◆御子柴side
東京と横浜は近いようで遠い。
どの路線でも三十分はかかるし、場所によっては乗り換えするから、もっと時間が要る。俺は仕事で疲れた体を引きずりながら、やっとの思いで地元の駅へ辿り着いた。
スマホを確認すると、時刻は午後十時を回ったところだった。暗くて静かな駅に、俺の溜息だけが響く。
華やかな横浜駅から一つ離れただけでこれである。演奏者だって一緒だ。コンサートホールで何千人という聴衆に囲まれ、汗ばむほどのライトと耳が痛くなるほどの拍手喝采を浴びていても、舞台から降りれば日常に帰る。
改札を出たところで、俺はもう一度スマホを見やる。メッセージはマネージャからだけで、内容は今日帯同できなかった詫びのようだった。ポップアップでしか見てないから、詳しいことは分からないけど。まぁ、返事は帰宅してからでいいだろう。俺が待っているのはそんなものではないのだから。
立ち止まって、顔認証でロックを解除する。アプリを開いても、メッセージはマネージャと自分の母親、それにばーちゃんからしか来ていない。ちなみに高牧からも来ていたが、これは朝から未読スルーしている。同じクラスになったのは知っていた。知らされていたから。
……水無瀬、と。
思わず口から名前が出そうになる。まばらだが俺の他にもこの駅で降りた客はいて、くたびれたサラリーマンやどこかで呑んできたであろう大学生二人組が俺を追い越していった。危うく人目があるところで独り言を呟いてしまうところだった。
昼にメッセージでやりとりしてから、水無瀬から連絡は来ない。文字だけの往復だったが、どこか覇気が無いのを感じ取ってしまった。
水無瀬は二年生の末からクラスが離れてしまうことを心配していた。寂しい、離れたくない、と訴える水無瀬は……まぁ、正直言うと可愛かったけれど、今日のは悲壮感が先に立っていて、俺も呑気なことを考える余裕がなくなった。
未練がましくスマホを凝視する。もしかしたら泣いているんじゃないか、と自惚れた。水無瀬はあれで泣き虫だ。それでいて頑固なところがある。死を予期した猫のように、そっと隠れて涙していたら。
あの宝石のように透き通った涙を、掬ってやれたらどんなにいいか。俺じゃなくても、誰かが──いや、前言撤回。水無瀬の家族ならともかく、それ以外の人間が水無瀬の涙を拭うだなんて、想像しただけではらわたが煮えくり返る。
「いや、じゃなくて……」
あらぬ方向に思考がいっているのを自覚し、俺は整髪剤で撫でつけた髪をがしがしとかき混ぜた。ちなみに今の独り言は、もう周りに誰もいなかったのでセーフだ。
疲れているとろくなことを考えない。とりあえず帰ろう。
俺が水無瀬からの連絡を諦めかけたその時、スマホのバイブレーションが手の平から伝わってきた。反射的に画面を見る。そこに表示されていた名前に、俺は素早く通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『あ、遅くにごめん。俺だけど……』
「おー。お疲れさん」
待ちわびた声に、我知らずスマホを強く耳に押し当てる。その動作とは裏腹に、俺は平静な口調を装った。
水無瀬が電話口でほのかな苦笑を響かせた。
『疲れてんのはそっちだろ。新学期初日から仕事なんて大変だな』
「まぁな。ったく、リハと本番しかないマチソワなんて無茶振りもいいとこだよ」
『マチソワって……何?』
「昼公演がマチネ。夜公演がソワレ。昼夜合わせてマチソワ」
さっきまでの疲労感が嘘のように、俺は足取り軽く歩き出した。冴えない地元の景色も、黒々とした二級河川も、今に限っては不思議と輝いて見える。
『今、どこ? 家か?』
「まだ途中」
『あ……そっか。できたらちょっと、顔見れればなって……思ったけど』
水無瀬にそう言われ、俺はぎこちなく足を止めた。
マネージャ曰く『自制の鬼』であるところの俺でなければ、えっ、と声を上げていただろう。少しの空白をどう思ったのか、水無瀬は慌てて続けた。
『悪い、思っただけで。疲れてるのに……ごめんな』
「そんな疲れてねーし。ちょうど今、駅ついたとこだから」
