放課後、俺は帰り支度をしながら、鞄の中のスマホにちらりと目をやった。画面は真っ暗のまま。通知がくればそれが表示される設定にしているので、何もないということだ。
……今日も一緒に帰れないのかな、と心の中で呟く。ちょっと前に御子柴から聞いたところによると、仕事やレッスンが立て込んでいるのと、それがない時はクラスの親睦会などが頻繁に行われているそうだ。三年生で最後だし、受験が迫る中、遊べるのは今しかないし──とのこと。
【さすがに最初のうちは顔出しといた方がいいかと思って】
とは御子柴の弁。それはそうだ。
気にするなよ、と物わかりのいい風を装ったが、こうやって毎日放課後になると御子柴から連絡が来ないか気にしてしまう。我ながら諦めが悪いというか、湿っぽいというか。
ため息をついて、頭を振る。なんとか自分で区切りを付けて、頭を夕飯の献立モードに切り替えようとした。ええと……あ、昨日カレーを作ったんだった。ということは今日は二日目カレーだ──。
「おい、帰るぞ」
前の席からやたら低い声が聞こえて、はっとして顔を上げる。溝久保が俺の前に立ちはだかっていた。
「か、帰るって、今日も?」
始業式からこの方、溝久保はいつもこの調子だった。同じマンションに住んでいるからおかしくはないんだけど……。
「俺もやりたくてやってるわけじゃねえよ」
いつにも増して眼光が鋭い。俺は本能的に助けを求めようと、教室に六反田の姿を探した。……が、いない。ああ、そうだ。六反田は吹奏楽部に所属していて、放課後はすぐ練習に向かうのだった。
「もたもたすんな、行くぞ」
言って、さっさと歩き出してしまう。俺はその広い背を眺めながら、逃げてしまおうかとちょっと思った。けれど見つかったら後が怖そうだ。走って逃げてもサッカー選手に敵うとは思えない。なので、大人しくついて行かざるを得なかった。
連行されるようにして、溝久保と学校を出る。
学校前の並木を抜けて、坂を下り、住宅街に入る。夕日を受けて、立ち並ぶ家々が濃い影を道に落としていた。
「もしかして、まだ……そのよからぬ事を考えてると思ってる?」
恐る恐る聞くと、溝久保は振り返りもせず答えた。
「思ってるから、こんなことしてんだろうが」
「いや……。あの、誤解だって。俺、そういうんじゃ」
「判断すんのはお前じゃねえ」
すげなく返されて、俺は肩を落とす。もう諦めるしかないんだろうか……。
マンションの前まで着くと、溝久保は立ち止まった。俺は怪訝な顔をして振り返る。
「またコンビニ行くのか?」
これもいつものことだった。溝久保はマンション前まで俺を送った後、夕飯を買いにコンビニに行く。最初はたまたまかと思ったが、毎日毎日そうなのでさすがに気になってしまった。
「行くけどなんだよ」
溝久保が眉をひそめる。それがどうしたと言わんばかりの表情だ。
俺は俯いて考え込んだ。人の事情に深入りしてはいけないのは分かっている。けど、昼も夜もコンビニ飯だと純粋に健康が心配になる。それに誤解とはいえ──溝久保は俺を心配してこうして一緒に帰ってくれているわけで。
「……あ、あのさ。溝久保ってカレー、好きか?」
「は?」
すでに踵を返していた溝久保が、怪訝そうに振り返る。
「昨日、カレー作り過ぎて余っててさ。良かったら、持って帰って食べてくれると嬉しい。白飯もあるし、サラダもつけるから」
「いらねえよ、んなもん」
「カレー助けだと思って。な?」
「んだよ、カレー助けって……。おい、ちょ――ひっぱんな!」
埒が明かない、と俺は溝久保の手を取って、マンションのエントランスまで連れて行った。いつも強引に帰路を共にさせられるのだ、これぐらいいいだろうという意趣返しの気持ちもあった。
すぐに振りほどかれると思ったが、溝久保は意外にも大人しくついてきた。
「なんだってんだよ……」
調子が狂ったようにそう呟く溝久保をエレベーターに乗せる。五階で一緒に降りて、俺は自分の家の玄関を開けた。
「そこで待ってて。すぐ持ってくる!」
家に入ると、美海が出迎えた。
「ハルくん、お帰り~……。何してんの?」
