新しい教室で軽くオリエンテーションをした後、始業式へ。それが終わるともう一度教室に戻り、ホームルームをして、その日は終了となった。
体育館に押し込められた全生徒、その中で聞く長い校長の話。胸の中はすっかり重たく淀んでいる。気がつけば、足が屋上へと向かっていた。
澄み渡った春の空で、雲がゆったりと流れている。柔らかい日差しに誘われるがまま、フェンスに背中を預けた。深呼吸をすると、新鮮な空気が体の隅々までをも満たした。
俺はその場に座り、鞄の中からスマホを取り出す。
メッセージと着信が、それぞれ一件ずつきていた。相手は御子柴だ。メッセージを見ると、
『クラス、どうだった?』
と、連絡が来ていた。
多分、御子柴は自分のクラスのことは気にしていないだろう。あいつはどこででもやっていけるから。気にしているのは──きっと俺のことだ。
『俺は七組、御子柴は一組。高牧とか天野さんとかと一緒』
するとすぐ既読がついて、ややあって返信が来た。
『俺が? 水無瀬が?』
『お前が』
『……電話していい?』
俺は頷こうとして──できなかった。御子柴の声を聞けば最後、必死に積み上げた堤防が崩れてしまうのが分かっていた。
『今、ちょっと、クラスの人たちといて』
とっさに嘘をつく。文字は動揺が伝わらないから重宝する。
『そっか、オッケー。また連絡する』
『おう』
やりとりはそこで途切れた。
うんともすんとも言わなくなったスマホを、俺はぎゅっと両手で握り締めた。室内では外していたマフラーを巻き、滑らかなカシミアの感触に口元を埋める。
ちょうど太陽が雲間に隠れて、屋上を陰が覆った。
唇が震える。俺はいてもたってもいられなくなって、立ち上がり、フェンスの方を向いた。
目の奥が熱くなって、あっけなく涙が零れ落ちた。
おおげさだ、と自分でも思う。
クラスが離れたぐらいで。前の席にいないだけで。
──今、自分の隣にあいつがいないだけで。
息苦しくなって喘ぐと、堰を切ったように涙があとからあとから頬を伝う。俺は声を押し殺したまま、助けを求めるようにフェンスの金網を強く右手で掴んだ。
六反田の言葉を思い出す。
──『ずっと違うクラスだったし、疎遠になってったってか』
――『ま、よくある話だよな』
幼なじみであっても、どれだけ仲が良くても、人は環境が少し違うだけで簡単に離れてしまう。
知らない人間関係がそれぞれにできて、見る間に遠くなって、声が届かなくなって。やがて──分からない人になってしまうのだ。
俺と御子柴は元々、身を置く環境が全然違う。片や平凡な高校生、片やイケメン天才ピアニストときた。クラスが離れて毎日顔を合わせられなくなったら? 違う大学に行ってもっと時間が合わなくなったら? 俺と御子柴をつなぎ止めるものはなんだろうか。
恋人だからとか付き合ってるからとか、きっとそんなんじゃない。あの目の前の背中が、振り返る笑顔が、一緒に昼飯を食う屋上が、かけがえのないものだったのだと、現実に直面して思い知らされる。
「……っ、──」
声が漏れないように歯を食いしばった。悲しいのか寂しいのか、はたまた別の感情なのか、俺には何も分からない。ただひたすらに体が寒かった。あのぬくもりが恋しい。そばにいてほしい。
スマホの液晶画面に、ぽたぽたと水滴が落ちる。
俺はただなすすべもなく──
「──やめろッ!」
春雷のような怒号が屋上に響いた。
俺が驚いて振り返った瞬間、どん、と誰かが体ごとぶつかってきた。気がつけば、俺は大きな体に後ろから抱きすくめられていた。
その勢いでスマホを取り落とすところだった。すぐそばに学ランの肩がある。背中に回った腕はそのまま、俺をずるずると屋上の中央まで引っ張った。それはもうものすごい力で、俺は危うくたたらを踏みそうになる。
「だ、誰……」
きつく拘束されているので息苦しい。とりあえず学ランの背中をタップすると、やっと解放された。
いや、正確には解放されていない。体は離れたものの、両手は逃がすまいと言わんばかりに俺の肩を掴んでいる。
刹那、太陽が雲から顔を出した。
春の陽光に相手の顔が照らされる。
「み、溝久保……?」
その端整な顔立ちは見間違いようもない。ただしさっきの気だるげな表情とは違い、眉根に深い皺を寄せ、目を見開き、額に汗を浮かべ──一言で言うなら切羽詰まった顔をしていた。
「お前、なにしてんだ。馬鹿なことはやめろ」
「え……?」
