──久我は、俺の後輩だ。
といっても、大学のサークルでの話だ。
学科が一緒でもなければ、同じ高校出身というわけでもない。二年生の俺と、一年生の久我。ちょうどこの春に知り合って、まだ一か月と少しである。
季節は初夏。窓の外は晴れていて、新緑が眩しい。
俺は今、一人でサークル部屋にいる。
古いロッカーやキャビネットが壁に沿って並んでいて、決して広いとはいえない部屋が一層狭く感じる。部屋の中央にはデスクを六つ並べた長机的なものがあって、俺はそこの端っこで試験勉強をしていた。
ふと、サークルの部屋の扉がキィ、と軋んだ音を立てた。
顔を上げ、やってきた人物に微笑みかける。
「久我。おはよう」
「……っす」
久我は高い背を屈めるようにして、頭を申し訳程度に下げた。
一八〇センチは越えているだろう。長身にすらりと長い手足、それと白い肌が目に付く。マッシュカットというのだろうか、丸みを帯びるようにして切られた髪はブリーチされていて、ほとんど色素が抜けている。
右耳に二つ、左耳に一つ、シルバーのピアスをしていて、平凡を地で行く俺なんかはちょっと近寄りがたい雰囲気がある。
久我は人目を避けるようにいつもマスクをしているが、部屋に入ってくるとそれをとって上着のポケットにしまった。
「今日も来てくれたんだ」
久我は例によって、「っす」と小さく返事をした。
久我は部長が連れてきた。
連れてきたというよりは、新歓まっさかりの四月に半ば引っ張り込んできた。あの時の久我は今の百倍ぐらい無愛想で、誰がどうみても不機嫌全開。どうして部長が殴られていないのか不思議なほどだった。
『やぁやぁ、水無瀬くん! 新人を連れてきたよ!』
『部長、どうみても嫌がってませんか? 放してあげてください! っていうか、放しましょう! もうキレる寸前の顔してますよ!』
『何を言うか、ちゃあんと同意をとって勧誘してきたさ』
部長は嘘をつく人ではないが、思い込みが激しいところがある。どうみても同意したとは思えない新入生に、俺はおろおろと言った。
『か、帰っていいから。ごめん』
『……あの、一つ聞きたいんすけど』
地獄の底を這いずるような声で、彼は尋ねてきた。
『ここ、女人禁制ってマジすか』
『ああ、ええと……うん』
部長に聞くところによると、それはサークルの掟らしかった。ここは緩い写真サークルなのだが、そこで痴情のもつれ的ないざこざが起きたらしい。それ以来、サークルは女人禁制……というか、男性と女性に別れたのだとか。といっても、もう女性の方のサークルはないらしいけど。
久我はマスクの下でしばし考え込んでいた。
『それがほんとなら、入ります』
『はぁ……。え?』
『この人、信用ならないと思って。他の人にも言質取ろうかと』
『……女の人、苦手とか?』
『はい』
その時はあまり訳を聞かなかったが、この一か月で顔を合わせることが多かった俺に、久我はぼそぼそと打ち明けてくれた。
まぁ、有り体に言うと、モテまくって困るらしい。
どこかで聞いたような話だ。あいつは一向に困っているところを見せていなかった……いや、バレンタインの時は別だったけど、とにかくいつも笑顔でかわしていた印象がある。けどあんな器用な奴ばかりじゃない。久我は本当に迷惑そうだった。
確かに久我はかっこいいと思う。だからそのままでいると女性が寄ってきて仕方ないので、髪を派手な色にして、ごついピアスもつけて、マスクもして、近寄りがたい雰囲気を作った。けれどもまだモテる。だからここに逃げ込んできたというわけだ。
『大変だな……』
『……先輩はあんまりくさしたりしないんすね』
確かにただの自慢話に聞こえても仕方ないだろう。けど俺のすぐ近くにはもっと信じられないようなハイスペック人間がいるので、受け入れるのは、まぁ、簡単だった。
『悩みは人それぞれだから』
そんなやりとりがあって、今に至る。
「……今日は水無瀬先輩だけっすか」
重たい前髪の下で、茶色がかった瞳がきょろきょろと動く。そんなに観察しなくたって、狭い部屋に俺一人しかいないことぐらい分かるだろうに、久我は油断なく視線を巡らせている。
