仲直りした後に、gnuでバイトをしているのは一人暮らしの資金を貯めるためだと教えてくれた。
どのくらい必要なのか僕には皆目検討もつかないけれど、夢を追う灰谷くんは他の人と違ってきらきらしている。
今日も彼はバイトらしく、放課後はすぐに帰ってしまった。
僕は部活が休みでも教室に居残って、文化祭に展示する編み物をせっせと進める。
手芸部は毎年一人数点の展示が義務で、各々好きに作って飾っているのだ。
もし灰谷くんと居残りができたらなあ、と考えるけれどそんな我儘は口が裂けてもいえない。どんどん人が減っていく教室は、彼がいないことにより寂しさで満ちてゆく。
つい数十分前まで顔を合わせていたのに、もう彼に会いたいだなんて重症だ。
区切りがついたら帰ろう。残っていても、灰谷くんのことばかりを考えてしまう。
そう思い、ワイヤレスイヤホンを耳に差し込んだ。
いつも聴いているプレイリストの曲をランダム再生にして黙々と編み上げてゆく。
思考が極めてクリアになり、次の網目のことしか考えられない。ちょうど区切りのつくところまで編んで、編み目を休めるためにほつれ止めを差し込んだ。
ふと教室が暗くなっている気がして、顔を上げると視界に灰谷くんが飛び込んでくる。
「え?!」
がたん、と音を立てて椅子から崩れ落ちた。
驚いた灰谷くんが口をパクパクさせてなにか話しかけているが、音楽で耳が塞がれてなにも聞こえない。
慌てて音楽の再生を止めて、イヤホンを取った。
「灰谷くん、なんでいるのっ? バイトは?!」
「途中でシフト変更になったことに気がついて、忘れ物取りに来たんだよ。そしたら真城が残ってて、話しかけようとしたけど真剣にやってたから終わるの待ってた」
僕の持っているイヤホンは耳にフィットする形なので、音量が小さくても外の音が遮断されてしまう。
集中していると目の前のことしか考えられない性格も相まって、灰谷くんの存在に全く気がつけなかった。
「もう帰るなら一緒に帰ろうぜ」
なんてことだろう。灰谷くんと一緒に帰るのは初めてだ。
思ってもみなかった幸運が舞い降りて、急に心臓がとくん、とくんと早く動きはじめた。
頬が仄かに熱くて、毎日顔を合わせているのに少し緊張している。ぽつぽつ話しながら玄関まで行き、校門を出る。
空にはすでに藍色のカーテンが敷かれており夜がもうすぐそばまで訪れていた。
夜になりつつある空気感に安心したのか、彼は前髪を分けて髪をきゅっと結んだ。
あっという間にgnuで働く姿になり、魔法がかかったような錯覚に陥った。
灰谷くんはいつも歩く速度を僕に合わせてくれる。
「真城んちはさ、学校帰りに飯食って行ったら怒られる?」
「ううん、連絡すれば大丈夫だよ」
「じゃあラーメン食って行かね? うまいとこ知ってるんだ」
ラーメンという単語に反応したのか、返事よりも先にぐうとお腹が鳴る。
「はは、行くってことでいいよな」
「う、うん」
空腹もそうだけど、放課後にファストフード店やカフェ以外の場所に友達と行ってみたかった。
凛ちゃんとは基本カフェが多いし、ラーメン屋に行くようなタイプの友達とは一緒に帰ることがあまりない。
灰谷くんとならどこでも嬉しいけれど、今の状況的にラーメンは飛び抜けてセンスが良かった。どのくらいかというと、まだ遠くの空がオレンジ色に染まっているのに光りだした一等星くらいだ。
「僕、友達とラーメン屋さんって行ったことなくて、だからすごく嬉しい」
ほこほこした気持ちを声に乗せれば灰谷くんは「まじ?」と驚いている。
「真城の初めてゲトっちゃったわ。ラッキー」
彼は長い指でピースを作って、少年のようにはにかんだ。初めてといったって、ラーメン屋に友達と行くのが初というだけのことだ。
なのに彼はテストで良い点が取れた時のように嬉しそうで頬が熱くなる。
悟られないように俯いて、彼の半歩後ろを歩いた。
しっかりお母さんに寄り道していくことを連絡し、学校から程近くの古びたラーメン屋に着いた。
赤い暖簾がかかっていて、まさしくといった雰囲気だ。普段は女の子が好むような洒落たカフェを選ぶことが多いので、灰谷くんとじゃなきゃ絶対に入れないだろう。
ごくりと生唾を飲み込んで、扉を慣れた様子で開けた彼の後ろを着いていく。
「おー! 優牙、また来たのか」
「またって言わないでくださいよ。人を常連みたいに」
「一時期、毎週来てたくせに常連じゃないとは言わせねえぞ」
カウンター内にいる恰幅の良い、頭に白いタオルを巻いた男性が灰谷くんと親しげに話している。スープの香りがふわっと鼻を抜けて、砕けた雰囲気の店内はほっこり落ち着く。
