三人での夕食は結構、楽しかった。
 基本的には美海が喋って、俺が時々突っ込んだりして、溝久保は飯を頬張りながら話を聞いているだけだった。けど、人数が多いとそれだけ食事が美味しい。それに美海が楽しげなのが、まぁ、兄としては嬉しいところだ。
 今は食休みタイムに入っている。俺はキッチンで食器を洗い、美海と溝久保はリビングでくつろいでいる。なにやら美海がおすすめ動画を溝久保に教えているようだ。
「今、学校で流行ってるのはこれ。昔の曲とダンスなんだって」
「美海ちゃん、ダンスするんすか」
「うん、見てて。結構上手くなったから」
 動画に合わせて、美海が踊り始める。溝久保は「おお……」と素直に感心していた。
 スポンジに洗剤を足しながら、俺は思わず苦笑した。とても学校での溝久保と同一人物とは思えない。
 美海のダンスにぱらぱらと拍手を送った後、溝久保はふいにこちらを振り向いた。
「水無瀬。その……なんか手伝うこと、あるか」
 一応気をつかっているらしい。家事をしたことない奴が何言ってんだか。
「いいよ、そのまま美海の相手してもらえれば。そっちの方が助かる」
「そーそー、助かる助かる!」
 腰を浮かしかけていた溝久保を、美海が引き留める。
「っていうか、ハルくんはハルくんって呼んでいいよ。私もお兄ちゃんもどっちも水無瀬だもん。ややこしいじゃん」
「え、いや」
「お兄ちゃんの名前、晴希だよ。知ってる?」
「晴希……」
 なんとも言えない表情で呟き、溝久保はちらりと俺を見やった。
 ……ちょっと、いや、かなりむずがゆい。大体、高校生にもなって下の名前で友人を呼ぶことなんてないと思う。あ、でも六反田は溝久保をお名前で呼んでいるし……ってそれは幼なじみだからか。
「うんうん。あのね、美海が『海』でしょ。お兄ちゃんは晴れだから『空』なんだって。お母さんが言ってた」
「海と空……。良い名前っすね」
 ふわり、と溝久保が少しだけ──ほんの少し、口元を緩めた。
 俺はあやうく食器を落としそうになる。
 笑った……。溝久保が、笑った……。
「美海……お前、すごいな」
「これぐらい説明できて当然でしょ!」
 褒めたのに何故か怒られた。俺たちのやりとりを見て、溝久保が「ふはっ」と声に出して笑う。
 学校での仏頂面しか見てなかったから、俺の中では革命にも等しかった。そうか……溝久保ってあんな顔もできるのか……。
 なごやかな夕飯が終わり、溝久保を玄関まで見送る。美海は名残惜しそうに手を振った。
「明日も来てね、絶対だよ」
「いや、それは……」
「うちはいいよ。三人分も四人分も一緒だし」
 そして今日も千円札を渡されてしまったし。というか、これ、毎日もらうのか……? かなりぼったくりな気がする。
 溝久保は困ったようにこめかみを掻いた。
「あぁ……。なら、その、都合が合えば」
 踵を返そうとする溝久保に美海が言う。
「おやすみ、溝久保くん!」
 ああ、そうか。この時間だと確かにそういう挨拶になるか。
「おやすみ、溝久保」
 俺もそう言って手を振ると、溝久保はまたぺこっと頭を下げて「おやすみなさい」と蚊の鳴くような声で言い、そそくさと帰っていった。
 ドアを閉めると、美海がにこにこと言った。
「また明日も来てくれるかなぁ」
 どうやら溝久保がいる食卓がかなり楽しかったようだ。いつも俺と二人きり、母さんとは休みの日にしかまともに会えない。どこかで寂しい思いをさせてしまっていたのかもしれない、という思いがちくりと胸を刺した。
「溝久保が迷惑じゃなきゃ、俺が連れてくるよ」
「うん、お願いね!」
 美海の笑顔はきらきらと輝いている。まるで太陽を反射する海面のように。この光が俺や母さんを支えてくれているのかもしれなかった。


