口元を塞ぎ、肩を掴むような形で強引に引っ張られた莉久は、きっと突然のことに理解も追いつかないで混乱したことだろう。
瞬く間に路地裏へ連れ込まれたかと思うと、目の前に鋭いナイフの切っ先が迫っていた。
息をのむ隙もなく刃が身体に沈み、彼はそのまま膝を折る。
抱えていた花束やケーキ、指輪の紙袋が地面に落ちた。
相手は黒いレインコートのようなものをまとい、フードを目深に被っている。
あたりが暗いこともあって顔は見えない。
莉久が刺された腹部を押さえてうずくまると、仰向けに転がされる。
相手が馬乗りになった。
何度も何度も、ナイフを突き立てられるうちにだんだん莉久の呼吸と動きが鈍くなっていく。
相手もそのことに気がついたのか、ややあってふらりと立ち上がると、逃げるように駆けていった。
地面にはみるみる血溜まりが広がり、彼の腕や服にも傷から流れる血の筋が垂れる。
確かにケーキは衝撃で崩れ、花びらが赤く染まった花束も踏みつけられてぐしゃぐしゃだった。
残された莉久はきっと意識が朦朧としていて微動だにしない。というか、できないまま。
そのとき、色を失った唇が微かに動いたのが分かった────。
「……っ」
目眩を覚えながら、わたしは肩で息をした。
無意識に呼吸を止めていて、酸素の薄さを感じるとともにふいに息を吹き返した気分だった。
いつの間にか手から離れていた指輪の箱が床を転がる。
自分を抱き締めるみたいな形で強く上腕を握り締めた。
ひどく寒気がするのに嫌な汗が滲んでいて、全身の震えが止まらない。
指輪から見えてきたヴィジョンは、まさに決定的瞬間だった。
だけど、実際に残酷で凄惨なそのときの状況を目の当たりにしても、分かったことなんて無に等しい。
ただただショックを受けて、精神をすり減らし、感情を揺さぶられただけだ。
莉久はどんなに怖かっただろう。痛かっただろう。苦しかっただろう……。
想像の域を超えたことで、冷たい涙があふれていく。
「莉久……っ」
意識を失う寸前、彼が何かを呟いたのが見えた。
願望でも希望的観測でもなく、たぶん“さら”とわたしの名前を呼んだ。
それでいまになって気づいたけれど、ヴィジョンにはどれも音がない。
あくまでも見ることができるだけだった。
「何で。何でこんなことに……」
結局、振り出しに戻ったような気がする。
どうして彼があんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
そう嘆かずにはいられない。
だけど、それ以上に「無事でよかった」という実感が染みるほど強く湧いた。
正木さんが“奇跡”と称したのにも納得がいくような顛末だったから。


