この街が孤独だと感じる人と、僕は恋がしたい

 いつだってすぐに会えると思っていた。
 駅の電光掲示板。その行き先にある街に、ジャズを聴かせる喫茶店を出すことにしたのだと、あいつは小さな声で呟いていた。
「いつか、熱海に来るときは、寄ってくれよな」
「行くことが、あれば、な」
 そんなことを言いながら、俺は優人はすぐに東京に、俺のもとに帰ってくると思っていた。愛想笑いだってしないような彼が、見知らぬ土地で接客業なんて。
 それから何年も経って。
 いい加減彼は帰ってこないのだと思ったが、それでも俺はいつだって、終点には彼がいると思っていた。
 
「いらっしゃいませ」
 あいつが好きだったジャズのタイトル。その名前の店の扉を開けたのは、偶然家族がこっちに来たいと言って、俺が運転手を仰せつかったからだった。
 妻が友人と会うのに娘がついていって、ひとり残された俺は、自分の昔馴染みの顔を見にいこうかと思い至ったのだった。
 人見知りで愛想笑いもしない彼が、無事ちゃんと喫茶店のマスターをやっているのだろうか。
 そんなあいつが俺にだけ見せるはにかんだような微笑が、まるで沼のように俺を引き止めようとしたものだ。あのころは負担だったそれも、ずいぶんと時が流れて、愛しい思い出になっている。
「おひとりさまですか?」
 カウンターの奥にいた青年が顔を上げて、それから俺に聞いた。急な客にびっくりしたという表情。
 まるきり接客に慣れていない、幼いしぐさだった。
 ゆるやかにジャズが耳元に流れてくる。ものうげなピアノ。My funny Valentine.
「優、人――」
 俺は思わず息をのむ。
 背が高く、整った穏やかな目元が優人によく似ていた。アルバイトの大学生といった雰囲気。
 ふわりと微笑んだ笑顔に、一気にあのころに気持ちが引き戻される。
「お好きなお席へどうぞ」
 俺の声は聞こえなかったのか、青年が続けて言う。
 まるで彼の部屋の中に招き入れられたような、シンプルで趣味のよいディスプレイ。木製の壁にいつでも受け入れてくれるような優しい温かみを感じた。
 飾ってあるレコードのカバーは、あいつの好きな曲ばかりだ。
 ぼんやりと流れてゆく曲の歌詞を、心の中でたどってゆく。ものうげな女性ボーカルの声は、いつのまにかかすれたあいつの声に変わっていた。
 あいつは歌がうまくて、英語の発音もきれいで、そういうところに惹かれて、声をかけたんだ。
 あいつが歌詞を説明してくれたことを思い出す。恋するひとの視点からの歌詞だった。ぱっとしない恋人に対して、でもそのままでいてほしいという内容。
『変わらないことなんて、ないのにな』
 寂しそうにそう呟いたあいつが心許なくて。
『俺は変わらないよ』
 そんなことを言ったんだっけ。
「ご注文は?」
 尋ねてくる青年の声に我に返る。
 ブレンドコーヒーを注文した。それから、カウンターに引っ込んで、生真面目な表情でコーヒーマシンに向き合う彼を眺める。
 青年というより、少年に近い。高校生と言っても通りそうだ。もしかしたら、出会ったころの俺たちよりも若いかもしれない。
 似ている。
 たどたどしい手つきでできあがったコーヒーを持ってきた彼に、俺は思わず問いかけた。
「あの、日暮優人はいる?」
 少し困ったような表情をして、彼は答える。
「あ、叔――、マスターは今買い出しに出かけてます。もう少ししたら、帰ってくると思います」
「そっか」
 ちらりと腕時計に目をやった。コーヒーをのんびりと飲むくらいの時間はある。
 またぼんやりと、流れてゆく曲を心の中でたどってゆく。曲は変わっていたが、これも聞き覚えがあった。
『好きだよ、――』
 こんなふうに明るい、温かさのあふれる部屋で。俺だけが大切なんだと、繰り返し、俺に訴えてきたあいつの声がよみがえった。
 なんでずっと一緒にいなかったんだろう。あのころはちょっとうるさく感じていたけれど、なくなると寂しかった。俺も結婚してから忙しくて、思い出すようになったのもここ最近のことだけれど。
