(本編に出てくる先輩を交えたの話です)



「んじゃーな、水無瀬。また夜に」
「おー」
 御子柴の家にほど近い最寄り駅で別れる。俺はこれから電車に乗って大学へ。御子柴は歩いて大学へ行き、講義の前に練習をするそうだ。朝の十時、通勤ラッシュも終わって改札は空いている。手を振る御子柴がよく見えて、ちょっと嬉しい。
 足取り軽くホームへ向かおうとすると、遠く背後からかすかな御子柴の声が聞こえてきた。
「あれ、春日井(かすがい)先輩?」
 俺は階段を上ろうとしていた足をぴたりと止めた。改札の向こうをちらりと振り返ると、御子柴の隣にリクルートスーツ姿の人影があった。
「御子柴じゃねえか。何してんだ、こんなとこで」
 背の高い御子柴と並んでいるからか、だいぶ小柄だった。童顔なのに目つきが悪く、言っちゃ悪いけどスーツも全然似合っていない。着られているといった感じだ。
 春日井先輩は高校の先輩だ。俺は数えるほどしか会ったことはないが、御子柴は中学時代からのつきあいである。
「何してるも何も俺ん家、この辺りですから。先輩はなんかあるんすか?」
「見りゃ分かんだろ、就活だよ就活」
「あーなるほど。三年生っすもんね。てっきり小学校の入学式だとばかり」
「言うに事欠いて小学校かよ、無理あんだよ!」
 春日井先輩が御子柴のみぞおちに一発入れると、御子柴は「痛って」と言って笑っている。御子柴が春日井先輩の背をイジって、先輩が怒る……という、高校時代にも見たやりとりだ。
 俺は思わず駅構内の自販機の陰に隠れた。
 ……相変わらず、仲よさそうだな。
「つーか、お前なんかと話してる暇ねーんだよ。今日、第一志望の会社の最終面接あんだからな」
「へー、どこで何時から?」
「飯田橋に十三時」
「え? 早すぎません?」
 確かに御子柴の言うとおりだった。ここから飯田橋へは遅くとも二十分あれば着く。電車の遅延を考慮して早めに行動するといっても、早すぎだろう。
 すると春日井先輩は深い溜息を付いた。
「念には念を入れてんだよ。この前、ひでー目にあったからな」
「なんかあったんですか?」
「……痴漢だよ」
 不服そうに春日井先輩が言うのに、御子柴が目を丸くした。もちろん俺もだ。
「春日井先輩が捕まえたんすか?」
「捕まえたっつーか……。その、されたんだよ、俺が」
「ええ?」
「なんかケツにあたんなーって思ってたら、怪しい奴がいてよぉ。手首ひねり上げて捕まえようとしたら、狭い車内で大捕物だぜ。電車止まるし、事情聴取は受けるし、大遅刻。そのせいかしらんけど落ちたし。マジで滅びろよ、変態野郎がよ」
 それは……本当に災難だ。
 いつもは春日井先輩をからかう御子柴も、素直に同情していた。
「大変でしたね」
「別に。一度や二度じゃねえし」
「マジですか?」
「俺みたいに背が低くて、童顔な奴はターゲットにされやすいんだと。ったく、たまったもんじゃねえ」
 春日井先輩はがりがりと頭の後ろを掻く。
「だから何があってもいいように、こうやって早めに出てんだよ。今日のとこは……ぜってー受かりたい」
 その言葉には決意がみなぎっていた。御子柴と春日井先輩の関係には……その、多少思うところはある俺だが、今日ばかりは素直に応援したい気持ちになる。
 というか、こんなところで盗み聞きはよくないな、と今更ながら思って、今度こそホームへ向かおうとした、そのときだった――。
「飯田橋か……。じゃ、俺、ついていきますよ」
「は?」
 ――は?
