この街が孤独だと感じる人と、僕は恋がしたい

 これから雨が降りそうな、それとも晴れていくかもしれないような、どっちつかずの薄曇りの梅雨空。
 次の清掃活動当番の日は、その日が来てほしいような、それとも永遠に来てほしくないような。まるでそんな俺の気持ちを表したような空だった。
(話しかけるの気まずい……でもなんにも言わないのも絶対後悔する)
 緊張して早く起きてしまった。当番は九時からだけれど、ふだんはほとんど午後からの活動なので、早起きというか、よく眠れなかっただけというか。
 もう落ち着かないので、待ち合わせ場所に早く行くことにした。予想通り、町内会長はもう来ている。
「松坂さん、おはようございます!」
 とにかく今日はきちんと望月くんと話す! その気合のあまり、町内会長への挨拶にも気合が入った。
「おー、おはよう!」
 俺の気合をどうとったのか、会長も嬉しそうに挨拶を返してきた。
「望月くんは、まだですか?」
 周囲を見渡してもあの明るい頭が見つからない。俺が尋ねると、会長は眼鏡の奥の皺を増やして苦笑いした。
「あいつはいつもギリギリだら。朝は苦手だもんで、ラジオ体操も毎度ギリギリ。しょんないねえ」
 しょうがないなあという雰囲気の笑顔だ。
(愛されてるなあ、あいつ)
「待ってるか?」
「そうします」
 俺が会長の隣で、町の人が何人か集まったところから解散していくのをぼんやりと眺めていると、明るい声が聞こえてきた。
「おっちゃん、遅くなってごめーん」
 ドキリとして、そちらに目をやる。
 人懐っこい、優しい笑顔だ。思わずそれに目を奪われる。周りの人から愛されてきたんだろうなという印象の、周りの人をためらいなく信じていそうな、まっすぐな笑顔。
 素直で、うらやましい。
「おー、日暮くんが待っとるよー」
「え?」
 駆けてきた望月くんの顔が、一瞬、真顔になった。嫌そうではなかったが、驚いて真顔になってしまったという感じ。そりゃそうだ。この前の雰囲気はだいぶ悪かった。
 彼の顔はそれからさっと、社交的な笑顔になった。
「日暮くん。待っててくれたの? ありがとう」
「あっ、いや。こないだのこと、謝りたいなと思って」
「えっ、……あれ」
 今度は本当に驚いた顔だ。気まずいけれど、俺はうなずく。
「うん」
「ほら、お喋りすんなら手も動かしね」
 会長にゴミ袋とトングを渡されて、俺たちは顔を見合わせる。
「海の方、行こっか」
 望月くんが提案してきた。川の方だと、この間のことを思い出してしまう気がするので、その提案はありがたかった。気が効くやつだ。
 俺はすぐにうなずく。
「それで。あの、さ」
 何度も心の中でイメージトレーニングをしてきたが、実際に話すとなると緊張してしまう。下を向きながらになってしまって、俺はぼそぼそと喋った。
「こないだ、きついこと言って。あの、ごめん。あれは、きみのことじゃなかった」
「……そうなんだ」
「あー、違うな」
 なんて言えばいいのか。抽象的な話じゃ、全然伝わらない。俺は勇気を出して顔を上げると、隣の望月くんを見た。
「長い話になるんだけど、俺の話していい?」
「いいよ」
 その言葉に背中を押されて、言葉を探す。
「俺さ、東京にいたとき、不登校だったんだ。クラスでいじめがあって。参加しないと自分がハブられるみたいな感じで、俺は、それに乗るのは嫌だと思ったんだけど、やめろよって言う勇気もなくて。それで、もうその選択を迫られる学校に近づくのが気持ち悪くなって。結局ただの逃げだったんだけど、学校行く電車に乗ったふりして、途中で下りてた」
 そこまで言って、俺は望月くんの様子を伺った。自分の恥ずかしい話に、彼がどう思うか気になって。
 望月くんは真剣な表情だ。続けて、と言われている気がして、俺は続ける。
「学校からとか、補導もされたから警察からも、親に連絡が行くだろ。そうすると親に色々言われるからさ、家に帰るのもだるくて。で、行くところがなくて入った映画館で、やってたのが『ムーンリバー』だったんだよね。だから、それをうらやましいって言われたのにイライラした。やつあたりです、ごめんなさい」
