その日は、どしゃ降りの雨が街全体を包んでいた。
歩道のアスファルトに叩きつけられた雫が、飛沫を上げて跳ね返る。濡れた落ち葉が靴底に貼りつき、踏みしめるたびにぐしゃ、と沈んだ音を立てた。
土と濡れた草が混じり合った匂いが、空気にじっとりと滲む。冷たい雨のせいで、鼻の奥がつんとする。制服のシャツが肌に張りついて、背筋を冷やした。肩に引っかけた鞄の重みも、水分を吸ってずしりと沈む。眼鏡には水滴が落ち、視界を曇らせている。
「うざってえ雨……」
俺は低くぼやいた。が、ため息交じりのその声は、容赦ない雨音に掻き消される。北風が吹きつけてきて、思わず肩をすくめた。濡れた前髪が頬にはりつき、視界の端がじわじわと霞んでいく。
腕時計に目を落とす。午後四時十五分。針の進みがやけに速く感じた。
――やっべ、みらいのお迎え時間、過ぎてんじゃねえか。
額を押さえ、舌打ちを飲み込んだ。妹の迎えが遅れると、えらい騒ぎになる。大泣きして、保育士の先生に抱えられて、鬼の形相で「にいにがこなかった!」と叫ぶ姿がありありと浮かぶ。
通学路を走り出す。制服の裾が膝にまとわりついて走りづらい。駅まで出ればレンタル自転車が借りられる。そう思って角を曲がった、そのときだった。
「……きゅう……」
なにか、か細い声が聞こえた。耳鳴りのように儚く、けれど確かに生き物の鳴き声だった。
「……なんだ?」
一瞬、聞き間違いかと思った。だが足が止まる。耳を澄ませると、草むらの向こうから、再び声が――
「きゅう……きゅう……」
雨の音に混じるように、必死な声が続いていた。
走り去ることもできた。だが、できなかった。雨で濡れた髪を手でかきあげ、ため息をつく。
「クソ……」
悪態をつきながら、草むらに近寄った。足元の泥が跳ねて、ズボンの裾に黒いしぶきが散る。街路樹の根元の窪み。草をかき分けると、そこに――小さな段ボール箱が見えた。雨に打たれてふやけ、底が抜けかけている。中に、痩せ細った犬がうずくまっていた。
全身は水を吸って、毛並みは細く張りつき、まるでネズミのようだった。震える身体は、骨の形が浮き出るほど細く、目だけがやけに大きく、こちらを見つめていた。その目に、怯えと、ほんの少しの希望があった。
「……捨てられたのか、おまえ」
しゃがみこんで、そっと問いかける。犬は答えない。ただ小さく、鼻をひくつかせるだけだった。思わず手を伸ばす。その身体は驚くほど軽い。抱き上げた瞬間、毛の間から骨のごつごつした感触が伝わってきて、心臓がぎゅっと縮んだ。
――いつから、こんなとこにいたんだよ。
皮膚の下から伝わる冷たさに、急に我に返る。早く体温を上げてやらねえと――そう思った。
学ランの襟を開き、犬をそっと懐に抱え込む。濡れた小さな身体が服の中でかすかに震えるたび、自分の心臓の鼓動まで乱された。
「少し狭いけど、辛抱しろよ」
小さく言って、胸元を軽く押さえた。犬はしばらくじたばたしていたが、俺の匂いをひとしきり嗅ぎ回ると、次第に大人しくなった。その様子に、ふっと笑みが漏れる。
「居場所がねえんだろ? 安心しろ。今日から俺が飼ってやる」
子犬は、不思議そうに俺の顔を見上げた。そのとぼけた顔が可愛くて、鼻をツン、と指でつついた。
「……っ!」
そのとき、すぐそばで物音が聞こえた気がした。だが、周りを見回しても誰もいない。
――気のせいか。
ほっと一息ついてから、スマホを取り出す。
みらいの泣き顔が浮かぶ。きっと俺が迎えに行かなかったら、わんわん泣くだろう。でもそれより、この子犬を見捨てるほうが、もっとひどい未来だと思えた。
「母さん、ごめん。今日みらいの迎えにいけそうにない」
『――ええ〜⁉︎ 今日は青空の当番でしょ?』
「そうだけど、ほんとごめんって。今すぐに病院に連れて行かないといけねえやつがいてさ」
『……仕方ないわねえ』
「うん。週末の家事手伝うからさ、うん、うん……じゃあね」
母との通話を切り、子犬を見下ろした。
――動物病院で診察を受け、家に着いたのは、日が暮れかけた頃だった。
空には濡れた絵の具のような雲が広がっている。街灯がともると、地面の濡れたアスファルトに橙色の光がぼやけて映っていた。
靴を脱ぎながら、抱えていた子犬がピクリと身をよじった。俺の腕の中で丸まっていたそれは、ずっと小刻みに震えていた。寒さというより、怯えの名残だろう。
「……まずは風呂だな」
誰にともなくつぶやいて、子犬をタオルでそっと包み込む。脱衣所に向かうと、鏡の向こうに映った自分の髪が雨でしっとりと濡れていた。蛇口をひねると、白い湯気が湯船の縁から立ちのぼる。バスタブの中に、たらいを置く。お湯は浅く、子犬の小さな身体が沈まないように、慎重に注いだ。
「おまえ、風呂とか初めてか? って、わかんねーか」
そっと湯に足をつけさせる。犬の体がビクンと跳ねて、お湯が湯船の縁からこぼれた。思わず息を呑んで動きを止める。子犬が「きゃん」と鳴いて俺のほうを見た。目はまん丸で、濡れた黒曜石みたいに光っている。その中に、不安と――少しの安心が、交ざっていた気がした。
「こえーよな。知らねー奴に連れてこられて、変なとこに入れられて。……でも大丈夫だ。悪いようにはしねえよ」
スポンジを泡立てて、優しく毛並みを撫でる。毛の間から、細いあばらが浮かび上がった。その細さが、ひどく胸に刺さる。誰かが手を差し伸べていれば、こんなに痩せなくて済んだはずだ。そもそも、元の飼い主が捨てていなければ……。
――ほっとけなかった。
見捨てるなんて選択肢は、最初からなかった。
「なあ、おまえさ。名前……どうしようか」
泡を洗い流しながら、つぶやく。言葉にすることで、自分の中にある決意がはっきりと輪郭を持った気がした。
「拾っただけって言ったら、それまでだけどさ。……もう、うちの家族ってことで、いいだろ」
俺の声に、子犬が小さく「きゅ」と応えた。それが肯定かどうかなんてわからないけど、勝手にそうだと受け取ってしまう。タオルでくるみ、そっと胸に抱いた。湯でふやけた体温が、腕の中でじんわりと伝わってくる。どこか、人間の赤ん坊を抱いてるような気分になった。
「おまえさ、人に捨てられて、どんな気分だった?」
もちろん返事はない。でも、俺は無意識のうちに訊いていた。
「誰かに捨てられるって、どういう気持ちなんだか俺、わかんねえんけど。きっと、最悪な気分だったろ?」