『え、でも、さっきマチネとなんとかって言って──』
「あー、電車で寝てたからかな。今になって目ぇ覚めてきた」
ほんとは渋谷からずっと立ってたけど。
『でも夕飯食ってないんだろ。明日も学校だし……』
「ちょっとだけなら大丈夫だって」
『……ほんとに? いいのか?』
「おう、いつもの公園で待ってますよ」
水無瀬の小さな吐息の音が耳をくすぐる。
『──うん』
柔らかいその響きが、見えないはずの水無瀬の微笑みを俺の網膜に映す。目尻を下げ、桜色の頬を緩ませ、心底嬉しそうに笑う水無瀬の表情を──確かに。
「じゃ、後で」
このままでは澄ましていられなくなりそうで、短い言葉を残し電話を切った。通話が終了して、しばらく経って画面がブラックアウトする。そこに反射した自分の顔がどうにもだらしなく見えて、俺はそそくさとスマホを上着のポケットにしまった。
駅から公園までは歩いてすぐだった。そこそこ広い公園で遊具はもちろん、樹木が植えられている短い遊歩道がある。だが近所に立派な公園ができてしまったため、昼間も寂れて久しいのだとか。もちろん夜になると人っ子一人いない。
俺は遊歩道のベンチに腰を下ろす。水無瀬と会うときはいつもここだ。ちょうど木に遮られていて、良い感じなのである。
待ち人はすぐに来た。
「御子柴っ……」
水無瀬は厚手のパーカーにジーンズという恰好だった。後で何か用事でもあるのだろうか、小ぶりの紙袋を手に持っている。走って来たのだろう、息が弾んでいた。頬が緩みそうになるのを、自慢の表情筋で必死に支える。
「んな急いで来ることなかったのに」
「だって、無理言ったし……」
「無理じゃないって。ほら、座れよ」
自分の隣をぽんぽんと叩くと、水無瀬は言われた通りにする。すとんとベンチに腰を下ろし、ちらちらと俺をしきりに窺っている。
「なに、どした?」
「いつもと……髪とか違うから」
水無瀬は組んだ両手に視線を落とし、唇を窄める。目尻が少し赤い。
「あぁ、コンサート仕様ね。つっても、もう結構乱れちゃってるけど」
言わずもがな、自分でがしがししたせいだが。
すると水無瀬がますます拗ねたような顔になる。
「それでも様になってるのが、なんかムカつく……」
「いつもと違うの恰好いい? 照れるからちゃんと見れない?」
「うるさいバカ」
弱々しいパンチが脇腹あたりを掠める。俺はその手を捉え、そっと開き、見せ付けるように五指を絡めた。驚いた水無瀬と目が合う。俺は少し顔を下げ、上目遣いで覗き込んだ。
「──会いたかったよ、水無瀬」
見る間に水無瀬の顔が紅潮した。ぶんぶんと首を振り、距離を取ろうとするので、俺はとっさに水無瀬の腰に腕を回して引き寄せた。
「は、は……ちょっと、離せっ」
「なんで?」
「いいから。離れて……」
「指解けばいいじゃん」
「無理矢理したら怪我するだろ、ばか」
俺はにこにこと笑う。もちろん分かっていてやっている。自分で自分の指を人質にするのだから、世話ない。
「水無瀬は好きだもんな、俺の指」
「そうじゃなくて」
水無瀬は自由な方の手を口元に当て、必死に表情を隠そうとしている。瞳が少し潤んでいるのを見て、このまま泣かせたい衝動とちょっと可哀想だなという同情が、頭の中で鍔迫り合いを繰り広げ──結果、大人な俺が辛勝した。
「ごめんごめん」
指を解き、体を離した。水無瀬の頭をぽんぽんと叩くと、恨めしそうな声が返ってくる。
「バカにして……」
「してないって。ちょっと浮かれただけじゃん」
水無瀬はしばし無言を貫いていたが、やがて唐突に、
「ん」
と、持っていた紙袋を俺に差し出してきた。
「なにこれ?」
「おにぎり」
「えっ」
こればっかりはさすがの俺も声を上げた。
紙袋を受け取り、中を覗き込む。ラップに包まれたおにぎりが二つ、入っていた。作ってくれたのか。しかも電話してからの、短時間で。
「腹、空いてるかなって。でも帰って夕飯あるなら、無理に食べなくても……」
「あざーす、いただきます!」
一も二もなくおにぎりに手を伸ばす。水無瀬は「いや、話聞けよ」と呆れ顔だったが、俺がおかかおにぎりを一つぺろりと平らげると、ちょっとだけ笑った。
