――水無瀬と付き合ってそろそろ一ヶ月経つので、本格的なデートがしたかった。
 八月は仕事や勉学が忙しく、あっという間に過ぎてしまった。クラス連中で何度か遊びに行ったが、このまま夏休みが終わってしまうのはどうしても避けたかったので、夜の通話で軽く聞いてみた。
「今度の土日、遊びに行かね?」
『御子柴と?』
「うん、どっか行きたいとこある?」
 あえてデートとは言わなかった。妙な緊張をさせたくなかったから。
 水無瀬はうーん、と唸った後、答えた。
『水族館……とか?』
「おお、それっぽい」
『え? 何っぽいんだ?』
「夏っぽくていいなって」
 本当はデートっぽい、という意味だったがすんでのところで誤魔化せた。水無瀬は同意するように言った。
『水槽とか見てると涼しげになれるよな』
 自然、水無瀬の無邪気な笑顔が目に浮かぶ。かくして俺の夏休みは仕事と勉学一色にならなくて済みそうなのだった。



 やってきたのは東京にある水族館だった。駅近でコンパクトな館内はちょっとしたおでかけに最適な規模だ。
「うっわ~……」
 建物を眺めて、水無瀬が感嘆の声を漏らしている。両の拳が握られていて、少なからず興奮してるのが分かった。
 エントランスの巨大なスクリーンを見ても、カクレクマノミを見つけても、サメが泳いでるのを眺めても、うわーうわーの連続なので、俺は半分苦笑していた。
「水無瀬がこんなに水族館好きだとは……」
 さすが自分から提案しただけのことはある。クラゲを見て、またうわーしていた水無瀬はハッとして目を逸らした。
「……なんだよ、子供っぽいかよ」
「んなことねーよ。大人もみんな楽しそうじゃん」
 すると水無瀬は少し寂しそうに言った。
「御子柴は……あんま楽しくないのか?」
「えっ、なんで?」
 十分楽しんでいたので、驚いた。どうしてそんな風に思われたのか訝しんでいると、水無瀬がぼそぼそと付け足す。
「あんま……魚とか、見てないから」
 見て……。え? 見てなかったか? 思い返してみると、確かに視界の端に水槽を捉えてはいたけど、しっかり鑑賞してなかったかもしれない。
「前見て、ぼーっと歩いてるっつーか。大体なんでちょっと離れて見守ってんだよ、保護者かよ」
 あぁ……そうか。
 俺は楽しげにしている水無瀬を見ていたのか。
「そういう水族館との向き合い方もあるんですー」
「なんだよ、向き合い方って」
「水槽に囲まれた暗い廊下をさ、ぼんやりと歩くのがエモくてチルいわけ」
「んー……まぁ、それもそうかも……だけど」
 適当な言い訳で煙に巻かれてるのを見ると、水無瀬のことが心配になる。流されやすいのはなんとなく分かっていたけど、ほんとチョロいんだよなぁ……。
 ――だから、心配になる。
 今、こうして俺の隣にいるのも、流されているんじゃないかって。
 水無瀬だってそんないい加減な気持ちで男と付き合ったりはしないだろうという気持ちと、でも付け入る隙があれば丸めこめそうで、現に俺はそうしたんじゃないかという気持ちが、ここ一ヶ月の間、せめぎ合っている。
 だから、いつでも手放せるように、いつでも逃がせるように――いつのまにか予防線を張って、距離をとっていたのかもしれない。
「でも……せっかく、一緒に来てんだし」
「悪かったよ。今から水族館と真正面から向き合っていくわ」
「だからなんなんだよ、その向き合うってのは」
 なんのかんのと言いながら、俺たちは館内を進んで行った。すると廊下をチューブ状に覆う、大きな水槽にたどり着く。
「うわ……」
 またうわしてるなー、と思った時には、水槽から目を離して隣を振り向いていた。
 ――思わず、息を呑む。
 水槽を見上げる水無瀬の全身に、青い光が降り注いでいた。視線は泳ぐマンタを追っている。感動と興奮と好奇心に満ちた瞳が、まるで星をまとったように輝いている。作り物の海も、夏の終わりも、行き場のない俺の心も――一緒くたになって、溶けて形をなくして、全部全部、その瞳の中に吸い込まれていくような錯覚に陥った。
 ――手を繋ぎたい、と思った。
 抱きしめたい、キスをしたい。
 ずっと――隣にいたいし、いてほしい。
 そんな濁りのない想いが、胸を満たす。
「……綺麗だな」
 呟くと、水無瀬がうん、と頷いた。
 海でしか生きられない魚のように。
 俺は溢れかえるこの想いを、ずっと抱えて生きていくのだろう。たとえ水無瀬が離れていったとしても。これほど自分の中に深く根ざしてしまったからには仕方がない。
 やっぱりどうしようもなく恋なんだな、と思い知ると、少しだけ諦めがついた。



 水族館を出ると、夏の熱気と蝉の鳴き声が押し寄せてきた。俺は隣を歩いている水無瀬に言った。
「水族館、結構好きになったかも」
「ほんとか?」
 水無瀬は安堵半分、喜び半分といった表情で俺を見上げてくる。俺はこれ見よがしに首元を手で仰いだ。
「外の世界は暑いしうるさい」
「……それ、単に中が快適だっただけだろ」
 ジトっとした目で水無瀬が睨んでくるのに、俺は「あはは」と笑った。