだけ。ちょっとだけでいいですからっ!」
俺は子犬を抱きなおし、視線をそらす。
うるさくて、迷惑で、ストーカーじみてる。
でも――
ふと、横目で見る。首輪の箱を胸に抱きながら、鷹取は軽やかな足取りで歩いていた。まるで足元に音符が踊っているみたいに、スキップしそうな勢いで。箱の上に添えた親指が、リング部分をそっと撫でている。その表情は、宝物を手に入れた少年――いや、飼い主に愛を示された犬のように、嬉しさで顔がほころびきっていた。その姿に、思わずため息が漏れる。
まったく、どうしてこいつは、こんなに無邪気に懐いてくるのか。
「……レイ。おまえ、いつかあいつに噛みついてくれ」
レイはピクリと耳を動かし、小さく「くぅん」と鳴いた。



