残暑厳しい、九月の第二土曜日。
 俺と御子柴(みこしば)高牧(たかまき)の三人で、赤レンガ倉庫で開催される『肉フェス』に行こうという話になった。
 当日、待ち合わせ場所に最初についたのは俺で、次に高牧がやってきた。
「ふっふ~ん、どうよこれ」
 俺が何か口を開く前に、高牧がドヤる。
 高牧はサングラスをかけていた。偏光サングラスとか薄く色がついているとかではなく、真っっっ黒なやつである。記憶が確かならば、ティアドロップとかいう結構イカついイメージのある形だ。俺は世界的に有名な監督が撮った、反社会的な映画を思い出した。
「怖ッ……」
「まぁ、似合いすぎて怖いっつうのはあるよな」
「いや、そういうことではなく……。どこで買ったんだよ」
「親父の借りてきた」
 なるほど、だから全然似合ってないのか。
「いいか、水無瀬。紫外線は目からも入ってくるんだぞ。労ろうぜ、目」
「いやあの、とりあえず、今から電車乗るんだから外せよ。暗くて足元危ないし」
 とにかく一緒に歩きたくない一心で、どうにか外させようと説得を試みる。
 すると道の向こうから声が聞こえた。
「悪い、遅れた!」
 俺は聞き慣れた声にぱっと振り返った。
 道を渡ってきたのは、一言で表すと『イケメン』であった。俺の日常の範囲内で、その言葉がこいつ以上に合う奴を俺は知らない。
 しかもこいつ──御子柴涼馬(みこしばりょうま)はただのイケメンではない。天才高校生ピアニストにして、学校でも文武両道の人気者。漫画から出てきたような、設定ガン盛り男なのである。
 御子柴のさらさらした黒髪が風になびく。ただ少し笑っているだけで、清涼感が半端ない。
 道を渡ってくる足も、こちらに振られる腕も、すらりと長い。半袖シャツにインナーのTシャツ、下はデニム。アクセサリといえば腕時計ぐらいのシンプルな格好なのに、道行く人の目をこれでもかと引いている。
 黒目がちの瞳が俺を捉えて、さらにふわりと細められたような気がして、反射的に顔を伏せた。
 ──俺と御子柴は、付き合っている。
 そう心の中で言い聞かせても、未だに信じられない。
 最初はただの友達だった。それがなんだかんだと色々あって、七月末からそういう関係になった。ようだ。なんて、今でも他人事のように思ってしまう。
 けどいくら実感がなくても、事実は変わらないわけで。
 目尻がかあっと熱くなるのは、残暑のせいにしておいた。
「ごめんな、ちょっと仕事の電話が長引いて──」
 御子柴は消え入る語尾に比例するようにして、腕を下げていく。高牧は胸を張って御子柴に言った。
「どうよこれ、イケてんだろ?」
「嘘ぉ……」
 グロテスクな宇宙人でも見たかのように、御子柴は盛大に顔を顰めた。そして俺の腕を引っ張って、高牧と距離を取らせる。
「……じゃ、行こうぜ、水無瀬。やー、肉フェスとかアガるよなー。でも混んでっかなぁー」
「オイオイ、何、二人で行く感じになってんの⁉ え? もしかして似合ってない⁉」
「お前な。せめて鏡見てからかけてこいよ」
「いや、これ掛けてると暗くてよく分かんねーし」
「嘘ぉ……嘘みたいにアホすぎる……」
「じゃあ、どうすればよかったのさ!」
 ドン引きしている御子柴に、高牧は口をひん曲げて反論する。俺はなんだか可哀想になって、教えてやった。
「自撮りすれば良かったんじゃね?」
「え……。水無瀬クンて天才?」
「もー、とにかく外せってば。じゃないと連れてかない。帰れ帰れ!」
 虫でも追い払うかのように、御子柴はしっしっと高牧を手で払う。高牧はブーブー言いながらも、サングラスを外し、襟元に掛けた。
「お、これはこれでイケてる」
「クソダサー」
「ダサくありませんー! ダサいって言う奴がダサいんですうー!」
 うんざりしている御子柴に、高牧が食ってかかる。とにもかくにも外してくれてよかった。俺はほっと胸を撫で下ろした。


 横浜赤レンガ倉庫の最寄り駅はいくつかある。そのうちの一つ、みなとみらい線馬車道駅にやってきた。土曜日、しかもイベントが開かれているだけあって、ホームから改札まで人が溢れている。