 奇しくも春日井先輩と同じように、俺は心の中で呟いた。御子柴は春日井先輩の返事も聞かずに、改札の方へ歩き出す。
「お、おい、ちょっと待て。お前もなんかあんじゃねーのか?」
「これから家に帰るだけだったんで。暇だしいっすよ」
「いや、別にそこまでしてほしいなんて言ってねえだろ。おい、こらピッすんな!」
「ピッて。改札のことピッて言うんすか、先輩って」
「うるせえ、今それは関係ねえだろ。つか待て!」
 俺は再び自販機の陰に身を潜めた。御子柴と春日井先輩は俺とは反対方向のホームへ向かっていく。
「ボディガード代わりっすよ。それに二人でいるやつは誰も狙わないっしょ」
「そりゃそうかもしんねーけど、てめーにそこまでしてもらう義理ねえっつうんだよ」
「まーまー、中高んとき世話んなったし。こんぐらいしますって」
「別にあんなの……」
「それに大事な面接なんでしょ? 人生を左右する一大事じゃないすか」
「……何も奢らねえぞ」
「ちぇ、ケチ。ケチは背ぇ伸びませんよ」
「もうこの歳になったら期待してねーわ!」
 その後もなんのかんのと言いながら、御子柴と春日井先輩は駅構内へと消えていった。
 俺は無言で自販機から離れた。
 ホームへと歩く足音が、どすどすと響く。工事中の仮設歩道だからだろうか。
 ……なんだあれ。
 ……なんなんだ、あれ。
 いや、御子柴の行いは正しい。親切で義理堅いのもあいつらしい。御子柴の言うとおり、就活は人生の一大事だ。第一志望の会社の最終面接がもし不慮の出来事で破談になったら、春日井先輩だって可哀想だ。お世話になった先輩を無事送り届ける。それは本当に本当に、正しい行為だ。
 けど大学に行って練習するって言ってたくせに。
 忙しいくせに、暇じゃないくせに。
 つーか、ボディガードって何?
 さらっと――「俺、ついてきますよ」って。
「んんんんん……!」
 ホームの隅で、俺は誰にも聞こえないくらいの声で唸った。背負っていたリュックを下ろして、ばしばしと殴る。行き場のない苛立ちはいつまで経っても発散されないのだった。


 その夜。
 御子柴が大学から帰ってくるのに合わせて、晩飯を用意した。今日はカレーだ。辛口の上、激辛の。
「ただいまー。うっわー、いい匂い」
 おかえり、と小声でつぶやき、俺はカレーライスとサラダをてきぱきと用意した。ダイニングテーブルに向かい合って、御子柴を見る。
「ん? どした?」
 いただきますと手を合わせようとしていた御子柴が、俺の視線に気づく。俺は「別に」と返して、カレーを食べ始めた。
「うわ、辛ッ。でもうまー」
 御子柴は上機嫌にカレーを食べている。一方の俺は機械的にカレーを口に運んでいた。激辛なんて食べたことなかったけど、不思議と辛さは感じなかった。
「……水無瀬?」
 御子柴が再び、俺の顔を覗き込んでくる。さすがに俺の様子がいつもと違うのに気づいたのだろう。俺はふいっと視線をそらした。
 ……俺だって、いつも通りに振る舞おうとした。けどスーパーでは激辛のルーを買ってしまうし、切らしていたしょうゆは買い忘れるし。御子柴にとって理不尽なのは分かっているのに、顔がどうしてもしかめっ面から変わってくれない。
 すると御子柴はスプーンを置いて、俺を真正面から見つめた。
「なんかあった?」
「別に……」
「あのさ、なんかあんなら教えてくれよ。俺、大体なんでもできるけど、エスパーじゃないから、さすがに言ってくれなきゃわからんし」
「自分でなんでもできるとか言うな……」
 弱々しく指摘しながら、俺は一転、叱られた子供のように俯く。
「……上手く言えないっていうか。自分でもまとまってないというか。あと理不尽だし……。ただの俺のわがままだから」