入ってすぐに食券機があって、ずらりと並んだメニューを前になかなか押すボタンが定まらない。
「灰谷くんはいつもなに食べるの?」
「んー、俺は生姜醤油選ぶことが多いな。あっさりしてて美味いんだ」
「生姜‥‥! 初めての組み合わせで気になるから、僕もそれにする」
ピッと音を立てて発券し、僕は生姜醤油ラーメンの普通盛りにした。
灰谷くんは大盛りと餃子も選んだようだ。
お店の人に券を渡し、丸くて背もたれのない椅子が置かれたカウンター席に二人並んで座る。
紳士な灰谷くんは、さりげなく僕を壁側に座らせてくれた。
一段高くなっているテーブルの先に厨房が広がっている。鍋から立ち上がる湯気や、先に出てくる透明のプラカップに入った氷多めの水。
どれもこれもドラマで見たような光景に、分かりやすく僕の胸は躍っている。
「はい、生姜醤油の普通盛りと大盛り、餃子一皿ね」
ものの数分でラーメンは出てきた。赤い渦巻き柄の器の中からほこほこ湯気が立っている。
前から器を受け取って、香ばしい醤油の香りと爽やかな生姜の風味で肺を満たした。
いただきますと僕たちは手を合わせる。
ふうふうと冷ましてから、中太のちぢれ麺を啜る。
「美味しい!」
「だろ」
空腹でぼんやりしていた頭が冴え渡るような美味しさだ。食道を通った麺とスープが心地よくお腹を満たしていく。
猫舌だから早くは食べれないけれど、灰谷くんと話もせず夢中になって食べ進める。隣で麺を啜っている彼も、長い前髪を耳にかけてうっすら汗をかきながら食べ進めていた。
僕とは違い、大きな一口で男らしく食べている彼にときめいて、慌てて目を逸らす。
「あ、餃子食べたかった?」
逸らすのが一足遅くて、視線に勘づかれた。
灰谷くんは小皿に餃子を二個も乗せて渡してくれる。六個しかお皿に乗っていないのに二個も貰うのがなんだか申し訳なくて、「大丈夫だよ」と断る。
「いいから、食ってみ。美味くて飛ぶぞ」
「飛ぶ?」
喉を上下させて、彼の真似をしてがぶりとかぶりつく。噛んだ瞬間、肉汁が溢れ、後から野菜の甘みが追いかけてきた。
見た目はごく普通の焼き餃子だけど、旨みがぎゅっと凝縮されていて確かにとても美味しい。
「これも美味しい‥‥!」
「はは、真城はなんでも美味そうに食うなあ」
灰谷くんは犬歯がはっきり見えるくらい口を大きく開けて、目を細める。
警戒心の薄れた笑顔がさらに僕を欲張りにさせる。
彼は、僕以外にも同じ顔をするのだろうか。
ヤキモチを焼く権限なんかないのに、僕は一丁前に「して欲しくない」と感じてしまう。
灰谷くんの中に、僕はどのくらいの割合で存在しているのだろう。
せっかく美味しいラーメンを食べているのに、そんなことを考えてしまって、途中からなんだか味がぼやけてしまった。
好きって複雑だ。
急に浮かれて、急に気になって、相手のことしか考えられなくて。
知りたいのに怖い。だけどいつか自分のことをどう思っているのか訊いてみたい。
乱高下する気持ちを、僕はまだまだ飼い慣らせなそうだ。
お腹が満たされると、急に眠くなってまったりした気分のままラーメン屋を後にした。
雑談を交わしながら駅に向かい、改札を目指す。
灰谷くんもたまにあくびをしながら話していたが、とあるポスターの前で立ち止まって動かなくなった。
ぱっと目が醒めてポスターを覗き込むと、高校生限定ファッションデザインコンテストの内容が書かれている。
画材は不問。自分自身でテーマを決め、オリジナルのデザインやスタイリングで人物画を提出するらしい。
受賞者は、有名であろう服飾学校のファッションショーに招待もされるらしい。まさに灰谷くんのためにあるようなコンテストで、僕はそわそわしながら彼の様子を伺う。
立ち止まるほど気になってて、応募するか迷ってるってことだよね。
出さないの? って聞きたい。でも、僕がそんなこと聞いていいのかな。
でもでも、灰谷くんの描くデザイン見てみたいなあ。
「わり、なんでもない。行こうぜ」
「え‥‥」
ふいっと顔を逸らし、灰谷くん改札へ向かって歩き出す。僕は考えるよりも先に手が伸びて、彼を引き留めた。
「灰谷くん、本当にいいの? 応募しなくて、後悔しない?」
「や、でも俺なんかが出したところでーー」
灰谷くんは自身を嘲笑するように下手くそな笑顔で線引きをしようとする。
「無理して、笑うなよ」
自分自身で驚くような低い声が漏れた。
激しい怒りが電光石火となって身体の中で弾ける。
僕にそう言ってくれた君が、自分のことを笑うな。「なんか」なんて思わないでよ。
どうして君が、君自身のことを傷つけるんだ。
「灰谷くん、格好悪いよ。やる前から諦めて、俺なんかとか言って逃げようとして格好悪い。gnuで一生懸命働いてる時の君に失礼だ」