「相変わらず食べるの早いし」
「公演中はどうしてもバタバタするからな、つい癖で。って、あー……もっと味わえば良かった」
せっかくの水無瀬の手作りだったのに。心底後悔する俺を見て、水無瀬はますます苦笑を深めた。すっかり機嫌が直ったらしい。それにつられて俺も調子づく。
「あ、前歯に海苔ついてる気がする。ちょっと見て」
口をもごもごしながら、俺は水無瀬を手招きした。
「え……どこ──」
無防備に顔を寄せた水無瀬の後ろ頭をぐいっと引き寄せる。完全に木に隠れて、誰からも見えなくなるところまで。
「んっ──!」
突然、唇を奪われた水無瀬は目を白黒させていた。隙をついて歯列と歯列の間に、舌を割り込ませる。絡めて、吸い取って、じわじわと、しかし確かに深くまで。
「ふっ……、ん──」
水無瀬の口からかすかな声が漏れる。苦しげなのに端々に快楽が滲んでいて、聞いているだけで胸の奥から熱が生まれるような──
やがて水無瀬の方からおずおずと応じてくるのに、増長するのを止められない。角度を変えて、緩急をつけて、水無瀬を翻弄するのに夢中になっていた。
「は、ぁ……っ……!」
苦しげな息遣いと共に、強めに背中を数度叩かれた。俺は我に返ってようやく唇を離す。咳き込んでいる水無瀬を見て、あちゃあ、と反省する。
「だいじょぶ?」
「少し、は、加減ってものを……」
「水無瀬くんが可愛くてつい」
涙目で睨み付けられる。そんなことしても俺が喜ぶだけなんだけどなぁ、と思いつつ、これ以上からかったらさすがに怒られそうなのでやめておいた。
水無瀬の呼吸が落ち着くのを待つ間、俺はゆっくり頭上を仰いだ。春の夜空はやや曇りがちだった。明かりのせいもあって、星なんて一つも見えやしない。
それでも俺は探す。濁った空に、一筋の光を。
「クラス、離れたかぁ……。寂しいな」
思わず零れた言葉に、水無瀬は弾かれたように振り返り、目を丸くしていた。意外だと言わんばかりだ。
「なんだよ、その顔」
「いや……。お前はそんなこと言わなさそうだったから」
「心外な」
いたずらっぽく返しながらも、うん、まぁそうだな、と思う。水無瀬よりは気にしていなかったかもしれない。
けれど同じ教室で毎日挨拶したり、一緒に授業受けたり……共有する時間ががくっと減ってしまうのはやっぱり辛い。
分かっていなかった、いや考えないようにしていたのかもしれない。俺はきっとこれから水無瀬のいない日常という毒を、じわじわと味わうことになるのだろう。それは決して致死量には達しなくて、けれど確実に俺の内側を蝕んでいくのだ。
ふわりとシャンプーの香りが鼻先を掠めた。気がつくと水無瀬が俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。ああ、そうか、風呂入りたてなんだな。春先とはいえまだ夜は冷える、湯冷めしないといいけど。
水無瀬の頬に手を伸ばす。夜風にさらされて、伝わる温度は冷たい。
「……離れても、俺のこと好きでいてくれる?」
「馬鹿かよ……」
水無瀬は首を少し傾げて、俺の手に頬をすり寄せた。
水無瀬の手が甲に添えられる。そっと閉じられた瞼が少し震えたかと思うと、つっと一筋、透明な涙が伝った。あたたかく濡れた感触が指に触れる。
ああ、と心の中で感嘆を漏らす。
たとえば形のない心というものに触れられたならきっと、こんな温度をしているのだろう──
水無瀬はふっと俺から距離を取った。パーカーの袖で乱暴に目元を拭っている。やや所在なさげで、恥ずかしそうだ。
「さぁて、そろそろ帰りますか」
区切りをつけるようにベンチから立ち上がる。しかし水無瀬はその場を動かない。
「送ろうか?」
「いや、いい……。ちょっと頭、冷やしてくから」
心配になったけど、すぐに「大丈夫だから」と念を押された。
一人になりたい、そっちの方が良いときはある、誰にだって。納得して、俺は頷いた。
「分かった。じゃ、また明日な」
「……おう」
小さな声が帰ってくる。後ろ髪が引かれる思いがしたが、ここは大人しく引く。
