俺は言われた通り、テーブルから離れて、テレビの前のソファに座る。
少しもしないうちに御子柴が戻ってきて、ローテーブルにジュースが入ったコップと菓子盆を置いた。
「ほんとに買ったのか……」
「だってりんごジュースとチョコがいいって言ってたじゃん」
確かにそうリクエスト? したものの、こうして見ると、本当に小学生が誰かの家に集まって食べるようなおやつだった。
御子柴はというと、ソファに座るなり、アイスコーヒーを飲んでいる。ちなみにひょいひょいと口に運んでいるのはミックスナッツだ。……これはこれで高校生らしからぬ気もする。
「いただきます」
せっかく用意してくれたので、ありがたくいただくことにした。りんごジュースのさわやかな甘味が目を覚ましてくれる。キャンディのような包みから出してチョコを食べると、疲れた脳に糖分がしみた。
「あはは、美味そうに食うなぁ」
ローテーブルにアイスコーヒーを置きながら、御子柴が愉快そうに言う。俺はチョコの包みを手でいじいじと弄んだ。
「あんだけ勉強したら甘いのいるだろ。お前は食べないの?」
「水無瀬の分、取ったら可哀想だしなー」
「いや、こんだけあるんだからいいだろ……」
菓子盆の中は、チョコクッキーとかチョコバームクーヘンとか、とにかくチョコずくめである。最初の一つは美味しかったけど、これだけ甘い物ばかりだと食べきれるか自信がない。
「ポテチもリクエストしとけば良かったな……」
「アーモンド、いる? 素焼きだから塩っ気ないけど」
差し出されたアーモンドを受け取ろうとしたが、御子柴はひょいっと一旦手を上に逃がした。
「はい、あーん」
「はぁ……?」
「ほら、口開けて。あーん」
にこにこと、実に楽しそうな御子柴に、俺は盛大なため息をついた。──頬に熱が集まるのを隠すように、俯く。
「自分で食べる……」
「疲れてんだろ、遠慮すんなって」
「どうせ後で俺にもやれって言うんだろ」
「言わない、言わない。無償のあーんですよ」
大いに疑いつつも、俺は仕方なく小さく口を開いた。
ややあって、ぽいっとアーモンドが放り込まれる。歯で砕くと、カリッとした触感と小気味のいい音が心地よい。
「美味い?」
御子柴がなんの他意もなさそうな表情で聞いてくるのに、ふと不安になった。
なんか……俺だけ変だな、と思う。
妙に意識して、いちいちドギマギして。
「あれ、もしかしてアーモンド嫌いだった?」
いつまでも返事をしない俺を、御子柴が訝しんでいる。
「いや、大丈夫」
一気にりんごジュースの入ったカップを呷り、もう一つ、チョコに手を伸ばす。
普通に、平常心で──。呪文のように唱えながら、俺は御子柴にチョコを差し出した。
「お前もこっち、いる?」
「おっ、あーんしてくれんの?」
「し、しない」
「んー……じゃあ、いいや」
言って、御子柴はアイスコーヒーを飲み干した。
……するって、言えば良かったかな。
そんな後悔と共に、チョコの包みを開ける。
クラスが離れて一か月も経っていないのに、御子柴との接し方がよく分からなくなっている。
もしかしたら、俺と御子柴の日常が乖離し始めているからかもしれない。だから急に二人きりになると、色んな感情が破裂しそうになって、どうしていいのか分からない。
山の中をぐるぐる回って、一向に目的地にたどり着けないようなそんな心境に陥った。
これでは本当に遭難者だ。
そして今、遭難しているのは、きっと俺だけ──。
いや、やめよう。俺は軽く首を横に振った。ネガティブな考えを振り払うように。
余計なことを考えるのは、勉強疲れのせいだ。三角関数の問題が、脳のエネルギーが枯渇させてしまったに違いない。
だからやけっぱちのように、チョコをまた一粒口に放り込む。
舌に成型されたチョコの角を感じた。
じわり、とチョコが体温で溶け始めた、その時──。
「──悪い、水無瀬」
呼ばれて振り返ってすぐ、顎に手が添えられた。
鼻先がもう少しで触れ合うのではないかと思うほど、御子柴に至近距離で覗き込まれる。
「やっぱ、俺にもちょうだい」
え、と漏らした声ごと奪うように、深く口づけられた。
驚きに目を瞠るよりも早く、熱い舌が差し込まれる。
「んっ──」
