“元カノ”という響きに心臓が音を立てた。
出会う前の莉久のことをわたしは知りえない。
自分の知らないところで流れた時間があって、好きになった人がいる。
そんな当たり前のことに図らずも動揺してしまった。
莉久と仲のいい西垣くんが疑うほどの理由や繋がりがある、という事実の方に、たぶん衝撃を受けたのだと思う。
「別れるときも相当ごねたみたいだし、しばらくはしつこくつきまとわれたらしいよ。つい最近も、SNSのアカウント特定されたって言ってた」
「莉久が……そう言ってたの?」
「ああ、すげー執着だよな」
眉をひそめ、非難気味に言う西垣くん。
わたしは言葉を失っていた。
(そんなこと、まったく知らなかった)
莉久と付き合っていた人がそれほど執念深かったということも、莉久を忘れるどころか未だに求めているということも。
一歩間違えればストーカーだ。
もしかするといまもつきまとわれていて、莉久はずっと悩んでいたのかもしれない。
「……あ、ごめん。やっぱ紗良ちゃんには伝えるべきじゃなかった」
黙り込むわたしを見て慌てる西垣くんに、ゆるりと首を横に振る。
「ううん、ちょっとびっくりしたっていうか。そんな話、いままで莉久から聞いたことなかったから」
言いながら寂しい気持ちになって、ついうつむいてしまう。
「悩んでたなら言ってくれればよかったのに」
「……言えなかったんじゃないかな。特に紗良ちゃんには」
控えめながらしっかりと西垣くんが言葉を繋ぐ。
「心配かけたくないし、不安にさせたくないって思ったんだと思う。あいつのことだし」
確かに莉久なら、気を遣って言い出せなかった可能性はある。わたしを信用していないわけではなく。
負担だなんて思うはずがないのに。
本当にいつだってひとを優先して、相手の気持ちに寄り添ってくれる。
わたしのことを大事に考えてくれている。
そんな莉久の優しさに改めて気がついた。
「でも、よかったよな。命だけでも助かって」
一拍置いて噛み締めるように言った西垣くん。
だけど、すぐには頷くことができなかった。
「わたしは……“よかった”なんて思えない」
「えっ?」
「だって、このまま目覚めなかったら────」
震えた声が詰まって最後まで言えなかった。
きつく唇を噛み締める。
このまま目覚めなかったら。
二度と彼の目に映ることもなく、名前を呼んでくれることもない。
言葉を交わすことも、想いを伝え合うこともできないのだ。
それでも、生き延びてくれたという事実を縁にすれば前を向けるのだろうか。
いったい、死とどっちが残酷なんだろう。


