土曜日まであと三日、土曜日まであと二日──。
 なんて指折り数えて、今日は木曜日だった。
 昼休みに入り、くるりと溝久保がこちらを振り返った。
「晴希はもうメシ買ったのか?」
「ぶッ──」
 と、俺は咽せた。この感覚が久しぶりだと思う間もなく、今度は後ろから声が聞こえた。
「晴希ぃ? なになに、君たち、いつそんな仲良くなった?」
 眼鏡をくいくいしながら、六反田が興味深げに見つめてくる。溝久保があからさまに顔をしかめた。
「そう呼べって言われたんだよ」
「誰から?」
「……美海ちゃん」
「誰どす?」
 手近な席の椅子を借りて座りながら、六反田は首をかしげる。
「ええと、美海は俺の妹で……げほ、ちょっと待って」
 俺はペットボトルのお茶を飲んで落ち着きを取り戻し、溝久保の足らない言葉を補った。
「へー、そんなことが」
 六反田は面白そうに目を輝かせている。主にその視線は溝久保に向けられていた。
「良かったな、朔。良い妹と良いお兄ちゃんに囲まれて」
「……誰が何だって?」
「水無瀬お兄ちゃん。てか水無瀬って晴希って名前なんだ。なんかオシャレじゃん」
 六反田は呑気に弁当の唐揚げをもぐもぐ食べている。俺、溝久保のお兄ちゃん扱いなのか……?
「朔んちも両親、忙しいもんな。お兄ちゃん、安心したよ」
「……は?」
「あ、今のは俺のことね」
「てめーは同い年だろ」
 いや、それは俺もなんだけど……。どうやら六反田の中で、溝久保は末っ子扱いらしい。
「そういや、その……話全然違うんだけど」
 もう一度、ごくりとお茶を飲んで、俺は切り出した。
「二人って……休みの日、というか普段どんな服着てる?」
「服? 何、オシャレしたいん?」
「いや、そろそろ……新しい服を買おうかと」
 サンドウィッチをつまみながらもごもご言う。六反田は行儀悪く箸を溝久保に向けた。
「ちなみに朔に聞いても無駄だぜ。こいつ、昔っからジャージかユニフォームしか着ないから」
「別にいいだろ、他に何がいるんだよ」
「あはは……溝久保っぽいな」
「で、俺は──特にオシャレではないのでよくわからん! 適当にそれっぽいの着る」
 それっぽいのってなんだ。とりあえず溝久保も六反田もこの相談に適してないことだけはよく分かった。
「SNSとか見たら? あと究極は店員さんにおまかせ。これ一択!」
「二択じゃねぇか」
「あら、朔ちゃん。ツッコミがお上手~!」
「静かにメシ食えねーのか、てめーは」
 今日も今日とて、小気味のいい幼なじみ漫才が繰り広げられている。……なんて言ったら溝久保は怒るだろうけど。
 俺はサンドウィッチからはみでたレタスをハムスターみたいにかじる。
 店、行くかぁ。ああいうとこの店員さんちょっと苦手だけど。
 でも……土曜日に間に合わせたい、から。仕方ない。


 週末は予報通り、晴れた。春風が気持ち良く、実に穏やかな天気だ。
 腕時計で時刻を確認しながら、住宅街を行く。一か月ほど前に通った道なので、さすがにまだ覚えていた。
 ……あ。あれだ。
 角地にある広い敷地を見つける。御子柴邸は相も変わらず豪邸である。
 インターホンを押す前に、わふわふっと犬の鳴き声が聞こえた。門越しに白い犬が駆け寄ってくるのが見える。
「クロード」
 門扉に飛びつくクロードに苦笑しながら、インターホンを押す。少しして御子柴が応じた。
『水無瀬?』
「こ、こんにちは」
 なんと言っていいか分からず、とりあえず挨拶する。
『はい、こんにちは。今行くから待ってて』
 すぐに御子柴が玄関から出てくる。俺を見て興奮しているクロードにステイステイ、と宥めながら、門を開ける。
 今日の御子柴はアイボリーのサマーニットにデニムといった、シンプルな出で立ちだった。なのに目が離せないほど華がある。これは素材に自信がないとできないファッションだな……。
「はは、クロードも久しぶりに水無瀬に会えて嬉しいみたい──」
 クロードから視線を俺に移した御子柴は、目をぱちぱちと瞬かせた。
「なんかいつもと服のテイスト違う?」
 うっ、と口の中だけで小さく呻く。
 溝久保と六反田に服の相談をした日。
 放課後に、一念発起して俺は横浜駅の地下街へ赴いた。おしゃれそうだなと思う店に入って、店員さんにおすすめを聞いてみた。そうしてああだこうだとコーディネートしてもらったのが今日着ている服だ。
 くすんだブルーのだぼだぼのシャツ──オーバーサイズというそうで、なんか流行っているらしい。それと白いボトムスにはファスナーつきの大きなポケットがある。確かにかっこいいんだけど、なんか自分だと服に着られているようで恥ずかしい。
 御子柴が俺の頭のてっぺんからつま先まで、チェックするように眺めている。俺はたまらず口を開いた。
「あー、あの。新しく買った服でさ……」
「へえ、めっちゃ似合ってる。いいな、春らしくて」
 御子柴がにっこり笑う。こいつに言われると、途端に自信が沸いてくるから不思議だ。
「ほら、上がってどーぞ」
「お邪魔します」
 敷地に入ると、かすかに草の匂いがした。庭の芝生が青々と茂っている。最初に御子柴の家に来た日から、やはり時間が経っているんだな、と思った。


