(*『御子柴くんと水無瀬くんは友達じゃないらしい』の続編の一話になります。書籍本編をお読みになってからを推奨します)




 第一話「春来りなば君遠からじ」


 ──夜の中を駆けていた。

 何かから逃げるように、それでいて何かを追いかけるように。
 肩が激しく上下して、呼吸がうまくいかない。さっきから心臓はばくばくと音を立て、今にも破裂しそうだった。それでも俺は足を止めるわけにはいかなかった。
 ごほっ──と、肺が裏返ったような重い咳が出た。全身に走った鈍い痛みに、俺は思わずその場でくずおれた。どこともしれない、アスファルトの上だった。冷たい外灯の光が俺を照らしている。断続的に咳を繰り返し、その合間に縫うように喘ぐ哀れな男を。
「はぁっ、はぁ……ぁ──」
 吐き気を覚えてうずくまる。咳を堪え、どうにか息を整えて、きつく目を瞑る。視界が閉ざされると自然、脳裏にあの日の光景が甦った。
 夕方、屋上、圧倒されるような美しい光の中で、涙を浮かべ、安堵したように微笑んで──

 ──今まで、ありがとう。

「あ、あぁ──」
 情けない声が漏れ、思わず口を手で塞ぐ。声もなく、岩のように丸くなって、俺はただその場で震えていた。どこにも行き場のない激情を、必死に自分の中だけに留めるために。
 それでも、俺は決めたのだ。
 たとえ血を吐き、泥を啜っても、これだけは誰にも渡さない。

 ──俺は、俺の想いと心中する。

「──っ、……!」

 小さく、しかし何度も彼の人の名前を呼ぶ。決して届かないと知りながら。

 やがて、その声は夜の闇に消えた。


* * *


 どきどきと心臓が早鐘を打っていた。
 桜並木も、舞い散る花弁も、目に入らない。新入生だろうか、はしゃぐ声が通学路に高く響いた。その明るい場所から逃げるように、俺は早足になっていく。
 ちらりと手の中のスマホに視線を落とした。映し出されているのはメッセージアプリのトーク画面だった。相手の名前は『御子柴涼馬』と表示されていて、昨夜の最後のやりとりが映し出されている。
『ごめん、新学期初日からオケのピンチヒッター頼まれた』
 画面の中の俺は『仕方ない』『頑張ってな』などと澄ました返事を送っている。最後は御子柴のメッセージで終わっていた。
『クラス、一緒になれるといいな』
 マフラーの中で溜息をつく。四月にしては肌寒いと聞いて、俺はこれ幸いと御子柴からもらったマフラーを首に巻いていた。スマホを鞄にしまって、のろのろと前を向く。同じ高校の生徒が桜舞い散る正門へ吸い込まれていくのが見えた。
 昇降口まではあっという間だった。玄関前の掲示板を見やる。新しいクラス表が張り出されていた。そこにはすでに黒山の人だかりが出来ていて、歓声や悲鳴、拍手や溜息が入り交じって聞こえてくる。
 気が進まない。けれど見るしかない。ええい、と己を奮起させて一歩進み出したところへ、急に横から腕が伸びてきて、がしっと肩を組まれた。
「うわっ」
「水無瀬ぇ~、クラス離れたじゃんかよぉ~!」
 情けない声でそう告げてきたのは、高牧だった。しおれているのか、肩に体重がかかって痛い。
「おも、重いっての。何、もう見たのかよ」
「見た見た、今日ばかりは朝イチで来たね。はぁ、最悪だよ。水無瀬と離れて、御子柴と一緒なんてよぉ」
「え……」
 鞄の肩紐が一本ずり落ちる。唖然としている俺に気づかず、高牧は尚も続けた。
「俺と御子柴と天野ちゃん、一組だろ。設楽が二組で、あとはええと、誰がどこだったか……」
 しばし言葉を失っていた俺は、ようやく口を開いた。
「俺は……?」
「水無瀬は七組。端っこと端っこじゃねえかよぉ……。ヤダよ、俺だけモテないの」
 高牧の嘆きにはおおいに口を挟む余地があったが、それどころじゃなかった。
 俺は高牧の腕を振りほどき、人垣を掻き分けて、なんとかクラス表を見る。
 ずらりと三年生の名前が並んでいる。組ごとに、あいうえお順に。何度凝視しても結果は変わらない。俺の前には御子柴の名前がなくて、御子柴の後ろには俺の名前がなかった。
 か細い溜息が漏れる。
 俺はのろのろと人の輪から外れた。
 そこで、ちょうどクラス表を見上げていた女子と目が合った。長い黒髪、清楚な佇まい──天野さんだ。
 天野さんは「あっ」と声を上げると、残念そうに眉根を寄せた。
「おはよう、水無瀬くん。……クラス、離れちゃったね」
 それは自分と俺のことなのか、それとも──
 俺は小さく頷いて、曖昧な笑みを浮かべた。


