【書籍続編&番外編】御子柴くんと水無瀬くんは友達じゃないらしい

 今日はずっと雨が降っているなぁ、と他人事のように思った。
 実際、マンションの窓から見る大雨の景色は、安全圏から眺める知らない人同士の喧嘩みたいに、現実感がない。むしろ雨音はいい子守唄だ。大学の友人に夜遅くまで飲み会に付き合わされた俺は、ふわぁと欠伸を一つした。
 すると突然、スマホが鳴った。
 通話をかけてきた人物の名前を見て、俺は素早くスマホを手に取る。
「水無瀬?」
『あ……うん。あの――』
 くぐもった声を、激しい雨音が今にもかき消しそうで、俺は強くスマホに耳を当てた。
「今、どこ? 迎えに行くか?」
 ソファから立ち上がる。すると水無瀬は慌てて言った。
『その……家の、御子柴のマンションの……前にいて――』
 水無瀬の声音は雨ではなく、罪悪感に濡れそぼっている。それも自分で自分を溺死させそうなほどの。
「インターホン鳴らしてくれれば開けるから」
『……悪い……』
「悪いことはないだろ」
 軽く言うと、本当にすぐインターホンが鳴った。画質の悪い水無瀬の姿がモニターに映る。オートロックを開けると、水無瀬は「ありがとう」と小さく言い、重い足取りでエントランスの向こうに消えた。
 俺は玄関へ急いだ。四階なので、それなりに時間がかかるのは分かっている。けれど待たずにはいられなかった。
 長くも短くも感じられる時間だった。もう一度、インターホンが鳴る。俺は鍵を開けて、訪問者を招き入れた。
 そこには――雨宿りしそこねた野良猫のようにずぶ濡れになった水無瀬がいた。
「傘……持ってなかったのか?」
「……持ってたんだけど、忘れちゃって」
 か細い声で説明される。嘘か本当か計りかねたが、今、重要なのはそんなことではなかった。
「ちょっと待ってな」
 洗面所からタオルを持ってきて、水無瀬に渡そうとした。けれど水無瀬は疲れ果てたように足元を見つめるばかりで、とても動けそうにない。なので、手ずから水無瀬の頭をタオルで拭く。ついで、顔も上半身の服も急いで拭った。
「シャワー浴びてきな。着替え、用意しとくから」
「ごめん……」
「いいから、入る。風邪引くぞ」
 半ば無理やり水無瀬を脱衣所に押し込む。
 ドアを閉めて、少しだけ中の様子に聞き耳を立てる。ややあって衣擦れの音がして、バスルームのドアが開く音がした。
 俺は安堵の息をつき、その場を離れた。チェストから適当に自分のジャージを取り出し、脱衣所の洗濯機の上に置く。バスルームの向こうから、シャワー音が聞こえてくる。ごくり、と生唾を飲み込んでから、今のエロオヤジみたいですげーやだな、と自己嫌悪した。
 キッチンに向かい、コーヒーを二人分入れる。俺はブラックで、水無瀬はミルク入りだ。
 ソファに座って、二人分のコーヒーをローテーブルに置く。熱いブラックコーヒーを一口飲むと、香ばしい香りと目が覚めるような苦味に、少しだけ心が落ち着いた。
 しばらくすると水無瀬が脱衣所から出てきた。
 俺のジャージはぶかぶかで、濡れた髪が肌に張り付いている。憂い顔と合わせると、人を――少なくとも俺を、狂わせるような色香があった。
「髪も乾かせよ」
「あぁ……うん」
 今気づいたというように、水無瀬は頷いた。心ここに在らずといった様子で見ていられない。俺は脱衣所に取って返そうとする背を引き留めた。
「と思ったけど、今日はサービスデーなので、乾かしてあげましょう」
「え……?」
 戸惑う水無瀬を脱衣所に押し込み、洗面台の鏡に向かせる。棚からドライヤーを取り出して、水無瀬の頭に温風を当てた。
 ごうごうとドライヤーが唸りを上げる。水無瀬の猫っ毛を指ですく。その動作を何度も繰り返しているうちにだんだんと水無瀬の肩から力が抜けていくのが見てとれた。
 もうすぐ乾き切るだろうというところで、水無瀬は急に俺の方を向いた。そしてほとんどぶつかるようにして、抱きついてくる。
「うわっ、どした――」
「御子柴」
 背中に回る腕の力は強い。まるで溺れるものが藁にも縋るように。
「御子柴……」
 ドライヤーの騒音の合間からでも、俺の耳は水無瀬の小さな声を聞き逃さない。
 俺はドライヤーの方向を変え、再び水無瀬の髪を乾かし始めた。そうして幼子を宥めるように、辛抱強く水無瀬の髪を撫でるのだった。


