「おはよーさん、水無瀬!」
 朝礼前の眠たげな空気の中、ぼけっとしていると、後ろから声がかかった。
 振り返ると、鞄を持った六反田がにこやかな表情を浮かべていた。人の良い笑みは見ていて気持ちがいい。六反田とまではいかないけれど、俺も努めて朗らかに挨拶を返した。
「おはよ。朝から元気だな」
「おうよ、何せバナナだから。朝メシ」
「え、バナナだけ? 足りるのか?」
「一房だから」
 それはすごい……。俺はそんなにバナナばっかり食べられないな、と思っていると、六反田の脇を気だるそうにすり抜ける人影があった。
「はよ、朔。お前もメシ食ったか、メシ」
「うるせーな……」
 溝久保は欠伸をしながら、俺の前の席に座る。そして早くも机に突っ伏した。話しかけんなオーラがすごい。あらゆる意味で御子柴とは正反対だ。
「今日も今日とて感じの悪い溝久保クンなのであった」
 謎のナレーションを挟んだ後、六反田が軽くため息をついた。

 三年生初日以来、俺は溝久保と六反田と一緒にいることが多かった。
 というか、六反田が俺と溝久保のところまでやってきて、なんやかんやと俺たちを構うのだ。
 多分、世話焼きなんだと思う。正直、溝久保と二人じゃ間が持たないので、六反田の存在には大分助けられている。
 昼休みも六反田は例に漏れず、俺たちのところへやってきた。手には弁当の包みをぶら下げている。
「水無瀬は弁当なん? それとも学食?」
「普段は購買で済ませるかな」
「おお、じゃあ急がなきゃだな。待ってるから買ってこいよ」
「え? いや、いいよ。先に食べてて」
「水臭いぞ。ダチ……じゃん?」
 なんでちょっとためたんだろう。あとどうして頬をかくポーズをしているのか。六反田は動きがいちいちコミカルだ。
「溝久保は?」
 俺が水を向けると、こちらを振り向きもせずに返事がくる。
「コンビニ。……けど、今日は買い忘れた」
「じゃあ、購買でなんか買ってこようか?」
 すると、溝久保はのっそり起き上がり、不機嫌そうな視線を寄越した。
「てめーをパシらせろってか?」
「い、いや、そういうことじゃ。ついでだし、と思って」
「コラ、朔ッ。アンタはほんまにもー、ただでさえ人相悪いんやから、そない水無瀬くんを睨みなや!」
 六反田がエセ関西弁母ちゃんで溝久保を叱る。溝久保は小さな舌打ちをしてから、大義そうに立ち上がった。
「……俺も行く」
「そ、そっか」
 ってことは溝久保と二人きりか……。助けを求めるように六反田を振り返ると、苦笑しつつ腰を上げてくれた。
「もーしゃあないなぁ。お母ちゃんもついてったるわ」
 さ、さすがは空気が読める男……! いらねーっつの、と毒づく溝久保をスルーし、俺たちは三人で教室を出た。 


 昼休みの廊下は、当然だが騒がしかった。生徒たちが所狭しと行き交っている。
 三年生の教室は三階で、購買部があるのは一階。教室が七つあり、その真ん中に階段があった。生徒たちの間を縫うようにして歩き、ようやく階段が見えてくる。
 そこに──見覚えのある姿を見つけて、俺は思わず立ち止まった。
「あ……」
 ──御子柴だ。
 同じように昼食を調達にいくのだろうか、クラスメートと思しき男女数人と連れ立って歩いている。
 なんというか、あれだ。見るからに一軍ってやつだった。御子柴を入れて男子三人に女子二人。楽しそうに談笑しながら、歩いている。
「あ、待ってよ、みこちょ!」
 女子の一人が自然な仕草で、御子柴に腕を絡めた。
 俺はその光景に、ぎくりと全身を硬直させた。
「あのー、西蓮寺サン、その呼び方どうにかなりませんかね?」
「みこちょはみこちょだもん。カワイイっしょ?」
 西蓮寺と呼ばれた女子は、きらきらした瞳で御子柴を見上げている。染めているであろう明るい色の髪がさらりとなびいた。メイクをして、制服を着崩して、カーディガンを腰に巻いている。いわゆるギャル……なんだろうか。
「ね、みゆちもそう思わん?」
 西蓮寺さんが振り返った先には、もう一人の女子がいた。艶のある長い黒髪は天野さんに似ている。けどパーツの一つ一つに隙がないというか、クールで不思議な雰囲気だ。
「うん。みゆちはそう思う、かな」
「冬城は物分かりがいいねえ……」
「ほらー! 抵抗してるのはみこちょだけだ、諦めろし!」
 西蓮寺さんはぐりぐりと御子柴の肩口に顔を押しつけている。それを男子二人が「やっぱ付き合ってんじゃん」とはやしたてていた。御子柴は何か言い返したようだったが、ちょうど階段を降り始めてしまい、やがて見えなくなった。
 俺は無意識に手で鳩尾を押さえていた。
 昼休み前に感じていた空腹はどこかへ消えてなくなり、代わりに石が何個も詰め込まれたように胃が重くなる。
「水無瀬? おーい、水無瀬?」
 顔の前で手が振られ、俺はようやく我に返った。六反田が怪訝な顔で俺を覗き込んでくる。
「どした? 一軍集団を見て立ち竦んだか。分かるけども」
「い、いや……。うん、その……すごいよな」
「あれ、御子柴ってやつだよな。ピアニストなんだっけ? 初めてちゃんと見たけど、エグいほどイケメンだな……。で、西蓮寺と冬城の学年美女ツートップを引き連れて、大名行列……うわぁ……」
 行列ではなかったけれど、それぐらいの存在感はあった。事実、自然と周囲の生徒が道を譲っていたし。当の本人たちは気付いていなかったようだけど。
 と、そこで六反田の反対側から強烈な視線を感じ、俺ははっとして振り返った。溝久保が射殺すような目で俺を見ている。
「な、な……なに?」
「……お前、去年クラス一緒だったんじゃねえの、あいつと」
「えっ?」
 何にも興味がなさそうな溝久保が、そんなことを知ってるのが意外だった。
 目を丸くしている俺と答えを待っている溝久保の背中を、六反田がぐいぐい押し始めた。
「あーもうこないな時間やないの。アンタたち、突っ立ってんと! はよせな買うもんなくなるでほんま!」
「いてーな、押すなよ」
 溝久保が苛立たしげに六反田を睨む。どうして俺が御子柴と一緒のクラスだったことを知っているのか。結局──聞けず終いだった。