喉が焼けるように痛い。悔しくて鼻の先がつんと痛む。駅の喧騒が耳にこびりついて鬱陶しい。
灰谷くんはきっと、とても困惑してる。
なんでお前が泣きそうなんだって、そう思ってるよね。僕だって思ってる。
でも僕は、君が自分自身を卑下することが許せないんだ。
「‥‥真城に格好悪いって言われる日が来るなんて思わなかった。俺、今「俺なんか」って言ったこと、すげえ後悔してるわ」
灰谷くんはずるずるその場にしゃがみ込み、顔を手で覆った。僕も人の通行を気にしつつ、しゃがむ。
「だめだよな、こんなんじゃ」
顔を上げると、強い力で彼は頬を両手で叩いた。乾いた音がして、肩が跳ねる。
「俺、明日から自分のこと隠さずに登校するわ。んで、コンテストにも出す。だからさ、応募したらちょっとだけ時間くんね」
「時間?」
「うん。話したいこと、あるから」
ぎゅっと僕の手を掴んだ彼の瞳は鋭く、心臓を射抜かれる。青い炎が瞳の奥で揺らめいてる気がした。
「だせえ俺じゃ、まだ話せないけど」
手を引かれて一緒に立ち上がる。
「真城、マジでありがとう」
手を繋いだままJR改札まで向かい、僕を見送ってくれた。灰谷くんは私鉄ユーザーなので、わざわざ遠回りをして僕を送ってくれたのだ。
ーー話したいこと、あるから。
簡素な言葉に、恥ずかしいほど期待してしまう。今日はなかなか眠れないだろうと思った。
*
次の日の朝、登校すると廊下がざわついていた。
まさか、と思い教室に入ると灰谷くんが髪を結んだ状態で席に座っている。
気だるようにスマホをいじる姿は普段通りだけど、前髪が分けられているので端正な顔が顕になっている。
今日は青インナーもばっちり見えて、尚且つgnuの時のようにピアスもバチバチに身につけていた。
「灰谷くんってあんな感じだったっけ?!」
「待って、めっちゃかっこいい」
「うそ、ここにきて推し爆誕するとかあるんだ」
「彼女いるのかなあ」
女子たちが遠目からこそこそ彼のことを話していて、僕は聞こえないふりをして視線の渦中にいる彼に挨拶した。
「灰谷くん、おはよう」
「おはよ」
まだ完全に目が醒めていないのか、ふにゃりと笑った彼をみて喉から変な声が出た。
甘い顔にきゃっと歓声があがる。
まずい、灰谷くんがすごく格好いいことがついに露見してしまった。
嬉しいのに、今すぐ布で包んで隠したくなる衝動に駆られる。彼の無防備な姿を誰にも見せたくない。
「久しぶりにこんな早く来たわ。変な感じ」
身体を伸ばしながら、灰谷くんは窓の外を眺める。差し込む朝日が彼を照らして、目にビデオカメラ機能が搭載されていないことを悔やんだ。
「早く来たら真城ともっと話せるんだって気がついたから、明日からも頑張って早起きするわ」
「イ、イイトオモウ」
灰谷くん、僕だって学校にいる本来の君を見慣れていないんだ。心臓がおかしくなっちゃうから、どうかきらきらするのは徐々にお願いしたいな。
「優牙!」
廊下に面している窓から身を乗り出した木村くんが大きな声で灰谷くんを呼んだ。彼は自分の教室かのように、遠慮なくずかずか入ってくる。
「うわ、うるせえのが来た」
「聞こえてんだよ。なに、お前どうしたんだよ〜! ようやく過去の傷を乗り越えたのか?」
「恥ずかしいから勇者みたいな言い方すんな」
「んだよ、つれねえなあ。にしてもお前が顔出してると中学の頃みたいでなついわ。復活祝いにカラオケでも行く? 可愛い女子集められるぜ」
「行かねーーよ。女好きも大概にしろ」
一気に陽キャの雰囲気が漂い、僕はスッと存在感を消した。
忘れていたが木村くんは元々派手な性格だ。
話す内容も当然の如くチャラい。
「えー、マキもミキもサナもお前に会いたがってんのに」
「はいはい。ほんと、そういうのいいから。もう予鈴鳴るから自分のクラス戻れよ。また後で色々話す」
「あいよ。じゃあな」
最後には爽やかに微笑んで木村くんは帰って行った。っていうか、マキとミキとサナって誰。
僕は思わず表情が険しくなってしまう。もやもやして気分が悪い。
「‥‥今の、気にしなくていいから」
灰谷くんは気を遣ってくれるけど、彼が顔を晒すということは今後も同じような気持ちになることが増えるということだ。
「うん」と返事したけれど、もやもやは消えてくれなかった。
それから一気に灰谷くんブームが訪れ、彼に熱の籠った視線が集まるようになった。
凛ちゃんも驚いたようで、部活中に彼の話題になる。
「しっかし驚いたわ。うちのクラスでも急にイケメンが増えたって話題だよ。陽は隣の席の人が実はイケメンだったって知ってたの?」