「そうだよ。久我は今日、何限から?」
「二限す」
久我は荷物を適当なロッカーに放り込み、とことこと長机に近づいてきた。そして俺の手元を見る。
「勉強すか」
「あぁ、今度小テストやる講義があって」
「ふぅん」
気のない返事をしながら、久我は俺の後ろに回り込み、がたりとパイプ椅子を引いた。俺の隣の席だ。
……普通、向かいとか斜向かいじゃないか、と思う。けどここ一か月でちょっと慣れてきた。どうやら色々と世話を焼いているうちに、部長曰く久我は俺に『懐いた』んだそうだ。
『さしずめ、捨て犬を拾ったお人好しといったところか!』
わはは、と笑う部長を思い出し、俺は苦笑を浮かべる。確かにサークルに来たときの久我は、野犬のような目をしていた。女性関係のせいか、はたまた根がそうなのか、あまり人付き合いが得意な方ではないらしい。部長のことはずーっと睨み付けているし、もう一人いるサークルの先輩には「っす」以外言っているところをみたことがない。幸い部長も先輩もいい人なのであまり気にしていないけど。
そして二人とも久我のことは俺に任せると言ってはばからない。つまり俺はこのサークル内の久我係なのである。
「久我は暇つぶし?」
「っす」
会話が途切れる。沈黙が心地良い、なんて思えるほどの仲ではなく、俺はちらちらと隣の久我を気にする。久我はスマホを見るでもなく、ぼーっとしていた。疲れているのかもしれない。そっとしておこう。
そう思った矢先、机の上に置いてあった俺のスマホが鳴った。大学からの連絡で、三限の講義が中止になった。
「うわぁ……」
「どしたんすか」
久我にスマホを見せると、あぁ、と頷かれた。
一限の講義に出た後、次が三限だったので、サークル部屋で時間を潰していた。それなのに三限がなくなったってことは……最後の四限まで待っていなければならない。
大学ではしばしば起こることだとしても、さすがに夕方まで待っていなきゃならないのは、しんどい。
俺はぼんやりと宙を見ながら考えた。
家は横浜なので、東京にある大学に帰ってまた来るには遠すぎる。
となると……あいつの家にでも行こうかな。
今日は夜、特に用事もないと言っていたし、今のうちに夕飯を作っておけば一緒に食べられる。時間があるから少し手の込んだものを作ってもいい。
ロールキャベツとか……どうかな。ハンバーグ好きだし、喜ぶ、かな。
「先輩」
久我に呼ばれてハッとした。焦ってスマホを取り落としそうになる。
「な、なに?」
「……ラーメン、食いに行きませんか」
内気な子供が遊びに誘うように、くいっとシャツの袖を引かれる。
久我から昼飯に誘われたのなんて初めてで、俺は目を丸くした。久我はぼそぼそと言う。
「味玉無料のクーポン、あるんで」
「え? ほんと? 俺、味玉好き」
俺はあっさり釣られた。ラーメン屋さんの味玉ってどうしてあんなに美味しいんだろうな。家で何度か作ってみたけど、全然再現できない。
よほど嬉しそうにしていたのだろうか、久我は面食らった顔をしている。ちょっと恥ずかしくなったところで、俺はつと眉根を寄せた。
「っていうか、久我、二限あるんじゃ……?」
「勘違いでした。三限す」
「え。三限なら、こんな時間から来ないだろ」
「いや、三限す」
久我は立ち上がり、さっさとロッカーから鞄を取り出した。俺は慌てて机の上のものを片付ける。
「い、今から行くのか?」
「並ぶところっすから。今行ったらちょうどいい時間に食べれると思います」
「講義、サボってないだろうな?」
「ないっす」
頑として首を横に振る久我に、俺はひそかにため息をついた。見た目が不良っぽいから疑いすぎかな。久我だってラーメンのために講義を休んだりはしないだろう。
「分かった。じゃ、行こ」
「……っす」
久我はさっとマスクをして口元を隠した。でも少し目が柔和になっている気もする。
俺は部屋に鍵をかけて、扉のそばにある鉢植えの下に隠した。今時珍しいほどベタベタな隠し方だが、ゆるゆる写真サークルには高価な一眼レフも現像機材も一切ないので、盗られて困るものもない。
サークル棟を出て、正門を目指す。緑の多い学内には、木漏れ日が光の柱のように差し込んでいた。
