この世界からきみが消えても


 確か事件の日、アクセサリーショップに寄って購入したものだ。
 誰かへの誕生日プレゼントとして買ったはずだが、肝心の相手のことを覚えていなかった。

 おかしい。
 ふたりで過ごそうと言ったのは俺なのに、どうして何も思い出せないんだろう。
 あれはいったい、誰だったっけ?

 ゆっくりと手を伸ばし、紙袋から小箱を取り出す。
 蓋を開けると、指輪がきらりと輝きを放った。

 そのとき、ふいに指先が痺れた。
 滞留(たいりゅう)する疑問や違和感を喰らい尽くすように、頭の中にヴィジョンがなだれ込んでくる。

『誕生日、ふたりで過ごそうよ』

 そう言ったとき、()()は瞳をきらめかせた。

『ケーキとプレゼントと花束と……あとお酒か。とにかく色々買って会いにいくから、紗良は家で待ってて』

『いいの? そこまでしてもらっちゃって』

『当たり前じゃん。特別な日だよ? 誕生日くらい、誰よりも一番幸せでいて欲しいから』

 照れくさいながらも思いの(たけ)を告げると、彼女は嬉しそうに表情を緩めて微笑む。
 ほんのり色づいた頬に心が締めつけられ、見ているだけで満たされた。

『……どうしよう。もう既に幸せかも』

『俺も』

 ────覚えている。
 右手に残った感触も温もりも。繋ぐたびに募る愛しさも。

 残像にノイズが走ったかと思うと、広がる光景が移り変わった。
 この病室で、眠っている俺と傍らに(たたず)む彼女。

『どう? 似合って、る?』

 掲げられた薬指にはこの指輪が光っている。
 直接贈ることは叶わなかったが、彼女は気づいてくれていた。届いていた。
 それでも、昏睡状態の俺は何も答えてあげられない。

 あふれる涙を拭ってやることも、大丈夫だと言ってやることも、頭を撫でてやることもできなかった。
 彼女のむき出しの感情は虚空(こくう)で跳ね返り、落ちて溶けていくだけ。

『好きだよ。大好き』

 どんな言葉も想いも、一方的で宙ぶらりんなものになってしまっていた。

 ────……さよなら。

 最後にそう告げて、そっと指輪を握らせる。
 彼女が俺の手を包み込んだと同時に、俺の中からその存在が剥がれ落ちていったんだ。

 はっと目を開けると、意識が現実へ引き戻される。
 心臓が早鐘(はやがね)を打ち、直接揺さぶられているかのような衝撃に貫かれた。

「……紗良」

 確かめるようにその名前を呟く。
 いまのいままで、忘れていたなんて信じられない。
 あんなにも愛しくてかけがえのない彼女のことを。

 ふいに耳の奥で正木さんの言葉が響く。

 ────ああ、それがですね……犯人の顔を知っているという女性が現れたんですよ。現れたというか、どういうわけか突然そう言い出したんですが。

 ────当初は彼女も犯人のことを知りえない様子でしたが、急に“思い出した”と犯人について語り始めたんです。“見た”とも言ってましたね。

 指輪を持つ手が震えた。
 にわかには信じがたいことだが、考えられる可能性はひとつだけ。

「まさか、紗良も……?」