ここ数日気分が晴れなくて、僕は不貞腐れながら「知ってたよ」と答える。
いらいらして上手くマフラーが編めない。
せっかく真っ白なふわふわの毛糸を買ったのに、無駄にしてしまいそうで手を止めた。
ちなみに展示用の作品はもう作り終わっている。心底早めに取り組んでおいて良かったと安堵した。こんな状態じゃ、全く作業が手につかない。
「滅多に怒らない陽が珍しくいらいらしてる。恋の力は侮れないね」
「僕だっていらいらしたくないけど、あまりにもみんなが灰谷くんのことをかっこいいって騒ぐから。灰谷くんは顔を出す前からかっこよかったし!」
「陽、そんなに好きなら告白しちゃいなよ!」
「こっ、告白?!」
生まれてこの方、僕は告白なんてしたことがない。凛ちゃんの提案に乗れば、もしかしたら灰谷くんと付き合えるのかもしれないけど振られた日には立ち直れる気がしなかった。
それに、今の灰谷くんはコンテストのことで頭がいっぱいだろう。
やっかくやる気になっているところに水を差したくない。
「凛ちゃん、告白はきっと今じゃないよ」
「悠長なこと言ってて、誰かに取られてもいいわけ?」
「うぐっ」
灰谷くんが他の誰かと付き合う姿を想像すると、鈍く胸が痛んだ。
毛糸の玉をぎゅっと握りしめて「‥‥やだ」と口にしてしまう。
「じゃあーー」
「でも、今はだめなの。灰谷くんは今向き合ってることがあるから。だから、落ち着いたら‥‥」
「落ち着いたら?」
期待した瞳で凛ちゃんが見つめてくる。
僕だって男だ、と覚悟を決めた。
「灰谷くんに、告白する」
「よし、よく言った!」
「わっ、ちょ、頭撫でないでえ」
「付き合ったら撫でられないんだから、今のうちに撫でさせて!」
「もう〜僕は犬じゃないよっ」
「どちらかというと羊だと思ってるから大丈夫」
「そういうことじゃなーい!」
わしゃわしゃ髪をかき混ぜてくる凛ちゃん。
途中から僕もおかしくなってきて、一緒に口を大きく開けて笑った。
灰谷くんはコンテストに応募したら話したいことがあると言っていたけれど、僕もできたよって伝えなきゃ。
いつ、どんな場所で想いを伝えようか今から胸がどきどきして苦しくなる。
だけど、逃げないって決めたから。
それまでは彼を応援するんだ。
*
文化祭まで残り二週間。ついに放課後の準備期間が始まった。
僕たちのクラスはクレープ屋をやる。
バイトがある日は手伝えないからと、灰谷くんは自らみんながやりたがらない買い出し係に名乗り出た。
すると目を光らせた女子たちが次々に手を挙げ、困った級長に指名されて、隣の席である僕も買い出し係に任命された。
生物以外の小麦粉やチョコレートソース、その他フルーツ缶などを学校近くのスーパーまで買いに行くのが僕たちの仕事だ。
十五分はかかる道を二人並んで歩く。
夕方の住宅街は、見慣れているはずに灰谷くんがいることで知らない景色に様変わりする。
「小麦粉に各種ソース、缶詰とカラーチョコスプレー、抹茶の粉に紅茶の茶葉、その他諸々って結構買うものあるな。しかも一つ一つの量が多い」
灰谷くんは級長から受け取ったメモを見て、眉間に皺を寄せている。
確かに量が多くて、男二人で行ったほうがいい内容だ。
「毎年クレープ屋は人気になるみたいで、多めに材料買っておくんだって。その分売り上げもいいから、競争率高かったみたいだよ」
「なるほどな。沢山売って派手に打ち上げしようって話か。いいじゃん」
最近灰谷くんは僕以外のクラスメイトとも話すようになって、積極的に交流を楽しんでいる印象だ。
喜ばしい変化なのに、時々僕だけ置いて行かれているような寂しさに襲われる。
「ピザとか頼みたいってみんな言ってたよ」
「デリバリーすんならgnuのコーヒーも頼んでくれねえかな。叔父さん喜ぶし」
「委員長に聞いてみたら? 本当に頼んでくれるかもよ」
gnuのことだって、本当は僕だけが知っていたいけれどいつかバレてしまうだろう。
そして、彼を目当てに訪れる可愛い子が増えて、人気店になってーー
「真城?」
考え事をしていると顔を覗き込まれ、はっと意識を浮上させる。
危ない、また余計なことを考えていた。
せっかく灰谷くんと二人きりなのに、嫉妬心が邪魔をする。
「なんかあったんなら、遠慮せず言えよ」
「あ、いや、そういうのじゃないんだ。でもありがとう」
もうすぐスーパーに着いてしまう。
このまま、気まずい空気を引きずりたくない。
気丈に振る舞って、乗り切ろうと笑みを浮かべる。
「下手くそ。作り笑いだってバレバレだったの」
「んむっ」
頬を大きな手で掴まれて、タコのような口になる。
待って、いまの僕ってちょっぴりブサイクなのでは?