自分でも不思議なくらいに、素直な言葉が出てきた。こいつの小さな身体が、言葉じゃない言葉で問いかけてくるからかもしれない。
「……でもさ。捨てられたってだけで、おまえの価値がなくなるわけじゃねえよ」
バスタオルでくるんで、ドライヤーのスイッチを入れる。ふわりと毛が浮き上がって、濡れていた犬の輪郭が、少しずつ本来の形に近づいていく。子犬は、どうやらポメラニアンみたいだった。毛が乾いていくごとに、子犬は元々の姿を取り戻していく。
「今日からおまえ、うちの家族な。よろしく!」
タオルの中から、くしゃくしゃの顔がのぞいた。小さな鼻がぴくぴくと動き、子犬はまるで笑っているみたいに目を細めた。
***
翌朝。
窓から見えるのは、秋の曇り空。陽は隠れたり覗いたりと落ち着きがない。風が吹くたび、葉がひらひらと宙を彷徨っている。なんだか落ち着かない気分だった。俺の中の気持ちも、同じように不安定に揺れていた。
俺の通う水越第一高校二年一組は、今日も朝から騒がしかった。担任の教師がやってくる束の間、男子数人はボール遊びをしていたり、女子の軍団は固まってお喋りに花を咲かせている。
俺は騒ぎから離れ、ひとり窓の外を見つめながら、子犬のことを考えていた。
――あいつ、大人しくしてるかな。
前の晩、風呂に入れたばかりの子犬が、今朝はタオルの上で丸まって眠っていた。触れたとき、指先に感じたふわふわの体温が、まだ心に残っていた。
(目を覚ましたときに俺がいなくて、泣いてなきゃいいけど……)
教室のドアが開いたとき、俺は子犬を心配して、ぼんやりと外を眺めていた。
「みんな注目! 今日からこのクラスに転校してきた鷹取玲くんだ」
担任の声に振り向く。黒板の前に立っていたのは、どこか浮世離れした雰囲気のある少年だった。
すっと通った鼻筋に、切れ長の目。笑ってもいないのに微笑んでいるような唇。背が高く、制服の袖から覗く指がやけに白く細い。無造作なのに、計算されたように流れる黒髪。どこか人間味が薄くて、絵の中から抜け出してきたような印象だった。
女子が途端に色めき立ち、喜びを隠せない囁き声で、教室内が満たされていく。
――が。
(あ? 今、目が合ったような……)
ばちり、と視線が合った。まっすぐで、やたらと強い視線。目を逸らす間もなく、そいつの顔がほころぶ。まるで、再会を心から喜ぶ犬みたいに――いや、狂ったように。転校生は、先ほどまでのクールな表情を完全に取り去っていた。
「飼い主……!」
……という、謎の言葉を発して。
次の瞬間、鷹取が俺に向かって一直線に駆けてきた。きらきらとした目で、まっすぐ。迷いもためらいも一切ない。
「うおっ、ちょ、待て、なんだおまえっ――!?」
がばっ、と勢いよく抱きつかれる。視界いっぱいに、鷹取の笑顔が広がる。近すぎる。ていうか重い。
背筋にぞわっと粘つくような悪寒が走った。
「やっぱり! 間違いないです! 飼い主!」
「飼い主ってなんだよ!」
騒然とする教室。
女子たちは「え、なに? 付き合ってんの?」とざわつき、男子たちは「真壁ってSM趣味持ってんの? やべー」と後退りしている。
頭の中が真っ白だった。
「いやいやいや、誰だお前!? なんで俺の名前知ってんだよ!」
「昨日、『今日から俺が飼ってやる』って言ってくれたじゃないですか」
鷹取は俺の腕の中で、うっとりとした顔をしている。まるで一晩中この瞬間を夢見ていたかのように。
――気色悪い。俺に人を飼う趣味はない。
担任や、クラスメイトたちからの視線は冷ややかで、痛かった。まるで「真壁、真面目だと思ってたのに変態だったんだな……」とでも言いたげな顔だ。
ピキッ、と、こめかみに血管が浮かぶのを感じた。俺が“優等生”でいるために、どれだけ神経すり減らしてきたと思ってるんだ。高校生になってから、人前でキレたことなんてなかった。でも、限界だった。
(ふざけんじゃねえ。せっかく優等生の皮をうまく被れていたっていうのに……)
これまで積み上げてきた自分の評判、イメージが、音を立てて崩れていくようだった。
混乱の中から、怒りがふつふつと湧いて出てくる。転校生の変態仲間だと思われたら、今後の学生生活に支障が出る。
俺はわざと転校生に笑顔を向けた。
「……なんか誤解してるみたいだね? あれはきみに言ったんじゃなくて、犬に言ったんだけど……」
「俺も犬ですよ!」
にっこり。鷹取はあまりにも自然な笑顔でそう言い返してきた。
「わんわん!」
極めつけに、鷹取は犬の鳴き真似をしながら、俺の足元でしゃがみ込み、四つん這いになった。教室中が凍りつく中、そいつは俺の足に頬を押し当て、まるでそれが当然だと言わんばかりに擦りつけてくる。柔らかい吐息が制服の裾を揺らして――背筋が凍る。
(……言葉が……通じない……)
あまりの衝撃に、俺は言葉を失った。
教室は静まり返り、誰かが落としたペンの音が、やけに響いた。
さっきまで「イケメン来たー!」と盛り上がっていた女子たちも、今は石のように固まっている。ドン引きしていた。
「……おまえ、頭、大丈夫か?」
ようやく絞り出した声に、鷹取はにこっと笑って「もちろんですよ」と即答した。根拠のない自信に満ちた顔だった。
――いや、どう見ても大丈夫じゃないから聞いてるんだが。
こちらの意図はまったく伝わっていなかった。
そのあと、鷹取はずかずかと俺の隣の席にやって来て、「あ、ここ。俺の指定席だから。どいて」と言い切った。当然、元の席の持ち主・高木が「えっ?」と声を上げるが、鷹取は聞いていない。俺の隣に座っていた高木は鷹取に突き飛ばされ、教室の隅に追いやられた。
担任は奇行を連発した鷹取に戸惑っていたが、「まあ、そういうことだから。みんな転校生と仲良くするように」とあっさり流した。鷹取の奇行を理解するのを、頭が拒否したんだろう。
気持ちはわかる。俺も巻き込まれた当事者じゃなければ、無視していたと思う。
「……なにあれ。やばくね?」
「なんか久々に“ホンモノ”見たわー」
クラスの空気が凍ったままだったのは言うまでもない。
そして――それから一日中、俺は鷹取の奇行に振り回されることになった。
まず、授業中でも鷹取は前を向かなかった。机は完全に俺の机にくっつけて、身体も黒板ではなく俺のほうを向いていた。
科目担当の教師たちは、鷹取の奇行に目を丸くした。だが、今日が転校初日と知ると「ああ、まだ緊張しているせいか」となぜかスルーしてしまう。
――緊張していたとしても、この行動は素でおかしいだろ! 止めてくれよ……!