 カラン。
 扉に提げられている鈴が鳴った。音がした方にゆっくり目を泳がせる。くせのある明るい髪色の少年が入ってきた。
「澄人! 元気してる?」
「夏海!」
 青年ははじけるような笑顔になった。
 それを見て、俺はそんな表情を俺に向けていたあいつを懐かしく思い出す。本当に、よく似てる。
 あいつの身内だろうか、兄弟は兄しかいなかったし、ちょっと年が離れすぎているか、じゃあ――。
「お父さん、どうだった?」
 慣れたようにカウンターに座った少年が、頬杖をついて青年の顔を覗き込む。
「まあ喧嘩にはなったよ。東京の大学に行くのはいいけど、友達とルームシェアは贅沢だって」
「あー、まあそうだよな。澄人は住むとこあるしな」
 親密そうに顔を突き合わせて、ささやくように交わされるふたりの会話を聞き流しながら、俺は少年が最初に口にした言葉を思い出す。
 お父さん。
 もしかして、この青年はあいつの息子なのだろうか。
 ないこともない。
 自分の娘より年上のような落ち着いた雰囲気を漂わせてはいるが、接客には慣れていない、幼さが目立っていた。親の店を手伝っている高校生とか、そういうのが一番違和感がない。
 ――あいつに子供?
 こんな年の子供がいるなんて。俺たちが別れた年を考えると、それが一番腑に落ちないが、この青年は見れば見るほどあいつに良く似ているし、ありえなくはなかった。
「あー、澄人と一緒に暮らしたいなぁ」
「また話してみるよ」
 青年はまた甘い笑顔を見せている。
 見つめあって微笑むと、少年がひっそりと、指先で青年の指先に触れた。ふたりは指先はそのまま、秘密を共有するようにお互いを見つめている。
 あまりにも無垢で、純粋な空間。
 俺の気持ちはなぜかざわついた。
 あいつによく似た青年が、自分以外の誰かに、愛情あふれるまなざしを向けている。
 そのことになぜか、落ち着かない。その行き先が、俺じゃないから?
 でもそもそも、あいつもこの青年のように若くて、初々しい感じはなくて、もうすっかりおじさんなんじゃないか。俺がそうであるように。
(……馬鹿だな、俺)
 彼だけが、大学生のままとどまっているわけはないのに。
 ここに来たら、昔と同じあいつがいるわけではなかった。俺だって、あのころと同じところなんて何ひとつ残ってはいない。
 そう思うと、急に気持ちが焦るのを感じた。
 あいつだってもう中年になって、子供がいたり、俺以外の大切な人がいたっておかしくないんだ。
 あのころと違うそんな彼に、あのころとまったく違う俺が出会って、いったい何を話すっていうんだろう。
 上っ面の、近況報告でも交わして?
 そうして俺は、何を確認しようと思っていたのだろう?
 俺たちはもう、このふたりのような純粋でやわらかな光の中で、お互い以外が存在しないみたいに、見つめあうことはできないのに?
 ――帰ろう。
 俺はテーブルの上の冷めたブラックコーヒーを一気飲みして、伝票を手にして立ち上がる。
 それに気づいた青年が、慌てて少年と離れた。
「マスター、もうちょっとで帰ってくると思うんですけど」
 会計をしながら俺にそう言った彼に、俺は呟いた。
「いいよ、帰ってこないことを確認したかっただけだから」
 青年はふしぎそうに首をかしげたが、言葉にはせず、「ありがとうございました」とだけ言った。
 違う。俺はずっと、あいつが俺の元に帰ってこないことを、確認したくなかっただけだった。

 繰り返す波音を、俺は海辺に止めていた車に座って聞いていた。家族はまだ帰ってこない。
 だんだんと外は暗くなってきていた。自分の唇から、嗚咽が漏れて俺は驚く。泣くほどのことはなかったと思うのに。
 胸を灼くような喪失感の理由がわからないまま、俺は泣いた。
 なくしたのはいつだったのか。
 思い出せないまま、俺は、ずっと泣いていた。

END