 人の流れに沿って三人で駅構内を歩いていると、往来とはまた別の人だかりがあった。
 通路の一角に人が溜まっている。人垣の中からピアノの音がした。激しいメロディーは確か人気アニメの主題歌だ。誰が弾いているのかは知らないが、すごい迫力で、聴衆はすっかり聞き入っている。
「すっげー、動画で見るやつみてえ」
 高牧が立ち止まって、ピアノ周辺を覗き込もうとひょこひょこ背伸びした。到底見えそうにないけど。
「動画ってあの、ストリートピアノで弾いてすごい人が集まってるやつ?」
 妹と一度、見たことがある。クラシック曲ではなく、誰でも知っている流行りのJ-POPをピアノアレンジして弾き、その様子を撮影して投稿するのだ。
「そーそー。動画から有名になって、テレビ出る人もいるし」
 そうなのか……。世の中には色んな人がいるもんだ。そう感心していると、高牧は次に御子柴を振り返る。
「なー、御子柴だったらあれ弾けんじゃね?」
「譜面知らねーもん、弾けねえよ」
 御子柴は眉間に深く皺を刻んでいる。その顔がかなり不快そうで、俺は首を傾げた。
「どうした?」
「……拍が取れてない。あと打鍵が強すぎる」
 周囲に聞こえないよう、御子柴は小さくぼやいた。
 確かにアップテンポの曲だからか、やたら一音一音が鋭い。ピアノが壊れてしまうんじゃないかと心配になる。俺が動画で観た演奏者も同じような速いテンポの曲を弾いていたが、もっと柔らかな演奏だったように思う。
 ダーン、と叩きつけるような音と共に、演奏が終わった。拍手が巻き起こる。たまたま俺の前にいた三人組が去り、ちらっと演奏者が見えた。シルバーアクセサリーをじゃらじゃらつけている二十代ぐらいの男性で、がたいが良くてちょっと怖い。この人なら高牧のサングラスがさぞ似合うだろうと思った。
 その傍らには同じような男性がもう一人いて、演奏を撮影していたようだった。録画を止め、椅子から立ち上がった演奏者とハイタッチしている。
「はい、どいてどいてー」
 急ぐ用事でもあるのか、二人は人垣をずんずんかき分けて、こっちに来る。俺も避けようとしたが、その前に演奏者が大股で迫ってきた。
 どん、と肩に衝撃があって、思わず「うわっ」と声を上げる。体格差があるからか結構な衝撃で、よろけそうになったところを御子柴に支えてもらった。
「大丈夫か?」
「あ、あぁ……」
 にわかに触れ合った体温にどきりとする。しかしそれも束の間、目の前の演奏者が思いっきり舌打ちしたことで我に返る。
「邪魔すぎんだろ」
 その眼光の鋭さといったら。自信満々でサングラスを掛けてきた高牧の比じゃないほど怖い。いやあれは違う怖さだったけれど。
 とにかく青ざめることしかできない俺を、演奏者は一顧だにせず、立ち去ろうとする。恐怖の後に、悔しさと情けなさが襲ってきた。けど何も言えずに俺は唇を噛む。
 と、その時。
「――高牧、ちょっとこれ貸して」
 背後から底冷えするような声が聞こえた。振り返ると、御子柴が高牧の襟元からサングラスを抜き取って、掛けているところだった。
「うえっ? えっ?」
 俺と同じく硬直していた高牧が何か返すより早く、御子柴は聴衆の輪の中に入っていった。
「すみませーん。次、誰か弾きたい人、いますか? いなかったら、俺が弾いてもいいですか?」
 手を挙げて、そんなことを言い出したものだから、俺と高牧はぎょっとして顔を見合わせた。
 去りかけた演奏者が「あ?」と声を上げて、立ち止まる。
 聴衆もまた目を丸くしていた。多少乱暴とはいえ、これだけの人を集めるさっきの演奏、その後に弾くなんてよっぽど恐れ知らずなのか、空気を読めないのか――という雰囲気になっている。
 けど、俺と高牧は知っている。
 御子柴がそのどちらでもないことを。
 誰も異を唱える者がいなかったので、御子柴は「じゃ、失礼しまーす」と軽い調子で言い、椅子に座った。目線はサングラスに遮られて分からないが、おそらくざっと鍵盤をチェックしたあと、ぐるぐると両肩を回し始める。ついで手首や指を動かし、鍵盤に両手の五指を滑らせた。ドレミファソラシド……だかなんだか分からないけど、得も言われぬ美しい響きに、聴衆が息を呑む。