そう叫びたくて喉まで出かかったが、優等生キャラを今日まで貫いてきたせいで言えなかった。こんなことなら、変に優等生ぶらなきゃよかった。
黙って耐えていると、すぐ隣から鷹取が話しかけてくる。
「飼い主さん! 昨日会ったときにも思いましたけど、男前ですね! 背がちょっと低めですけど」
「……その飼い主さん、って呼びかた、やめてもらえるかな?」
微妙にディスられているのは無視。
俺は鷹取に名前で呼ぶよう頼んだ。こいつが「飼い主」と言うから、ずっと周囲からの視線が気になる。
すると、鷹取は不思議そうに首を傾げる。
「俺はあなたの飼い犬ですよ? 飼い主を飼い主って呼ばなくてどうするんですか?」
「〜〜ッ!」
我慢の限界だった。俺は鷹取の胸ぐらを掴み、やつの耳元に囁いた。
「……おい、俺には真壁青空って名前がちゃんとあんだよ。せめて名前で呼べ、このアホ犬が!」
低く、ドスを効かせた声で命令する。普段の俺なら、こんな台詞は絶対に言わなかった。でも、こいつには“普通”が通じない。俺の本性がやつにバレたとしても、飼い主呼びよりはマシだ。どうでもよかった。
だが、怒鳴るように耳元で命じた瞬間、鷹取の顔がパアッと明るくなった。ゾッとするほど嬉しそうに。怖がるどころか、さっきまでよりも笑顔だ。やつは、俺の荒っぽい口調に大喜びしていた。
「そ、青空くん……! いや、青空様‼︎」
「『様』はつけんじゃねえ」
「はいっ!」
鷹取は指先までピンと揃え、敬礼をした。
「やっぱり、俺の見込んだ通りだ……! 青空くんは俺の飼い主にぴったりな人です!」
「……ドMか? おまえ」
「なに言ってるんですか。俺は変態じゃないです」
――どう見ても変態だろ。
そう思ったのは、絶対に俺だけじゃなかった。クラス中の総意だったことを断言する。
***
「ねえ、一組にイケメン転校生が来たって聞いたんだけど」
休み時間になると、まだ鷹取のヤバさを知らない他クラスの生徒が現れた。
クラス内に微妙な沈黙が流れた。女子のひとりが机に突っ伏し、「また来たよ……」と吐き捨てる。別の女子は、まるで忌み地に足を踏み入れたかのように、他クラスの生徒を止めるよう手を伸ばした。
鷹取の奇行をたっぷりと見てしまったクラスメイトの女子は、重々しいため息をつく。
「あー……ね。イケメンはイケメンだけど。ま、見てもらえればわかる」
「……? なにその含みは」
うんざりした同クラスの女子と、なにも知らない哀れな他クラスの女子。
そして、俺の横では、鷹取がひとりでマシンガントークを続けていた。
「青空くん! 青空くんはどんな犬種が好きですか? 俺はよくハスキーに似てるって言われるんですよ〜、ハスキーは好きですか?」
「好きじゃない」
「そんな⁉︎ どうして! ハスキーかわいいですよ。あ、おすすめのハスキー動画見ます? 俺、たくさん持ってますよ!」
「いや、いいって。いらな――」
「ああ! もしかして、大型犬より小型犬派なんですねっ? どうしよう、困ったな……俺ってば無駄に背が高くて。バスケットコートのゴールとか、余裕で手が届いちゃうし」
「もしかして喧嘩売ってる?」
「そんな、滅相もない! 青空くんは背が低くてもかっこいいですよ!」
「うん。やっぱり喧嘩売ってるな」
俺は握り拳を作って、鷹取を殴るべきか迷っていた。
「うわ……」
俺たちの会話を聞いていた他クラスの女子は、口角を極限まで下げ、キショい虫けらを見る目で鷹取を見ていた。当然だ。
そんなことが幾度か続き、鷹取の評判は一日と経たずに大暴落した。
***
放課後。帰宅してドアを開けた瞬間、外のざわつきが嘘のように消えた。ほの暗い玄関には、夕陽が差し込んでいて、薄暗い部屋の中がまるで光に溶けているようだった。
倒れ込むように家の中へ入ると、昨日拾った子犬が尻尾を振って駆け寄ってきた。
洗ったおかげで、橙色の毛並みが走るたびにふわふわと揺れる。嬉しそうに飛びついてきたので、背中を撫でてやると、とても柔らかい感触がした。子犬は気持ちよさそうに目を細めている。
「おまえだけだよ、まともなのは……」
小さな身体を撫でながら、ため息をつく。
「学校にも犬が一匹いてさ」
思わずつぶやいた言葉に、子犬は「くぅん」と鼻を鳴らした。相槌を打っているつもりなのか。かわいい。気分を良くした俺は、愚痴を続けた。
「鷹取っていう、頭のおかしい転校生が来たんだよ。俺の飼い犬になりたいとかほざきやがってさ……俺の飼い犬はおまえだけだっつの。なあ?」
「きゅん!」
子犬は返事をするようにひと鳴きすると、俺の顔をぺろぺろと舐めてきた。くすぐったくて顔を綻ばせていた、そのとき。
ガタン、と。玄関先で物音がした。
――なんだ? 泥棒か?