 ソファに座ってあたたかいコーヒーを飲むと、水無瀬はようやく人心地ついたようだった。ごめん、と何度も謝るので、家主権限で謝罪を禁止にした。
 何があったのかはあえて聞かなかったけれど、水無瀬は義務のように話し始めた。
「また……喧嘩、というか。今週はもう家から出るなって言われて。そんなの無理だ、大学もあるのに……。でも、聞いてくれなくて」
「脱出してきた?」
 水無瀬はマグカップで手を温めながら、こくんと頷いた。その表情は前髪に隠れて窺い知れない。


 水無瀬には恋人がいる。
 ――同性の、恋人が。
 同じ大学の奴らしい、ということだけは知っていた。それ以外は何も分からない。知りたくもない。
 誰に……俺の気持ちが理解できるだろうか。
 高校時代、坂を転がるように落ちた恋を。
 それを必死に隠して、諦めようとして。
 大学生になって久しぶりに再会した水無瀬に、それを打ち明けられた時の――俺の気持ちが。
 あの時のことは鮮明に覚えている。
 身を固くしてそう言った水無瀬を前にして、俺の何かが決定的に壊れた。
 おそらく人として絶対に失ってはいけない何かが。
 どうしようもなくばらばらに、跡形もなく粉々に。
 これが女性だったならば、きっと俺は表面上完璧な祝福を送ることができただろう。でも相手が男だと、自分と同じ男だと知って――気付けば無機質に水無瀬へ質問をぶつけていた。
『する側? される側?』
 水無瀬は最初、何を聞かれたのか分からないようだった。ようやく理解してりんごのように真っ赤にした顔を俯かせる。
 普通なら開口一番こんなことは聞かない。そのぐらいのデリカシーはある。けど、俺は尋問のように淡々と質問を重ねた。
『される側?』
 水無瀬は困ったように眉を下げていたが、やがて小さく頷いた。
 その瞬間、壊れた何かの残骸は、胸の内に吹き荒れた嵐にさらわれ、跡形もなく消えた。
 だからといって、何ができるわけでもなかった。それからの俺はただ、埋めようのない欠落を抱えながら過ごした。もしボタンが一つ掛け違えていれば、違う未来があったのだろうか。もし俺が高校時代に想いを伝えていたら? 
 いや、そんなことできるはずがない。
 だって俺は水無瀬に――好きな人に幸せになって欲しかったから。
 水無瀬が幸せならそれでいい、と何百回、何千回と自分に言い聞かせた。人として大切な何かが欠損したって、今この時にも水無瀬が他の男に抱かれていたって――俺は高校の時からずっと水無瀬を好きで、これからも死ぬまで好きでい続けるだろうから。
 そんな矢先だった。
 今日みたいな大雨の中――ずぶ濡れで途方に暮れている水無瀬を見つけたのは。


 その時はどんな理由か分からなかったし、今も聞けはしない。だが恋人と何かあったのだと直感的に分かった。
 帰るところがない、と水無瀬は他人事のように呟いた。着の身着のまま出てきて、財布もスマホも持っていないから、実家にも帰れない。
 どこかの公園で野宿でもするとか言い出したので、とにかく家に連れ帰ろうとした。
『でも……』
 水無瀬は心底困ったような表情を浮かべた。俺は眉間に深い皺を刻む。
『でもも何もないだろ。遠慮なんていらないから』
 俺が差し伸べている傘は、すでに濡れ鼠になった水無瀬にはあまり意味がなかった。でも俺は水無瀬が雨に打たれるのをこれ以上見ていられなかった。
 だが水無瀬は首を振る。水無瀬の髪から飛んだ雨粒が俺の頬を叩いた。
『他の人の家に泊まったなんて言ったら、後でどうなるか……』
『は? それって……』
『俺はいいけど、御子柴に迷惑かけたら』
 水無瀬の目は虚ろで、まるで力がなかった。
 高校の頃、俺のピアノを聞いて――きらきらと輝いて、宝石のような雫を落とした、あの瞳はそこにはない。
 水無瀬に恋人がいると知ってから、初めて怒りが湧いた。まるで火山口から噴き出したマグマが地表を侵食していくように、灼熱にも似た感情がどろどろと心を覆っては、黒く固まっていく。
 なんだそれは。
 ……なんなんだ、これは。
 こんなはずじゃなかった。こんなことになるなんて、思ってもみなかった。だって水無瀬を好きな奴が、水無瀬を傷つけるなんて考えも及ばなかったのだ。
 俺は自認よりもずっと単純で愚かしかった。痴話喧嘩なんて男女問わず、どのカップルにだって存在して、酷い時には命を奪ったり奪われたりして、ニュースになる。
 それが水無瀬の身にだけ起こらないとどうして言える?
