触れたら、すべてが消える。ふたりで紡いできた時間のすべてが。
わたしの心にだけ残ったまま。
「……やだ……」
思わずこぼれた本音とともに、涙がひと粒落ちていった。
くずおれるように身を折って叫ぶ。
「嫌だよ……!」
自分の選択を受け入れるために端へ端へと追いやっていた感情が爆発した。
身体が震えて息の仕方も思い出せなくなる。
嫌だ。嫌に決まっている。
このまま莉久とお別れだなんて。
頭の片隅にも残らないなんて。
────これ、きみの?
出会ってからいままで、交わしてきた言葉や笑顔や温もりが走馬灯のように頭を駆け巡った。
耳の奥で鳴り止まない、彼の穏やかな声。
炭酸みたいに爽やかな笑顔と、照れたときの控えめな笑みと、どこか手の届かないようなやわくて遠い微笑。
記憶の中の彼はいつだって笑っていた。
優しくて、ひと想いで、誰かの幸せを自分のことみたいに喜ぶ────そんな莉久が大好きだった。
ずっと彼のそばにいたかった。
本当はこのまま、終わりを知らないわたしたちでいたかったのに。
「……っ」
ふ、とややあって目を開ける。
薬指に煌めく指輪が視界に飛び込んできた。
「莉久……」
意識はまだないはずなのに、不思議とあたたかく微笑んでいるように見える。
わたしが落ち込んだときは、決まってそんな表情で“大丈夫だよ”と繰り返しながら頭を撫でてくれた。
その感覚が蘇ったからか、いつの間にか息ができるようになっていた。
涙がおさまり、震えも止まる。
目のふちに涙の粒が散って、視界はいっそう眩しいほどの黄金色に染まっていた。
じっと焼きつけるように彼を見つめる。
「好きだよ。大好き」
わたしの想いは変わらない。
だからこそ、今日の決断を後悔することはきっとないだろう。
莉久がわたしのことを忘れても、無事に目を覚ましてくれたらそれでいい。
もう二度と「紗良」と呼んでもらえなくても。会えなくても。
この世界から彼が消えても。
ひと筋、未練がましく伝い落ちた涙を拭う。
「莉久に出会えてよかった……。一緒に過ごせて、本当に幸せだったよ」
声が震えてしまい、唇を噛んだ。
一度深く息をつき、するりと薬指の指輪を外す。
ベッドの上の彼の手を取ると、てのひらにそれを載せて両手で包み込んだ。
わたしのよく知っている、あたたかい莉久の体温。
「いままでありがとう。……さよなら」
精一杯、彼のように笑ってみせる。
そっと目を閉じたわたしの脳裏を、鮮やかなヴィジョンが貫いた。


