朝から雨が降っている日はうんざりする。俺は大学に向かう道すがら、ため息をついた。
推薦で入った私立大学に通ってもう二年。毎日講義を受けて、時には友人と遊んで、少人数の写真サークルでのんびり活動したり。平和な日々だ。
……なんてことのない、日々を送っていた。
悩みがあるとすれば……本当に何もない日常ということだろう。いや、それが一番なんだけど。何故かいつも――どこか胸にぽっかり穴が空いているような気がしている。
「はぁ……」
また自然とため息が溢れてしまっていた。今日は定例会があるので、いかに自由な零細サークルといえども顔を出さなければならない。なんとなく憂鬱だった。
そこへ、どん、と右肩に衝撃が走った。
「うわっ……」
ぶつかった相手が声を上げる。俺が慌てて振り返ると、バラバラっと紙の束のようなものが濡れた地面に落ちた。
五線譜に音符――楽譜だ。びっしりと音符が並んだ楽譜が雨水を吸い込んで濁っていく。
「す、すみません!」
俺は傘を放り出して、それを拾い集めた。しかし濡れた紙はどうにもならず、張り付いて一つの塊みたいになってしまっている。
どうしよう、大切なものだったら。青い顔をしている俺の頭上に――ふと、傘が差し出された。
「んな、慌てなくても。濡れちゃいますよ」
傘の中で向かい合った男性は、言葉を失うほど端正な顔立ちをしていた。
大きな黒い瞳に、高い鼻筋と緩く孤を描く唇。肌が白くてきめ細やかで、髪は黒く艶めいている。背が高くて、足が長い。まるでテレビの中からそのまま出てきた俳優がモデルのようだった。実際どこか見覚えがあって、本当に芸能人じゃないのかと疑った。
俺が呆気に取られている間、彼は俺の傘を拾って手渡してくれた。のろのろとした動作で傘を受け取る。その時、自分がもう片方の腕に抱えていた濡れた楽譜を思い出した。
「あっ……これ。すみません、ダメしちゃって……」
再び焦燥する俺をよそに、イケメンは綺麗な微笑みを浮かべた。
「ダウンロードしたやつプリントしただけだから。またやり直せばいいやつです」
「でも……」
「気にしないでください。捨てときますんで」
手を差し出される。長い指だった。楽譜を持っていたということはピアノをしているのだろう。そこまで考えて、俺はもう一度、彼の顔をまじまじと見た。
「……なにか?」
あまりにも俺が凝視するからだろう、彼はちょっと戸惑ったように首を傾げる。深く考える前に俺は言った。
「あの……御子柴、くんですか。平高の……」
すると彼は目を丸くした。
「そうだけど……。あれ? 同高?」
「あ、えっと」
御子柴は学内の有名人だった。高校生からピアニストをしていて、テレビにも出たことがあるとかないとか。
「学年一緒で……。名前、知ってて。でも同じクラスになったことないし、一方的に……って感じで」
対して俺は何の変哲もない平々凡々な生徒だった。関わりもなかったし、御子柴の方は俺を知ってるはずもない。
「へぇー、そっか」
御子柴は人好きのする笑みを浮かべた。
「ごめん、そっちは名前なんてーの?」
「えと、水無瀬です」
「水無瀬」
御子柴は俺の名前を口の中で転がした後、
「よし、覚えた」
と、大きく頷いた。
その仕草から、表情から目が離せない。なんて華があるんだろう。なんて眩いんだろう。ずっとずっとこうして向かい合っていたい。男の俺でも――そう思ってしまう。
そこへ、
「涼馬くん!」
軽やかな女性の声が道の向こうから聞こえた。御子柴は傘越しに「おー!」と手を振る。雨に煙ってよく見えないけど、ワンピースを着た楚々とした女性だ。俺は思わず聞いた。
「彼女?」
「うん」
御子柴はなんてことのないように頷き、それから再び俺に手を差し出す。
「ぶつかってごめんな。それ捨てとくからかして」
濡れた楽譜を持つ手に、ぎゅっと力が入った。俺は小刻みに首を振った。
「お……俺が濡らしちゃったから。責任持って捨てる。あ、そっちが良ければ……だけど」
「え、そんな気ぃ使わなくても」
「それに、有名人の楽譜だし。記念になるかもだし」
何を言ってるんだ、と自己嫌悪に陥る。めちゃくちゃキモいことになってるだろ、俺……。
しかし御子柴は「そっか」と軽く頷くと、おもむろにカバンを探った。取り出したのはサインペンだった。かろうじて水が染みてない部分にサインすると、楽譜を入れていたであろうクリアファイルを差し出してきた。
「これに入れといて。カバンの中、濡れちゃうから」
「え、でも」
「いいから。はい、どーぞ」
手ずから楽譜をファイルの中にしまい、俺の胸に押し付ける。道路の信号が赤になり、車が止まった。代わりに歩道から人が渡ってくる。御子柴の――彼女も。
「今度、西新宿でオケコンあるから、興味あったら来てよ。じゃ」
御子柴は軽く手を挙げ、きびすを返した。黒い傘が遠ざかる。それが水色のチェック柄の傘と並んで、俺からどんどん離れていく。
俺は手元に残された楽譜に目を落とした。クリアファイルに書いてある音大のロゴの上に、ぽたりと雫が落ちた。あぁ、雨に濡れたからか、と思ったが違った。冷たい雨ではなく、生暖かい涙が俺の頬を伝って、ファイルにぽたぽたと落ちているのだ。
「なんで……」
顔がくしゃりと歪む。滲んだ視界をもう一度前に向けた。黒と水色の傘は、少しだけ重なっていて、それを見ると胸が痛いほど締め付けられた。