今、この家には俺と子犬しかいない。いざとなれば返り討ちにしてやる。そう意気込み、俺は部屋にあった野球バットを片手に、玄関へ向かった。
すると、そこには――もう一匹の、犬がいた。鷹取だ。切れ長の目は拗ねたように垂れ下がり、唇はへの字を描いている。
「……青空くん。その犬、誰ですか。浮気ですか」
「ッ!? なんでてめえがここにいるんだよ!」
「だって、飼い主の家は把握しておかないと。いずれ俺も住むかもしれませんし」
「住ませるわけねえだろ!」
どうして鷹取のやつが家にいるんだよ。わけがわからないまま、俺は警察に通報しようとスマホを取り出す。だが、その手は驚くべきスピードで鷹取に叩き落された。スマホがゴトンと音を立てて、床に転がり落ちる。
「てめえ……ふざけんのもいい加減にしろよ」
心臓の裏がじんと熱くなっていた。怒りなのか、違う感情なのか、自分でもよくわからなかった。
さすがに頭にきて、俺は野球バットを振り翳す。バットは鷹取の真横にある壁に突き刺さった。
「ひえええ……」
鷹取は壁から生えたバットを見て、腰を抜かし、その場で小さく縮こまっている。背が高いと散々自慢していたが、今や見る影もない。俺が鷹取を見て笑うと、鷹取は恐る恐るこちらを見上げてきた。
「あ、あのー。青空くんって、もしかして昔はやんちゃしてたり……?」
「ああ、そうだよ。悪いか? おまえのせいで昔の勘を取り戻せそうだ」
「ひぃ! お、落ち着いてください。怒りを鎮めて……」
俺が鷹取に殴りかかろうと揉み合っていると。足元から「くぅーん……」と悲し気な鳴き声が聞こえてきた。見下ろすと、子犬が寂しそうに瞳を潤ませていた。そして、子犬は爪の先でちょいちょいっと、俺の足を引っ掻く。子犬には、俺と鷹取が楽しく遊んでいるように見えたのかもしれない。とんでもない誤解だが。
「仲間に入れろって言ってんのか? 違うぞ。こいつは変態だから、追い出そうとしてるだけで……」
「俺は変態じゃないです!」
「黙ってろ! ……ああ、おまえに怒ってるんじゃないよ。ごめんな? おやつでも食うか?」
鷹取に向かって怒鳴ると、子犬が怯えたように肩をすくめたので、慌てて子犬の頭を撫でる。子犬は「おやつ」の単語を聞くと、興奮したようにその場でくるくると円を描き始めた。
昨日買っておいた犬用のおやつを与えると、子犬はあっという間に平らげ、俺に腹を見せだした。
「ふっ……おまえ、かわいいなあ」
子犬のかわいさに現を抜かして、ついうっかり鷹取の存在を忘れた。
子犬の腹を撫でていると、小刻みにぷるぷると震えた鷹取が目の前に現れ、子犬を俺から引き剥がした。
「ずるい……おい、犬。そこは俺の定位置だ! どけ!」
「おい、子犬だぞ。乱暴に扱うんじゃねえ」
「青空くんも青空くんですよ。仕方ないから愛人を持つのは許しますけど、俺もかわいがってくれないと困ります‼」
「気色悪いこと言うな!」
「ひどい!」
鷹取は泣き真似をしていた。指で目元をこすりながら、ちらちらとこちらの反応をうかがっている。それは本物の涙じゃない。だけど、不思議と「かわいそうなやつだな」と思ってしまう。それが余計にムカついた。
「そもそも、俺はおまえの飼い主じゃない!」
「えっ……」
鷹取は傷ついた表情をした。今日見た中で一番まともな人間らしい顔だった。いかにやつが今日一日狂っていたかが、よくわかる。
「そんな……そいつがいるから俺は飼えないってことですか? 多頭飼い反対派なんですか⁉︎」
「いや、違うけど」
「……ならっ! 俺を飼い犬見習いにしてください‼︎」
――なんだそりゃ。飼い犬に正式も見習いもねえだろ。
俺が呆気に取られていると、鷹取は床に大の字になって寝転がった。よそさまの家でよくそんなことができたもんだ。
「認めてもらえるまで、俺、ここをどきませんから!」
「邪魔だよ、帰れ!」
「嫌です! 帰りません!」
「かーえーれー!」
「いーやーでーすう‼︎」
何回か「帰れ」「帰らない」の応酬をしたあと、鷹取は床の上でごろごろ転がり出した。もうなんでもアリである。ふざけんじゃねえ、と俺は鷹取の学ランを掴み、引っ張り上げたが。ウエイトの差もあり、なかなか持ち上がらない。しばらく、俺と鷹取の踏ん張り合いが続いた。
すると、俺たちが遊んでいると誤解した子犬が――鷹取に思い切り噛みつこうとした。
(まずい! 変態の鷹取とはいえ、怪我をさせたら大事になる――!)
焦った俺は……。
「やめろ、レイ!」
思わず叫んだ。すると――
「わんっ!」「はいっ!」
子犬と鷹取が、同時に返事をした。まるで双子のように息ぴったりだ。
鷹取は眉をひそめながら、子犬を睨みつける。
「……おまえ、真似しないでくれる……? 今のは俺を呼んだんだよ。お、れ!」
「わんわんわん! わんわん!」
……なんだかよくわからないが、子犬も鷹取に向かって文句を言っているようだ。
「おい、なんか誤解してるけどさ。今のは子犬のほうを呼んだんだよ。おまえじゃなくて」
「えっ……」
鷹取はまたしても傷ついた子どものような顔をした。別にこちらは悪くないのに、鷹取のそんな顔を見せられると、まるでとんでもない仕打ちをしたようだった。被害者ぶりやがって。
「で、でも、『レイ』って呼びましたよね!?」
「……? あー、おまえの下の名前って、もしかしてレイだったっけか」
「もしかしなくてもそうですよ! 玲です! 忘れないでください……」
鷹取はしょんぼりと項垂れた。その仕草は、確かに間抜けなときのハスキーによく似ていた。
俺に名前を憶えられていなかったことが、やつには大層ショックだったらしい。鷹取はようやく子犬と争うことをやめて、鞄を肩にかけ直した。
「……今日はこの辺で帰ります……」
そう言うと、とぼとぼと玄関まで歩き出す。
「いや、そもそも他人の家に上がり込むなよ」
俺のツッコミに、鷹取はなにも答えない。
「おまえ……あんまり調子に乗るなよ……?」
鷹取は去り際、子犬のレイに向かって捨て台詞を吐いた。子犬より何倍も大きいくせに、恥ずかしくないのか。
俺が呆れてため息をついていると。鷹取がくるりと振り返った。
「……青空くん」
「なんだよ。早く帰れ」
「名前は……この際忘れてもいいですけど。これだけは忘れないでくださいね。今日から俺は、あなたの飼い犬見習いですから……!」
「はあ……?」
鷹取は俺に宣言するなり、満足そうに駆け出した。意外にもやつの動きは機敏で、すぐに視界から鷹取の姿は消えた。
俺は唖然としながら、鷹取の言葉の真意を読み取ろうとしていた。
なんだかんだ言っても、鷹取の今日の奇行は、転校先のクラスに手っ取り早く馴染むためのフェイクだと思っていた。だが、最後まで飼い犬にこだわっていたことを鑑みるに、そうじゃないみたいだ。
――つまり……今日みたいなバカ騒ぎが、明日以降も続くって言うのかよ!?
