時刻は夜の十一時を回っていた。仕事の疲れが肩らへんにわだかまっている。眠気をこらえながら洗面所で歯磨きしていると、御子柴がひょこっと顔を出した。
「なー、水無瀬。明日、なんか買ってくるもんある? コンサートの後、車で送ってもらうから、ついでにスーパー寄れるけど」
「んー、んぁ」
 口の中が歯磨き粉だらけで答えにくい。俺は一旦口をゆすいでから、答えた。
「卵と牛乳がもうないかも」
「オッケー」
 頷いた後も、御子柴はその場を離れようとしない。鏡に映る俺をじっと見つめている。俺は顔をしかめて、肩越しに振り返った。
「まだなんかあんのか?」
「やー、鏡に映る水無瀬くんもいいなぁ、と」
「……変わらなくね?」
「それが変わるんだなぁ」
 絶対そんなことない、と心の中で反論しながら、俺はふと職場で起きたとある出来事を思い出した。
「そういえば、今日、新人の女の子が入ってきたんだけど、いきなり『水無瀬さんって色っぽいですね』って言われてさ」
「──は?」
 俺の後ろに映っていた御子柴の虚像が一転、しらけた顔になる。俺は慌てて首を振った。
「いや、そんなことないって言ったんだけど。てか、そうなんだけど。初めて言われたから、不思議で……」
「その子は、えーと、何?」
「だから職場の新人だって」
「えーと、水無瀬のこと好きなん?」
「ち、違う違う。彼氏いるって、来月結婚すんだって」
 軽い世間話のつもりだったのだが、ちょっと変なムーブになってしまったかもしれない。自慢でもなければ、その……妬いてほしいわけでもなかったんだけど。
「ふーん」
 御子柴は一応納得したようだった。そうして自分も歯ブラシに手を伸ばす。俺は取り繕うべく苦笑を浮かべた。
「まぁ、からかわれたんだろうな。御子柴を見てそう言うなら分かるけどさ」
 すると歯磨き粉を取ろうとしていた御子柴の動きが止まった。まじまじと自分の顔を鏡で見ている。
「色気ねえ……。あるのか?」
「あると思うけど……」
 二十代も半ばになり、元々大人びていた御子柴は、さらにその端整さに磨きがかかっていた。
 高校の頃に付き合い始めてからはもちろん、社会人になって一緒に住み始めてからも結構経つのに、未だにふとした仕草にどきっとする。
 俺ですらそうなのだ、他の人が御子柴に感じる色気はいかばかりか。
 御子柴は鏡から俺本人に視線を移し、にやにやしながら聞いてきた。
「へえー? 水無瀬くんはどんな時に、俺の事色っぽいなーって思うんですか?」
 そう言われると、いつにも増して意識してしまう。
 こちらを覗き込む瞳や、顔を傾ける仕草、そのせいでさらっと流れる前髪なんかが気になって仕方ない。
 俺は視線を逸らしながら答えた。
「どんな時っていうか、いつも思うけど……」
 すると御子柴はぱちぱちと目を数度瞬かせた後、静かに歯ブラシを置いた。それからにっこり笑って聞いてくる。
「ちゅーしていい?」
「歯磨き終わってからにしろ」
 俺は歯ブラシを口の中に突っ込んで、歯磨きを再開した。御子柴は上機嫌に「はーい」と返事して、歯ブラシを手に取り、ようやくしゃこしゃこし始めた。


◆御子柴side


 マネージャーが運転する車の助手席から外を眺める。夕暮れ時の六本木の街並みは、すでに夜の賑わいを内包していた。
「んじゃ、いつものスーパー寄れば良いのね?」
 マネージャー──『ジェーン花園』などとふざけた名前を名乗っているが、れっきとした男性だ──が確認してくる。俺は「うん」とそっけなく頷いた。
「ちょっと、なんかアンタ今日ぶすくれてない?」
 赤信号で車が停止する。俺はフロントガラスの景色をぼんやり眺めながら、口を開いた。
「……水無瀬が職場で『色っぽいですね』とか言われたらしくてさ。彼氏いて、結婚も決まってる子みたいなんだけど。でも油断ならねーと思って」
「アンタ、年々子供っぽくなってない? 世話する方の身にもなりなさいよ」
 信号が青に変わり、車が動き出す。俺はふんっと鼻を鳴らした。
「でも水無瀬はさー、色っぽいとかいうよりは可愛いって感じじゃん。色気を感じてる時点でちょっと怪しいっていうか」
「あのねえ。はたから見たら、色気出まくってるわよ、水無瀬くん」
 俺はぎょっとして運転席を振り返った。
「え! それって大人になって段々ってやつ? やばい、水無瀬が見つかる……!」
「じゃなくて、アンタのせいでしょ」
「俺?」
 ジェーンは聞こえよがしなため息をついた。
「アンタがずーっと水無瀬くんと付き合ってるから。元は普通の男の子だって、長年抱かれまくってたらそりゃそうなるわよ」
 俺はジェーンの言葉を頭の中で噛み砕いた。ガムの味がなくなるまでそうするみたいに噛み締めて、それから一つ頷いた。
「……ほーう?」
「何満足げにドヤってんだ、ムカつく」
 一般道の上には、首都高の高架がずっと続いていた。狭苦しい六本木の景色も、今ばかりはさして気にならないのだった。