観光客は平日だろうがおかまいなしに、海辺で気の早い花火に盛り上がっている。そんな彼らを横目に、自転車で学校から帰ってきた俺は重い木製の扉を開けた。
≪サマータイム≫。
手書きでそう書いてある看板がかかっている。書いたのは叔父さん。このジャズ喫茶の二階に、俺は叔父さんと暮らしている。
扉を押し開けると、耳いっぱいに気怠いトランペットが広がった。
「おかえり、澄人くん」
カウンターの向こうで、アンティークのカップを磨いていた叔父さんが微笑んで出迎えてくれた。手足が長く長身なのもあって、よく似ていると言われる。
目元が柔和そうなところとか、全体的な印象でいったら、俺は父さんよりも叔父さんの方に似ているかもしれない。伸びてしまった髪を切ったら、もっと似てくると思う。
「ルイ・アームストロングの『サマータイム』?」
俺がかかっていた曲のタイトルを当てると、叔父さんは手を止めて俺を見た。
「叔父さん、好きだよね」
「好きじゃなきゃ店の名前にしてないよ」
彼はそう言って微笑んだ。
東京から鈍行だったら二時間ちょっと、新幹線だったら一時間以内。この観光客の集まる海辺の街に叔父さんが移り住んでジャズ喫茶を始めたのは、俺が小学生低学年のころ。
俺は優しくて穏やかな叔父さんのことが、子供のころから大好きだった。長い休みのときにはここに叔父さんに会いに来ては、彼のかけるレコードに耳を澄ませてずっと聴いていた。
「兄さんから電話があったよ。澄人くんに電話しても出ないって」
叔父さんはそう言いながら、カウンターに座った俺の前にサンドイッチを置く。授業が終わって家に帰ると、夜十時近くになってしまうので、店で軽く食事をしてから、部屋に上がるのが平日の流れになっている。
父さん。
叔父さんの兄、つまり父さんのことを考えるとゆううつで、ついため息がこぼれてしまう。
冷静で、すべて自分が正しいような声。あの声を今は聞きたくない。
「父さんのことは、いいよ。気が向いたら、こっちからかける」
『おまえは逃げてばっかりじゃないか』
最後に父さんから言われた言葉を思い出す。
二年生になって新しいクラスになって、いじめに参加しなければクラスにいられない雰囲気ができた。俺はどうしたらいいかわからなくなって、受験をがんばったはずの高校に行けなくなってしまった。
自分がいなくなったからと言って何も変わっていないし、どうせ学校をやめるんだったら、せめて糾弾するなり先生に言いつけるなり、何かをしてからやめればよかった。
『問題の解決に関わっていないのであれば、加担しているのと同じだ』
そう言った父さんは、間違ってはいないのだけど。
それは理解できたけど、俺はもうどうしてもあの場所に足を踏み入れることができなくなっていた。
家にいるのも気まずくて、昼夜かまわず制服でうろうろするようになって、警察に声をかけられるようになって。誰とも付き合いたくなかったから絡まないように避けてたけど、悪い感じの人たちにも何度となく声をかけられるようになってて。なんとなく、良くない感じになってきていた。
そんな俺に困った両親が出した結論が、俺を東京から離れた叔父さんの元に住まわせて、夜間高校に通わせること。
俺としても、そのままでいてもどうしようもなかったし、両親と一緒に暮らすよりは、叔父さんといる方が気持ちが楽だったから、引っ越すことになったんだ。
「澄人くん、前もそんなこと言ってなかった? 心配してたよ?」
「父さんが気にしてるのは、俺がいつ真っ当な道に戻るかだけだから」
「澄人くん」
「つらいことから逃げ出すような息子はいらないって、言ってたよ」
間違ってはいないのだけど、口にすると胸が痛い。それを聞いた叔父さんは肩をすくめる。
「兄さんはまあ、ああいう人だからな。ひとつ決まった正解以外の道があるってわからないんだよ。僕がここで店をやるって言ったときも、相当強くは言ってた。心配してるんだけどね、あの人なりに」
「結局俺のことは叔父さんに押しつけてさ。まともになったらまた回収しようなんて、虫が良すぎるよ」
叔父さんは困ったように苦笑する。
「まあ、澄人くんはいつまでだって、うちにいてくれてかまわないけど」