俺は呻きながら頭を抱えた。心配した子犬が、すぐに駆け寄ってくる。
「レイ……おまえって、もしかして疫病神だったりする?」
「くぅん?」
当然、返事はなかった。
歩道のアスファルトに叩きつけられた雫が、飛沫を上げて跳ね返る。濡れた落ち葉が靴底に貼りつき、踏みしめるたびにぐしゃ、と沈んだ音を立てた。
土と濡れた草が混じり合った匂いが、空気にじっとりと滲む。冷たい雨のせいで、鼻の奥がつんとする。制服のシャツが肌に張りついて、背筋を冷やした。肩に引っかけた鞄の重みも、水分を吸ってずしりと沈む。眼鏡には水滴が落ち、視界を曇らせている。
「うざってえ雨……」
俺は低くぼやいた。が、ため息交じりのその声は、容赦ない雨音に掻き消される。北風が吹きつけてきて、思わず肩をすくめた。濡れた前髪が頬にはりつき、視界の端がじわじわと霞んでいく。
腕時計に目を落とす。午後四時十五分。針の進みがやけに速く感じた。
――やっべ、みらいのお迎え時間、過ぎてんじゃねえか。
額を押さえ、舌打ちを飲み込んだ。妹の迎えが遅れると、えらい騒ぎになる。大泣きして、保育士の先生に抱えられて、鬼の形相で「にいにがこなかった!」と叫ぶ姿がありありと浮かぶ。
通学路を走り出す。制服の裾が膝にまとわりついて走りづらい。駅まで出ればレンタル自転車が借りられる。そう思って角を曲がった、そのときだった。
「……きゅう……」
なにか、か細い声が聞こえた。耳鳴りのように儚く、けれど確かに生き物の鳴き声だった。
「……なんだ?」
一瞬、聞き間違いかと思った。だが足が止まる。耳を澄ませると、草むらの向こうから、再び声が――
「きゅう……きゅう……」
雨の音に混じるように、必死な声が続いていた。
走り去ることもできた。だが、できなかった。雨で濡れた髪を手でかきあげ、ため息をつく。
「クソ……」
悪態をつきながら、草むらに近寄った。足元の泥が跳ねて、ズボンの裾に黒いしぶきが散る。街路樹の根元の窪み。草をかき分けると、そこに――小さな段ボール箱が見えた。雨に打たれてふやけ、底が抜けかけている。中に、痩せ細った犬がうずくまっていた。
全身は水を吸って、毛並みは細く張りつき、まるでネズミのようだった。震える身体は、骨の形が浮き出るほど細く、目だけがやけに大きく、こちらを見つめていた。その目に、怯えと、ほんの少しの希望があった。
「……捨てられたのか、おまえ」
しゃがみこんで、そっと問いかける。犬は答えない。ただ小さく、鼻をひくつかせるだけだった。思わず手を伸ばす。その身体は驚くほど軽い。抱き上げた瞬間、毛の間から骨のごつごつした感触が伝わってきて、心臓がぎゅっと縮んだ。
――いつから、こんなとこにいたんだよ。
皮膚の下から伝わる冷たさに、急に我に返る。早く体温を上げてやらねえと――そう思った。
学ランの襟を開き、犬をそっと懐に抱え込む。濡れた小さな身体が服の中でかすかに震えるたび、自分の心臓の鼓動まで乱された。
「少し狭いけど、辛抱しろよ」
小さく言って、胸元を軽く押さえた。犬はしばらくじたばたしていたが、俺の匂いをひとしきり嗅ぎ回ると、次第に大人しくなった。その様子に、ふっと笑みが漏れる。
「居場所がねえんだろ? 安心しろ。今日から俺が飼ってやる」
子犬は、不思議そうに俺の顔を見上げた。そのとぼけた顔が可愛くて、鼻をツン、と指でつついた。
「……っ!」
そのとき、すぐそばで物音が聞こえた気がした。だが、周りを見回しても誰もいない。
――気のせいか。
ほっと一息ついてから、スマホを取り出す。
みらいの泣き顔が浮かぶ。きっと俺が迎えに行かなかったら、わんわん泣くだろう。でもそれより、この子犬を見捨てるほうが、もっとひどい未来だと思えた。
「母さん、ごめん。今日みらいの迎えにいけそうにない」
『――ええ〜⁉︎ 今日は青空の当番でしょ?』
「そうだけど、ほんとごめんって。今すぐに病院に連れて行かないといけねえやつがいてさ」
『……仕方ないわねえ』
「うん。週末の家事手伝うからさ、うん、うん……じゃあね」
母との通話を切り、子犬を見下ろした。
――動物病院で診察を受け、家に着いたのは、日が暮れかけた頃だった。
空には濡れた絵の具のような雲が広がっている。街灯がともると、地面の濡れたアスファルトに橙色の光がぼやけて映っていた。
靴を脱ぎながら、抱えていた子犬がピクリと身をよじった。俺の腕の中で丸まっていたそれは、ずっと小刻みに震えていた。寒さというより、怯えの名残だろう。
「……まずは風呂だな」
誰にともなくつぶやいて、子犬をタオルでそっと包み込む。脱衣所に向かうと、鏡の向こうに映った自分の髪が雨でしっとりと濡れていた。蛇口をひねると、白い湯気が湯船の縁から立ちのぼる。バスタブの中に、たらいを置く。お湯は浅く、子犬の小さな身体が沈まないように、慎重に注いだ。
「おまえ、風呂とか初めてか? って、わかんねーか」
そっと湯に足をつけさせる。犬の体がビクンと跳ねて、お湯が湯船の縁からこぼれた。思わず息を呑んで動きを止める。子犬が「きゃん」と鳴いて俺のほうを見た。目はまん丸で、濡れた黒曜石みたいに光っている。その中に、不安と――少しの安心が、交ざっていた気がした。
「こえーよな。知らねー奴に連れてこられて、変なとこに入れられて。……でも大丈夫だ。悪いようにはしねえよ」
スポンジを泡立てて、優しく毛並みを撫でる。毛の間から、細いあばらが浮かび上がった。その細さが、ひどく胸に刺さる。誰かが手を差し伸べていれば、こんなに痩せなくて済んだはずだ。そもそも、元の飼い主が捨てていなければ……。
――ほっとけなかった。
見捨てるなんて選択肢は、最初からなかった。
「なあ、おまえさ。名前……どうしようか」
泡を洗い流しながら、つぶやく。言葉にすることで、自分の中にある決意がはっきりと輪郭を持った気がした。
「拾っただけって言ったら、それまでだけどさ。……もう、うちの家族ってことで、いいだろ」
俺の声に、子犬が小さく「きゅ」と応えた。それが肯定かどうかなんてわからないけど、勝手にそうだと受け取ってしまう。タオルでくるみ、そっと胸に抱いた。湯でふやけた体温が、腕の中でじんわりと伝わってくる。どこか、人間の赤ん坊を抱いてるような気分になった。
「おまえさ、人に捨てられて、どんな気分だった?」
もちろん返事はない。でも、俺は無意識のうちに訊いていた。
「誰かに捨てられるって、どういう気持ちなんだか俺、わかんねえんけど。きっと、最悪な気分だったろ?」