「なんで、いやだ。なんで――」
声が震える。こんなの違う、間違ってる、俺がおかしいんじゃない、世界が間違ってるんだ。そんな叫びが頭を満たす。
「行かないで」
呟きとともに、また一つ、ぽたりと涙が落ちる。ざぁざぁと降り続く雨が、世界を塗りつぶしていく――。
はっ、と目を開けると、部屋の暗がりだけが見えた。
ベッドの上で転がっている。天井が見えたけれど、一瞬ここがどこだか分からなかった。ばくばくと心臓が鳴っている。その鼓動だけが俺の聴覚を支配している。
目尻から涙が溢れた。夢を、見たんだと思う。どんな夢かも思い出せないのに、たとえようのない悲しみだけが残っていて、俺はしばらく声を押し殺して泣いていた。
「……水無瀬?」
驚いたような声が聞こえた。目元を覆っていた手をどけてそちらを見やると、麦茶の入ったコップを持った御子柴が立ち尽くしていた。あぁ、そうだ。ここは御子柴の家で、週末だから泊まりにきてて、遅くなるから先に寝といてと言われて――。
「え? なに……どうした? 泣いてんのか?」
御子柴はこちらに歩み寄ってきて、コップをベッドサイドテーブルにおいた。そうしてのろのろと起き上がった俺の肩に手を置く。シャツの布越しに御子柴の体温が伝わってきて、また一つ涙が溢れた。
「帰ってきてたのか……」
「いや、うん、ちょっと前に。それよりどしたどした。何事?」
御子柴が珍しくうろたえている。俺はなんと答えればいいか分からず、そのままのことを口にした。
「怖い夢見た」
「――へ?」
「多分……あんまり覚えてないけど。やな夢……」
言ってから、子供か? と自分で突っ込んだ。悲しい気分がおさまってきて、急激に恥ずかしくなる。なんて言って取り繕おうか悩んでいると、御子柴がコップを差し出してきた。
「とりあえずこれでも飲んで落ち着きな」
俺は言われるがまま、コップの中の麦茶を呷った。相当喉が渇いてたのか、一気飲みだった。飲み干してから、あ、と気づく。
「ごめ……これ御子柴のやつだよな」
「麦茶に名前は書いてねーよ。もう一杯いる?」
「いや、大丈夫……」
「そっか」
御子柴は空のコップを受け取り、キッチンに戻っていった。
暗い室内にキッチンから漏れる白い光だけが、ぼんやりと浮かびあがっている。御子柴は別のコップに自分の分のお茶をいれて、あらためて飲んでいた。その様子をベッドから覗いている俺に気づくと、柔らかく微笑んで、キッチンの照明を消した。
御子柴はこちらに戻ってくると、ベッドサイドの明かりをつけた。ぼんぼりのようにあたたかな光が周囲に広がる。
「こっちおいで」
御子柴がベッドに座って、ぽんぽんと隣を叩く。逆らう理由もないので、俺は御子柴の近くに寄った。
「悪い、驚かせて。疲れてんだと思う。だから……嫌な夢っていうか、えっと、悲しかったような。なんだったかな……」
一生懸命思い出そうとしてると、御子柴の手が俺の両頬を包んで、自分の方を向かせた。
「別にやな夢を無理やり思い出さなくていいじゃん。忘れとけ、そんなもん。夢より現実見ようぜ。ほら、俺のイケてる顔面とか」
ずいっと顔を近づけて、御子柴は綺麗に微笑んでみせる。俺は苦笑した。
「ばかだな……」
ほんと、ばかみたいに優しい奴だ。
「そんな馬鹿が好きなくせにー」
御子柴がごろんとベッドに転がる。俺もそれにならってベッドの中に潜り込んだ。ふんわりとしたライトに照らされた御子柴の柔らかく細められた瞳が、俺を、俺だけを見つめている。
「寝れそう?」
「……うん」
ベッドの上に投げ出された御子柴の手に手を重ねる。確かにここにあるぬくもりをよすがに、俺は再び眠りについた。
◆御子柴side
「……昨日の夢、ちょっと思い出した」
朝食の後片付けをしていた水無瀬が、急にそんなことを言い出した。俺は昨夜の水無瀬の痛々しい様子を思い出して、眉をひそめる。
「ええ? 思い出さない方がいいって言ったのに」
「いや、偶然だし、ぼんやりと……だけど。なんていうか……御子柴が俺のそばにいなかった、夢」
「俺が?」
「うん……」
水無瀬はぼんやりと壁と天井の間を見ている。
「俺、きっと、御子柴がいなくなったら生きていけないんだろうな……」
俺は思わず息を呑んだ。すると水無瀬はハッと我に返ったように、首を横に振る。
「ち、ちが! 今のなし! 気持ち悪い……てか、重い! 無理! キャ、キャンセル!」
水無瀬は顔を真っ赤にして、しどろもどろになっている。可愛いなぁと平和にほんわかすると同時に、仄暗い喜びがじわじわと胸を侵食していく。無垢なうさぎととぐろを巻く蛇が、同じ場所に存在していて、けどお互いがお互いのテリトリーを守っているような妙な感覚がある。
「……俺は水無瀬がいなくなっても、生きていくけどさ」
慌てふためく水無瀬を眺めながら、俺は苦笑した。
「ずっと水無瀬のことを想い続けると思うよ。他の誰も好きにならなくてさ、空っぽのまま死んだみたいに生きて……んで、最後の最後に水無瀬の名前を呼んで死ぬと思う」
水無瀬はぽかんとした後、ぼそりと呟いた。
「………………お、重」
「お前な、引くなよ。急にハシゴを外すなよ」
がっくりと肩を落とす。でもようやく水無瀬が少し笑ったので、よしとしておいた。