舌が絡み合い、口内のチョコが翻弄される。甘い唾液を飲み下すのに精一杯で、抵抗もできない。
体中が熱い。いつの間にか強く抱きすくめられていた。御子柴の手の片方は俺の背に、片方は後頭部を押さえて、まるで逃すまいとしているかのようだ。
「は、ぁっ……」
必死に息継ぎしながら、回らない頭で考える。
──馬鹿だな、俺が逃げるわけないのに。
その瞬間、胸の中でもやもやと絡まっていた何かが、一気に解けていく感覚があった。
俺は御子柴の首に両腕を回し、自ら身を寄せて、キスに応えていく。
どれぐらいそうしていただろうか。
御子柴のぬくもりが離れて、ぼんやりと薄目を開けた。リビングの天井に二人分の荒い呼吸が響いている。
気付けば俺はソファの上で仰向けに倒れていた。
「あーもう……」
天井を眺めていた俺の視界に、御子柴が割って入ってくる。俺の頭の両側に肘から上をついて──うまく回らない頭が、なんか筋トレでもしてるみたいな体勢だな、と場違いなことを考えた。
「これでもがっつかないようにしてたんですけど。何故なら紳士だから、俺は。優しくてかっこいいから」
「はぁ……」
だから自分で言うな。そういうとこだぞ、ほんと。
「なのにさぁ……。なんでちょっと近づいただけで顔真っ赤にしてんだよ」
バレてたのだと気づき、ぼうっとしていた意識が、少しだけ戻ってくる。
「そ、それは……」
「あとこっちが必死に冷静にしてんのに、なんか……ちょっと寂しそうにすんじゃねえよ……。可愛いのかよ……」
御子柴は深く俯いて、悔しそうにソファを拳で叩いている。
そこまで見抜かれていたのだと知り、一気に現実に引き戻された。
「い、いや……ちが、あの」
すると悔しがっていた御子柴が一転、身を乗り出して、俺の顔を真上から覗き込んできた。
「……違うんだ?」
さらりとした前髪が垂れて、俺の額に触れる。
「俺は誘った時から下心満載でしたけど」
「下心……」
御子柴がじとっとした目つきになる。
「そりゃそうだろ。家に誘っておいて、下心ないは無理あんだろ」
「そんな風に……見えなかった」
「見えないようにしてましたからねえー!」
そんなに恨みがましく言われても。お前が悪いんだろ、と思わなくもないけど、御子柴なりに気を遣ってくれた……んだろう、多分。
そうだ、だって二年生の時からは想像もできないほど、今まで離れていて。
だから少しずつ、ぎこちなく、距離を詰めないと──胃が引っ繰り返ってしまう。
あぁ、そうか……これで合っているんだ。何も変じゃない、間違ってない。
「御子柴」
眉根を寄せていた御子柴に手を伸ばす。その頬に触れ、輪郭を確かめる。
「俺も、多分、遭難してた」
「え……?」
「チョコなんかじゃ、足りなくて。だから、もっと──」
御子柴の目が驚きに見開かれる。その黒目がちの瞳に俺が──俺だけが映っていることを知る。
喜びか、安堵か。はたまた別の感情のせいか。
それだけで、目の裏がじんわりと熱くなり、目尻から涙が伝った。
「……もっと、欲しい」
御子柴はぐっと喉に何かが詰まったような、そんな表情を浮かべた。が、大きく深呼吸すると、俺をゆっくりと抱きしめ、それからこめかみに落ちていく涙を、唇で吸い取った。
そのまますぐにキスが降ってくる。チョコの余韻に涙の塩辛さが入り交じっていて、ぎゅっと胸を締め付けられる。
「水無瀬って、泣き虫だよな」
再び顔を見合わせた御子柴が苦笑する。
その余裕が憎らしくて、俺は泣き出す寸前の子供のように、くしゃっと顔を歪めた。
「そんな、ことない。そんなこと……。今まで人前で泣いたことなんて……でも、なんか、お前といると。お前の、前だと──」
最初に御子柴の前で泣いたのはいつだっただろうか。
確か……そうだ、あの時。
夕日に照らされた音楽室で、俺にピアノを弾いてくれたとき。
あまりの美しい旋律に、自然と涙が零れた。
きっとあの時以来、俺の涙腺は壊れてしまったのだろう。
川から滝へ水が落ちていくように。
俺の涙は全て――御子柴に向かって注がれる。
そういう風に、なってしまった。
「水無瀬」
御子柴の腕が俺の背中とソファの間に差し込まれる。体が重なり合って、御子柴のぬくもりとほんの少しの重さを感じる。
「悪かったから。もう泣くなよ」