灰谷くんはじっと見つめてから、小さく吹き出した。
「タコみてえ。初めて見る顔してる」
「ひゃなひて!」
「お、元気でたな」
パッと解放されると、すぐに頬を撫でて顔を元に戻す。
危ない。もう少し長く掴まれていたら、暴れるところだった。
「言いたくないならいいけど、辛い時は頼って欲しいってことだけ覚えといて」
一歩先を歩く彼。
ブレザーの端を掴んで「僕、最近おかしいんだ」と口を割る。
「灰谷くんがクラスのみんなと仲良くしてて嬉しいはずのに、時々寂しくなったり、いらいらしたりする。gnuのことだって本当はみんなに知って欲しくない。こんなこと思いたくないのに、気がついたら考えちゃって、苦しくて‥‥」
苦しいから、なんだ。いつも僕は彼に期待している。灰谷くんの答えを待って、甘えて。
困らせてしまうと分かってるのに、一度溢れたら想いが止まらなくて。
誰か僕の口を縫ってよ。これ以上彼に醜い感情を晒したくない。恥ずかしくて、顔から火が出そうだ。
灰谷くんは口元を覆って、瞳孔を大きく開いて顔を赤く染めている。
「灰谷くん?」
「‥‥あ、いや、悪い。真城、だから最近考え事が多かったのか。あー、でも、くそ」
普段は歯切れのいい彼が、言葉に迷っている。
「まじ、ごめん。許して」
腕を引かれて、そのまま灰谷くんの胸元に顔を埋める形になる。
片手で抱きしめられ、もう片方の手はまだ彼の口元に添えられている。
「ほんと、今だけだから」
耳元で聞こえる鼓動は僕のものじゃないのに、早鐘を打っているのが鮮明に聴こえた。
香水の匂いが空気と混じって鼻腔を通り、肺を満たす。
甘いのにコーヒーのほろ苦さが混ざっている不思議な香り。だけど、全く嫌じゃない。脳まで届いて、記憶として刻まれる。
きっと同じ香りがしたら、どこにいても彼を思い出す。
「なあ、あと少しなんだ。もうちょいでデザイン画も終わる。だから、待ってて」
この前から灰谷くんは胸に秘めた気持ちを打ち明けてはくれない。
だけどもやもやは消え去り、安堵感に包まれた。心が嘘みたいに軽くなる。
「うん、待ってる」
「はー、俺も充電完了」
腕が解かれて、また横並びになって歩く。
スーパーに着くと、灰谷くんがカートを押してくれた。
僕たちは平然を装ってカートの中に、リストアップされた商品を次々と入れていく。
小麦粉を取る際に手が一瞬触れても、僕が取れなかった位置の商品を後ろから彼が取ってくれても、なんてことのない顔をしていなければいけない。
なのにいちいち心臓が跳ねて、嫌でも彼を意識してしまう。
帰り道も話題を慎重に選んで、ぎこちなく話しながら帰った。
「二人とも重かっただろ。ありがとう」
級長に商品を確認してもらって、僕たちは役目を果たした。
「微妙に距離あるけど、なにかあったか」と聞かれた時は焦ったけれど灰谷くんが誤魔化してくれた。
他の人が見ても気になるくらい、僕が彼を意識してしまっているんだ。灰谷くんの顔が見れない。
僕は逃げるように部活へ顔を出して、今日は凛ちゃんと帰宅する。昔からよく遊びに来ていた公園で、ブランコに乗りながらぽつぽつ話す。
「あのね、凛ちゃん。灰谷くん、僕に話したいことがあるんだって」
凛ちゃんはなにも話さず、優しい顔で聞いてくれる。
「もし、僕と同じことを話したかったらって期待しちゃうのかいけないことなのかな」
少し錆びたチェーンを握る手に力が入った。
「期待しちゃうの当たり前だよ。だって好きな人なんだもん」
キー、キー、と音を鳴らしながら凛ちゃんは緩く漕いで、長い脚を宙に浮かせている。
「めちゃくちゃ期待して待ってでもいいんじゃないかな。だって灰谷くんが陽のこと見てる時、すっごい甘い顔してるよ」
「甘い、顔?」
「うん、特別ってバレバレな顔」
ーー充電完了。
放課後のことを思い出して、頬が薔薇色に染まる。
とくん、とくん。速さを増して規則的に流れる心臓を抑えて、僕は灰谷くんの顔を脳裏に浮かべた。
好きだ、どうしようもなく。
君のことしか、考えられない。
どのくらい必要なのか僕には皆目検討もつかないけれど、夢を追う灰谷くんは他の人と違ってきらきらしている。
今日も彼はバイトらしく、放課後はすぐに帰ってしまった。
僕は部活が休みでも教室に居残って、文化祭に展示する編み物をせっせと進める。
手芸部は毎年一人数点の展示が義務で、各々好きに作って飾っているのだ。
もし灰谷くんと居残りができたらなあ、と考えるけれどそんな我儘は口が裂けてもいえない。どんどん人が減っていく教室は、彼がいないことにより寂しさで満ちてゆく。
つい数十分前まで顔を合わせていたのに、もう彼に会いたいだなんて重症だ。
区切りがついたら帰ろう。残っていても、灰谷くんのことばかりを考えてしまう。
そう思い、ワイヤレスイヤホンを耳に差し込んだ。
いつも聴いているプレイリストの曲をランダム再生にして黙々と編み上げてゆく。
