――はっ、と目を覚ますと、いつもの自室の天井が見えた。
ぼやけた視界が眠気を物語っている。今何時だろう、と慌ててスマホの所在を手で探り――あぁ、そうだ、夏休みだった、と思い出した。
拍子抜けして、ベッドの上でごろんと横になる。何をそんなに焦っているんだか、とつきそうになったため息を……
「……!」
俺はまるでしゃっくりし損ねたように、飲み込んだ。
昨日、花火大会に行った。
花火はろくに見られなくて、音だけ聞きにいったようなものだった。
それは――なんでかというと。
『好きだ、水無瀬』
御子柴の切羽詰まった声がリフレインする。
『どこにも行かない、そばにいる。だから――俺と付き合って。恋人になってほしい』
「っ……あー……」
俺はエビみたいに背を丸めた。頭を抱えて、うーうー唸る。妙な夢だったのかも、と一瞬思いかけて、でも一晩経っても思い出せる唇の感触が、それを否定してくる。
「うー……あー……」
もはやエビを通り越して胎児になっていた。いや、どっちが丸まり具合で上なのかはよく分からないけど。
落ち着け、と頭の冷静な部分が俺に言い聞かせてくる。
御子柴涼馬はクラスメートだ。高二で初めてクラスが一緒になって、席が前後で親しくなった。イケメンでスタイルが良くて頭も良くて、人当たりが良くて人気者。ついでに高校生天才ピアニストという肩書きを持つ、設定盛りすぎ超人である。
――そんな御子柴と付き合うことになった。
いや……落ち着いて振り返ってみても、ちょっとよく分からない。
そもそも人と付き合うということが人生で初めてだった。さらにそれが……同性、ともなると、正直どうしていいか分からなくなる。
俺は胎児状態を解除して、ゆっくりと体の力を抜いた。クーラーのせいか、それとも別の要因か……体がすうっと冷たくなっていく。
これで……本当に良かったのだろうか、という根本的な疑問が今更湧いて出てくる。
告白されて――いや、ある事情があって、御子柴が俺のことを好きなのは少し前から知っていたのだけど――その答えが肯定で合っていたのか。
そもそも、俺は勢いで返事していなかっただろうか。いや、確実に勢いだった。でないと、その……キス、なんてできない。
多分、昨日は二回した……と思う。その前にいわゆる事故チューが一回。だから俺は御子柴と合計三回は、その、あれをしている。あれって言い方、なんか駄目だな……そう、キスを、しているのだ。
なんでこんなことになったのか、いまいちよく分かってなかった。そうやって当惑している自分が――一番の問題だ。
……俺は、なにかとんでもない間違いを犯してしまったんじゃないだろうか。
正直、人を恋愛的に好きになるっていう感覚にピンと来てない。今まで好きになった人は……そりゃ、二、三人いたけど。告げる勇気もなく、何事も起こらなかった。ましてや告白なんてされたこともない。高二にもなってこの体たらく、我ながら恥ずかしい。
こんな状態なのに、あの御子柴の真摯な言葉に軽々しく答えて良かったんだろうか。
自問するまでもなく、そんなわけないと思う。御子柴だって、同性を好きになるのは初めてだと言っていた。だから相当の覚悟を持って言ったはずだ。なのに、俺と来たら。
「でも……」
御子柴は留学する、と言っていた。だからもう会うことはないだろうと。俺への想いを断ち切って、留学先で恋人でも見つけるか、なんて嘯いて。
俺が御子柴の想いを受け入れなければ、おそらくそれは本当の未来になっただろう。少なくとも御子柴は海の向こうに渡り、俺とは関係のない人間になる。
俺のことを忘れて、他の人を好きになる――
……やっぱりそれを思うと、胃がもたれたようにむかむかして、抗いがたい衝動が腹の底から突き上げる。たとえば――ありえないけど時間が巻き戻って昨日をやり直したとしても、俺は同じ答えを、同じ行動を、繰り返してしまうと思った。
でも、もしかしたらこれは友情と恋愛を履き違えているのではないかと、不安が鎌首をもたげる。
御子柴はいい奴で、話しやすくて、そばにいると――他の誰よりも落ち着く。きっと大人びているからだろう。なんでも一旦受け入れてくれそうな空気があって、御子柴のそばは居心地が良かった。
だから単純に友人と離れるのが寂しくて、引き止めるために告白を受けてしまったのかもしれない。はっきり言ってそれは最低の行為だ。御子柴にあまりにも失礼で、勝手極まりなくて……自分がそんな情けない奴だったのかと思うと、頭の後ろがずしりと重くなるのを感じる。
だって付き合うというのは友達関係とは全く違う。ステージ……でもない、そう、種類が異なるのだ。俺は御子柴以外誰もそういう風に見てはいけなくて、もちろん選んでもいけない。精神的にもそうだけど、一番違うのが肉体的接触だと思う。恋人ならば、手を繋いだり……そう、ただの握手じゃなくて指を絡めなければならない。抱き合って距離がゼロに等しくなったり、キスをしたり……それ以上のことも。そんなことできるのか? と改めて問うてみる。