 そんなウォーミングアップの後、御子柴はしばしの間を作った。静まりかえる観客。その中にはさっきの演奏者も含まれている。
 そして御子柴がピアノを奏で始めた。
 曲の始まりは軽やかで、仔馬が跳ね回る光景を想像させた。段々とテンポが速くなり、御子柴の指の動きが目で追えなくなる。激しい動きだが、さっきの演奏者とはまるで違う。指だけを叩きつけるのではなく、御子柴は全身でピアノを奏でている。その真摯な演奏にピアノの方が応えている、そんな風に見える。
 強弱が継ぎ目なく繋がっていく。音の一つ一つが、土に水が染みこむように耳に入ってくる。うねる波のような旋律が、俺を、観客を引き込んでいく。
 決して先ほどのような誰でも知ってる曲ではない。クラシックなのは分かるが、その中でも聴いたことがない。
 けれど誰も――その演奏から、音楽から、御子柴から、意識が離せない。
 最後の音が生まれ、唐突に消えた。
 そこで俺は我に返った。周囲もまるで魔法が解けたかのように、そこかしこからため息が聞こえてくる。
 時間にすれば結構長い曲だった。けれど聴衆は誰一人帰っていないようだ。それどころか人垣が一回り大きくなっている気さえする。
 御子柴は少しの間、息を整えていたが、すぐに立ち上がった。
「ご静聴、ありがとうございました」
 堂に入った仕草で一礼すると、御子柴は俺たちの元へ帰ってきた。そして呆気に取られている俺と高牧のぽんぽんと背中を押して、人垣から離れていく。
 すれ違いざま、さっきの演奏者が呆然と呟いた。
「イスラメイ……」
 ややあって、思い出したように聴衆の拍手が追いかけてくる。御子柴は肩越しに軽く会釈してから、また俺たちを押して歩き出す。
 通路の角を曲がって、出口の階段を上りきったところで、ようやく御子柴はサングラスを外し、高牧の襟にそれを返した。
「はい、ありがとさん」
「いや……な、なん……なんだぁ、あれ? え? お前、マジやばくね?」
 目を白黒させながら、高牧は何故かそのサングラスを掛けた。「だから掛けんな」と言って、御子柴はまた高牧からサングラスを奪い取る。
 地上に出ると、日差しが降り注いだ。でも街路樹の下だと、少し暑さが和らぐ。
 俺は隣を歩く御子柴に尋ねた。
「イスラメイってなに?」
「あぁ、さっきの曲の名前だよ。バラキレフ作曲、東洋風幻想曲『イスラメイ』」
「難しい……んだよな?」
「んー、どうかな。俺はリストの方が苦手かも」
 前を歩いてた高牧が肩越しに振り返って、首をかしげる。
「なんのリスト? 肉フェスの店?」
「ちげーよ。フランツ・リストの超絶技巧練習曲集。特に第五番の『鬼火』ってのが難しくて有名なの」
「超絶⁉︎ 鬼火⁉︎ なんか分からんけど、めっちゃ強そー!」
 アホっぽい感想で盛り上がる高牧をよそに、俺はさっきの出来事に考えを巡らせる。
 普段なら、御子柴はいたずらにピアノの腕をひけらかすことはしない。プロなんだから当たり前だ。
 それでも、サングラスで顔を隠してまで、あんなことをした。動画を撮ってた演奏者への、当てつけ――いや、圧倒的に叩きのめすみたいなことを。
 多分……自惚れじゃなければ、それは、あの男が俺にぶつかったからで。
 きっと、御子柴は俺のために怒って。
 俺のために、ピアノを弾いて――。
「水無瀬、どした?」
 気がつくと御子柴に顔を覗き込まれていた。思ったより近くにあるその整った顔を見て、かあっと頬に熱が集まるのを感じる。
「な、なんでもない」
 御子柴はじっと俺の様子を窺ってたが、やがて何事もなかったかのように前へ向き直る。
「良い子は真似しちゃ駄目だぞ。もっとちゃんとアップしてから弾きなさい、ああいう難易度の高い曲は」
「いや、弾けないし……。てか無理したのかよ」
「ま、ちょっと頭に血が上っちゃいまして」
 想像が自惚れじゃないと念を押された気がして、ますます体温が上がる。そんな俺のことを知ってか知らでか、御子柴は上機嫌で「おにく、にくにく~」と謎の歌を口ずさんでいた。