自分でも不思議なくらいに、素直な言葉が出てきた。こいつの小さな身体が、言葉じゃない言葉で問いかけてくるからかもしれない。
「……でもさ。捨てられたってだけで、おまえの価値がなくなるわけじゃねえよ」
バスタオルでくるんで、ドライヤーのスイッチを入れる。ふわりと毛が浮き上がって、濡れていた犬の輪郭が、少しずつ本来の形に近づいていく。子犬は、どうやらポメラニアンみたいだった。毛が乾いていくごとに、子犬は元々の姿を取り戻していく。
「今日からおまえ、うちの家族な。よろしく!」
タオルの中から、くしゃくしゃの顔がのぞいた。小さな鼻がぴくぴくと動き、子犬はまるで笑っているみたいに目を細めた。
***
翌朝。
窓から見えるのは、秋の曇り空。陽は隠れたり覗いたりと落ち着きがない。風が吹くたび、葉がひらひらと宙を彷徨っている。なんだか落ち着かない気分だった。俺の中の気持ちも、同じように不安定に揺れていた。
俺の通う水越第一高校二年一組は、今日も朝から騒がしかった。担任の教師がやってくる束の間、男子数人はボール遊びをしていたり、女子の軍団は固まってお喋りに花を咲かせている。
俺は騒ぎから離れ、ひとり窓の外を見つめながら、子犬のことを考えていた。
――あいつ、大人しくしてるかな。
前の晩、風呂に入れたばかりの子犬が、今朝はタオルの上で丸まって眠っていた。触れたとき、指先に感じたふわふわの体温が、まだ心に残っていた。
(目を覚ましたときに俺がいなくて、泣いてなきゃいいけど……)
教室のドアが開いたとき、俺は子犬を心配して、ぼんやりと外を眺めていた。
「みんな注目! 今日からこのクラスに転校してきた鷹取玲くんだ」
担任の声に振り向く。黒板の前に立っていたのは、どこか浮世離れした雰囲気のある少年だった。
すっと通った鼻筋に、切れ長の目。笑ってもいないのに微笑んでいるような唇。背が高く、制服の袖から覗く指がやけに白く細い。無造作なのに、計算されたように流れる黒髪。どこか人間味が薄くて、絵の中から抜け出してきたような印象だった。
女子が途端に色めき立ち、喜びを隠せない囁き声で、教室内が満たされていく。
――が。
(あ? 今、目が合ったような……)
ばちり、と視線が合った。まっすぐで、やたらと強い視線。目を逸らす間もなく、そいつの顔がほころぶ。まるで、再会を心から喜ぶ犬みたいに――いや、狂ったように。転校生は、先ほどまでのクールな表情を完全に取り去っていた。
「飼い主……!」
……という、謎の言葉を発して。
次の瞬間、鷹取が俺に向かって一直線に駆けてきた。きらきらとした目で、まっすぐ。迷いもためらいも一切ない。
「うおっ、ちょ、待て、なんだおまえっ――!?」
がばっ、と勢いよく抱きつかれる。視界いっぱいに、鷹取の笑顔が広がる。近すぎる。ていうか重い。
背筋にぞわっと粘つくような悪寒が走った。
「やっぱり! 間違いないです! 飼い主!」
「飼い主ってなんだよ!」
騒然とする教室。
女子たちは「え、なに? 付き合ってんの?」とざわつき、男子たちは「真壁ってSM趣味持ってんの? やべー」と後退りしている。
頭の中が真っ白だった。
「いやいやいや、誰だお前!? なんで俺の名前知ってんだよ!」
「昨日、『今日から俺が飼ってやる』って言ってくれたじゃないですか」
鷹取は俺の腕の中で、うっとりとした顔をしている。まるで一晩中この瞬間を夢見ていたかのように。
――気色悪い。俺に人を飼う趣味はない。
担任や、クラスメイトたちからの視線は冷ややかで、痛かった。まるで「真壁、真面目だと思ってたのに変態だったんだな……」とでも言いたげな顔だ。
ピキッ、と、こめかみに血管が浮かぶのを感じた。俺が“優等生”でいるために、どれだけ神経すり減らしてきたと思ってるんだ。高校生になってから、人前でキレたことなんてなかった。でも、限界だった。
(ふざけんじゃねえ。せっかく優等生の皮をうまく被れていたっていうのに……)
これまで積み上げてきた自分の評判、イメージが、音を立てて崩れていくようだった。
混乱の中から、怒りがふつふつと湧いて出てくる。転校生の変態仲間だと思われたら、今後の学生生活に支障が出る。
俺はわざと転校生に笑顔を向けた。
「……なんか誤解してるみたいだね? あれはきみに言ったんじゃなくて、犬に言ったんだけど……」
「俺も犬ですよ!」
にっこり。鷹取はあまりにも自然な笑顔でそう言い返してきた。
「わんわん!」
極めつけに、鷹取は犬の鳴き真似をしながら、俺の足元でしゃがみ込み、四つん這いになった。教室中が凍りつく中、そいつは俺の足に頬を押し当て、まるでそれが当然だと言わんばかりに擦りつけてくる。柔らかい吐息が制服の裾を揺らして――背筋が凍る。
(……言葉が……通じない……)
あまりの衝撃に、俺は言葉を失った。
教室は静まり返り、誰かが落としたペンの音が、やけに響いた。
さっきまで「イケメン来たー!」と盛り上がっていた女子たちも、今は石のように固まっている。ドン引きしていた。
「……おまえ、頭、大丈夫か?」
ようやく絞り出した声に、鷹取はにこっと笑って「もちろんですよ」と即答した。根拠のない自信に満ちた顔だった。
――いや、どう見ても大丈夫じゃないから聞いてるんだが。
こちらの意図はまったく伝わっていなかった。
そのあと、鷹取はずかずかと俺の隣の席にやって来て、「あ、ここ。俺の指定席だから。どいて」と言い切った。当然、元の席の持ち主・高木が「えっ?」と声を上げるが、鷹取は聞いていない。俺の隣に座っていた高木は鷹取に突き飛ばされ、教室の隅に追いやられた。
担任は奇行を連発した鷹取に戸惑っていたが、「まあ、そういうことだから。みんな転校生と仲良くするように」とあっさり流した。鷹取の奇行を理解するのを、頭が拒否したんだろう。
気持ちはわかる。俺も巻き込まれた当事者じゃなければ、無視していたと思う。
「……なにあれ。やばくね?」
「なんか久々に“ホンモノ”見たわー」
クラスの空気が凍ったままだったのは言うまでもない。
そして――それから一日中、俺は鷹取の奇行に振り回されることになった。
まず、授業中でも鷹取は前を向かなかった。机は完全に俺の机にくっつけて、身体も黒板ではなく俺のほうを向いていた。
科目担当の教師たちは、鷹取の奇行に目を丸くした。だが、今日が転校初日と知ると「ああ、まだ緊張しているせいか」となぜかスルーしてしまう。
――緊張していたとしても、この行動は素でおかしいだろ! 止めてくれよ……!