美海は四年生に進級し、学童を卒業した。今は自分で帰ってきて、こうして俺の帰りを待っていたり、友達の家に遊びに行っていたり様々だ。
「ああ、ちょっと」
俺はキッチンに直行すると、カレーと白飯、それにサラダをそれぞれ容器に詰めた。手近にあったエコバッグにカレー一式を入れて、玄関に取って返す。
玄関ドアを開けると、居心地が悪そうに待っている溝久保がいた。
「ほら、これ。レンジであっためて食べればいいから」
溝久保は難しい顔をしながら、無言でエコバッグを受け取る。意外と素直で安心した。
「……お前、料理すんのか」
「え? あ、あぁ、するけど。大丈夫、いつも作ってるからまずくはないと思う。なんかリクエストあったら、作るよ」
「は……? いや、別に……」
「溝久保は好物とかあるのか?」
溝久保はしばらく口をもごもごさせていたが、やがてぽつりと答えた。
「……チャーハン、とか」
「分かった。じゃあ、明日、また持って帰ってくれ」
溝久保は難しい顔をしていたが、短く嘆息すると、エコバッグの持ち手を腕に通し、鞄から財布を取り出した。そしておもむろに千円札を差し出してくる。
「カレー代」
「い、いや、別にいいよ。余り物だから」
「親に夕飯代でもらってんだよ。いいから受け取れ」
そう言うと半ば千円札を押しつけられた。溝久保は満足したのか、くるりと俺に背を向ける。
「じゃあな」
そのまますたすたと歩いていってしまう溝久保を、呆気に取られて見守っていると、下からひょこっと小さな顔が覗いた。美海だ。もしかしてずっと見ていたのだろうか。
「……うわぁ~、美海、結構タイプかも」
今読んでる漫画のイケメンみたい、と目を輝かせている。俺はがくりと肩を落とした。
その夜、風呂から上がって、リビングに置いてあったスマホを見ると、御子柴からメッセージが入っていた。
【十時頃、電話していい?】
御子柴の名前を見ると自然、昼間の出来事が思い起こされた。
御子柴と西蓮寺さんの、仲睦まじそうな光景が。
でも言えるはずがない、クラスの女子と仲良くするなだなんて。俺が溝久保や六反田とつるむように、御子柴には御子柴の人間関係がある。いくら付き合っているからって、そこまで干渉するのは絶対に間違っている。
余計な考えを追い払うように、生乾きの髪をタオルで乱暴に拭う。了解、と返信し、ドライヤーをしたり、食器を洗ったりしながら、十時を待った。
時間に合わせて自室に戻ると、ちょうどスマホが着信を報せた。少しだけ間を空けて、応答する。
「もしもし?」
『はーい、こんばんは』
電話越しに聞き慣れた声がする。深みがあって、耳馴染みの良い──御子柴の声。それだけでなんだか力が抜けて、俺はベッドに腰を沈めた。
「こんばんはって何だよ」
『何って、夜の挨拶だろ。挨拶は基本だぞ、水無瀬クン』
そう諭されて、なんとなく「こんばんは」と返してみた。御子柴は軽く笑った。
『あはは。今まで通話ってそんなしなかったから、なんか新鮮だわ』
それはそうだ。二年生の時は……毎日、顔を合わせていたのだから。一抹の寂しさが胸を掠める。けれど、御子柴が、
『うん、こういうのもいいな』
と上機嫌に言うので、俺はそうかもしれないと単純に思い直してしまうのだった。
『そっちのクラスはどう?』
「あぁ、ええと。全員はまだよく分からないけど……。仲良くしてくれる奴らはいるよ」
『おー、いいじゃん。なんて名前? 知ってる奴かな』
「六反田と溝久保」
『ろく……なんて?』
「六反田。五反田の次の、六反田」
六反田の自己紹介をそのまま流用する。御子柴は少し考えた後、真面目な口調で言った。
『五反田の次は大崎じゃね?』
「誰が山手線の話してんだよ……」
『うそうそ。なるほど、六反田かー。変わった名前だな』
水無瀬も御子柴も大概だけど、とは言わないでおいた。確かに六反田に勝てる名字はそうそうない。前のクラスにいた新聞部の目乙木くらいのものだろう。
『あとは、なんだっけ?』
「溝久保」
『みぞ……。なんか名字のクセ、強くね?』
そんなこと俺に言われても。答えに困っている間、御子柴はなにやらうんうん唸っていたが、やがて、
『あっ、思い出した。溝久保。確かサッカーめちゃ上手いやつじゃなかったっけ?』
