思わず手を伸ばすも、それを避けるべく藤井さんがあとずさった。
 免許証をしっかりと両手で握り締めながら。

「あ、ごめんなさい。写りが悪いからあんまり見せたくなくて」

 ひと息で言いきって、持っていたショルダーバッグにねじ込む。
 素早くきびすを返すと、逃げるように廊下へと出ていってしまった。

「ま、待って。リップは……?」

 それが本題であり本命のはずだ。
 思わず背中に投げかけると、ぴたりと足を止めた。

「探さなくていいんですか?」

「いいです、やっぱり今度で。じゃあ」

 困惑したまま尋ねるものの、半分だけ振り向くに留まった彼女は、早口で切り上げて玄関の取っ手に手をかける。

 今度は止まることなく家を出ていってしまい、慌てたような足音はすぐに遠ざかって聞こえなくなった。

 戸惑いに明け暮れるわたしは、つい呆然と立ち尽くしてしまう。

 どうしたんだろう。
 何だか急に様子がおかしくなった。

 あそこまで深刻に思い(わずら)っていたというのに、今度でいい、だなんて妙だ。
 それこそいつ捜査の手が及ぶか分からない以上、その“今度”がある保証はないのに。

 不思議に思って首を傾げつつも、ひとまずさておくことにする。
 当初の予定通り莉久の着替えを準備すると、紙袋にまとめて家を出た。

 鍵をかけようとしたとき、ふと足元に何かが見えた。
 小花柄の水色のハンカチ。

(何だろう?)

 来たときにはなかったはずだから、もしかすると藤井さんが帰り際に落としていったのかもしれない。

 そう思って拾い上げようと触れた瞬間、指先に衝撃が走った。
 電流が流れたように痺れる。

「なに……!?」

 頭の中にノイズ混じりの不鮮明な映像が流れ込んでくる。

 ────涙ぐんで何かに怯える藤井さん。
 そんな彼女が誰かと話している様子。相手の顔は(もや)がかかったようにぼやけて見えない。
 それから、彼女が自身の頬をこのハンカチで押さえている様子。

 弾かれたように手を引っ込めた。
 映像はそこで途切れ、指先の痺れもほどなくおさまっていく。

(なに、いまの……)

 断片的なつぎはぎの記憶とも言える。

 少なくともそんな場面をわたし自身は知らないし、想像のしようもない。
 だとしたら何だったんだろう。どういうことだろう。
 何が起こったのかすらよく分からない。

 慌てて立ち上がって見回してみるけれど、藤井さんの姿はもうどこにもない。

「……っ」

 わけが分からなくて、動揺から心臓が早鐘(はやがね)を打つ。
 何となくためらいながらもハンカチを手に取ると、逃げるように病院へ向かった。