「前のクラスのことなんだ」
 ものすごく——完璧な笑顔だった。まるでアイドルの宣材写真か何かのように。でも目が笑ってない。全然、まったく、笑ってない。
「担任だった一条先生が今年産休に入るらしくってさ。そのお祝いをみんなでしようって言ってんだ。俺と水無瀬が幹事になったから、何しよっかなーって話すとこだったんだよ」
 よくもまぁ、こんなにすらすら嘘が出てくるものだ。感心したいが、それどころではなかった。
 御子柴が……めちゃくちゃ怒っている。
 迫力のある笑顔が何よりもそれを物語っている。こ、怖い……!
「んなの、別にスマホでやりとりすりゃいいだろ」
「直接話した方が手っ取り早いことってあるじゃん」
「じゃあ、電話しろ」
「ノンバーバルコミュニケーションって言葉知ってる?」
「得意気に横文字使う奴、うぜーんだよ」
 両者の間に見えない火花が散っている。なんだ。なんなんだ、この状況。一つもついていけない。
 俺は助けを求めるように六反田を見た。六反田は階段の手すりに隠れて、仔兎のように震えている。明らかに俺と同じ草食動物の類だ。駄目だ、これは……。
「つーか、いい加減放せ」
 先に焦れたのは溝久保だった。御子柴を引き剥がそうと、もう片方の手を伸ばす。
 その乱暴な動作に俺はぎくりとした。御子柴はピアニストだ。だがその指を溝久保が気遣うとは思えない──。
「わ、分かった! 帰る、帰るから!」
 俺はとっさにそう叫んだ。溝久保の動きが止まる。俺は溝久保の手首を押さえつけていた御子柴の手をやんわり引き剥がすと、溝久保を連れて階段を降りる。
 困惑したような御子柴の声が追いかけてきた。
「待っ、水無瀬」
「ごめん、話し合いはまた今度。じゃあ!」
 後ろ髪を引かれる思いがなかったといえば嘘になる。けど今は振り返らず、とにかく御子柴から溝久保を引き離すことだけを考えた。
 ほうほうの体で教室に戻ってくる。一番後ろについてきていた六反田が、溝久保の両肩をがしっと掴んだ。
「朔ーッ! お前、何やってんの、何やってんの⁉ 相手、めっちゃ怒ってたじゃん! つーか、顔良い同士でバチバチすんなよ、迫力ありすぎるよ、怖いよ!」
 俺の思っていたことを六反田が全部代弁してくれた。がくがくと体を揺さぶられながらも、溝久保は拗ねた子供のようにそっぽを向いている。
「そんなことよりメシ食うぞ」
「そんなことよりってなんね、アンタ! まだ話、終わっとらんよ!」
 詰めても詰めても溝久保は知らんふりを決め込んでいる。
 やがて諦めたように溝久保から手を放した六反田は、俺に向かって頭を下げた。
「ごめん。こいつが急に水無瀬の様子見に行くって言い出して。止めたんだけど、聞きやしねえんだよ。想像つくと思うけど」
「あぁ、うん……。でもどうしてそんなこと」
 ちらりと溝久保を見やる。溝久保はさっさと自分の席に座って、コンビニのパンを食べ始めた。一応、反対に座ってこっちを向いてはいるけれど、理由を話してくれる気配はない。
 毎日、一緒に帰ることといい、溝久保の考えていることは本当に掴めない。俺は力なく椅子に腰を下ろした。
「——水無瀬」
 溝久保がコロッケパンにかぶりつきながら言う。
「お前ん家の今日の晩メシ、なに」
「晩メシぃ?」
 怪訝そうに聞いたのは六反田だった。持ってきた椅子に疲れたようにもたれ掛かっている六反田に、事情を話す。
「へえ、同じマンションなんだ……。で、晩メシのおすそわけ?」
「そう。えっと、今日はチャーハンと餃子だけど……」
「あっそ」
 聞くだけ聞いて、溝久保はものの一分で昼食を終え、そのままくるりと前に向き直り、自分の机に突っ伏した。なんだか不貞寝にも見える。
 ……御子柴との昼飯の時間がなくなったことに関しては、すごく残念だった。
 けれど、溝久保は溝久保で何か理由があってあんなことをしたようにも見える。というか、理由もなくあんなことをする奴とは思えない。
 口下手で、それを伝える術がないのかもしれない。
 だからだろうか。なんとなく溝久保を恨む気にはなれなかった。……さすがにお人好しすぎると自分でも思うが。
 そこへ昼休み終了を告げる本鈴が鳴り響いた。六反田は急いで弁当をかき込むと、俺にもう一度だけ「ほんとごめんな」と謝って、席に戻った。別に六反田のせいではないのに。
 俺はちょいっと溝久保の背中を突いた。
「溝久保、餃子好き?」
「……フツー」
 嫌いじゃないらしい。
「じゃあ、今日も持って帰れよ」
 返事はない。けどなんとなく溝久保はそうする気がした。
 はぁ、とため息をついて背もたれに体を預ける。
 御子柴になんて言おう。どうフォローを入れたものか。思い悩んでいると、制服のポケットに入れっぱなしだったスマホが震えた。
【よく分かんなかったけど、とりま気にすんなよ。また今夜話そう】
 ……先に気をつかわれてしまった。本当にできた人間だよ、お前は。
 封鎖された屋上のドアが脳裏を過る。ああ、あそこはもう入れなくなってしまったのか。
 メッセの入力欄に自然と文字を打っていた。さみしい、とそこまで入力してから、慌てて消す。
 教師が入ってきたので、俺はとっさにスタンプだけを送った。指が滑って、くまのキャラクターがおみこしに乗って『わーい』とはしゃいでいる、意味の分からない謎スタンプを。