「え、じゃねえよ。いいからここから出るぞ」
言うが早いか、溝久保は俺の腕を掴み、屋上の扉まで連れて行く。階段の一番上の踊り場に戻ると、乱暴に扉を閉めた。
肩で息をする溝久保に、俺は困惑することしかできない。溝久保は自らの前髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「変なこと考えるなよ。死んだって意味、ねえだろ」
ああ……。と、全てが腑に落ちた。
どうやら盛大な勘違いをされているらしい。
まぁ、あんなところで一人泣いていたら無理もないかもしれない。どうして溝久保が屋上に来たのかとか、そういうことは置いておいて、弁明しなくては。
「あ、あの。ごめん、俺……その、花粉症で」
俺はこれ見よがしにずずっと鼻を啜り、目をごしごしと擦った。
「は……?」
溝久保はしばし呆気に取られていたが、やがて目を蛇のように細める。
「花粉症のやつはわざわざ屋上に出ない」
「今年なったばっかりで、慣れてなくて。朝、薬飲み忘れてさ……。酷い顔になって、誰かに見られんの嫌で。屋上に隠れてたら、余計酷くなった」
「……マジで言ってんのか」
「いや、うん、ほんとごめん」
ぺこりと頭を下げると、ややあって、溝久保は深い溜息をついた。
「驚かせんな……」
その場にへなへなとしゃがみ込む溝久保を見て、さすがに罪悪感が募った。
「悪い。っていうかあのフェンス、めちゃくちゃ高いし、返しもあるから、そういうことできないと思う……」
「……分かってる、それぐらい」
ぷいっと溝久保はそっぽを向く。これ、多分、そこまで考えが及んでなかったやつだ。
「あいつ、適当なこと言いやがって」
「あいつ?」
「……六反田直之。同じクラスの」
ああ、そういえば六反田は溝久保と幼なじみだと言っていた。
「お前に謝れって」
「謝るって……何を?」
「……朝、塩だったろって」
俺が溝久保に朝、声をかけたときのことを言っているらしい。確かにこれ以上ないぐらいの塩対応だったけども。
口をへの字に曲げた溝久保は、黙ってしまった。
もしかしたら六反田に「ショックを受けて、屋上に行ったぞ」とか吹き込まれたのかもしれない。
分かったのは六反田が想像以上に世話焼きなこと、それから無愛想に見えた溝久保が危うい人がいたら止めるくらいには血の通った人物だということだった。
「帰る」
溝久保はそっけなく言って、踵を返そうとした。が、ぴたりと動きを止める。
「……家、どこだよ?」
「え、あ……岡野公園の近くだけど」
「俺もそっちだからついてく」
予想外の言葉に、俺は「ええ?」と声を上げる。しかし溝久保は目を眇めて、俺を睨んだ。あまりの迫力にたじろぐ。
「もしかして……まだ疑ってる?」
「なんかやっぱ嘘くせえ」
うぐ、鋭い……。けど、別にあらぬことを考えていたわけではないのは事実なので、俺は譲歩することにした。
「まぁ、方向が同じなら、一緒に帰るか……」
「一緒に帰るんじゃねえ、監視だ」
ガタイがいいから、圧がすごい……。俺は従順にこくこくと頷いた。
──数十分後。
俺と溝久保はとあるマンションを見上げていた。もちろんここは俺の家があるマンションなのだが──
「まさか、同じところに住んでるとは……」
乾いた笑いを浮かべる俺に対し、溝久保はまだむすくれていた。
──連れ立って学校を出た俺と溝久保は、同じ帰路についていた。
「ここらへんでいいから」
「俺もこっちだし」
つっけんどんな口調でそう言われるたびに、どうしたら無罪放免になるのだろう……と途方に暮れていたが、よもや本当に同じ通学路を辿っているだけだとは思わなかった。
「溝久保は何階に住んでんの?」
「十階」
十階はこのマンションの最上階だ。ちなみに最上階はご多分に漏れずグレードが一番高い。確かワンフロアに二世帯しかなくて、百平米以上の広さを誇るという。母さんの受け売りだけど。
「すご……。あ、俺は五階です」
「ふぅん」
気のない返事をして、溝久保はくるりとマンションに背を向けた。
「え、帰らないの?」
「メシ、買ってねぇし」
そう言って、溝久保はすたすたと歩き出した。どうやら近くのコンビニに向かうらしい。俺は遠ざかる背中を見つめて迷った挙げ句、声を張り上げた。
「今日は、ごめん。ありがとう。また明日!」
なんだかつぎはぎのような言葉になってしまった。溝久保は朝のように塩対応──はせず、ひょいっと小さく手を挙げた。