「今日はほんとにごめん」
 夜、御子柴と通話を繋げた俺は、開口一番そう言った。ついでにベッドの上で頭を下げる動作をする。見えないけど、そうしたかった。
 スマホの向こうで、御子柴が苦笑する。
『別に、水無瀬のせいじゃないじゃん』
 御子柴ならそう言うと思っていた。けど、と俺は話を続ける。
「お前……その、めっちゃ怒ってたよな」
 少しの空白があった。御子柴は「あー……」と口ごもる。
『いや、まぁ。水無瀬とせっかく会う約束してたのにな、ってのはあるよ。けど、溝久保の態度が気に入らなかったといいますか』
「態度……」
 は、まぁ、単純に最悪だったとは思うが。しかし御子柴が言いたいのはそういうことではないらしかった。
『だって水無瀬の話も聞かずに、力尽くで連れてこうとしただろ。ああいうの、どうかと思う』
 ──あぁ、なんか本当に御子柴らしいな、と思った。
 優しいとか、正義感があるとか、公平だとか。一言ではうまく言い表せなくて、『御子柴らしい』なんてふんわりした表現にしかならないけれど。
 御子柴はばつが悪そうに続ける。
『だから俺もちょっと頭に血が上っちゃいました、と。それだけだよ』
「……ありがとな。そう言ってもらえると、助かる」
 しんみりした空気を払拭するように、御子柴が一転、明るい声で言う。
『ま、そんなことより。──今度、うちで勉強会とかしねえ?』
「勉強会?」
『そ。水無瀬は気付いてないかもしれないけど、俺ら、受験生なんですよ』
「いや、知ってるし……」
 まぁ、そういう現実から目を逸らしがちではあったけど。
 って、そうではなくて。
「御子柴んち、行っていいのか?」
『おう。今度の土曜、どう? 親は休日出勤で、ばーちゃんは友達とお茶してくんだって。つっても、ばーちゃんは一、二時間で帰ってくると思うけど』
「う、うん」
 俺はいつの間にか、ベッドの上で身を起こし、正座していた。
 二年生の時、御子柴の家に泊まったときのことを思い出す。顔がかあっと火照りだすのは、とりあえず置いておくとして。
 御子柴のおばあちゃんは離れに住んでいる。つまり帰ってきても、その、御子柴一家が住んでいる母屋にまでくるかどうかは分からない。
 もしかしたら御子柴と長い間、二人きりでいられるかもしれなくて──。
「行く。行きたい」
 一も二もなく返事した。そんな俺に御子柴は苦笑しつつも、嬉しそうに言った。
『じゃ、お互い昼メシ食べた後、集合な。なんか飲みたいもんとか、食べたいもんとかある?』
 なんでもいい、と言いかけた。実際、御子柴といられればなんでも良かった。……って、何言ってんだ、馬鹿。やばい、家に誘われただけでポンコツになってしまっている。
「ええと、りんごジュース……とか」
『りんごジュース』
「チョコのお菓子、とか」
『チョコのお菓子』
 飲食店の店員みたいに、御子柴が注文をいちいち復唱する。
 とっさに言ってしまったけど、りんごジュースにチョコって。なんか小学生のおやつみたいだ。ジンジャーエールとかそういうのを言っておけば良かった。いや、それが高校生っぽいかは分からないけど。
 御子柴はしばらく黙り込んでいた。チョコのお菓子と一口に言っても、たくさんあるので、何を買うか考えているのかもしれない。
「あ、てか、俺、買ってくから。家にお邪魔するんだし」
『うん……。や、いいんだけど。用意するけども』
 御子柴の口調はどこかぎこちない。俺は慌てて尋ねた。
「なんか嫌いなもんあった?」
『もー……なんも嫌いじゃないぃ……』
 絞り出すようにそう言って、御子柴は盛大なため息をついている。何が御子柴をそうさせるのか、その日の通話ではついぞ分からなかった。