「いいよ、そのまま言ってみ」
 優しい口調で促されると、どうにもならない。俺はぼそぼそと話し始めた。
「今日、駅で……春日井先輩に会ってた、よな……」
「え?」
 御子柴は目を丸くした後、思案げな顔をした。
「ああ、水無瀬を見送った後、偶然……。ってあれ? もうお前、改札に入ってなかった?」
「……後ろから話し声聞こえて。ちょっと見てた」
「ああ、そうなんだ。で、それが……?」
「春日井先輩を飯田橋まで送るって。痴漢に遭うかもしれないから」
「そんなところまで聞いてたのか」
「送ったのか」
「送ったよ?」
「……ピアノの練習は?」
「ああ、練習室の予約、代わってもらった。サボってねーよ?」
「電車乗って? わざわざ帰ってきて?」
「え、お、おう。そうですが……」
「ボディーガードしたのか?」
「そんな大層なもんじゃないけど」
 御子柴はマジで話が見えない、という顔をしている。
 俺はばくっと勢いよくカレーを食べた。今度はちゃんと辛かった。そうして涙目になりながら、言った。
「……もの」
「え?」
「この浮気者!」
 スプーンを握りしめたまま、叫ぶ。御子柴はあんぐりと口を開けて、
「えっ……はぁ? あれが!?」
「そうだよこのばかなんで昔っから春日井先輩に甘いんだお前は本当にムカつく!」
「いやいやいや、あれは親切だろ! カインドネスだろ! 落とし物の財布を交番に届ける的な、電車の席をお年寄りに譲る的な、そういうやつだって!」
「じゃあお前は財布のボディーガードするのかよ。お年寄りを飯田橋まで送り届けるのかよ。自分の予定を変えてまで!」
「日本語がおかしいだろ、なんだよ財布のボディガードって!」
「うるさいばかっ、だから言っただろ理不尽って。分かってるよ、お世話になった先輩の就活を手伝いたかったって、頭じゃ理解してるよ。でもこうなんていうか……なんでもいいから殴りたくなんだよ、あの人と御子柴が一緒にいると!」
「怖ッ、なんで? 春日井先輩だから?」
「そうだよ俺、あの人、嫌いだッ! なんだかんだ御子柴に甘やかされてるところが……大ッ嫌いだ!」
 いつの間にか、スプーンを手放して、ごん、とテーブルに拳をたたきつけていた。そのかすかな痛みで我に返り、今度はとてつもない自己嫌悪を波が押し寄せてくる。
 そもそもの話、なら自分はどうなんだ。
 御子柴は今日だってわざわざ駅まで送ってくれた。いつもいつも甘やかされて、助けられて。情けないな、と思う時もあるが、それはそれとして同じようなことを春日井先輩にされたら、胸を掻きむしりたくなるほど嫌なのだ。
 俺は「ううー」と唸りながら、テーブルに突っ伏した。
「……だから、言っただろ。俺のわがままだって……」
 舌がぴりぴりする。激辛カレーのせいだろう。水を飲みたかったけど、御子柴がどんな表情をしているかと思うと、顔を上げられない。
 しばらく沈黙が続いたあと、御子柴がしんみりと言った。
「ごめん、水無瀬ってそんなに春日井先輩が地雷だったんだな……」
「そうだよ。きらい」
「あとめちゃくちゃ焼きもち焼くじゃん……」
「悪いかばか」
 ようやくちらっと顔を上げると、御子柴は困ったように眉を寄せていた。
「うーん、俺、ああいう人に弱いのかもな。放っておけないっていうか――うそうそうそ、もうしない。しないからそんな親の仇みたいに睨むなって」
「……別に、してほしくない、わけじゃない……わけでもない……」
「どっちなんだよ」
 ほとほと困り果てたように御子柴が言う。
 けど、本当にそうなのだ。誰にでも優しくて、さらりと手をさしのべる、それが御子柴だから。俺がするなとか言うのもおかしいし、そもそもそんな御子柴のことが、俺は――。