マフラーに口元を埋める。溜息はもう出てこず、代わりに唇が緩く弧を描いていた。
体育館に押し込められた全生徒、その中で聞く長い校長の話。胸の中はすっかり重たく淀んでいる。気がつけば、足が屋上へと向かっていた。
澄み渡った春の空で、雲がゆったりと流れている。柔らかい日差しに誘われるがまま、フェンスに背中を預けた。深呼吸をすると、新鮮な空気が体の隅々までをも満たした。
俺はその場に座り、鞄の中からスマホを取り出す。
メッセージと着信が、それぞれ一件ずつきていた。相手は御子柴だ。メッセージを見ると、
『クラス、どうだった?』
と、連絡が来ていた。
多分、御子柴は自分のクラスのことは気にしていないだろう。あいつはどこででもやっていけるから。気にしているのは──きっと俺のことだ。
『俺は七組、御子柴は一組。高牧とか天野さんとかと一緒』
するとすぐ既読がついて、ややあって返信が来た。
『俺が? 水無瀬が?』
『お前が』
『……電話していい?』
俺は頷こうとして──できなかった。御子柴の声を聞けば最後、必死に積み上げた堤防が崩れてしまうのが分かっていた。
『今、ちょっと、クラスの人たちといて』
とっさに嘘をつく。文字は動揺が伝わらないから重宝する。
『そっか、オッケー。また連絡する』
『おう』
やりとりはそこで途切れた。
うんともすんとも言わなくなったスマホを、俺はぎゅっと両手で握り締めた。室内では外していたマフラーを巻き、滑らかなカシミアの感触に口元を埋める。
ちょうど太陽が雲間に隠れて、屋上を陰が覆った。
唇が震える。俺はいてもたってもいられなくなって、立ち上がり、フェンスの方を向いた。
目の奥が熱くなって、あっけなく涙が零れ落ちた。
おおげさだ、と自分でも思う。
クラスが離れたぐらいで。前の席にいないだけで。
──今、自分の隣にあいつがいないだけで。
息苦しくなって喘ぐと、堰を切ったように涙があとからあとから頬を伝う。俺は声を押し殺したまま、助けを求めるようにフェンスの金網を強く右手で掴んだ。
六反田の言葉を思い出す。
──『ずっと違うクラスだったし、疎遠になってったってか』
――『ま、よくある話だよな』
幼なじみであっても、どれだけ仲が良くても、人は環境が少し違うだけで簡単に離れてしまう。
知らない人間関係がそれぞれにできて、見る間に遠くなって、声が届かなくなって。やがて──分からない人になってしまうのだ。
俺と御子柴は元々、身を置く環境が全然違う。片や平凡な高校生、片やイケメン天才ピアニストときた。クラスが離れて毎日顔を合わせられなくなったら? 違う大学に行ってもっと時間が合わなくなったら? 俺と御子柴をつなぎ止めるものはなんだろうか。
恋人だからとか付き合ってるからとか、きっとそんなんじゃない。あの目の前の背中が、振り返る笑顔が、一緒に昼飯を食う屋上が、かけがえのないものだったのだと、現実に直面して思い知らされる。
「……っ、──」
声が漏れないように歯を食いしばった。悲しいのか寂しいのか、はたまた別の感情なのか、俺には何も分からない。ただひたすらに体が寒かった。あのぬくもりが恋しい。そばにいてほしい。
スマホの液晶画面に、ぽたぽたと水滴が落ちる。
俺はただなすすべもなく──
「──やめろッ!」
春雷のような怒号が屋上に響いた。
俺が驚いて振り返った瞬間、どん、と誰かが体ごとぶつかってきた。気がつけば、俺は大きな体に後ろから抱きすくめられていた。
その勢いでスマホを取り落とすところだった。すぐそばに学ランの肩がある。背中に回った腕はそのまま、俺をずるずると屋上の中央まで引っ張った。それはもうものすごい力で、俺は危うくたたらを踏みそうになる。
「だ、誰……」
きつく拘束されているので息苦しい。とりあえず学ランの背中をタップすると、やっと解放された。
いや、正確には解放されていない。体は離れたものの、両手は逃がすまいと言わんばかりに俺の肩を掴んでいる。
刹那、太陽が雲から顔を出した。
春の陽光に相手の顔が照らされる。
「み、溝久保……?」
その端整な顔立ちは見間違いようもない。ただしさっきの気だるげな表情とは違い、眉根に深い皺を寄せ、目を見開き、額に汗を浮かべ──一言で言うなら切羽詰まった顔をしていた。
「お前、なにしてんだ。馬鹿なことはやめろ」
「え……?」
「え、じゃねえよ。いいからここから出るぞ」