 そこまで一気に言って、俺は望月くんを見た。
 前回会ったときは泣きそうに潤んでいた大きな瞳が、物言いたげに自分をじっと見返している。
 こんな近くで誰かに見つめられたのは久しぶりで、いたたまれなさを感じた。目を逸らしたい気がしたけど、逸らすのも失礼な気がして、逃げ場がない。
「じゃあ、行動しないとなんにもならない、っていうのは、自分に言ってた?」
「あー、たぶんそうかな……」
 言われたことを考えているうちに海の前の国道に出て、視界が開けた。一面の海。梅雨の太陽が少しだけ顔を出して、海面に反射している。
 横断歩道を渡って、砂浜に下りてから、望月くんは言った。
「日暮くん。オレはさ、逃げてもいいと思うんだよね」
「え?」
「そりゃ、戦える人が偉いよ。けどさ、みんな、そんな強いやつばっかじゃないじゃん。人によって生まれつきの能力もあるし、得意不得意もあるだろ。努力するべきだとは思うけど、百五十センチの人がバレーボールをやるのと、百八十センチの人がやるのじゃ、大変さが違うじゃん。それに、別に全員がバレーボールをやらなきゃいけないってこともねえし」
「まあ、そうだけど」
 言われて思う。自分はたぶんそういう意味では、誰かと戦うのは、最初から苦手な方だと思う。わかってるけど。
 でも、逃げるのはいいことじゃなくて。
「たぶんさ、日暮くんは悪いことは悪いと思ってる。正義感のある人だろ。そうじゃねえ人もいる。日暮くんは正義感はあるけど、戦うのは苦手。反対の人もいる。そういう、いいところ、悪いところはみんな違うんじゃん?」
 そう言われて、嬉しかった。でも。
「でもさ、逃げるのは違わない?」
「日暮くんは、真面目なんだな」
 望月くんが目を細めて、微笑んだ。
(……?)
 まるで赤ん坊を見ているときのような、優しくてやわらかなその表情を見ると、なんだか胸の奥がきゅっとする。
「逃げるっていうと、言葉が悪いけどさ。なんだろ。力を蓄えてる? とか言えばいいんじゃね?」
 いたずらっぽい表情。
 言われたことの全部に納得できたわけではないけれど、すごく救われた気がした。
「どうせ大人になったら戦わなきゃなんねえことも山ほどあるだろうし、しばらく、ここで休んでけばいいじゃん。オレ、正直地元はあんま好きじゃねえけど、日暮くんが楽しく過ごせるように、協力するからさ。仲良くやろうぜ」
 風が、彼のシャツの裾をはためかせる。
 逆光の中でそう言う彼は、大人になったら世界が厳しいことをまるで知っているかのようだった。愛されて明るく生きてきたような表情が、ふっと物憂げな影を帯びて、俺はドキリとする。
「あ、ありがとう」
 微笑みながら差し出された手を、俺はドキドキしながら握った。傷つけたと思っていた彼が、自分に好意的な態度を取ってくれたことはうれしい。心が温まる気がした。
(いいやつ、だよな)
 それから、望月くんとはゴミを拾いながら、色々話した。街のイベントとか、楽しい話題だ。年に何回もやる花火大会のこと、日本で一番早い桜と、一番遅いもみじのお祭り、夏のバーベキュー……。
 いつまでここにいるかもわからないのに、望月くんの話す先の予定に、子供のように胸が躍った。一緒にやれたらいい。そういう気持ちだ。
 太陽がだいぶ昇って、そろそろ活動の終了時間になるころだった。
夏海(かい)!」
 通りの方から、サングラスをかけた、大学生くらいの爽やか系の男が車の窓から望月くんに声をかけてきた。
(……カイ?)
 俺は耳にした名前を心の中で繰り返す。
 そういえば、望月くんの下の名前ってなんだったっけ。
「友兄ちゃん!」
「当番がんばってるな。終わったらうちまで送ってやろうか?」
 望月くんはちらりと俺を見た。
「あー、いいや。今話してるから。歩いて帰る」
「おー、またな」
 望月くんが手を振ると、車が離れる。
「望月くん、名前、カイっていうの?」