俺はぎくりと肩を強張らせ、一瞬足を止めてしまった。心の中を読まれたのかと思って、冷や汗をかく。
「み、見て……見てな……」
「この反応は……見たな?」
「……見ました……」
 素直に白状すると、御子柴は軽く嘆息した。
「あいつ、スキンシップ過多なんだよ。特に俺の腕が掴みやすいとか言って――まぁ、ちょっとクラスでもネタにされ始めてると言うか」
 ってことは、やっぱり俺が廊下で見たあの光景は教室でも毎日のように繰り広げられているのか。しかもこの短期間でクラスの話題になるくらいに。
「……悪い。もし水無瀬が見たらいい気はしないだろうなとは思ってたんだけど」
 御子柴は眉根を寄せている。俺は御子柴を困らせたくなくて、首を横に振った。
「でも、別にしょうがないってか……。クラスメート、なんだし。邪険にするわけにもいかないだろ」
「それはそれとして、水無瀬はどう思ってる?」
「ど、どうって?」
 御子柴は真剣な表情で俺を見ていた。
 ……本音を促されているのが分かる。
 俺はしばらく唇を擦り合わせていたが、意を決して口を開いた。
「仕方ないって……分かってるけど。もやもやは……する。ごめん」
「謝ることはないけどさ」
 ぽん、と俺の頭を軽く撫でた後、御子柴はうーんと唸った。
「一個、相談なんだけど。西蓮寺に付き合ってる人いるって言ってもいい?」
「え……。え? は⁉︎」
 一瞬、何を言われているのか分からず、理解に時間がかかった。御子柴は軽く手を振る。
「いや、相手が水無瀬だとかそういうことは言わねーよ? 付き合ってる人が学校にいるから、過度なスキンシップは控えてください的な。ああ見えて言いふらす奴じゃないと思うし」
「い、いいって、そこまでしなくても。それに、もしかしたら西蓮寺さんは御子柴のこと――」
 そこまで言って、口の中に苦い味が広がり、俺は黙り込んだ。かつての天野さんのことが頭をよぎる。
 御子柴もまた困ったような笑みを浮かべた。
「もしそうだとしても、俺、応えらんないじゃん」
「……うん」
 そう、そうなんだ。分かってる。ちゃんと分かってるつもりで、けど。
 頭の中で感情がうまく整理できない。ただこのまま黙っていたところで、考えがまとまるとも思えない。
 だから俺はぽつぽつと思いつくままに言葉を口にした。
「でも、俺……御子柴の交友関係を縛りたいわけじゃなくて……そういうのは違うって、やっぱり思って……」
 けれど、もやもやはする――なんて、まるで子供が堂々巡りの駄々をこねているみたいだ。
 やっぱ、気にしないでほしい。――そんな風に切り上げようとした、その時。
「じゃあ、こういうのはどう? 水無瀬クンにはスペシャルチケットを進呈します」
「チケ……ット?」
「うん。はいどーぞ、エアだけど」
 と言って、御子柴は俺の手の上に、ぽんっと何かを置く仕草をした。
「ええっと……」
 御子柴の言わんとしていることが分からなくて、首を傾げる。すると御子柴はいたずらっぽく笑った。
「いつでも西蓮寺とかに本当のことを言える……チケット? 的な?」
 俺はもう一度、自分の手のひらを見つめた。
 目には見えないけれど、そこには確かに御子柴がくれたものがあった。
 それは彷徨っていた俺にもたらされた光であり、道標であり、お守りであり――御子柴の心そのもののような気がした。
「いつでも受け付けるから、とりあえず持っとけよ」
 俺はぎゅっと手を握り込む。目の奥がじわりと熱くなるのを必死に堪えた。
「……ありがとう」
 声が震えて、それしか言えなかった。御子柴は分かってる、と伝える代わりに、俺の頭をぽんと撫でた。
 ――好きだ、どうしようもなく。
 そんな感情が頭を満たして、気がついたら数歩先を行く御子柴の手を取っていた。