 ――あぁ。
 本当に、本当に、どうかしていた。
「……大丈夫だから。頼むからうちに来てくれ」
 懇願するように言って、水無瀬の顔を覗き込む。傘の下で見た水無瀬の顔は真っ青で、でも俺を見て、ほんの少し目を潤ませた。


 本当はすぐにでも水無瀬と恋人を名乗る野郎を引き離したかった。
 けど水無瀬が俺に迷惑がかかるとしきりに心配するので、無理にするわけにもいかず――
『とにかく困ったら俺のところに来い』
 とだけ言って、その日は水無瀬を一泊させた。
 それが始まりだった――。
「……御子柴?」
 記憶を辿るのに必死で、ぼんやりしていたみたいだった。水無瀬が不安げに俺の顔色を窺ってくる。その痛々しさに、俺はぎこちない笑みを浮かべた。
「いや、晩飯何にしようかなーと。水無瀬は何食べたい?」
「俺は……押しかけてる身だから」
 水無瀬は高校の時から特別目立つ性格ではなかったけど、こんなに卑屈でもなかった。何がどうしてそうなったのか、予想はつくけど深く考えたくもない。
「押しかけようが何しようが、腹は減るだろ。リクエストあったら何か買ってくる――」
「いい」
 ソファから立ち上がりかけた俺の袖を、水無瀬が強く引っ張った。その手は震えていた。まるで行かないでくれと、そばにいてくれと言うように――なんて、都合のいい考えがよぎる。
 きっと意固地になっているだけだ。俺はしゃがみ込んで俯いた水無瀬の顔を覗き込んだ。
「人間、疲れてたり腹が減ってるとネガティブになんの。考えたり悩んだりするなら、まず――」
「でも……いや、その、一人になるのが、怖くて」
 思えばこの妙な関係性が始まってから、水無瀬の弱音みたいなものを初めて聞いた気がする。相当追い詰められているのだと気づき、肝が冷えた。
「じゃ、冷凍チャーハンは? 最近のってガチでうまいよ」
 水無瀬がちらっと俺を見て、小さく頷く。よしっと言って立ちあがろうとしたが、水無瀬に袖を掴まれてるのを忘れていた。
「あー……水無瀬くん、これじゃ動けないんですけど」
 とんとんと軽く手を叩かれ、水無瀬ははっとして手を離した。
「ご、ごめん」
「はい、1アウト」
 俺は今練習してる曲を口ずさみながら、冷凍庫を開ける。冷凍チャーハンを取り出して、皿に移し、レンジにかけた。
 五分って結構かかるなーと思っていると、キッチンの入り口から視線を感じた。水無瀬が俺の様子を覗き込んでいる。俺の……ジャージを着て、ぶかぶかな袖からちょこんと出ている指先を、入り口のへりにかけている。
 ……正直、直視するとどうかなってしまいそうだった。俺はへらっと笑って取り繕い、レンジに視線を戻した。
「なに? 待ち切れない?」
「……うん」
「あはは、ちゃんと腹減ってんじゃん」
 水無瀬は何も返してこなかった。俺はちらっと視線で部屋の方を見やる。
「持ってくから、ソファで待ってな」
「ここにいる。……落ち着かないから」
「落ち着かない? なんで?」
「……御子柴が指、火傷したらって思うと」
「あのなぁ、レンジくらい使えるっての」
 高校時代もやたら俺の指のことを気遣ってたな。……そういうところも好きだ。
 水無瀬を心配させないように、一応ミトンをつけて、皿を運ぶ。スプーンも一緒に持ってるからやりにくいことこの上ないけど、仕方ない。
 水無瀬はひょこひょことひよこみたいに後をついてきて、俺がテーブルに皿を置くと、ようやく椅子に座った。
「いただきます……」
 水無瀬がチャーハンを食べ始める。頬が少し膨らんで、ハムスターみたいだなと思った。対面に座って様子を観察する。頬杖をついてじっと見ていると、段々水無瀬の顔色が良くなっていくのが分かって、ほっとする。
「……み、見られてると食べにくい」
 水無瀬が手を止めて、視線を逃す。まぁそうかもしれないなぁと思いつつも、鑑賞くらいはさせて欲しいものだ。
「うまい?」
「うん……」
「良かった」
 諦めたのか、水無瀬は黙々とスプーンを動かし続ける。

