この世界からきみが消えても


 頭の中に墨汁みたいな暗闇がぶちまけられる。

 あの夜、路地裏に引きずり込まれ、抵抗する間もなく突き立てられたナイフ。
 黒いレインコートのようなものをまとった彼の顔が、テレビに映し出された男の顔と重なる。

 表示された名前にもまた既視感があった。
 知り合いなんかじゃないけれど、確かに覚えがある。

(……そうだ、思い出した)

 はたとひらめいた瞬間、病室の扉がノックされる。
 返事を待たずしてスライドしたかと思うと、スーツ姿の男性と制服姿の警察官が目に入った。

 俺を認めて一瞬動きを止めたスーツの彼は、ぎょっとした様子で踏み込んだもののすぐに振り返った。
 警察官に「目覚ました、すぐに伝えろ」と素早く指示して扉を閉める。

「あ、あの……」

「高原さん! いやぁ、よかった。本当によかったです」

 俺の戸惑いに構わず歩み寄ってきて言った。
 くしゃりと顔を歪ませて笑う彼は、実際心から安堵しているみたいに見えた。
 大げさなようにも思えてきょとんとしてしまうと、思い出したかのように(ふところ)に手を入れる。

「申し遅れました。わたし、警視庁捜査一課の正木といいます。今回の刺傷事件を担当しておりまして」

「刑事さん……?」

 初めて目にする警察手帳に釘づけになっていると、頷いた彼はにこやかに言葉を繋いだ。

「少し、お話しませんか」



 俺が目を覚ましたことで院内は慌ただしくなり、先に検査なんかを済ませることになった。

 数週間意識が戻らず、一時は急変して危うい状態になりかけたと聞いて驚いた。
 自分としては、休日にぐっすり眠って昼過ぎに起きた程度の感覚だったのに。

 何だか身体に力が入らず、うまく歩けないでふらつきながらも病室へ戻る。
 最初に出てから1時間くらい経ってしまっていた。

 廊下の角を曲がると、扉の前に立つ正木さんが目に入る。
 俺に気づいて近づいてきた。

「お戻りですか。お疲れさまです」

「どうも……ありがとうございます。すいません、待たせちゃって」

 苦く笑いながら取っ手を引くと、即座に「いえいえ」とかぶりを振られる。

「とんでもない。いま優先すべきは高原さんの体調ですからね。検査、どうでした?」

「まだぜんぶの結果は出てないんですけど、たぶん問題ないだろうって」

「それはよかった。何よりですね」

 布団がめくれたままのベッドに腰を下ろすと、正木さんは椅子に座った。
 やけに静けさを感じて、いつの間にかテレビが消えていることに気がつく。

「先ほど報道番組が流れてましたけど、ご覧になってました?」