「ただいま……」
 がらんとした玄関に、俺の声だけが反響する。靴を脱いで、リビングまできて、明かりをつけても人の気配がない。いや、気配ではなく存在そのものが希薄だ。同居人はまだ帰ってきていないわけではなく、今日から海外遠征に行っているのであった。
 ――今日から約一週間、御子柴は帰ってこない。
 仕事の疲れが何倍にもなって、体にのしかかってくるようだった。人知れずため息をついて、荷物を棚の上に置く。手洗いうがいをして、部屋着に着替える。いつものルーティンなのに動作が緩慢になってしまう。
 一人だとどうにも料理する気になれなくて、俺は買ってきた弁当をつつきながら、テレビを眺めた。シュールな笑いがうりのバラエティ番組が、俺の耳を素通りしていく。
 味もよくわからないまま夕飯を食べ終え、さっさと風呂に入った。
 髪を乾かした後、ソファでぼうっとしてしまう。
「今頃どこにいるのかなぁ……」
 今日の昼の便だったから、まだ現地にはついてないだろう。飛行機の中で御子柴は何をして時間を潰しているんだろう。あの座席についてるモニターで映画とか見てんのかな。それとももう寝たのかな。
「……あー、そうだ、洗濯……」
 ベランダに出て取り込んだものを手早く畳む。二人分だからそんなに手間はかからない。今夜は俺の分だけだから、もっと楽だろう。喜んでもいいはずなんだけど、元々家事を苦と思わない性格なのと、生活がさらに彩りをなくしていくようで、気が塞いだ。
 明日は休みだし、もう寝てしまおう、と思ったところで、ソファの傍にあるポールハンガーに目が向いた。
「あ……」
 そこには帽子やら服の類がかけられている。その中に御子柴が部屋でよく着ているカーディガンがあった。無地のベージュで、少し薄手。冬以外は使えるので気に入ってると言っていた。ただ素材の関係で手洗いしないといけないんだとぼやいてもいた。
「せっかくだし、明日、これ洗っとくかぁ」
 俺は何の気なしにカーディガンに手を伸ばし、ハンガーから取った。上質なウール素材がふわりと手や腕を包む。
 俺は目を見開き、じっと手の中にあるカーディガンを見つめた。
 ……着てみようかな、という思いつきが鎌首をもたげた。
「いいよな、ちょっとくらい……」
 俺はカーディガンのくるみボタンを外し、袖を通して見た。……分かってはいたが、ぶかぶかである。元々オーバーサイズのデザインだが、腕と袖の長さが全然合ってない。
 だがそんなことよりも、俺の頭を占めているのは御子柴の残滓だった。
 部屋着なので、これを着た御子柴に……なんというか、抱きしめられたりしたことが何度もある。その時の記憶や感覚がありありと蘇ってきたのだ。
 かあっと顔が火照ってくる。
 遠い外国へ向かってしまった御子柴が、なんだか近くにいるような錯覚に陥る。
 こうなってしまうとすぐに脱ぐことができない。あぁ、もっと近くに感じたい――。
「そうだ……」
 俺はカーディガンを脱ぐと、前後を反対にした。再び袖を通し、背中側が前に来るようにする。
 そのままぎゅうっと自分自身を抱きしめると、御子柴の存在が間近に迫ってきた。
「う……」
 今更ながら馬鹿なこと、と思う。けど、寂しさが上回ってその馬鹿な行為を止められない。カーディガンの生地を集めてそこに顔を埋めると、御子柴の匂いがした。
「……っ」
 思いっきり息を吸うと、肺のみならず、体が全部御子柴で満たされる。頭がくらくらしてきて、視界がぼんやりと霞む。あぁ、変態だ。完ッ璧に変態だ。頭の中の冷静な部分がドン引きしているのに、それでも俺は深呼吸を繰り返す。
「……みこしば……」
 ソファの上に倒れ込む。カーディガンを体全体で抱きしめるようにして。胸がどきどきして苦しい、呼吸が荒くなる。目尻に滲む涙を自覚しながら、俺は強く目を閉じた。


「ただいまー!」
 次の土曜日の朝、御子柴はキャリーケースを引き連れて、家に帰ってきた。朝食のトーストを食べていた俺は、立ち上がって玄関まで出迎える。
「おかえり」
「おー、元気してた?」
「まぁ、そこそこ」
 メッセや電話などて連絡は取り合っていたものの、実際に顔を合わせるとやはり嬉しいものだ。
「ただいま、水無瀬」
 ともう一度、笑顔でそう言う御子柴を見ていると、きっと同じ気持ちでいてくれているのだと思える。
 御子柴は荷物を片付けて、シャワーを浴びた。部屋着に着替えて濡れた髪を乾かしながら、大あくびをする。
「あー時差ぼけで眠い……」
「少し寝れば?」
「こういうのは気合いで乗り切る! でないと治りが遅い」
 決意みなぎる表情で御子柴は力説している。俺なら絶対睡魔に抗えず眠ってしまうだろう。相変わらず己を律することに長けている男である。
「てなわけで。天気もいいし、デートしよっか、水無瀬くん」
「俺は……いいけど。疲れてないのか?」
「ないない。うーん、どこいこっかー?」
 御子柴が窓の外を眺める。ちょうど桜が散りはじめるころだ。川縁にいけば、花筏が見られるかもしれない、と思うと心が弾んだ。
「にしても、春なのに冷えるなー、こっちは」
 御子柴はハンガーポールにかかっていたカーディガンに手を伸ばした。
 瞬間、ぎくっとした。御子柴が不在だった期間のあれやこれやが、高速で頭をよぎる。
「あのっ……昨日、洗ったから」
「お? あぁ、ありがと。手洗いめんどくさかったろ。俺、するのに――」
「ちゃんと! ちゃんと……綺麗に洗ったからッ!」
「え? う、うん。え? あ、ありがとうございます……?」
 声を張り上げて主張する俺に、御子柴は面食らっていた。俺は気まずさを押し隠すべく、トーストを大口で頬張った。