莉久の病室へ戻ると、扉を閉めた瞬間から一歩も動けなくなった。
 衝撃が尾を引いたまま、そしてそこから少しも立ち直れないまま、呆然としてしまう。

『おねえちゃん、だれ……?』

 信じがたいみおちゃんの言葉は、けれど、ひどく取り乱していたことで頭が混乱状態にあったとかそういうわけではないのだろう。
 今日最初に顔を合わせた段階では、確かにわたしのことを認識していたから。

「どういうこと……?」

 直感を否定したくて、あえて口に出して考えてみるけれど、ほかの可能性なんてまったく浮かんでこない。

 彼女はわたしのことを、唐突に忘れてしまったみたいだった。

 結局、その場はみおちゃんの父親がおさめてくれたけれど、彼自身も思わぬ事態に戸惑いをあらわにしていた。
 それでひとまずこうして別れてきたわけだけれど、半分は逃げてきたも同然だった。

 思い当たる節はひとつだけ。
 慎重に自分のてのひらを見つめる。

(まさか、このせい?)

 みおちゃんに触れたとき、その母親の身に起きた出来事を読み取った。
 もしかすると、そのサイコメトリングのせいでこうなってしまったのかもしれない。

 たとえば、この能力を使って情報を読み取る代わりに、相手から自分にまつわる一切の記憶が消えてしまうのだとしたら────。

 そこまで考えて、思わずあとずさった。
 莉久を見つめたまま強く手首を握り締める。

(無理だ)

 弾かれたようにきびすを返すと、病室を飛び出した。

 このサイコメトリー能力が本物なら、莉久に触れれば一連の真相を掴めると思っていた。
 原理は分からないけれど、そのために芽生えた“希望”だとさえ思っていたのに。

「……っ」

 両手も呼吸も震えてしまう。

 真実が記憶と引き換えだなんて、そんな果てしない代償は絶望でしかない。

 その記憶にはわたしたちのすべてが詰まっている。
 紡いできた時間も想いも、一瞬で水の泡だ。

(莉久。わたし、どうしたらいい……?)

 ふいに自分の手が、禍々しい未知の何かに変貌(へんぼう)してしまったような恐怖心を覚えた。
 急速に不安感に飲み込まれながら、一度でも、冗談でもこの能力が欲しいと望んだことを後悔する。

 莉久に忘れられてしまうなら、真相を掴んだって意味がない。

 半ば自棄(やけ)になっているのかもしれないけれど、とてもそう思わずにはいられなかった。



     ◇



 講義室に入ると、後方の席に西垣くんの姿を見つけた。
 突っ伏すような姿勢でスマホをいじっていて、いまは友だちと連れ立っている様子もない。
 ひとりならちょうどいい。

「おはよう」