その切実な響きに、しかし俺は大きく首を振った。
「無茶言うなッ……」
抗議するように、力一杯、御子柴を抱きしめ返す。
「仕方ないだろ……だって、ずっと──」
ぽろぽろ、と。とめどなく涙が溢れて止まらない。
「ずっと、こうしたかったから……!」
御子柴が顔を上げた。大きな手の平で涙を拭い、同じの手で俺の顎をとらえ、やや乱暴に口づけてくる。
「ふっ──、ぁ」
角度を変えて、段々と深くなるキス。息を継ぐタイミングが掴めず、俺の頭は再び酸欠でぼうっとし始めた。
オーバーサイズのシャツの裾から、熱い手の平が滑り込んでくる。脇腹を通り、薄い腹を撫で、肌の感触を確かめるように動く。
御子柴の体温が肌を滑るたびに、俺は追い詰められていく。
「水無瀬……」
ようやく唇が解放される。荒い呼吸の合間から名前を呼ばれ、俺はうっすらと瞼を開く。
御子柴の黒い瞳が、燻る炎のような光を宿している。あぁ、見覚えがある。二年生の終わり、御子柴の部屋で過ごした一夜。あの二人で海に沈んでいくような時間の中で。
「好きだ、水無瀬」
御子柴の手が性急に、俺のシャツの裾をまくる。
「離れてる間も、ずっと水無瀬のこと考えてる」
首筋を吸われ、びくっと体が跳ねる。
「本当はずっとそばにいたい。離れたくない」
切羽詰まったような声と、肌を撫でる動きが、どんどん俺を駄目にしていく。
「それぐらい、好きなんだよ──」
耳元に吹き込まれた言葉に、全身が雷に打たれたように痺れた。チョコレートなんか比較にならないほど、その甘さが脳に染みこんでいく。
なんと答えればいいのか。なんの言葉を使えば伝わるのか。
それが分からなくて、とにかく俺は御子柴の目を覗き込んだ。御子柴は怖いぐらいひたむきに俺を見つめ返してくる。
こちらから首を伸ばして、触れるだけのキスを返す。
御子柴はそれだけでぎゅっと表情を歪めた。苦しげで、痛々しく、けれども凶暴さを内に秘めた──手負いの獣のような顔をして。
「俺も、もっと、水無瀬がほしい」
こくんと一つ頷くと、御子柴は再び口づけをしようとし──。
──ピンポーン、とインターホンが鳴った。
少しもしないうちに御子柴が戻ってきて、ローテーブルにジュースが入ったコップと菓子盆を置いた。
「ほんとに買ったのか……」
「だってりんごジュースとチョコがいいって言ってたじゃん」
確かにそうリクエスト? したものの、こうして見ると、本当に小学生が誰かの家に集まって食べるようなおやつだった。
御子柴はというと、ソファに座るなり、アイスコーヒーを飲んでいる。ちなみにひょいひょいと口に運んでいるのはミックスナッツだ。……これはこれで高校生らしからぬ気もする。
「いただきます」
せっかく用意してくれたので、ありがたくいただくことにした。りんごジュースのさわやかな甘味が目を覚ましてくれる。キャンディのような包みから出してチョコを食べると、疲れた脳に糖分がしみた。
「あはは、美味そうに食うなぁ」
ローテーブルにアイスコーヒーを置きながら、御子柴が愉快そうに言う。俺はチョコの包みを手でいじいじと弄んだ。
「あんだけ勉強したら甘いのいるだろ。お前は食べないの?」
「水無瀬の分、取ったら可哀想だしなー」
「いや、こんだけあるんだからいいだろ……」
菓子盆の中は、チョコクッキーとかチョコバームクーヘンとか、とにかくチョコずくめである。最初の一つは美味しかったけど、これだけ甘い物ばかりだと食べきれるか自信がない。
「ポテチもリクエストしとけば良かったな……」
「アーモンド、いる? 素焼きだから塩っ気ないけど」
差し出されたアーモンドを受け取ろうとしたが、御子柴はひょいっと一旦手を上に逃がした。
「はい、あーん」
「はぁ……?」
「ほら、口開けて。あーん」
にこにこと、実に楽しそうな御子柴に、俺は盛大なため息をついた。──頬に熱が集まるのを隠すように、俯く。
「自分で食べる……」
「疲れてんだろ、遠慮すんなって」
「どうせ後で俺にもやれって言うんだろ」
「言わない、言わない。無償のあーんですよ」
大いに疑いつつも、俺は仕方なく小さく口を開いた。
ややあって、ぽいっとアーモンドが放り込まれる。歯で砕くと、カリッとした触感と小気味のいい音が心地よい。