「知り合いなのか?」
だったら、溝久保が俺と御子柴が同じクラスだったことを知っていてもおかしくはないのか、と思ったが、御子柴はあっさり否定した。
『ううん、全然知らない。けど学校でも有名だし、話に聞いたことあんだよ。プロチームのユース行ってたんじゃなかったっけ』
「ユース? って、ええと……」
『まぁ、高校生選手をチームが育成する的なとこ。大体は提携校に行くんだけど、まぁ、同じ横浜だし別に地元の高校通っててもいいのかな』
サッカーに明るくないのでさっぱり分からない。俺の困惑を悟ったのか、御子柴は軽く苦笑した。
『俺も小学生までジュニア行ってたから。あいつもチーム内にいたのかもだけど、覚えてないな。俺は途中でピアノに専念するから辞めたし』
「えっ、御子柴がそのプロチームの……に?」
『そうだけど』
そういえば体育でサッカーをしている時に、俺の方に飛んできたボールを華麗に受け止めていたことがあったっけ。今日も今日とてハイスペックエピソードが飛び出すのに呆れる。
『クラスの他のやつは?』
「いや、それくらいかな……俺が分かるのは」
『二人って……少なくない?』
「苦手なんだよ、人の顔と名前覚えるの」
『あー、まぁね。俺は得意ですけど』
「お前はなんか一つでも苦手なことないのか……」
ピアノは弾くわ、サッカーはできるわ、勉強はできるわ、見た目はいいわ……。そのうちエスカレートして、空を飛んだり、ビームを出したりしだすんじゃないかと思う。いや、ちょっと……だいぶ、方向性は違うけど。
すると、御子柴が苦笑交じりに言った。
『あるに決まってんだろ』
「え、マジ? なんだよ」
『んー。水無瀬がいない教室とか』
ぽつりと呟かれた言葉に、目を見開く。御子柴はしんみりと続けた。
『散々、大丈夫だなんだってお前に言ったけど……。でもやっぱ、後ろに水無瀬がいないと寂しいよ』
「……っ」
ぎゅっと唇を噛み締める。でないと、あらぬ言葉を口走りそうだった。
悲しいのか、嬉しいのか。自分でもよく分からなくて、その感情が陳腐な言葉で昇華されるのが、すごく……嫌だった。
沈黙が落ちる。何も言えないでいると、御子柴が気遣わしげに呼びかけてきた。
『水無瀬?』
脳裏に浮かぶのは、西蓮寺さんが御子柴の腕を取る場面だった。きっと教室でも似たようなことが繰り広げられているのだろう。
でも御子柴はその間も、俺がいない空白を感じている。
俺が御子柴のいない教室を見て、胸にぽかりと穴を空けるのと同じように。
だから俺は──黒々とした感情を掻き分けて、その奥にある本音を探し当てる。
「明日、会いたい」
回線の向こうで、御子柴が驚く気配が伝わってきた。
「屋上で……昼飯、一緒に食べたい。明日じゃなくてもいい、近いうちでいいから」
ベッドのシーツをぎゅっと握り締める。
「御子柴に会いたい」
──話したい、顔が見たい、ほんの少しでもいいから。
『なんか、あったのか……?』
最後、縋るような口調になってしまったからだろう、御子柴は尚も心配そうに尋ねてくる。
一転、羞恥が上回り、結局いつもみたいに俺は口を尖らせた。
「……恋人に会いたいって言うの、おかしいかよ」
『い、や──おかしくはないけど』
通話の向こうの御子柴が、少し動揺している。俺は震える唇に力を込めた。
「単純に、好きだから会いたいって言ってんだよ。分かれよ、ばか」
御子柴はしばらく黙っていたが、やがて重々しく口を開いた。
『……山で遭難した人ってさ』
「──は?」
『しばらく食べられてないじゃん、まともなものを。だから急に固形物を食べると胃がびっくりしちゃうわけ。で、まずは重湯とかおかゆとかから始めるんだよ。知ってる?』
「え、いや……。な、なんの話?」
『俺は今、胃がびっくりしてるって話』
「遭難、してた……のか?」
『どこでだよ。いや、してたけど』
ぼふっとベッドに寝っ転がるような音が聞こえた。それからやけに遠のいた声で『あーもー……』とぼやいている。
こいつは本当に時々、訳の分からないことを言い出す。けど、それが妙に懐かしくて、俺はちょっとだけ頬を緩めた。