 やがて皿が空になると、水無瀬は律儀に手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
 なんとなくばーちゃんの口真似をしてみる。あの優しさが少しでも伝わるように。
 水無瀬は何もない皿に目を落としたまま、口を開いた。
「さっき……ごめ、じゃなくて、その悪かった」
「一緒な気がするけど。まぁいいや。さっきって?」
「その……ドライヤーしてる時……」
 あぁ、あの急に縋り付いてきた、あれか。
「気にしてないって。よっぽどまいってたんだろ」
 水無瀬は座り悪そうに黙っている。少しでも気分を変えたいと思うのだが、冴えたやり方が分からない。
「なんか……。そうだな。映画でも見る? サブスク入ってるから、大体のものはあると思うけど」
 ソファに移動して、手招きする。水無瀬は言われるがまま俺の隣に移動した。
 どんなものでもいいというので、漫画の実写化映画を選んだ。ほどよくエンタメで、明るくて、ハッピーエンドなやつだ。
 映画が始まってしばらくすると、水無瀬がうつらうつらし始めた。ベッドを貸そうか、と言いかけた時、ゆらりと水無瀬の上半身が傾き、俺にもたれかかってくる。
 風呂上がりのぬくもりが、ボディソープの柔らかい香りを伴って、俺に迫ってくる。とっさに何も言えないでいると、水無瀬がみじろぎした。
「ごめ……」
 頑張って身を起こそうとする水無瀬に、俺は努めて軽い口調で言う。
「……いいよ、そのまま寝ても」
 断るだろうな、と思ったけれど、予想に反して水無瀬は再び体を預けてきた。すぐにすうすうと寝息が聞こえてくる。
 画面から視線を外す。水無瀬の頬には一筋の涙が伝っていた。それが自分ではない誰かのせいで流れて消えるのかと思うと、とても冷静でいられなくなり、俺は無理矢理にでも映画に集中した。


「よく寝た……」
 実に映画二時間分熟睡したらしく、水無瀬はかなり顔色が良くなっていた。そう、人間、食べて寝れば冷静になる。
「今日、泊まるよな」
 テレビの電源を落としながら、尋ねる。水無瀬は寝ぼけ眼をはっと開いた。
「あの……えっと、都合、悪い?」
「全然。でも――ちょっと話しておきたいことがあってさ」
 少し前から、もう限界だな、と思っていた。
 さらに水無瀬を追い詰めかねない話だし、もしかしたらもっとしっかり寝た朝方とかの方がいいのかもしれない。
 けど、このままで夜を共にすることは――できない。
「単刀直入に言うと、お金貸すから、実家にしばらく帰ったらどうかって話」
 水無瀬が驚きに目を見開いた。信頼していた人物に、突然崖から突き落とされたみたいに絶望したような表情だった。
「ストップ。最後まで話は聞くこと。オッケー?」
「え、あ……」
 返事は言葉にならず、それでも水無瀬はかろうじて頷いた。
「その……それはどうしてかっていうことなんだけど」
 俺はしばし言いよどみ、意を決して口を開く。
「俺の家、というか……俺は安全地帯ではないから」
「え……え?」
 今度は水無瀬の頭の上に疑問符がたくさん浮かんだ。
 何を日和ってんだか、と自嘲する。
 どうせ賞味期限切れの告白なのに。
「――俺、ずっと水無瀬が好きだったんだ。高校の時から。その……今でも」
 時間が凍りつく音、というのを初めて聞いた。それはキン、と金属を軽く擦り合わせたような響きだった。
「黙ってて悪かった。とにかく今までは水無瀬がいつでも逃げ込める場所にならなきゃ、と思って……。諦めた……んだけど、そのつもりだけど、やっぱりその……」
 頼られると、傍にいたくなる。
 傍にいると、欲しくなる。
 他人の感情に押しつぶされそうな水無瀬が、頼る人間として俺はふさわしくない。
 重たい空気が流れた。
 吸い込むだけで肺が押しつぶされそうなほどに。
 恐ろしかったけれど、意を決して水無瀬の方を振り返る。
 水無瀬の瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。