思考が極めてクリアになり、次の網目のことしか考えられない。ちょうど区切りのつくところまで編んで、編み目を休めるためにほつれ止めを差し込んだ。
ふと教室が暗くなっている気がして、顔を上げると視界に灰谷くんが飛び込んでくる。
「え?!」
がたん、と音を立てて椅子から崩れ落ちた。
驚いた灰谷くんが口をパクパクさせてなにか話しかけているが、音楽で耳が塞がれてなにも聞こえない。
慌てて音楽の再生を止めて、イヤホンを取った。
「灰谷くん、なんでいるのっ? バイトは?!」
「途中でシフト変更になったことに気がついて、忘れ物取りに来たんだよ。そしたら真城が残ってて、話しかけようとしたけど真剣にやってたから終わるの待ってた」
僕の持っているイヤホンは耳にフィットする形なので、音量が小さくても外の音が遮断されてしまう。
集中していると目の前のことしか考えられない性格も相まって、灰谷くんの存在に全く気がつけなかった。
「もう帰るなら一緒に帰ろうぜ」
なんてことだろう。灰谷くんと一緒に帰るのは初めてだ。
思ってもみなかった幸運が舞い降りて、急に心臓がとくん、とくんと早く動きはじめた。
頬が仄かに熱くて、毎日顔を合わせているのに少し緊張している。ぽつぽつ話しながら玄関まで行き、校門を出る。
空にはすでに藍色のカーテンが敷かれており夜がもうすぐそばまで訪れていた。
夜になりつつある空気感に安心したのか、彼は前髪を分けて髪をきゅっと結んだ。
あっという間にgnuで働く姿になり、魔法がかかったような錯覚に陥った。
灰谷くんはいつも歩く速度を僕に合わせてくれる。
「真城んちはさ、学校帰りに飯食って行ったら怒られる?」
「ううん、連絡すれば大丈夫だよ」
「じゃあラーメン食って行かね? うまいとこ知ってるんだ」
ラーメンという単語に反応したのか、返事よりも先にぐうとお腹が鳴る。
「はは、行くってことでいいよな」
「う、うん」
空腹もそうだけど、放課後にファストフード店やカフェ以外の場所に友達と行ってみたかった。
凛ちゃんとは基本カフェが多いし、ラーメン屋に行くようなタイプの友達とは一緒に帰ることがあまりない。
灰谷くんとならどこでも嬉しいけれど、今の状況的にラーメンは飛び抜けてセンスが良かった。どのくらいかというと、まだ遠くの空がオレンジ色に染まっているのに光りだした一等星くらいだ。
「僕、友達とラーメン屋さんって行ったことなくて、だからすごく嬉しい」
ほこほこした気持ちを声に乗せれば灰谷くんは「まじ?」と驚いている。
「真城の初めてゲトっちゃったわ。ラッキー」
彼は長い指でピースを作って、少年のようにはにかんだ。初めてといったって、ラーメン屋に友達と行くのが初というだけのことだ。
なのに彼はテストで良い点が取れた時のように嬉しそうで頬が熱くなる。
悟られないように俯いて、彼の半歩後ろを歩いた。
しっかりお母さんに寄り道していくことを連絡し、学校から程近くの古びたラーメン屋に着いた。
赤い暖簾がかかっていて、まさしくといった雰囲気だ。普段は女の子が好むような洒落たカフェを選ぶことが多いので、灰谷くんとじゃなきゃ絶対に入れないだろう。
ごくりと生唾を飲み込んで、扉を慣れた様子で開けた彼の後ろを着いていく。
「おー! 優牙、また来たのか」
「またって言わないでくださいよ。人を常連みたいに」
「一時期、毎週来てたくせに常連じゃないとは言わせねえぞ」
カウンター内にいる恰幅の良い、頭に白いタオルを巻いた男性が灰谷くんと親しげに話している。スープの香りがふわっと鼻を抜けて、砕けた雰囲気の店内はほっこり落ち着く。
入ってすぐに食券機があって、ずらりと並んだメニューを前になかなか押すボタンが定まらない。
「灰谷くんはいつもなに食べるの?」
「んー、俺は生姜醤油選ぶことが多いな。あっさりしてて美味いんだ」
「生姜‥‥! 初めての組み合わせで気になるから、僕もそれにする」
ピッと音を立てて発券し、僕は生姜醤油ラーメンの普通盛りにした。
灰谷くんは大盛りと餃子も選んだようだ。
お店の人に券を渡し、丸くて背もたれのない椅子が置かれたカウンター席に二人並んで座る。
紳士な灰谷くんは、さりげなく僕を壁側に座らせてくれた。
一段高くなっているテーブルの先に厨房が広がっている。鍋から立ち上がる湯気や、先に出てくる透明のプラカップに入った氷多めの水。
どれもこれもドラマで見たような光景に、分かりやすく僕の胸は躍っている。
「はい、生姜醤油の普通盛りと大盛り、餃子一皿ね」
ものの数分でラーメンは出てきた。赤い渦巻き柄の器の中からほこほこ湯気が立っている。
前から器を受け取って、香ばしい醤油の香りと爽やかな生姜の風味で肺を満たした。
いただきますと僕たちは手を合わせる。
ふうふうと冷ましてから、中太のちぢれ麺を啜る。
「美味しい!」
「だろ」
空腹でぼんやりしていた頭が冴え渡るような美味しさだ。食道を通った麺とスープが心地よくお腹を満たしていく。