そう叫びたくて喉まで出かかったが、優等生キャラを今日まで貫いてきたせいで言えなかった。こんなことなら、変に優等生ぶらなきゃよかった。
黙って耐えていると、すぐ隣から鷹取が話しかけてくる。
「飼い主さん! 昨日会ったときにも思いましたけど、男前ですね! 背がちょっと低めですけど」
「……その飼い主さん、って呼びかた、やめてもらえるかな?」
微妙にディスられているのは無視。
俺は鷹取に名前で呼ぶよう頼んだ。こいつが「飼い主」と言うから、ずっと周囲からの視線が気になる。
すると、鷹取は不思議そうに首を傾げる。
「俺はあなたの飼い犬ですよ? 飼い主を飼い主って呼ばなくてどうするんですか?」
「〜〜ッ!」
我慢の限界だった。俺は鷹取の胸ぐらを掴み、やつの耳元に囁いた。
「……おい、俺には真壁青空って名前がちゃんとあんだよ。せめて名前で呼べ、このアホ犬が!」
低く、ドスを効かせた声で命令する。普段の俺なら、こんな台詞は絶対に言わなかった。でも、こいつには“普通”が通じない。俺の本性がやつにバレたとしても、飼い主呼びよりはマシだ。どうでもよかった。
だが、怒鳴るように耳元で命じた瞬間、鷹取の顔がパアッと明るくなった。ゾッとするほど嬉しそうに。怖がるどころか、さっきまでよりも笑顔だ。やつは、俺の荒っぽい口調に大喜びしていた。
「そ、青空くん……! いや、青空様‼︎」
「『様』はつけんじゃねえ」
「はいっ!」
鷹取は指先までピンと揃え、敬礼をした。
「やっぱり、俺の見込んだ通りだ……! 青空くんは俺の飼い主にぴったりな人です!」
「……ドMか? おまえ」
「なに言ってるんですか。俺は変態じゃないです」
――どう見ても変態だろ。
そう思ったのは、絶対に俺だけじゃなかった。クラス中の総意だったことを断言する。
***
「ねえ、一組にイケメン転校生が来たって聞いたんだけど」
休み時間になると、まだ鷹取のヤバさを知らない他クラスの生徒が現れた。
クラス内に微妙な沈黙が流れた。女子のひとりが机に突っ伏し、「また来たよ……」と吐き捨てる。別の女子は、まるで忌み地に足を踏み入れたかのように、他クラスの生徒を止めるよう手を伸ばした。
鷹取の奇行をたっぷりと見てしまったクラスメイトの女子は、重々しいため息をつく。
「あー……ね。イケメンはイケメンだけど。ま、見てもらえればわかる」
「……? なにその含みは」
うんざりした同クラスの女子と、なにも知らない哀れな他クラスの女子。
そして、俺の横では、鷹取がひとりでマシンガントークを続けていた。
「青空くん! 青空くんはどんな犬種が好きですか? 俺はよくハスキーに似てるって言われるんですよ〜、ハスキーは好きですか?」
「好きじゃない」
「そんな⁉︎ どうして! ハスキーかわいいですよ。あ、おすすめのハスキー動画見ます? 俺、たくさん持ってますよ!」
「いや、いいって。いらな――」
「ああ! もしかして、大型犬より小型犬派なんですねっ? どうしよう、困ったな……俺ってば無駄に背が高くて。バスケットコートのゴールとか、余裕で手が届いちゃうし」
「もしかして喧嘩売ってる?」
「そんな、滅相もない! 青空くんは背が低くてもかっこいいですよ!」
「うん。やっぱり喧嘩売ってるな」
俺は握り拳を作って、鷹取を殴るべきか迷っていた。
「うわ……」
俺たちの会話を聞いていた他クラスの女子は、口角を極限まで下げ、キショい虫けらを見る目で鷹取を見ていた。当然だ。
そんなことが幾度か続き、鷹取の評判は一日と経たずに大暴落した。
***
放課後。帰宅してドアを開けた瞬間、外のざわつきが嘘のように消えた。ほの暗い玄関には、夕陽が差し込んでいて、薄暗い部屋の中がまるで光に溶けているようだった。
倒れ込むように家の中へ入ると、昨日拾った子犬が尻尾を振って駆け寄ってきた。
洗ったおかげで、橙色の毛並みが走るたびにふわふわと揺れる。嬉しそうに飛びついてきたので、背中を撫でてやると、とても柔らかい感触がした。子犬は気持ちよさそうに目を細めている。
「おまえだけだよ、まともなのは……」
小さな身体を撫でながら、ため息をつく。
「学校にも犬が一匹いてさ」
思わずつぶやいた言葉に、子犬は「くぅん」と鼻を鳴らした。相槌を打っているつもりなのか。かわいい。気分を良くした俺は、愚痴を続けた。
「鷹取っていう、頭のおかしい転校生が来たんだよ。俺の飼い犬になりたいとかほざきやがってさ……俺の飼い犬はおまえだけだっつの。なあ?」
「きゅん!」
子犬は返事をするようにひと鳴きすると、俺の顔をぺろぺろと舐めてきた。くすぐったくて顔を綻ばせていた、そのとき。
ガタン、と。玄関先で物音がした。
――なんだ? 泥棒か?