遊歩道を外れて、公園の出口に向かう。ふと足を止めて振り返ると、木と木の間に水無瀬の背中がかろうじて見えた。
俺は紙袋を高く掲げた。
「これ、ありがたくもらっとくー!」
水無瀬が振り返ったかどうかは分からなかった。だがすぐにメッセージが届く。
『うるさい、ばか。近所迷惑だろ』
俺は忍び笑いを漏らすと、スマホをしまった。一つ分のおにぎりの重みがある紙袋をぶら下げ、今度こそ公園を出た。
誰もいないだろうと思っていた公園の出入り口に、青白い光が灯っていた。目線だけで確認すると、ランニングの途中らしい若い男が熱心にスマホを操作していた。
背が高く、足が長い。茶色がかった髪がかかって、顔はよく見えない。上は長袖ジャージだが、膝上までのプラクティスパンツに膝下までを覆うソックスでサッカーだな、とすぐ分かった。俺も小学校までサッカーをしていたからだ。
男に背を向けて、帰路につく。いつからあそこにいたんだろうか、と思い当たる。もしずっといたなら、会話の部分部分が聞こえていたかもしれない。
や、まぁ、いいか。関係ない人間のどんなやりとりを見たって、俺なら明日には忘れてる。
それでも何かが引っかかって、ちらりと肩越しに公園の方を振り返った。ランニングの速度で遠ざかっていく背中が見える。
なんか、どこかで見覚えがある気がする……こともあるような、ないような。
そこで電話がかかってきた。相手はばーちゃんだった。
「はい、もしもし?」
『あ、涼馬? 今、どこらへん? 十時過ぎは帰れるってマネージャさんから聞いてたんだけど……』
どうやら帰宅予定時間を過ぎたため、心配をかけたらしい。
「ごめんごめん、知り合いとばったり会って話し込んでた。今、川渡ったから、ほんともうすぐ」
『あら、そうだったの。良かった』
「今日の夕飯なに?」
『ふふ、ヒンカリよ』
「ヒンカリ」
『ジョージアの郷土料理なの。たくさん作ったからいっぱい食べてね』
それっておにぎりと合うのかなぁ、と思案しつつ、俺はばーちゃんとヒンカリが待つ家へと急いだ。
東京と横浜は近いようで遠い。
どの路線でも三十分はかかるし、場所によっては乗り換えするから、もっと時間が要る。俺は仕事で疲れた体を引きずりながら、やっとの思いで地元の駅へ辿り着いた。
スマホを確認すると、時刻は午後十時を回ったところだった。暗くて静かな駅に、俺の溜息だけが響く。
華やかな横浜駅から一つ離れただけでこれである。演奏者だって一緒だ。コンサートホールで何千人という聴衆に囲まれ、汗ばむほどのライトと耳が痛くなるほどの拍手喝采を浴びていても、舞台から降りれば日常に帰る。
改札を出たところで、俺はもう一度スマホを見やる。メッセージはマネージャからだけで、内容は今日帯同できなかった詫びのようだった。ポップアップでしか見てないから、詳しいことは分からないけど。まぁ、返事は帰宅してからでいいだろう。俺が待っているのはそんなものではないのだから。
立ち止まって、顔認証でロックを解除する。アプリを開いても、メッセージはマネージャと自分の母親、それにばーちゃんからしか来ていない。ちなみに高牧からも来ていたが、これは朝から未読スルーしている。同じクラスになったのは知っていた。知らされていたから。
……水無瀬、と。
思わず口から名前が出そうになる。まばらだが俺の他にもこの駅で降りた客はいて、くたびれたサラリーマンやどこかで呑んできたであろう大学生二人組が俺を追い越していった。危うく人目があるところで独り言を呟いてしまうところだった。
昼にメッセージでやりとりしてから、水無瀬から連絡は来ない。文字だけの往復だったが、どこか覇気が無いのを感じ取ってしまった。
水無瀬は二年生の末からクラスが離れてしまうことを心配していた。寂しい、離れたくない、と訴える水無瀬は……まぁ、正直言うと可愛かったけれど、今日のは悲壮感が先に立っていて、俺も呑気なことを考える余裕がなくなった。
未練がましくスマホを凝視する。もしかしたら泣いているんじゃないか、と自惚れた。水無瀬はあれで泣き虫だ。それでいて頑固なところがある。死を予期した猫のように、そっと隠れて涙していたら。