 母屋の方のリビングは、やっぱり気後れするほど広々としていた。でかいソファにでかいテレビ。ダイニングテーブルに、御子柴が麦茶を用意してくれる。
「勉強すんの、ここでいい? 俺の部屋の折りたたみテーブルじゃ、勉強道具広げらんないかなって」
「あぁ、うん」
 こんな綺麗なテーブルでシャーペンとか消しゴムとか使っていいのか? 俺は困惑しながら、カバンから教科書、ノート、ペンケース、タブレットなどなどを取り出す。
「何からしましょうかねー」
 御子柴も同じようなものをテーブルの上に並べている。俺は首を傾げた。
「っていうか、御子柴って推薦決まってるんじゃなかったか?」
「それ、噂を鵜呑みにしたろ」
 タブレットを操作しながら、御子柴が苦笑を浮かべる。
「こんなに早く決まるわけないじゃん。っていうか俺が受ける大学、うちの高校は指定校に入ってないし。普通に一般公募で受けるよ。まぁ……師匠が強いから、俺がよっぽどトチらない限り受かると思うけど」
「師匠が強い?」
「神呪寺清彦。世界でも著名なピアニストで、俺はその唯一の弟子だから」
 タブレットに落ちた御子柴の視線が、少しだけ翳る。しかし俺が何か言うよりも早く、御子柴はぱんぱんと手を打った。
「はい。世間話はここまでにして、お勉強しましょーね。水無瀬は何の科目すんの?」
「あ、えっと、数学かな」
「分かんないとこあったら言って。得意だから」
「お前、苦手な科目ないだろ」
「そういえばそうだったわ」
 いたずらっぽく白い歯を零す御子柴に、さっきまでの陰はない。少し気になりつつも、タブレットに表示されている問題を見て、人のことをとやかく言っている場合ではないな……と、ため息をついた。


 言わずもがな、勉強というものは疲れる。
 特に意味不明な数学の問題と一時間もにらめっこすれば、脳が軋むような疲労を訴えてくる。
 文章題も、図形もグラフも、解答に書かれている数式の羅列も、目が滑るだけで何も頭に入ってこない。
 深々とため息をついていると、御子柴が俺に言って寄越した。
「何か分かんないとこある?」
「何が分かんないかも分かんない……」
 ペンを投げ出し、テーブルの上に突っ伏す。
 すると、頭に優しい重みが乗っかり、髪の毛をかき混ぜるように左右を往復する。
 顔だけを上げてちらっと窺うと、御子柴がおかしそうに笑っていた。
「一緒に一問、解いてみようぜ」
 そう優しく促されると、嫌だとは言えなかった。
 御子柴は俺の隣の席に移ると、問題が表示されたタブレットを覗き込んだ。二年生の復習で、三角関数の問題だ。
 御子柴の指がすっと伸びて、タブレットに触れる。
「弧度法って覚えてる? ラジアンってやつ」
 学習アプリのメモ画面に、長い指が丸い縁を描く。説明が続くにつれ、御子柴が徐々に身を寄せてくる。
「この扇形の円周、ここのことを1ラジアンって言う。一八〇度はπラジアンだから、六〇度は……」
 御子柴がタブレットを操作する度に、肩がほんの少し触れあう。体温がかすかに伝わってきて、言葉を句切るときの吐息まで聞こえる、そんな距離だ。
 本当に御子柴には悪いんだけど、解説が一つも入ってこない。
 久しぶりに感じる御子柴の存在に、半ば混乱しかけていた。
 あぁ、こいつが電話で遭難云々と言っていたのはこういうことか、と今更ながら理解した。
 離れていた分、急にこんな近くにいられると──身が持たない。
 また肩がわずかに触れ合う。
 そこから心臓の音が伝わらないかどうか、それだけが気になった。
「……水無瀬?」
 はっと我に返ると、御子柴が「おーい」とか言いながら、俺の目の前で手を振っていた。ぼうっとしていたのがバレて、恥ずかしいやら申し訳ないやら。俺はぱたぱたと両手を振った。
「ご、ごめ……。やっぱ、あの難しくて。えっと」
 顔が──いや、体ごと熱い。
 変な汗を額に浮かべている俺を見てか、御子柴は苦笑した。
「そろそろ休憩入れた方がいいかもな」
「や……。う、うん。そうしよう」
 俺はこくこくと何度も頷いた。それにますます苦笑を深めつつ、御子柴は椅子から立ち上がり、キッチンに向かう。
「リクエストされたやつ、持ってくるからソファで待ってな」
 御子柴が離れていく。少しの寂しさと盛大な安堵が胸にもたらされた。