 階段の一段一段に重く足を絡め取られる。三年生の教室は一番上の三階だ。
 三年七組は階段のすぐ目の前にあった。廊下に沿うようにして、教室がずらりと並んでいる。高牧の言うとおり、端と端だ。廊下の突き当たり、一番奥の一組はここからではよく見えない。何もこんなに離さなくても、と俺はいるかどうかも怪しいクラス分けの神様を呪った。
 七組の教室のドアを開けると、すでに数人のグループがいくつもできあがっていて、皆が皆、話に花を咲かせていた。
 そういえば、と思う。御子柴と離れたことで頭がいっぱいで、クラス表をよく見ていなかったが、知り合いはいるのだろうか。
 教室をぐるりと見渡すが、それらしい顔は見当たらない。何人かは一年や二年で同じクラスだったやつもいるけど、それほど親しくはない間柄だった。人間関係はまたやり直し、か。そんなに社交的な性格ではないので、これはこれで気が塞ぐ。
 とりあえず黒板に張り出された座席表を参考に、自分の席を探す。当たり前だけど、二年と同じ、前でも後ろでもない真ん中らへんの席だった。
 鞄をかけて、腰を下ろす。前の席に学ランの背中があった。
 座っていても背が高いと分かる男子だった。
 肩幅や背中が御子柴よりも広い。日に焼けて茶色くなり、少しパサついた髪の毛。明らかに何かしらのスポーツをやっていると分かった。
 男子はなにをするでもなく、机に頬杖をついて、ぼんやりと黒板を見つめている。
 とにかく人間関係のとっかかりが欲しい俺は、二年生の始めを思い出していた。御子柴に初めて話しかけたあの時を。だからその背をちょいちょいと突いてみる。
 男子は──無言でこちらを振り返った。
 肩越しに見た顔は、一見して整っていた。黒々とした眉に、少し茶色がかった綺麗な目をしている。鼻筋は真っ直ぐ通っていて、唇は形が良い。気だるげな表情でさえ、俳優かアイドルのように様になっていた。
 またイケメンか、と高牧ががっくりと肩を落とす様子が、何故か頭に浮かんだ。いやいや、高牧ってる場合ではない。俺が何か話をしなきゃ。
「えっと、はじめまして、だよな。俺、水無瀬っていうんだ。よろしく」
「……あぁ」
 男子は俺のことをちょっと眺めてから、何事もなかったかのようにまた前に向き直る。俺はしばし呆気に取られていた。
 これは……ええと、面倒くさがられた、ということだろうか──
 苦虫を噛みつぶしたら、こんな味が広がるのだろう。口の中を洗い流すように、俺は水筒を取りだして、一口麦茶を呷った。フタを締める動作がやけに遅いのは、間が持たないこともあるけれど、それ以上に──
 ああ……なにもかも違う。
 三月まで俺の前に座っていた人物とは、なにもかも。
 それが最後通牒にも思えて、俺はじっと座ったまま動けずにいた。早くクラスに馴染まなければいけない。それが分かっているのに、現実に打ちのめされて立ち上がることすらできない。
 知らず知らずのうちに俯きがちになっていると、背後から唐突に声をかけられた。
「ちょいちょい、君」
「え?」
 振り返ると、俺のすぐ後ろに眼鏡をかけた男子が立っていた。 
 背恰好は俺と同じくらいで、平均的な高校生男子といった風情だ。少し童顔なところも俺と似ている。違うのは眼鏡とあと、俺が猫っ毛で相手が真っ直ぐな髪質だというところだろうか。
「お客さん、こっち」
「え、え?」
 彼は俺の腕を掴むとぐいっと立ち上がらせた。戸惑う俺をよそに、教室の隅へと引っ張っていく。
 彼は声を潜めて、耳打ちした。
「ごめんな、あいつ感じ悪くて」
「あいつ……って、俺の前の席の?」
 そーそー、と軽い調子で頷くと、彼は愛想良く微笑んだ。
「あ、急に悪い。俺は六反田(ろくたんだ)ってんだ、一年間よろしくな」
 弾むような声から、彼の明るい性格が窺える。
 俺はほっと胸を撫で下ろし、差し出された手を握りかえした。
「俺、水無瀬。よろしく。ろくたんだ……ってどんな字?」
 まだ三年生の名札が配られていないので分からない。すると眼鏡の奥が「よくぞ聞いてくれました」とばかりにきらめいた。
「五反田とほぼ一緒。五反田の次の六反田」
「ああ、なるほど」
 至極分かりやすい説明だった。何百回も繰り返してきたのだろう、と思わせる熟練の業である。
「でさ、さっきの話。ほんと悪い、気分落ちたよな」
「いや、そんな……。えっと、もしかして知り合いか?」
「知り合いってか、腐れ縁。幼なじみなんだ。(さく)……ええと、溝久保(みぞくぼ)とは」
「溝久保……」
 あの人が、と俺はちらりと自席の前を窺った。溝久保は相も変わらず、黒板を興味なさそうに眺めている。
「そ。溝久保朔。オレらの学年でも有名人だから、名前くらい聞いたことあるだろ?」
 俺は一つ頷いた。詳しいことは知らないが、確かすごいサッカー選手だとか。試合や遠征で学校を休むこともしばしば──多分、御子柴と似たような感じだ。
 六反田はひょいっと肩を竦める。
「まー、元々、無愛想な奴なんだけど。さっきのあれはないよな。聞いた話じゃ、去年、ユース辞めてから、あんな調子らしんだけどさ……」
 幼なじみなのに伝聞形式なのが気になった。六反田は俺の疑問を目聡く掬い上げる。
「小学校までは仲良かったんだよ。でもあいつがサッカーで忙しくなってからはあんま。中学も高校もずっと違うクラスだったし、疎遠になってったってか」
「そっか……」
「ま、よくある話だよな。てかあいつと同じ教室なの、何年ぶりだろ」
 指折り数える六反田を尻目に、俺はもう一度溝久保を見た。
 そこへ担任の教師がやってきた。少し神経質そうな五十がらみの男性教師だ。席に着け、と急かす声に、俺は自席へ向かう。
 目の前の背中はやっぱり二年生の時とは決定的に違っていて、俺は密かに息を吐いた。