猫舌だから早くは食べれないけれど、灰谷くんと話もせず夢中になって食べ進める。隣で麺を啜っている彼も、長い前髪を耳にかけてうっすら汗をかきながら食べ進めていた。
僕とは違い、大きな一口で男らしく食べている彼にときめいて、慌てて目を逸らす。
「あ、餃子食べたかった?」
逸らすのが一足遅くて、視線に勘づかれた。
灰谷くんは小皿に餃子を二個も乗せて渡してくれる。六個しかお皿に乗っていないのに二個も貰うのがなんだか申し訳なくて、「大丈夫だよ」と断る。
「いいから、食ってみ。美味くて飛ぶぞ」
「飛ぶ?」
喉を上下させて、彼の真似をしてがぶりとかぶりつく。噛んだ瞬間、肉汁が溢れ、後から野菜の甘みが追いかけてきた。
見た目はごく普通の焼き餃子だけど、旨みがぎゅっと凝縮されていて確かにとても美味しい。
「これも美味しい‥‥!」
「はは、真城はなんでも美味そうに食うなあ」
灰谷くんは犬歯がはっきり見えるくらい口を大きく開けて、目を細める。
警戒心の薄れた笑顔がさらに僕を欲張りにさせる。
彼は、僕以外にも同じ顔をするのだろうか。
ヤキモチを焼く権限なんかないのに、僕は一丁前に「して欲しくない」と感じてしまう。
灰谷くんの中に、僕はどのくらいの割合で存在しているのだろう。
せっかく美味しいラーメンを食べているのに、そんなことを考えてしまって、途中からなんだか味がぼやけてしまった。
好きって複雑だ。
急に浮かれて、急に気になって、相手のことしか考えられなくて。
知りたいのに怖い。だけどいつか自分のことをどう思っているのか訊いてみたい。
乱高下する気持ちを、僕はまだまだ飼い慣らせなそうだ。
お腹が満たされると、急に眠くなってまったりした気分のままラーメン屋を後にした。
雑談を交わしながら駅に向かい、改札を目指す。
灰谷くんもたまにあくびをしながら話していたが、とあるポスターの前で立ち止まって動かなくなった。
ぱっと目が醒めてポスターを覗き込むと、高校生限定ファッションデザインコンテストの内容が書かれている。
画材は不問。自分自身でテーマを決め、オリジナルのデザインやスタイリングで人物画を提出するらしい。
受賞者は、有名であろう服飾学校のファッションショーに招待もされるらしい。まさに灰谷くんのためにあるようなコンテストで、僕はそわそわしながら彼の様子を伺う。
立ち止まるほど気になってて、応募するか迷ってるってことだよね。
出さないの? って聞きたい。でも、僕がそんなこと聞いていいのかな。
でもでも、灰谷くんの描くデザイン見てみたいなあ。
「わり、なんでもない。行こうぜ」
「え‥‥」
ふいっと顔を逸らし、灰谷くん改札へ向かって歩き出す。僕は考えるよりも先に手が伸びて、彼を引き留めた。
「灰谷くん、本当にいいの? 応募しなくて、後悔しない?」
「や、でも俺なんかが出したところでーー」
灰谷くんは自身を嘲笑するように下手くそな笑顔で線引きをしようとする。
「無理して、笑うなよ」
自分自身で驚くような低い声が漏れた。
激しい怒りが電光石火となって身体の中で弾ける。
僕にそう言ってくれた君が、自分のことを笑うな。「なんか」なんて思わないでよ。
どうして君が、君自身のことを傷つけるんだ。
「灰谷くん、格好悪いよ。やる前から諦めて、俺なんかとか言って逃げようとして格好悪い。gnuで一生懸命働いてる時の君に失礼だ」
喉が焼けるように痛い。悔しくて鼻の先がつんと痛む。駅の喧騒が耳にこびりついて鬱陶しい。
灰谷くんはきっと、とても困惑してる。
なんでお前が泣きそうなんだって、そう思ってるよね。僕だって思ってる。
でも僕は、君が自分自身を卑下することが許せないんだ。
「‥‥真城に格好悪いって言われる日が来るなんて思わなかった。俺、今「俺なんか」って言ったこと、すげえ後悔してるわ」
灰谷くんはずるずるその場にしゃがみ込み、顔を手で覆った。僕も人の通行を気にしつつ、しゃがむ。
「だめだよな、こんなんじゃ」
顔を上げると、強い力で彼は頬を両手で叩いた。乾いた音がして、肩が跳ねる。
「俺、明日から自分のこと隠さずに登校するわ。んで、コンテストにも出す。だからさ、応募したらちょっとだけ時間くんね」
「時間?」
「うん。話したいこと、あるから」
ぎゅっと僕の手を掴んだ彼の瞳は鋭く、心臓を射抜かれる。青い炎が瞳の奥で揺らめいてる気がした。
「だせえ俺じゃ、まだ話せないけど」
手を引かれて一緒に立ち上がる。
「真城、マジでありがとう」
手を繋いだままJR改札まで向かい、僕を見送ってくれた。灰谷くんは私鉄ユーザーなので、わざわざ遠回りをして僕を送ってくれたのだ。
ーー話したいこと、あるから。
簡素な言葉に、恥ずかしいほど期待してしまう。今日はなかなか眠れないだろうと思った。
*
次の日の朝、登校すると廊下がざわついていた。
まさか、と思い教室に入ると灰谷くんが髪を結んだ状態で席に座っている。
気だるようにスマホをいじる姿は普段通りだけど、前髪が分けられているので端正な顔が顕になっている。