そう言われると、逆に申し訳ない気持ちだ。
叔父さんの部屋は、明らかにひとりで暮らすことを想定している大きさだった。もともと物置だったらしい小さい部屋を俺に譲ってくれたけど、積み上げられたたくさんの本とレコードは、俺が邪魔だと言っているみたいな気がする。
「あ、そうだ澄人くん」
「何?」
「そこの回覧板見てくれる?」
「これ?」
俺は促されて、カウンターの中に置いてあった回覧板を取り上げる。叔父さんの属する、町内会の回覧板だ。
言われたとおり一ページ目を開くと、『清掃活動のおしらせ』とあって、その下にいくつか日にちが書かれていた。
当番で、いくつかの町内会が合同で街の清掃活動をしているようだ。
「澄人くん、その日空いてたら代わりにお願いできない? 全部日曜日なんだけど、ほら、お店は日曜日が一番お客さん来るからさ。休んでばっかりも申し訳ないし」
「あー……」
正直なところ、いやだと言いたい。
たぶん、そんな近所の集まりに行ったら、また東京から来たと挨拶しないといけないし、色々聞かれるだろう。ここに越してきてからもなるべく人と関わらないようにしているのに、新しく知り合いが増えてしまいそうで、気が重い。
でも、叔父さんの家に転がりこんでしまった手前、少しは役に立たないと申し訳ない気がする。喫茶店で日曜日は忙しいというのもわかるし。
「わかったよ」
空になった皿をカウンターの向こうの叔父さんに返して、俺はうなずいた。
「よかった、ありがとう」
叔父さんはほっとしたような笑顔を見せた。俺は二階への階段の扉を開けて、席を立った。
「うん、おやすみ」
階段をのぼりきる。自分に与えられた小さな部屋。
その小さな窓を開けて、夜の海を眺めた。
階下から聞こえてくる曲はもう変わっていたけれど、耳元に残る『サマータイム』の歌詞を少し口ずさむ。
叔父さんが愛するスローなテンポの子守歌。
並んだ英単語の意味を考えると、思わずため息をついてしまう。
生まれたばかりの赤ん坊に、この世界に心配事なんて何もないんだと歌いかけている。
(……誰が、そんなこと思うんだかな)
そんなこと、子守歌を聞いている赤ん坊だって、騙されるわけがない。
≪サマータイム≫。
手書きでそう書いてある看板がかかっている。書いたのは叔父さん。このジャズ喫茶の二階に、俺は叔父さんと暮らしている。
扉を押し開けると、耳いっぱいに気怠いトランペットが広がった。
「おかえり、澄人くん」
カウンターの向こうで、アンティークのカップを磨いていた叔父さんが微笑んで出迎えてくれた。手足が長く長身なのもあって、よく似ていると言われる。
目元が柔和そうなところとか、全体的な印象でいったら、俺は父さんよりも叔父さんの方に似ているかもしれない。伸びてしまった髪を切ったら、もっと似てくると思う。
「ルイ・アームストロングの『サマータイム』?」
俺がかかっていた曲のタイトルを当てると、叔父さんは手を止めて俺を見た。
「叔父さん、好きだよね」
「好きじゃなきゃ店の名前にしてないよ」
彼はそう言って微笑んだ。
東京から鈍行だったら二時間ちょっと、新幹線だったら一時間以内。この観光客の集まる海辺の街に叔父さんが移り住んでジャズ喫茶を始めたのは、俺が小学生低学年のころ。
俺は優しくて穏やかな叔父さんのことが、子供のころから大好きだった。長い休みのときにはここに叔父さんに会いに来ては、彼のかけるレコードに耳を澄ませてずっと聴いていた。
「兄さんから電話があったよ。澄人くんに電話しても出ないって」
叔父さんはそう言いながら、カウンターに座った俺の前にサンドイッチを置く。授業が終わって家に帰ると、夜十時近くになってしまうので、店で軽く食事をしてから、部屋に上がるのが平日の流れになっている。
父さん。
叔父さんの兄、つまり父さんのことを考えるとゆううつで、ついため息がこぼれてしまう。
冷静で、すべて自分が正しいような声。あの声を今は聞きたくない。
「父さんのことは、いいよ。気が向いたら、こっちからかける」
『おまえは逃げてばっかりじゃないか』
最後に父さんから言われた言葉を思い出す。