あの宝石のように透き通った涙を、掬ってやれたらどんなにいいか。俺じゃなくても、誰かが──いや、前言撤回。水無瀬の家族ならともかく、それ以外の人間が水無瀬の涙を拭うだなんて、想像しただけではらわたが煮えくり返る。
「いや、じゃなくて……」
あらぬ方向に思考がいっているのを自覚し、俺は整髪剤で撫でつけた髪をがしがしとかき混ぜた。ちなみに今の独り言は、もう周りに誰もいなかったのでセーフだ。
疲れているとろくなことを考えない。とりあえず帰ろう。
俺が水無瀬からの連絡を諦めかけたその時、スマホのバイブレーションが手の平から伝わってきた。反射的に画面を見る。そこに表示されていた名前に、俺は素早く通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『あ、遅くにごめん。俺だけど……』
「おー。お疲れさん」
待ちわびた声に、我知らずスマホを強く耳に押し当てる。その動作とは裏腹に、俺は平静な口調を装った。
水無瀬が電話口でほのかな苦笑を響かせた。
『疲れてんのはそっちだろ。新学期初日から仕事なんて大変だな』
「まぁな。ったく、リハと本番しかないマチソワなんて無茶振りもいいとこだよ」
『マチソワって……何?』
「昼公演がマチネ。夜公演がソワレ。昼夜合わせてマチソワ」
さっきまでの疲労感が嘘のように、俺は足取り軽く歩き出した。冴えない地元の景色も、黒々とした二級河川も、今に限っては不思議と輝いて見える。
『今、どこ? 家か?』
「まだ途中」
『あ……そっか。できたらちょっと、顔見れればなって……思ったけど』
水無瀬にそう言われ、俺はぎこちなく足を止めた。
マネージャ曰く『自制の鬼』であるところの俺でなければ、えっ、と声を上げていただろう。少しの空白をどう思ったのか、水無瀬は慌てて続けた。
『悪い、思っただけで。疲れてるのに……ごめんな』
「そんな疲れてねーし。ちょうど今、駅ついたとこだから」
『え、でも、さっきマチネとなんとかって言って──』
「あー、電車で寝てたからかな。今になって目ぇ覚めてきた」
ほんとは渋谷からずっと立ってたけど。
『でも夕飯食ってないんだろ。明日も学校だし……』
「ちょっとだけなら大丈夫だって」
『……ほんとに? いいのか?』
「おう、いつもの公園で待ってますよ」
水無瀬の小さな吐息の音が耳をくすぐる。
『──うん』
柔らかいその響きが、見えないはずの水無瀬の微笑みを俺の網膜に映す。目尻を下げ、桜色の頬を緩ませ、心底嬉しそうに笑う水無瀬の表情を──確かに。
「じゃ、後で」
このままでは澄ましていられなくなりそうで、短い言葉を残し電話を切った。通話が終了して、しばらく経って画面がブラックアウトする。そこに反射した自分の顔がどうにもだらしなく見えて、俺はそそくさとスマホを上着のポケットにしまった。
駅から公園までは歩いてすぐだった。そこそこ広い公園で遊具はもちろん、樹木が植えられている短い遊歩道がある。だが近所に立派な公園ができてしまったため、昼間も寂れて久しいのだとか。もちろん夜になると人っ子一人いない。
俺は遊歩道のベンチに腰を下ろす。水無瀬と会うときはいつもここだ。ちょうど木に遮られていて、良い感じなのである。
待ち人はすぐに来た。
「御子柴っ……」
水無瀬は厚手のパーカーにジーンズという恰好だった。後で何か用事でもあるのだろうか、小ぶりの紙袋を手に持っている。走って来たのだろう、息が弾んでいた。頬が緩みそうになるのを、自慢の表情筋で必死に支える。
「んな急いで来ることなかったのに」
「だって、無理言ったし……」
「無理じゃないって。ほら、座れよ」
自分の隣をぽんぽんと叩くと、水無瀬は言われた通りにする。すとんとベンチに腰を下ろし、ちらちらと俺をしきりに窺っている。
「なに、どした?」
「いつもと……髪とか違うから」
水無瀬は組んだ両手に視線を落とし、唇を窄める。目尻が少し赤い。
「あぁ、コンサート仕様ね。つっても、もう結構乱れちゃってるけど」