 驚いた顔をして御子柴が振り返る。今は人の気配がない静かな住宅街とはいえ、誰が通るか分からない。それでももうすぐ来る別れのことを思うと、気持ちを抑えることができなかった。
「あの、今日……。久しぶりに二人で過ごせて、嬉しかった」
 一拍遅れて恥ずかしさが募り、俺は足元を見ながら続ける。
「でも、なんていうか、欲張りかもなんだけど……足りなくて。だから、またああいう時間、欲しい」
 繋いだ手からじわりと体温が伝わってくる。
 段々と速くなる鼓動を持て余していると、御子柴が手を柔らかく握り返してきた。
「俺もだよ」
 ちりん、とどこからか自転車のベルの音がして、俺は反射的に御子柴の手を離してしまった。これから家に帰るのか、自転車に乗った小学生が二人、はしゃいだ声を上げながら、並走して俺たちの横を通り過ぎていく。
「んー、そうだな。勉強会とか遊びに行ったりは別として……。夏頃、卒業旅行とかどう?」
 突然飛び込んできた旅行という言葉に目を丸くする。
「旅行って、どこに?」
「や、別に大したところじゃないんだけど。うちの事務所が保養所契約してる温泉宿があってさ。マネージャに言ったら予約取ってくれると思うから」
「へぇ……」
 なんだか胸が弾んできた。温泉。……御子柴と二人で。
「軽井沢だったかな? 会員制のリゾートらしくて、新築だから綺麗で全室露天風呂付きだの、メシは美味いのって、行ったマネージャが騒いでた」
「……それ、俺が行ってもいいやつなのか?」
「同行者は家族じゃなくてもオッケーだから」
 いや、そういう意味ではなく……。大したことないって言ってなかったか? 普通の高校生の身の丈に合ってないんじゃなかろうか。
 でも――まぁ、いいか。
 御子柴と一緒ならどこでも。
「なら、行きたい」
「りょーかい。言っとくわ」
 いつの間にか、立ち話になっていたのに気づき、どちらからともなく苦笑しながら、また歩き出す。
 そこで俺はハッとして、御子柴に尋ねた。
「あのさ。御子柴もなんか気になることがあったら言えよ」
「気になることって?」
「ええと……。俺が西蓮寺さんにもやついたこと、的な」
 御子柴の横顔が思案げになる。しかしすぐかぶりを振った。
「……今は特にないけど」
「まぁ……そうだよな。はは……」
 考えてみれば当たり前かもしれない。俺は御子柴みたいに人気者でもなければ女子にモテるというわけでもないんだから。
 なんだか自意識過剰みたいで恥ずかしくなり、俺は自分のマンションが見えてきたのをこれ幸いに、御子柴を追い抜いた。
「ここまででいいよ」
「おー。じゃ、またな」
 御子柴は軽く手を挙げて、踵を返す。
 その背中を見送っていると、俺の行動を見透かしたように御子柴がもう一度振り返った。白い歯を溢してもう一度、手を振ってくる。
 自然と唇が笑みを描きそうなるのをなんとかこらえ、俺は手を振り返した。
 マンションの五階に辿り着くと、うちの前に人影があった。
 手前側にいるのはスーツ姿の女性だった。歳は四十半ば――といったところか。理知的な横顔にショートカットがよく似合っている。
 珍しく母親のお客さんかと思ったが、女性の奥にいる背の高い人物に俺は目を丸くした。
「溝久保……⁉︎」
 二人は一斉に俺を見た。溝久保はすぐにばつが悪そうに目を逸らしたが、女性の方は俺の方にまっすぐ向き直った。
「失礼ですが、水無瀬さんのお宅の方でしょうか?」
「えっ? あ、はい……」
「私、朔の母親で未智と申します。お母様はご在宅ですか?」
 ど、どういう状況だ? 俺は溝久保に視線を投げかけるも、まったく目が合わない。
 仕方なく溝久保の母親――未智さんをもう一度見る。
 未智さんは左手に大きな洋菓子店の紙袋を持っていた。いかにも菓子折りといった感じだ。