「……できる……っていうか、した……」
うん、した……な。した。あの花火大会の夜にした。キスしてもいいかと言われて、頷いて、自分から目を閉じた。なんならもう一回と請われて、それも了承した。
「んん……ん?」
――でき……る? できたな……そういえば。いや、でも、どうかな……あの時は勢いがあって……勢いで告白を受けるなんて良くないことで――。
「って……完全に堂々巡りしてる……」
はあぁ……と深いため息をついて、ベッドの上で転がった。壁側から今度は部屋の中側に体を向ける。
スマホを手探りで掴んで、画面を見た。時間は九時。結構寝てた。昨日は色々と疲れたから当たり前だ。そして――特に連絡はない、誰からも。
ほっとしたような、寂しいような、そんな気分を持て余す。
――連絡がないまま、三日経った。
夕食の後、自室に戻って、スマホを睨む。
いや……別に今までだってそんな頻繁にやりとりしてたわけじゃないけど学校がある時と夏休みは違うわけで土日にぽんと連絡きたことはあったしそれは用事が明確にある時もあれば今何してる? みたいなとりとめもない時もあって――
だから……その……
「……なんもないのかよ……」
でもそれは俺にだって、鏡に当たった太陽光みたいに真っ直ぐ反射してくるものだ。別に御子柴から告白してきたからって、御子柴から何か連絡してこいなどと言うつもりはない。対等なのは友人だった時から何も変わらないのだから。
でも……でも……
「……なんかないのかよ……」
この三日間、一事が万事この調子だった。昼夜問わずスマホを見ては、通知がないことを確認する。たまに連絡があったと思ったら高牧からで、今度はクラスでプールに行こうとかいう話だった。絶対女子の学校指定じゃない水着が目的なのは明らかで、今のところ男子しか参加表明していない。このままではむさ苦しいだけのイベントになるだろう。
それとは関係なしに、俺は遊びに行くプールというのが、若干自分のノリが違うと言うか、少なくとも花火大会よりは全然乗り気じゃなかった。
ただ、御子柴は行くのかなぁ……という疑問が当然あった。御子柴が来るのだとしたら……いやでも、うーん――
と、その時、スマホが震えた。着信だった。
「うわあっ」
スマホを取り落としそうになるのを慌ててキャッチする。御子柴涼馬という名前を見て、今度こそスマホを取り落とした。その表紙に親指が触れてしまったのだろう。画面を覗き込むと通話に出たことになっていて、電話口から御子柴の声がかすかに聞こえた。
『……水無瀬? おーい、もしもし?』
俺はスマホを痛いほど耳に押し付けた。
「もっ、しもし」
声が見事に裏返った。耳に呑気な声が流れてくる。
『あー、びっくりした。ガチャ、バン! みたいな音聞こえたから』
「えと、スマホが手から滑って……落ちた」
『あるある』
回線の向こうの御子柴は軽やかに苦笑した。
『聞きたいことあって。クラスのプールのやつ、行く?』
あっ、と思った。まさに今、俺が気になっていたことだったからだ。
「御子柴は?」
『んー……ガツガツ泳げるプールは好きなんだけど、ああいうレジャーなやつはなー。正直、微妙』
「あ、えっと、俺も……ちょっとな、って」
『そか。んじゃ、水無瀬が行かないなら、行かないかな』
話がまとまった。悪い、高牧。と、心にもないことを一応思った。
一瞬の空白が落ちる。じゃ、とあっさり通話を切られかねないと思った瞬間、口が開いた。
「げん……元気?」
『おー、元気してますよ。そっちは?』
「げん……元気」
『え? げん元気ってなに? めちゃくちゃ元気ですってこと?』
「そ、そう言う感じ」
『へー。そりゃ何より』
……駄目だ、ものすごくぎこちない。主に俺が。話も途切れて、一転、むしろ早く切ってくれないかな、と願った。身勝手ここに極まれり。
『宿題の進捗どう?』
「え……。や、なんも……してない」
『なんもしてないってことないだろ』
「ほんとに、なんも……」
七月中は帰省したりでちょっとバタバタしていた。そして八月はこの通話相手のおかげで、丸三日何も手につかなかった。
『ガチで?』
「うん……」
すると御子柴は、んー、あー、と考えるような間を取って、
『じゃ、都合いい時、図書館で勉強でもする?』
「教えてくれんの?」
『はいはい。……お客さんにだけですよ?』
冗談めかして御子柴が言うのに、俺は小さく笑った。それは自然と浮かび上がった笑顔だった。
『また都合のいい日、メッセでちょーだい』
「おう、分かった」
『ん。じゃあ、おやすみ』
「……おや、すみ」
通話が切れる。俺はしばらく通話終了と表示された画面を見つめていた。
これから……俺と御子柴がどうなるのかは、分からない。少なくとも俺にはまだ想像もついていない。
でも御子柴と並んで図書館で勉強する未来だけは、きっと確かで。
それを思うと、目元が否応なしに緩んでしまうのであった。