言わずもがな、自分でがしがししたせいだが。
すると水無瀬がますます拗ねたような顔になる。
「それでも様になってるのが、なんかムカつく……」
「いつもと違うの恰好いい? 照れるからちゃんと見れない?」
「うるさいバカ」
弱々しいパンチが脇腹あたりを掠める。俺はその手を捉え、そっと開き、見せ付けるように五指を絡めた。驚いた水無瀬と目が合う。俺は少し顔を下げ、上目遣いで覗き込んだ。
「──会いたかったよ、水無瀬」
見る間に水無瀬の顔が紅潮した。ぶんぶんと首を振り、距離を取ろうとするので、俺はとっさに水無瀬の腰に腕を回して引き寄せた。
「は、は……ちょっと、離せっ」
「なんで?」
「いいから。離れて……」
「指解けばいいじゃん」
「無理矢理したら怪我するだろ、ばか」
俺はにこにこと笑う。もちろん分かっていてやっている。自分で自分の指を人質にするのだから、世話ない。
「水無瀬は好きだもんな、俺の指」
「そうじゃなくて」
水無瀬は自由な方の手を口元に当て、必死に表情を隠そうとしている。瞳が少し潤んでいるのを見て、このまま泣かせたい衝動とちょっと可哀想だなという同情が、頭の中で鍔迫り合いを繰り広げ──結果、大人な俺が辛勝した。
「ごめんごめん」
指を解き、体を離した。水無瀬の頭をぽんぽんと叩くと、恨めしそうな声が返ってくる。
「バカにして……」
「してないって。ちょっと浮かれただけじゃん」
水無瀬はしばし無言を貫いていたが、やがて唐突に、
「ん」
と、持っていた紙袋を俺に差し出してきた。
「なにこれ?」
「おにぎり」
「えっ」
こればっかりはさすがの俺も声を上げた。
紙袋を受け取り、中を覗き込む。ラップに包まれたおにぎりが二つ、入っていた。作ってくれたのか。しかも電話してからの、短時間で。
「腹、空いてるかなって。でも帰って夕飯あるなら、無理に食べなくても……」
「あざーす、いただきます!」
一も二もなくおにぎりに手を伸ばす。水無瀬は「いや、話聞けよ」と呆れ顔だったが、俺がおかかおにぎりを一つぺろりと平らげると、ちょっとだけ笑った。
「相変わらず食べるの早いし」
「公演中はどうしてもバタバタするからな、つい癖で。って、あー……もっと味わえば良かった」
せっかくの水無瀬の手作りだったのに。心底後悔する俺を見て、水無瀬はますます苦笑を深めた。すっかり機嫌が直ったらしい。それにつられて俺も調子づく。
「あ、前歯に海苔ついてる気がする。ちょっと見て」
口をもごもごしながら、俺は水無瀬を手招きした。
「え……どこ──」
無防備に顔を寄せた水無瀬の後ろ頭をぐいっと引き寄せる。完全に木に隠れて、誰からも見えなくなるところまで。
「んっ──!」
突然、唇を奪われた水無瀬は目を白黒させていた。隙をついて歯列と歯列の間に、舌を割り込ませる。絡めて、吸い取って、じわじわと、しかし確かに深くまで。
「ふっ……、ん──」
水無瀬の口からかすかな声が漏れる。苦しげなのに端々に快楽が滲んでいて、聞いているだけで胸の奥から熱が生まれるような──
やがて水無瀬の方からおずおずと応じてくるのに、増長するのを止められない。角度を変えて、緩急をつけて、水無瀬を翻弄するのに夢中になっていた。
「は、ぁ……っ……!」
苦しげな息遣いと共に、強めに背中を数度叩かれた。俺は我に返ってようやく唇を離す。咳き込んでいる水無瀬を見て、あちゃあ、と反省する。
「だいじょぶ?」
「少し、は、加減ってものを……」
「水無瀬くんが可愛くてつい」
涙目で睨み付けられる。そんなことしても俺が喜ぶだけなんだけどなぁ、と思いつつ、これ以上からかったらさすがに怒られそうなのでやめておいた。
水無瀬の呼吸が落ち着くのを待つ間、俺はゆっくり頭上を仰いだ。春の夜空はやや曇りがちだった。明かりのせいもあって、星なんて一つも見えやしない。
それでも俺は探す。濁った空に、一筋の光を。
「クラス、離れたかぁ……。寂しいな」
思わず零れた言葉に、水無瀬は弾かれたように振り返り、目を丸くしていた。意外だと言わんばかりだ。
「なんだよ、その顔」