今、この家には俺と子犬しかいない。いざとなれば返り討ちにしてやる。そう意気込み、俺は部屋にあった野球バットを片手に、玄関へ向かった。
すると、そこには――もう一匹の、犬がいた。鷹取だ。切れ長の目は拗ねたように垂れ下がり、唇はへの字を描いている。
「……青空くん。その犬、誰ですか。浮気ですか」
「ッ!? なんでてめえがここにいるんだよ!」
「だって、飼い主の家は把握しておかないと。いずれ俺も住むかもしれませんし」
「住ませるわけねえだろ!」
どうして鷹取のやつが家にいるんだよ。わけがわからないまま、俺は警察に通報しようとスマホを取り出す。だが、その手は驚くべきスピードで鷹取に叩き落された。スマホがゴトンと音を立てて、床に転がり落ちる。
「てめえ……ふざけんのもいい加減にしろよ」
心臓の裏がじんと熱くなっていた。怒りなのか、違う感情なのか、自分でもよくわからなかった。
さすがに頭にきて、俺は野球バットを振り翳す。バットは鷹取の真横にある壁に突き刺さった。
「ひえええ……」
鷹取は壁から生えたバットを見て、腰を抜かし、その場で小さく縮こまっている。背が高いと散々自慢していたが、今や見る影もない。俺が鷹取を見て笑うと、鷹取は恐る恐るこちらを見上げてきた。
「あ、あのー。青空くんって、もしかして昔はやんちゃしてたり……?」
「ああ、そうだよ。悪いか? おまえのせいで昔の勘を取り戻せそうだ」
「ひぃ! お、落ち着いてください。怒りを鎮めて……」
俺が鷹取に殴りかかろうと揉み合っていると。足元から「くぅーん……」と悲し気な鳴き声が聞こえてきた。見下ろすと、子犬が寂しそうに瞳を潤ませていた。そして、子犬は爪の先でちょいちょいっと、俺の足を引っ掻く。子犬には、俺と鷹取が楽しく遊んでいるように見えたのかもしれない。とんでもない誤解だが。
「仲間に入れろって言ってんのか? 違うぞ。こいつは変態だから、追い出そうとしてるだけで……」
「俺は変態じゃないです!」
「黙ってろ! ……ああ、おまえに怒ってるんじゃないよ。ごめんな? おやつでも食うか?」
鷹取に向かって怒鳴ると、子犬が怯えたように肩をすくめたので、慌てて子犬の頭を撫でる。子犬は「おやつ」の単語を聞くと、興奮したようにその場でくるくると円を描き始めた。
昨日買っておいた犬用のおやつを与えると、子犬はあっという間に平らげ、俺に腹を見せだした。
「ふっ……おまえ、かわいいなあ」
子犬のかわいさに現を抜かして、ついうっかり鷹取の存在を忘れた。
子犬の腹を撫でていると、小刻みにぷるぷると震えた鷹取が目の前に現れ、子犬を俺から引き剥がした。
「ずるい……おい、犬。そこは俺の定位置だ! どけ!」
「おい、子犬だぞ。乱暴に扱うんじゃねえ」
「青空くんも青空くんですよ。仕方ないから愛人を持つのは許しますけど、俺もかわいがってくれないと困ります‼」
「気色悪いこと言うな!」
「ひどい!」
鷹取は泣き真似をしていた。指で目元をこすりながら、ちらちらとこちらの反応をうかがっている。それは本物の涙じゃない。だけど、不思議と「かわいそうなやつだな」と思ってしまう。それが余計にムカついた。
「そもそも、俺はおまえの飼い主じゃない!」
「えっ……」
鷹取は傷ついた表情をした。今日見た中で一番まともな人間らしい顔だった。いかにやつが今日一日狂っていたかが、よくわかる。
「そんな……そいつがいるから俺は飼えないってことですか? 多頭飼い反対派なんですか⁉︎」
「いや、違うけど」
「……ならっ! 俺を飼い犬見習いにしてください‼︎」
――なんだそりゃ。飼い犬に正式も見習いもねえだろ。
俺が呆気に取られていると、鷹取は床に大の字になって寝転がった。よそさまの家でよくそんなことができたもんだ。
「認めてもらえるまで、俺、ここをどきませんから!」
「邪魔だよ、帰れ!」
「嫌です! 帰りません!」
「かーえーれー!」
「いーやーでーすう‼︎」
何回か「帰れ」「帰らない」の応酬をしたあと、鷹取は床の上でごろごろ転がり出した。もうなんでもアリである。ふざけんじゃねえ、と俺は鷹取の学ランを掴み、引っ張り上げたが。ウエイトの差もあり、なかなか持ち上がらない。しばらく、俺と鷹取の踏ん張り合いが続いた。
すると、俺たちが遊んでいると誤解した子犬が――鷹取に思い切り噛みつこうとした。
(まずい! 変態の鷹取とはいえ、怪我をさせたら大事になる――!)
焦った俺は……。
「やめろ、レイ!」
思わず叫んだ。すると――
「わんっ!」「はいっ!」
子犬と鷹取が、同時に返事をした。まるで双子のように息ぴったりだ。
鷹取は眉をひそめながら、子犬を睨みつける。
「……おまえ、真似しないでくれる……? 今のは俺を呼んだんだよ。お、れ!」
「わんわんわん! わんわん!」
……なんだかよくわからないが、子犬も鷹取に向かって文句を言っているようだ。
「おい、なんか誤解してるけどさ。今のは子犬のほうを呼んだんだよ。おまえじゃなくて」
「えっ……」
鷹取はまたしても傷ついた子どものような顔をした。別にこちらは悪くないのに、鷹取のそんな顔を見せられると、まるでとんでもない仕打ちをしたようだった。被害者ぶりやがって。
「で、でも、『レイ』って呼びましたよね!?」
「……? あー、おまえの下の名前って、もしかしてレイだったっけか」
「もしかしなくてもそうですよ! 玲です! 忘れないでください……」
鷹取はしょんぼりと項垂れた。その仕草は、確かに間抜けなときのハスキーによく似ていた。
俺に名前を憶えられていなかったことが、やつには大層ショックだったらしい。鷹取はようやく子犬と争うことをやめて、鞄を肩にかけ直した。
「……今日はこの辺で帰ります……」
そう言うと、とぼとぼと玄関まで歩き出す。
「いや、そもそも他人の家に上がり込むなよ」
俺のツッコミに、鷹取はなにも答えない。
「おまえ……あんまり調子に乗るなよ……?」
鷹取は去り際、子犬のレイに向かって捨て台詞を吐いた。子犬より何倍も大きいくせに、恥ずかしくないのか。
俺が呆れてため息をついていると。鷹取がくるりと振り返った。
「……青空くん」
「なんだよ。早く帰れ」
「名前は……この際忘れてもいいですけど。これだけは忘れないでくださいね。今日から俺は、あなたの飼い犬見習いですから……!」
「はあ……?」
鷹取は俺に宣言するなり、満足そうに駆け出した。意外にもやつの動きは機敏で、すぐに視界から鷹取の姿は消えた。
俺は唖然としながら、鷹取の言葉の真意を読み取ろうとしていた。
なんだかんだ言っても、鷹取の今日の奇行は、転校先のクラスに手っ取り早く馴染むためのフェイクだと思っていた。だが、最後まで飼い犬にこだわっていたことを鑑みるに、そうじゃないみたいだ。
――つまり……今日みたいなバカ騒ぎが、明日以降も続くって言うのかよ!?
俺は呻きながら頭を抱えた。心配した子犬が、すぐに駆け寄ってくる。
「レイ……おまえって、もしかして疫病神だったりする?」
「くぅん?」
当然、返事はなかった。