「美味い?」
御子柴がなんの他意もなさそうな表情で聞いてくるのに、ふと不安になった。
なんか……俺だけ変だな、と思う。
妙に意識して、いちいちドギマギして。
「あれ、もしかしてアーモンド嫌いだった?」
いつまでも返事をしない俺を、御子柴が訝しんでいる。
「いや、大丈夫」
一気にりんごジュースの入ったカップを呷り、もう一つ、チョコに手を伸ばす。
普通に、平常心で──。呪文のように唱えながら、俺は御子柴にチョコを差し出した。
「お前もこっち、いる?」
「おっ、あーんしてくれんの?」
「し、しない」
「んー……じゃあ、いいや」
言って、御子柴はアイスコーヒーを飲み干した。
……するって、言えば良かったかな。
そんな後悔と共に、チョコの包みを開ける。
クラスが離れて一か月も経っていないのに、御子柴との接し方がよく分からなくなっている。
もしかしたら、俺と御子柴の日常が乖離し始めているからかもしれない。だから急に二人きりになると、色んな感情が破裂しそうになって、どうしていいのか分からない。
山の中をぐるぐる回って、一向に目的地にたどり着けないようなそんな心境に陥った。
これでは本当に遭難者だ。
そして今、遭難しているのは、きっと俺だけ──。
いや、やめよう。俺は軽く首を横に振った。ネガティブな考えを振り払うように。
余計なことを考えるのは、勉強疲れのせいだ。三角関数の問題が、脳のエネルギーが枯渇させてしまったに違いない。
だからやけっぱちのように、チョコをまた一粒口に放り込む。
舌に成型されたチョコの角を感じた。
じわり、とチョコが体温で溶け始めた、その時──。
「──悪い、水無瀬」
呼ばれて振り返ってすぐ、顎に手が添えられた。
鼻先がもう少しで触れ合うのではないかと思うほど、御子柴に至近距離で覗き込まれる。
「やっぱ、俺にもちょうだい」
え、と漏らした声ごと奪うように、深く口づけられた。
驚きに目を瞠るよりも早く、熱い舌が差し込まれる。
「んっ──」
舌が絡み合い、口内のチョコが翻弄される。甘い唾液を飲み下すのに精一杯で、抵抗もできない。
体中が熱い。いつの間にか強く抱きすくめられていた。御子柴の手の片方は俺の背に、片方は後頭部を押さえて、まるで逃すまいとしているかのようだ。
「は、ぁっ……」
必死に息継ぎしながら、回らない頭で考える。
──馬鹿だな、俺が逃げるわけないのに。
その瞬間、胸の中でもやもやと絡まっていた何かが、一気に解けていく感覚があった。
俺は御子柴の首に両腕を回し、自ら身を寄せて、キスに応えていく。
どれぐらいそうしていただろうか。
御子柴のぬくもりが離れて、ぼんやりと薄目を開けた。リビングの天井に二人分の荒い呼吸が響いている。
気付けば俺はソファの上で仰向けに倒れていた。
「あーもう……」
天井を眺めていた俺の視界に、御子柴が割って入ってくる。俺の頭の両側に肘から上をついて──うまく回らない頭が、なんか筋トレでもしてるみたいな体勢だな、と場違いなことを考えた。
「これでもがっつかないようにしてたんですけど。何故なら紳士だから、俺は。優しくてかっこいいから」
「はぁ……」
だから自分で言うな。そういうとこだぞ、ほんと。
「なのにさぁ……。なんでちょっと近づいただけで顔真っ赤にしてんだよ」
バレてたのだと気づき、ぼうっとしていた意識が、少しだけ戻ってくる。
「そ、それは……」
「あとこっちが必死に冷静にしてんのに、なんか……ちょっと寂しそうにすんじゃねえよ……。可愛いのかよ……」
御子柴は深く俯いて、悔しそうにソファを拳で叩いている。
そこまで見抜かれていたのだと知り、一気に現実に引き戻された。
「い、いや……ちが、あの」
すると悔しがっていた御子柴が一転、身を乗り出して、俺の顔を真上から覗き込んできた。
「……違うんだ?」
さらりとした前髪が垂れて、俺の額に触れる。
「俺は誘った時から下心満載でしたけど」
「下心……」
御子柴がじとっとした目つきになる。
「そりゃそうだろ。家に誘っておいて、下心ないは無理あんだろ」
「そんな風に……見えなかった」
「見えないようにしてましたからねえー!」
