放課後、プールの補習が行われていた。
 風邪などで、授業を休んだ回数に応じた距離を泳がなくてはならない。
 俺のノルマは合計八往復だ。普段運動をしていないので、少し泳いだだけで息が上がる。
「はぁ、辛い……」
 スタート地点まで歩いて戻ると、ちょうど御子柴が飛び込むところだった。
 御子柴はピアノの仕事でかなりの回数休んでいるので、ノルマが桁違いだ。けれど休憩を入れている他の生徒とは違い、上級者向けのターンができるレーンで何往復かまとめて泳ぎまくっている。
 ベンチに座って水を飲みながら、その様子を眺める。
 クロールのお手本みたいなフォームだ。
 推進力が全然違う。端につくなりくるりと回って、魚のように水の中を自由に行き来している。
「あれ、なんていうんだっけ……」
「クイックターン? 言っとくけど、俺もできるぜ? ふふん」
 急に隣に座ってきたのはクラスメートの高牧だった。
「そりゃ、水泳部だもんな。曲がりなりにも」
「曲がりなりにもってなんだよ。真っ直ぐ水泳部だっつーの!」
 高牧は水泳部の主将だ。ただし男子部員が二人しかいなくて、じゃんけんで負けたから仕方なくやっているらしい。
「っていうか、なんだよ水無瀬クン。ラッシュガードなんか着ちゃって」
「は? 別にいいだろ」
 俺はうんざりと空を仰いだ。プールには容赦のない日差しが降り注ぎ、水面がぎらぎら光っている。紫外線の強さも推して知るべしだ。
「男は黙って裸体! こんなもんは脱ぎ捨てろーい!」
 訳の分からないことを言って、高牧が俺のラッシュガードの裾を引っ張ってくる。俺は慌てて抵抗した。
「日焼けすると、赤くなって痛いから嫌なんだよ」
「おいおい、夏だぜ? プールだぜ? 感じようぜ、水と塩素を!」
「もー、どっか行け、お前!」
 ただでさえ水泳地獄で疲れてるのに、高牧の相手をする気力がない。いよいよ裾がまくられようとした時、プールサイドから声がかかった。
「こら、そこの追い剥ぎ、止まれ」
 プールから上がってきた御子柴だった。ゴーグルを上げて、キャップを取ると、水で濡れた肌と髪がきらきら光った。水も滴るいい男を地で行っていて、ほとほと呆れ返る。
「日焼けが嫌って言ってんじゃん。個人の自由を尊重しろ」
「えーでもやっぱ男子たるもの肉体美をさぁ。あ、さてはひょろいから嫌なんだろ、お前」
 と言って、高牧はばっと俺のラッシュガードをめくりあげた。止める暇もあればこそ、鳩尾までが丸見えになる。
「うわ、ちょ!」
「真っ白じゃん! しかも腹筋もなさそう。どれどれ」
「ひゃ、くすぐった──あーもうやめろってマジでめんどいッ!」
 ばたばた暴れて高牧をやっと引き剥がす。
 息を荒らげる俺のかたわらで、高牧は大笑いしている。教師が許すならプールに突き落としてやりたい。
 そこへ、
「──高牧」
 突然、ひんやりとした冷たい風が吹いた気がした。
 高牧とそろって振り返る。そこにはにっこりと笑みを浮かべた御子柴がいた。
「お前、あとどれぐらい残ってんの?」
「え、えーと、二百メートルほどかと存じますが……」
「じゃ、勝負しようぜ。隣のレーンで同時にスタートな。負けたら俺と水無瀬にアイスおごれよ」
 挑発的な御子柴の言葉に、高牧がいきりたった。
「はあー? やってやろうじゃん! こちとら水泳部キャプテンだぞ、なめんなよ! お前がなんでもできるからってなぁ、水の中でも勝てると思ってんじゃねーぞ、ゴラァ!」



「──んー、俺はバニラかな。水無瀬は何にする?」
 夕暮れ時。公園の自販機の前で、御子柴がうきうきとアイスを選んでいる。その手には高牧からの賞金である五百円玉があった。
「じゃあ、いちご……」
「いちごね、オッケー」
 ガコン、ガコン、とアイスが二つ、受取口に落ちてくる。
 俺たちは公園のベンチで戦利品を食べることにした。
 いちごソースの甘酸っぱい味が、疲れた体に染みる。俺はちらりと隣を見やった。
「お前、ほんっと容赦なしだったな」
 バトルマンガみたいにいうと、今まで御子柴は本気を出していなかったらしい。めちゃくちゃなスピードで二百メートルを泳ぎ切り、大差をつけて高牧に勝った。
 悠々と水から上がる御子柴に対して、高牧はペース配分を見誤ったのかへろへろになりながら、
『本当に申し訳ございませんでした……』
 とプールサイドにつっぷして、半ば土下座していた。普通に可哀想だった。
「いいじゃん、アイス食べたかったろ?」
「まぁ、うまいけど……」
 九月も後半に入って、夕方になると大分過ごしやすくなっていた。公園の遊具では小学生たちが元気に遊んでいる。
 平和な光景と、冷たいアイス、それに心地よい疲労感がまざりあって、まぶたが重くなってくる。
「これ食ったら、家まで送る。なんか、このままだと途中で倒れて寝てそうだし」
 深みのある声と軽やかな苦笑が、余計に眠気を誘う。
「なんならちょっと寝てくか? 肩、お貸ししますよ」
「それは……恥ずかしいから……」
「恥ずかしいかなぁ。俺と水無瀬クンの仲じゃないの」
「ばか……」
 でも二人きりだったらそうするかもなぁ、と夢うつつにそんなことを思った。