「久我が昼メシ誘ってくれるなんて嬉しい」
野良犬とまで称された後輩が慕ってくれることに、素直に浮かれていた。久我は俺をしばし見つめた後、ふいっと視線を前に戻し、マスクをちょいっと引き上げた。
◇
「っていうことが、今日あって」
その日の夜だった。大学の理不尽な時間割をなんとかこなした俺は、テーブルの上の夕食を挟んだ向こうの人物に、今日の出来事を語ってみせた。
「ふーん」
ロールキャベツを口に運ぶだけで、様になる男だ。
名前は御子柴涼馬。さらさらの黒髪に、計算しつくしたように整った顔立ち。箸を持つ長い指が印象的だ。
俳優かモデルみたいなイケメンだが、そこまで有名ではない。けど、知る人ぞ知る天才大学生ピアニストである。未だになんだその肩書きはと思わないでもないけど、天才高校生ピアニストよりはまだマシになった方だ。
俺と御子柴は……その、なんていうか、付き合っている。高校の時から。だからこういう関係になって結構経つのに、未だに心の中ですらすんなりと言えない。
俺と御子柴は別々の大学に進学した。というか、御子柴は早くから有名藝大のピアノ学科に推薦が決まっていた。始めから進む道が全然違うのである。当たり前だけど。
「その後輩くん、随分、水無瀬に懐いてんだなー」
御子柴は大きく口を開けて、白飯を放り込んだ。
ロールキャベツをデミグラスソースで煮込んだから、白飯との相性は抜群である。箸休めのキャロットラペも良い感じに酸味が利いていて、我ながら美味しくできたと思う。
御子柴も一口目から「うまい」と言ってくれた。その「うまい」をもう一回聞けるかと思ったけど、思案げな顔をしたままだ。……いや、別に何回も言ってくれたからいいんだけど。いいんだけど……。
「懐いてる……のかな。なら嬉しいけど」
御子柴の箸が止まった。急にお茶碗と箸を置いて、俺ににっこりと笑いかけてくる。イケメンが極上の笑みを浮かべるもんだから、破壊力が半端ない。心臓がどきりと音を立てる。
「──水無瀬、今日泊まる?」
「えっ!?」
そんなことをストレートに聞かれて、さらにたじろいだ。泊まる、というのは、その、十中八九そういうことだ。そうならないときもあるけど、大体はそうだ。
「ど、どうしようかな」
「嫌?」
「嫌じゃない。けど……」
すると、御子柴の手がすっと伸びてきて、俺の手に重なる。そのまま御子柴の頬がすりすりと触れてきた。
「泊まってくれたら嬉しいんだけどな」
顔を少し傾けて、柔らかく目を細めて、でも視線は逃さないと言わんばかりに俺を捉えている。顔が真っ赤になるのを自覚しながら、深く俯いた。
「そういうのどこで覚えてくんだ……」
「ちゃんと自分で考えましたー」
「嘘をつけ、嘘を」
「あっははは」
俺の手を放し、御子柴が楽しそうに声を上げる。そうして今度は上機嫌に食事を再開した。
「んー、やっぱ水無瀬の手料理は最高だな。これに勝るものはないね」
ベタ褒めである。さすがにむず痒くなって、話題を戻した。
「でもさ……最近、立て続けに泊まってるし、なんか……悪い」
「俺はいいよ。ほら、メシ作ってもらったし」
「え、でも、お金払ってもらった……」
「気にすんなって。それにほら、泊めるからにはしっかりおもてなししますよ」
「おもてなし?」
「接待、またはサービスとも言う」
さっきの極上スマイルはどこへやら、一転にやりと不敵に笑う御子柴に、俺は思わずロールキャベツを喉に詰まらせそうになった。
「だからそういう言い方すんな……!」
「あれ? 水無瀬くんは何を想像してるのかなぁ?」
「うるさいばか、何も想像してないっ」
「そうだなぁ。とりあえずお背中でもお流ししましょーか」
「ふ、風呂は一緒に入らない!」
「ケチ」
御子柴はそっぽを向いて口を尖らせる。そんな子供じみた仕草にですら、目を引かれてしまう。そんな自分を誤魔化すように、俺はロールキャベツをつついた。
「いいから、お前も食べろ」
「はーい」
御子柴は拗ねたポーズをさっさとやめ、またメシを食べ始めた。そして俺がもうやめろ言うまで、料理を褒めちぎるのだった。