「いや……。お前はそんなこと言わなさそうだったから」
「心外な」
いたずらっぽく返しながらも、うん、まぁそうだな、と思う。水無瀬よりは気にしていなかったかもしれない。
けれど同じ教室で毎日挨拶したり、一緒に授業受けたり……共有する時間ががくっと減ってしまうのはやっぱり辛い。
分かっていなかった、いや考えないようにしていたのかもしれない。俺はきっとこれから水無瀬のいない日常という毒を、じわじわと味わうことになるのだろう。それは決して致死量には達しなくて、けれど確実に俺の内側を蝕んでいくのだ。
ふわりとシャンプーの香りが鼻先を掠めた。気がつくと水無瀬が俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。ああ、そうか、風呂入りたてなんだな。春先とはいえまだ夜は冷える、湯冷めしないといいけど。
水無瀬の頬に手を伸ばす。夜風にさらされて、伝わる温度は冷たい。
「……離れても、俺のこと好きでいてくれる?」
「馬鹿かよ……」
水無瀬は首を少し傾げて、俺の手に頬をすり寄せた。
水無瀬の手が甲に添えられる。そっと閉じられた瞼が少し震えたかと思うと、つっと一筋、透明な涙が伝った。あたたかく濡れた感触が指に触れる。
ああ、と心の中で感嘆を漏らす。
たとえば形のない心というものに触れられたならきっと、こんな温度をしているのだろう──
水無瀬はふっと俺から距離を取った。パーカーの袖で乱暴に目元を拭っている。やや所在なさげで、恥ずかしそうだ。
「さぁて、そろそろ帰りますか」
区切りをつけるようにベンチから立ち上がる。しかし水無瀬はその場を動かない。
「送ろうか?」
「いや、いい……。ちょっと頭、冷やしてくから」
心配になったけど、すぐに「大丈夫だから」と念を押された。
一人になりたい、そっちの方が良いときはある、誰にだって。納得して、俺は頷いた。
「分かった。じゃ、また明日な」
「……おう」
小さな声が帰ってくる。後ろ髪が引かれる思いがしたが、ここは大人しく引く。
遊歩道を外れて、公園の出口に向かう。ふと足を止めて振り返ると、木と木の間に水無瀬の背中がかろうじて見えた。
俺は紙袋を高く掲げた。
「これ、ありがたくもらっとくー!」
水無瀬が振り返ったかどうかは分からなかった。だがすぐにメッセージが届く。
『うるさい、ばか。近所迷惑だろ』
俺は忍び笑いを漏らすと、スマホをしまった。一つ分のおにぎりの重みがある紙袋をぶら下げ、今度こそ公園を出た。
誰もいないだろうと思っていた公園の出入り口に、青白い光が灯っていた。目線だけで確認すると、ランニングの途中らしい若い男が熱心にスマホを操作していた。
背が高く、足が長い。茶色がかった髪がかかって、顔はよく見えない。上は長袖ジャージだが、膝上までのプラクティスパンツに膝下までを覆うソックスでサッカーだな、とすぐ分かった。俺も小学校までサッカーをしていたからだ。
男に背を向けて、帰路につく。いつからあそこにいたんだろうか、と思い当たる。もしずっといたなら、会話の部分部分が聞こえていたかもしれない。
や、まぁ、いいか。関係ない人間のどんなやりとりを見たって、俺なら明日には忘れてる。
それでも何かが引っかかって、ちらりと肩越しに公園の方を振り返った。ランニングの速度で遠ざかっていく背中が見える。
なんか、どこかで見覚えがある気がする……こともあるような、ないような。
そこで電話がかかってきた。相手はばーちゃんだった。
「はい、もしもし?」
『あ、涼馬? 今、どこらへん? 十時過ぎは帰れるってマネージャさんから聞いてたんだけど……』
どうやら帰宅予定時間を過ぎたため、心配をかけたらしい。
「ごめんごめん、知り合いとばったり会って話し込んでた。今、川渡ったから、ほんともうすぐ」
『あら、そうだったの。良かった』
「今日の夕飯なに?」
『ふふ、ヒンカリよ』
「ヒンカリ」
『ジョージアの郷土料理なの。たくさん作ったからいっぱい食べてね』
それっておにぎりと合うのかなぁ、と思案しつつ、俺はばーちゃんとヒンカリが待つ家へと急いだ。



