俺は椅子の上で膝を抱えて、裸足で体育座りになった。
 その隣に、同じく靴を脱いだ夏海が座る。俺はリュックサックから水筒を差し出した。魔法瓶だから、まだ中のお茶は温かいはずだ。
 夏海は小さく礼を言って受け取る。
「あのさ。オレ、頑張れると思ったんだけどさ」
 水筒を抱えた彼は、俺の顔を覗き込みながら小声で言った。
「駅に着いたらさ、一緒に歩いてた同じ電車の人ら、みんな家族とかが車で迎えに来てて。どんどんみんないなくなって。オレだけ行くとこないなって思ったら、結構きつかった。やっぱりオレだけ、世界から切り離されてんのかなって思って……」
 そのときの心細さを思い出したのか、夏海がまた涙声になる。安心させたくて、俺はそっと、その背中を撫でた。
「あの、だから、来てくれてありがとな。澄人」
 ……ここまで来てよかった。
 その言葉を聞いて、そういう、温かい気持ちが俺の心を満たす。
 自分が今ここに来た、そのことに意味があって、好きな子を支えられているならよかった。
 俺はまた自然に微笑んで、そういえば謝罪が中途半端になっていたことを思い出した。
「あのさ、夏海。今話すタイミングかわからないんだけど。手紙のことだけど」
「ああ、うん」
「優人のふりしてごめん。あの返事書いたとき、俺、ほんとに自分が嫌で。優人って、叔父さんの名前なんだけど。叔父さんみたいな大人になりたいなって、嘘をついた」
「うん」
「俺、自分がほんとに嫌いで。叔父さんに他人だからよく見えるだけって言われてから、他人をうらやましがらないようにがんばってるんだけど、いつも自分が誰か自分以外だったらって思うんだ」
「そっか」
「でも、今日ここまで来られた自分は少しだけ、好きかな」
 夏海がそっと手を伸ばして、俺の片腕に触れてきた。そのまま、腕を組むようにして、頭を俺の肩に乗せる。
「オレも、今日の澄人は好き」
 頬に夏海の髪が触れる。肩と腕からは、夏海の体温を感じた。
 言われたことに、俺は息をのむ。
「昨日は怒ってごめん。オレは、優人さんを好きになりそうだったんだ。オレの夢を笑わずに聞いてくれて、オレと同じ、孤独を感じてて」
 知ってる。俺はうなずいた。
「でも、澄人といたらドキドキした。澄人といると、怖かった。たぶん、自分がめっちゃ傷つく気がして」
 ドキリとした。夏海を怖がらせてしまっていた。初めて会ったときに、俺が傷つけるようなことを言ったからだろうか。
「ごめん、俺、人づきあいがうまくなくて」
 慌てて言うと、夏海は微笑んで首を振る。
「違う、澄人のせいじゃねえよ。オレが、たぶん澄人のちょっとしたことでも、たくさん心を動かされて、苦しんだり、悲しんだりするだろうってわかったからなんだ。澄人のことを、めっちゃ好きになりそうで、怖かった。それで、優人さんが好きなんだって確認して、安心したかった」
 俺はそんなことを言われたことがなかったので、何を言っていいかわからなかった。黙って耳を傾ける。俺をめっちゃ好きになりそうだって、どういうことなんだろう。もちろん俺は夏海のことがめっちゃ好き、だけれど。
「実際、澄人が嘘ついてたって知って、めっちゃ傷ついた」
「それは、ごめん」
「だけど今日さ、雨の中走ってきた澄人を見て、もうダメだなって思ったわ。傷ついてもつらくても、もうダメ。澄人が好きだ」
 ため息まじりに夏海が笑った。
「あの、それって」
 俺は動揺しながら、言われたことを整理しようとした。
「だから、こないだ澄人が言ったことに対しては、イエスだよ。もう好きになってる」
『きみも俺のことを好きになってもらえない?』
 俺は自分が言ったことを思い出す。顔が熱くなった。
「えっ、あっうわ、あっ何言えばいいかわかんないけど、う、嬉しい、かな……うわ、わかんない」
 夏海は俺の肩の上で小さく笑った。
「澄人のそういうとこ、かわいいな」
「あ、ありがとう、ございます」
 夏海は言うべきことは言ったと思ったのか、また小さく笑うと、静かになった。俺は様子を窺いたかったが、首を夏海の方に向けると顔が近すぎる気がして、そのまましばらくじっとしていた。
 やがて、小さく寝息が聞こえてくる。
 今日は色々あったし、疲れているのだろう。
 俺はそっと、夏海が抱えている水筒を落とさないように移動させた。
 ふと、隣の椅子に置きっぱなしだったレインコートの中の、スマホが光っているのに気がついた。夜になってしまったから、心配した叔父さんだろう。
 ポケットから取り出して画面に触れた。
『叔父さん、嘘ついてごめん! 恋のために全力投球中なんだ。無事だし、明日には帰るから、心配しないでください。』
 そうだ、今日は全力投球できた。
 俺は自分で書いたメッセージを眺めて、小さく微笑んだ。