そんなに恨みがましく言われても。お前が悪いんだろ、と思わなくもないけど、御子柴なりに気を遣ってくれた……んだろう、多分。
そうだ、だって二年生の時からは想像もできないほど、今まで離れていて。
だから少しずつ、ぎこちなく、距離を詰めないと──胃が引っ繰り返ってしまう。
あぁ、そうか……これで合っているんだ。何も変じゃない、間違ってない。
「御子柴」
眉根を寄せていた御子柴に手を伸ばす。その頬に触れ、輪郭を確かめる。
「俺も、多分、遭難してた」
「え……?」
「チョコなんかじゃ、足りなくて。だから、もっと──」
御子柴の目が驚きに見開かれる。その黒目がちの瞳に俺が──俺だけが映っていることを知る。
喜びか、安堵か。はたまた別の感情のせいか。
それだけで、目の裏がじんわりと熱くなり、目尻から涙が伝った。
「……もっと、欲しい」
御子柴はぐっと喉に何かが詰まったような、そんな表情を浮かべた。が、大きく深呼吸すると、俺をゆっくりと抱きしめ、それからこめかみに落ちていく涙を、唇で吸い取った。
そのまますぐにキスが降ってくる。チョコの余韻に涙の塩辛さが入り交じっていて、ぎゅっと胸を締め付けられる。
「水無瀬って、泣き虫だよな」
再び顔を見合わせた御子柴が苦笑する。
その余裕が憎らしくて、俺は泣き出す寸前の子供のように、くしゃっと顔を歪めた。
「そんな、ことない。そんなこと……。今まで人前で泣いたことなんて……でも、なんか、お前といると。お前の、前だと──」
最初に御子柴の前で泣いたのはいつだっただろうか。
確か……そうだ、あの時。
夕日に照らされた音楽室で、俺にピアノを弾いてくれたとき。
あまりの美しい旋律に、自然と涙が零れた。
きっとあの時以来、俺の涙腺は壊れてしまったのだろう。
川から滝へ水が落ちていくように。
俺の涙は全て――御子柴に向かって注がれる。
そういう風に、なってしまった。
「水無瀬」
御子柴の腕が俺の背中とソファの間に差し込まれる。体が重なり合って、御子柴のぬくもりとほんの少しの重さを感じる。
「悪かったから。もう泣くなよ」
その切実な響きに、しかし俺は大きく首を振った。
「無茶言うなッ……」
抗議するように、力一杯、御子柴を抱きしめ返す。
「仕方ないだろ……だって、ずっと──」
ぽろぽろ、と。とめどなく涙が溢れて止まらない。
「ずっと、こうしたかったから……!」
御子柴が顔を上げた。大きな手の平で涙を拭い、同じの手で俺の顎をとらえ、やや乱暴に口づけてくる。
「ふっ──、ぁ」
角度を変えて、段々と深くなるキス。息を継ぐタイミングが掴めず、俺の頭は再び酸欠でぼうっとし始めた。
オーバーサイズのシャツの裾から、熱い手の平が滑り込んでくる。脇腹を通り、薄い腹を撫で、肌の感触を確かめるように動く。
御子柴の体温が肌を滑るたびに、俺は追い詰められていく。
「水無瀬……」
ようやく唇が解放される。荒い呼吸の合間から名前を呼ばれ、俺はうっすらと瞼を開く。
御子柴の黒い瞳が、燻る炎のような光を宿している。あぁ、見覚えがある。二年生の終わり、御子柴の部屋で過ごした一夜。あの二人で海に沈んでいくような時間の中で。
「好きだ、水無瀬」
御子柴の手が性急に、俺のシャツの裾をまくる。
「離れてる間も、ずっと水無瀬のこと考えてる」
首筋を吸われ、びくっと体が跳ねる。
「本当はずっとそばにいたい。離れたくない」
切羽詰まったような声と、肌を撫でる動きが、どんどん俺を駄目にしていく。
「それぐらい、好きなんだよ──」
耳元に吹き込まれた言葉に、全身が雷に打たれたように痺れた。チョコレートなんか比較にならないほど、その甘さが脳に染みこんでいく。
なんと答えればいいのか。なんの言葉を使えば伝わるのか。
それが分からなくて、とにかく俺は御子柴の目を覗き込んだ。御子柴は怖いぐらいひたむきに俺を見つめ返してくる。
こちらから首を伸ばして、触れるだけのキスを返す。
御子柴はそれだけでぎゅっと表情を歪めた。苦しげで、痛々しく、けれども凶暴さを内に秘めた──手負いの獣のような顔をして。
「俺も、もっと、水無瀬がほしい」
こくんと一つ頷くと、御子柴は再び口づけをしようとし──。
──ピンポーン、とインターホンが鳴った。