二年生になって新しいクラスになって、いじめに参加しなければクラスにいられない雰囲気ができた。俺はどうしたらいいかわからなくなって、受験をがんばったはずの高校に行けなくなってしまった。
自分がいなくなったからと言って何も変わっていないし、どうせ学校をやめるんだったら、せめて糾弾するなり先生に言いつけるなり、何かをしてからやめればよかった。
『問題の解決に関わっていないのであれば、加担しているのと同じだ』
そう言った父さんは、間違ってはいないのだけど。
それは理解できたけど、俺はもうどうしてもあの場所に足を踏み入れることができなくなっていた。
家にいるのも気まずくて、昼夜かまわず制服でうろうろするようになって、警察に声をかけられるようになって。誰とも付き合いたくなかったから絡まないように避けてたけど、悪い感じの人たちにも何度となく声をかけられるようになってて。なんとなく、良くない感じになってきていた。
そんな俺に困った両親が出した結論が、俺を東京から離れた叔父さんの元に住まわせて、夜間高校に通わせること。
俺としても、そのままでいてもどうしようもなかったし、両親と一緒に暮らすよりは、叔父さんといる方が気持ちが楽だったから、引っ越すことになったんだ。
「澄人くん、前もそんなこと言ってなかった? 心配してたよ?」
「父さんが気にしてるのは、俺がいつ真っ当な道に戻るかだけだから」
「澄人くん」
「つらいことから逃げ出すような息子はいらないって、言ってたよ」
間違ってはいないのだけど、口にすると胸が痛い。それを聞いた叔父さんは肩をすくめる。
「兄さんはまあ、ああいう人だからな。ひとつ決まった正解以外の道があるってわからないんだよ。僕がここで店をやるって言ったときも、相当強くは言ってた。心配してるんだけどね、あの人なりに」
「結局俺のことは叔父さんに押しつけてさ。まともになったらまた回収しようなんて、虫が良すぎるよ」
叔父さんは困ったように苦笑する。
「まあ、澄人くんはいつまでだって、うちにいてくれてかまわないけど」
そう言われると、逆に申し訳ない気持ちだ。
叔父さんの部屋は、明らかにひとりで暮らすことを想定している大きさだった。もともと物置だったらしい小さい部屋を俺に譲ってくれたけど、積み上げられたたくさんの本とレコードは、俺が邪魔だと言っているみたいな気がする。
「あ、そうだ澄人くん」
「何?」
「そこの回覧板見てくれる?」
「これ?」
俺は促されて、カウンターの中に置いてあった回覧板を取り上げる。叔父さんの属する、町内会の回覧板だ。
言われたとおり一ページ目を開くと、『清掃活動のおしらせ』とあって、その下にいくつか日にちが書かれていた。
当番で、いくつかの町内会が合同で街の清掃活動をしているようだ。
「澄人くん、その日空いてたら代わりにお願いできない? 全部日曜日なんだけど、ほら、お店は日曜日が一番お客さん来るからさ。休んでばっかりも申し訳ないし」
「あー……」
正直なところ、いやだと言いたい。
たぶん、そんな近所の集まりに行ったら、また東京から来たと挨拶しないといけないし、色々聞かれるだろう。ここに越してきてからもなるべく人と関わらないようにしているのに、新しく知り合いが増えてしまいそうで、気が重い。
でも、叔父さんの家に転がりこんでしまった手前、少しは役に立たないと申し訳ない気がする。喫茶店で日曜日は忙しいというのもわかるし。
「わかったよ」
空になった皿をカウンターの向こうの叔父さんに返して、俺はうなずいた。
「よかった、ありがとう」
叔父さんはほっとしたような笑顔を見せた。俺は二階への階段の扉を開けて、席を立った。
「うん、おやすみ」
階段をのぼりきる。自分に与えられた小さな部屋。
その小さな窓を開けて、夜の海を眺めた。
階下から聞こえてくる曲はもう変わっていたけれど、耳元に残る『サマータイム』の歌詞を少し口ずさむ。
叔父さんが愛するスローなテンポの子守歌。
並んだ英単語の意味を考えると、思わずため息をついてしまう。
生まれたばかりの赤ん坊に、この世界に心配事なんて何もないんだと歌いかけている。
(……誰が、そんなこと思うんだかな)
そんなこと、子守歌を聞いている赤ん坊だって、騙されるわけがない。