言うが早いか、溝久保は俺の腕を掴み、屋上の扉まで連れて行く。階段の一番上の踊り場に戻ると、乱暴に扉を閉めた。
肩で息をする溝久保に、俺は困惑することしかできない。溝久保は自らの前髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「変なこと考えるなよ。死んだって意味、ねえだろ」
ああ……。と、全てが腑に落ちた。
どうやら盛大な勘違いをされているらしい。
まぁ、あんなところで一人泣いていたら無理もないかもしれない。どうして溝久保が屋上に来たのかとか、そういうことは置いておいて、弁明しなくては。
「あ、あの。ごめん、俺……その、花粉症で」
俺はこれ見よがしにずずっと鼻を啜り、目をごしごしと擦った。
「は……?」
溝久保はしばし呆気に取られていたが、やがて目を蛇のように細める。
「花粉症のやつはわざわざ屋上に出ない」
「今年なったばっかりで、慣れてなくて。朝、薬飲み忘れてさ……。酷い顔になって、誰かに見られんの嫌で。屋上に隠れてたら、余計酷くなった」
「……マジで言ってんのか」
「いや、うん、ほんとごめん」
ぺこりと頭を下げると、ややあって、溝久保は深い溜息をついた。
「驚かせんな……」
その場にへなへなとしゃがみ込む溝久保を見て、さすがに罪悪感が募った。
「悪い。っていうかあのフェンス、めちゃくちゃ高いし、返しもあるから、そういうことできないと思う……」
「……分かってる、それぐらい」
ぷいっと溝久保はそっぽを向く。これ、多分、そこまで考えが及んでなかったやつだ。
「あいつ、適当なこと言いやがって」
「あいつ?」
「……六反田直之。同じクラスの」
ああ、そういえば六反田は溝久保と幼なじみだと言っていた。
「お前に謝れって」
「謝るって……何を?」
「……朝、塩だったろって」
俺が溝久保に朝、声をかけたときのことを言っているらしい。確かにこれ以上ないぐらいの塩対応だったけども。
口をへの字に曲げた溝久保は、黙ってしまった。
もしかしたら六反田に「ショックを受けて、屋上に行ったぞ」とか吹き込まれたのかもしれない。
分かったのは六反田が想像以上に世話焼きなこと、それから無愛想に見えた溝久保が危うい人がいたら止めるくらいには血の通った人物だということだった。
「帰る」
溝久保はそっけなく言って、踵を返そうとした。が、ぴたりと動きを止める。
「……家、どこだよ?」
「え、あ……岡野公園の近くだけど」
「俺もそっちだからついてく」
予想外の言葉に、俺は「ええ?」と声を上げる。しかし溝久保は目を眇めて、俺を睨んだ。あまりの迫力にたじろぐ。
「もしかして……まだ疑ってる?」
「なんかやっぱ嘘くせえ」
うぐ、鋭い……。けど、別にあらぬことを考えていたわけではないのは事実なので、俺は譲歩することにした。
「まぁ、方向が同じなら、一緒に帰るか……」
「一緒に帰るんじゃねえ、監視だ」
ガタイがいいから、圧がすごい……。俺は従順にこくこくと頷いた。
──数十分後。
俺と溝久保はとあるマンションを見上げていた。もちろんここは俺の家があるマンションなのだが──
「まさか、同じところに住んでるとは……」
乾いた笑いを浮かべる俺に対し、溝久保はまだむすくれていた。
──連れ立って学校を出た俺と溝久保は、同じ帰路についていた。
「ここらへんでいいから」
「俺もこっちだし」
つっけんどんな口調でそう言われるたびに、どうしたら無罪放免になるのだろう……と途方に暮れていたが、よもや本当に同じ通学路を辿っているだけだとは思わなかった。
「溝久保は何階に住んでんの?」
「十階」
十階はこのマンションの最上階だ。ちなみに最上階はご多分に漏れずグレードが一番高い。確かワンフロアに二世帯しかなくて、百平米以上の広さを誇るという。母さんの受け売りだけど。
「すご……。あ、俺は五階です」
「ふぅん」
気のない返事をして、溝久保はくるりとマンションに背を向けた。
「え、帰らないの?」
「メシ、買ってねぇし」
そう言って、溝久保はすたすたと歩き出した。どうやら近くのコンビニに向かうらしい。俺は遠ざかる背中を見つめて迷った挙げ句、声を張り上げた。
「今日は、ごめん。ありがとう。また明日!」
なんだかつぎはぎのような言葉になってしまった。溝久保は朝のように塩対応──はせず、ひょいっと小さく手を挙げた。
マフラーに口元を埋める。溜息はもう出てこず、代わりに唇が緩く弧を描いていた。