「母さ――母にご用なら、呼んできます……」
「お願いします」
 年上の女性に深々と頭を下げられ、どうしていいか分からず、俺は逃げるように家の中に入った。
 母さんはキッチンにいた。今日の夕飯の支度をしているようだ。美海はソファで漫画を読んでいる。俺はキッチンに入った。
「母さん」
「晴希、おかえり。勉強した? それとも遊んでた?」
 意地悪そうな口調で聞いてくる母さんに、しかし取り合ってる暇はなかった。
「えっと、お客さん来てる。溝久保……って、その同じクラスの奴とそのお母さんが」
「溝久保……?」
 母さんは首を傾げた。その代わり反応したのは美海だった。
「えっ、溝久保くん、来てるの?」
「あ、待て、美海!」
 ソファから跳ね起きて、玄関に走っていってしまう美海を、俺は慌てて追いかけた。
 美海が玄関ドアを開ける。
「溝久保くん、いらっしゃ――あれ?」
 母親同伴の溝久保を見て、美海が目を丸くする。俺は美海を引っ張って、自分の背後に押しやった。
 廊下の方からのんびりした足音が聞こえてくる。
「はじめまして、溝久保さん。水無瀬と申します。確かマンションの理事会で一度お会いしましたよね?」
 母さんが三和土に出る。大人同士で話してもらえそうだと、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「はい、ご無沙汰しております。本日は息子の件でお伺いしまして……」
「息子さん? あら、はじめまして。かっこよくて立派な息子さんですね」
 未智さんの後ろで石像のように黙っていた溝久保は「……っす」と小さく頭を下げた。
「この度は朔がご迷惑をおかけしました。毎日、こちらで夕飯をご馳走になっていると……今日知りまして」
「夕飯……? えっ、そうなの?」
 母さんが俺を見る。
 しまった、そういえば母さんに言うのを忘れていた。というか、別に言うほどのことでもないと思ってしまっていた。
 ことの次第をかいつまんで説明すると、母さんは微笑みながら未智さんに言った。
「立ち話もなんですし、とりあえず中に入ってください。そうだ、夕ご飯は何か用意してます?」
「えっ……いえ、これから外へ食べに行こうかと……」
「ちょうどよかった、ならうちで食べていきませんか? ロールキャベツ、たくさん作ったので」
「いえそんな。この度のお詫びをできればと思っただけなので……。こちらつまらないものですが」
 と、未智さんは菓子折りを母さんに差し出す。
「朔は今後一切、お邪魔させないようにしますから」
 その一言に頭を殴られたような気持ちになる。
 軽い気持ちで夕飯に誘ったことが、そんなにいけなかったのか……?
「ええっ⁉︎ 溝久保くんともうご飯食べられないの?」
 美海が悲しげな声で言う。さすがの未智さんも戸惑いの表情を浮かべた――ところに、母さんが畳みかける。
「まぁまぁ、とにかく中でお話ししましょう」
「いえ、あの……」
 戸惑う未智さんを、母さんは持ち前の明るい態度であれよあれよという間に家の中に入れてしまった。
「朔くんも上がって~」
 玄関先で立ち尽くす母さんが声をかける。謝ればいいのかなんと言えばいいのか、溝久保に声をかけられずにいると、美海が俺の脇をすり抜けて、溝久保の手を取った。
「溝久保くん、今日も一緒にご飯食べよ!」
「え、あ、ちょ……」
 結局、溝久保母子はうちの母さんと美海によって強引に連れ去られる。母さんの押しの強さは美海に全部引き継がれてしまったようだ。
 今から、どんな食卓になるのだろう。考えるだけで気が滅入る。
「……帰りたい……」
 無論、ここは自分の家なのだが。さっき別れたばかりの御子柴がもう恋しくなってしまうのだった。