 そのまま言えといわれたので、そういったことをつかえつかえ伝えた。御子柴は真剣な顔をして頷き、それから言った。
「とにかく分かったことが二つある」
 立てられた二本の指を見やる。
「水無瀬は春日井先輩が嫌い」
 残りが一本になったところで、御子柴がにやりと笑った。
「あと俺のことが大好き」
「……うるさいな」
 俺は逃げるようにカレーをほおばった。辛さ成分が気管に入って盛大に咽せて大変なことになったのは、まぁ、おまけみたいな話だった。 


◆御子柴side


 ぴちょん、と風呂の天井から雫が垂れて、湯船に波紋を描いた。お湯に肩まで沈めながら、俺はさっきの水無瀬の様子を思い出す。
 水無瀬は自分の気持ちを洗いざらい白状すると自己嫌悪に陥ったのか、ソファの上でクッションを抱き、ダンゴムシのように丸まってしまった。さすがにクールダウンの時間が必要だろうと思い、先にお風呂をいただく運びとなったわけだ。
 そういや高校の時も春日井先輩に嫉妬してたなぁ、と思い出す。水無瀬があれだけ激しく敵愾心を抱く人物を、俺は他に知らない。
 春日井先輩には確かに世話になった。口は悪いし、手も出るが、ああ見えて面倒見のいい人で、俺をはじめ、みんなから好かれる人物だ。あとイジり甲斐があるし。
 けど、前からあんな風に放っておけなかったのかと言われるとちょっと違う。別に春日井先輩は変わってない。俺の態度が変わったのだ。
 今日、一緒に電車に乗ってる時も、春日井先輩はしきりに首をひねっていた。
『お前はまぁ、いい奴だけど……。ここまでするかぁ?』
 先輩の疑問はもっともだ。多分、中学時代のままならしてない。「気をつけてくださいね」とか「面接、頑張ってくださいね」とかなんとか言って、その場で別れただろう。でも今日はあんな過保護ムーブをかましてしまった。だって、
「なんか水無瀬に似てんだもんなー……」
 顎まで湯船に沈める。万が一にも声が浴室から出ないように。
 ちょっとドジなとことか、しっかり者に見えて肝心なとこで抜けてるとことか、あとは童顔で変なことに巻き込まれそうなところとか。
 あの時は親切心だと思っていたけど、よくよく考えてみれば別の心当たりがあった。
 俺は水無瀬が望むならなんでもしてやりたい。ぐずぐずに甘やかして、不服そうな顔をしながらも逆らえない水無瀬を見るのが好きだ。そういう悪い趣味があるのだ。
 けど、その欲望を全部水無瀬に注ぎ込むわけにはいかない。多分、引かれるし、普通に迷惑だろうし。だからその一端を春日井先輩に押し付けたのだ。まさかそれが裏目に出るとは思ってもみなかったけど。
 いや、裏目なのかな……。一周回って、良い思いをした気もする。
 俺が風呂に入る直前まで、水無瀬はぼやいていた。
『春日井先輩なんて嫌いだ。御子柴を取るから嫌い……』
 ぐすっと鼻を鳴らしながらそう言う水無瀬は、はっきり言ってめちゃくちゃ可愛かった。あとちょっとゾクゾクした。俺が似たような人に少し優しくしただけで、あの水無瀬がこうなってしまうのかと。この後、あからさまに優しくしまくって、耳元で甘ったるい言葉を吹き込み続けたら、どうなってしまうのか見てみたくもある。
 ……いやでもさすがに可哀想が上回るから、やめておこう。誰彼構わず善意を提供することはもうしない。春日井先輩とも適切な距離を保つ努力をするけど。
 でも気をつけていても回避できない出来事があって、また水無瀬がくしゃくしゃになってしまったら、それはいわゆる不可抗力といいますか。
「ちくしょー、可愛いやつめー」
 俺の不純な心を弄びやがって。少しでも邪念がなくなるよう、俺はばしゃばしゃとお湯を顔に叩きつけた。