 それは――高校の時、俺の心を奪ったあの宝石だった。
「お、れは……」
 その美しさに見とれていたのも束の間、水無瀬がソファの上でじりっと後じさるのを見て、とっさに立ち上がる。
「いや、悪かった、急に。付き合いたいとかそういうのが言いたいわけじゃなくて、だからつまり」
「俺は……ほんとは、なにか――」
 水無瀬がごしごしと袖で目元を拭う。
「なにか――ずっと間違えた気がしてて……。辛くて、悲しくて、だから現実逃避して、ほんとは……ほんとう、は」
 やがて水無瀬は涙を拭うのを諦め、ぐしゃぐしゃに濡れた目で俺を見つめた。
「そばにいてくれるのが、御子柴だったらいいのに……って」
 それ以上、言葉はいらなかった。
 気がつけば、俺は水無瀬を強く抱きしめていた。頭の中で警鐘がけたたましく鳴っていて、こんなのは全部間違ってると思うのに、どうしても水無瀬を放すことができない。
 やがて水無瀬の腕がそろそろと持ち上がり、俺の背中に軽く触れた。服越しに伝わる水無瀬のぬくもりを感じた瞬間、物事の正誤なんてどうでも良くなった。
「水無瀬」
 唇を寄せる。水無瀬は夢見るようにそっと目を閉じる。眦から一つ、涙が零れ落ちた。もう遠慮はいらない。今度こそ、俺はこの世界で一番美しい宝石を手中に収める。
 それが――どんな大罪だとしても、構わなかった。



 ――寝覚めが悪いとはこのことか、と思う。
「どんな夢だよ……」
 カーテンの隙間から朝日が漏れていた。隣にはすやすや眠る水無瀬がいる。が、眩しさに眉根を寄せて、うっすら目を開いた。あ、起きた。
「ん……。あ……おはよ……」
 こちらは完全に寝起きが悪い、というやつだ。窓に背を向けて、また布団に包まろうとする。
「今日、何限から?」
「二限……」
「じゃあ、まだ寝てていいか……」
 ため息をついて、水無瀬の髪を優しくわしゃわしゃする。
 それにしても――
 あー、俺って、ああいうことするのかー……とちょっとヘコむ。夢の中とはいえ、水無瀬が酷い目に遭っていたとはいえ、完全に浮気で略奪なんですけど……。
「……御子柴?」
 布団の中から声をかけられて驚く。水無瀬が目をぱっちり開いて俺を見ていた。
「あれ、寝ないの?」
「なんか……御子柴が変だったから」
「え、変?」
「元気、なさそうかも……って」
 それで眠気が飛んでしまったらしい。申し訳ないことをしたなと思いつつ、ここまで気にしてもらったのなら夢の内容を話さないと逆に悪い気がした。
 ――そして。
「はあ?」
 水無瀬は完全に起きていた。俺と同じく上半身を起こして、ベッドに座っている。
「なんだその夢。っていうか、ただの夢でそんな落ち込むか?」
「いやぁ……。そういうインモラル? なこともしちゃうのかな、俺ってなるじゃん」
「そもそも」
 水無瀬は布団を蹴るようにベッドから出た。
「俺は男とは付き合わない」
「……え、俺は?」
「お前以外とはってこと。分かれよ、ばかっ」
 すたすたとキッチンに向かい、水無瀬は湯を沸かす。
「まぁ、でもそういう状況もあったのかも、と」
「ない」
 水無瀬はトースターに二枚食パンを放る。さらにフライパンを火で温めながら、冷蔵庫から卵を二つ取り出した。
「かも、とか関係ない。ないものはないんだよ。今、俺は自分と御子柴の分のトースト作って、目玉焼き作って、紅茶入れてんの。それが全部」
 手際よく朝食を作る水無瀬は、遺憾の意を表すように唇を尖らせている。俺はもそもそとベッドから這い出ると、キッチンの入り口まで行った。中に入ると水無瀬が「危ない」と言って怒るからである。
「水無瀬は俺にしか興味ない?」
 じゅうじゅうと卵が焼ける音が響くこと、しばし。
「……そうだよ、ばか」
 消え入りそうな声でやっと呟いたのを、折悪くトースターのチン、という音が掻き消す。よく聞こえなかったなぁ、なんてからかうのはやめておいた。その声はしっかり俺の胸に届いていたから。