今日は青インナーもばっちり見えて、尚且つgnuの時のようにピアスもバチバチに身につけていた。
「灰谷くんってあんな感じだったっけ?!」
「待って、めっちゃかっこいい」
「うそ、ここにきて推し爆誕するとかあるんだ」
「彼女いるのかなあ」
女子たちが遠目からこそこそ彼のことを話していて、僕は聞こえないふりをして視線の渦中にいる彼に挨拶した。
「灰谷くん、おはよう」
「おはよ」
まだ完全に目が醒めていないのか、ふにゃりと笑った彼をみて喉から変な声が出た。
甘い顔にきゃっと歓声があがる。
まずい、灰谷くんがすごく格好いいことがついに露見してしまった。
嬉しいのに、今すぐ布で包んで隠したくなる衝動に駆られる。彼の無防備な姿を誰にも見せたくない。
「久しぶりにこんな早く来たわ。変な感じ」
身体を伸ばしながら、灰谷くんは窓の外を眺める。差し込む朝日が彼を照らして、目にビデオカメラ機能が搭載されていないことを悔やんだ。
「早く来たら真城ともっと話せるんだって気がついたから、明日からも頑張って早起きするわ」
「イ、イイトオモウ」
灰谷くん、僕だって学校にいる本来の君を見慣れていないんだ。心臓がおかしくなっちゃうから、どうかきらきらするのは徐々にお願いしたいな。
「優牙!」
廊下に面している窓から身を乗り出した木村くんが大きな声で灰谷くんを呼んだ。彼は自分の教室かのように、遠慮なくずかずか入ってくる。
「うわ、うるせえのが来た」
「聞こえてんだよ。なに、お前どうしたんだよ〜! ようやく過去の傷を乗り越えたのか?」
「恥ずかしいから勇者みたいな言い方すんな」
「んだよ、つれねえなあ。にしてもお前が顔出してると中学の頃みたいでなついわ。復活祝いにカラオケでも行く? 可愛い女子集められるぜ」
「行かねーーよ。女好きも大概にしろ」
一気に陽キャの雰囲気が漂い、僕はスッと存在感を消した。
忘れていたが木村くんは元々派手な性格だ。
話す内容も当然の如くチャラい。
「えー、マキもミキもサナもお前に会いたがってんのに」
「はいはい。ほんと、そういうのいいから。もう予鈴鳴るから自分のクラス戻れよ。また後で色々話す」
「あいよ。じゃあな」
最後には爽やかに微笑んで木村くんは帰って行った。っていうか、マキとミキとサナって誰。
僕は思わず表情が険しくなってしまう。もやもやして気分が悪い。
「‥‥今の、気にしなくていいから」
灰谷くんは気を遣ってくれるけど、彼が顔を晒すということは今後も同じような気持ちになることが増えるということだ。
「うん」と返事したけれど、もやもやは消えてくれなかった。
それから一気に灰谷くんブームが訪れ、彼に熱の籠った視線が集まるようになった。
凛ちゃんも驚いたようで、部活中に彼の話題になる。
「しっかし驚いたわ。うちのクラスでも急にイケメンが増えたって話題だよ。陽は隣の席の人が実はイケメンだったって知ってたの?」
ここ数日気分が晴れなくて、僕は不貞腐れながら「知ってたよ」と答える。
いらいらして上手くマフラーが編めない。
せっかく真っ白なふわふわの毛糸を買ったのに、無駄にしてしまいそうで手を止めた。
ちなみに展示用の作品はもう作り終わっている。心底早めに取り組んでおいて良かったと安堵した。こんな状態じゃ、全く作業が手につかない。
「滅多に怒らない陽が珍しくいらいらしてる。恋の力は侮れないね」
「僕だっていらいらしたくないけど、あまりにもみんなが灰谷くんのことをかっこいいって騒ぐから。灰谷くんは顔を出す前からかっこよかったし!」
「陽、そんなに好きなら告白しちゃいなよ!」
「こっ、告白?!」
生まれてこの方、僕は告白なんてしたことがない。凛ちゃんの提案に乗れば、もしかしたら灰谷くんと付き合えるのかもしれないけど振られた日には立ち直れる気がしなかった。
それに、今の灰谷くんはコンテストのことで頭がいっぱいだろう。
やっかくやる気になっているところに水を差したくない。
「凛ちゃん、告白はきっと今じゃないよ」
「悠長なこと言ってて、誰かに取られてもいいわけ?」
「うぐっ」
灰谷くんが他の誰かと付き合う姿を想像すると、鈍く胸が痛んだ。
毛糸の玉をぎゅっと握りしめて「‥‥やだ」と口にしてしまう。
「じゃあーー」
「でも、今はだめなの。灰谷くんは今向き合ってることがあるから。だから、落ち着いたら‥‥」
「落ち着いたら?」
期待した瞳で凛ちゃんが見つめてくる。
僕だって男だ、と覚悟を決めた。
「灰谷くんに、告白する」
「よし、よく言った!」
「わっ、ちょ、頭撫でないでえ」
「付き合ったら撫でられないんだから、今のうちに撫でさせて!」
「もう〜僕は犬じゃないよっ」
「どちらかというと羊だと思ってるから大丈夫」
「そういうことじゃなーい!」
わしゃわしゃ髪をかき混ぜてくる凛ちゃん。
途中から僕もおかしくなってきて、一緒に口を大きく開けて笑った。
灰谷くんはコンテストに応募したら話したいことがあると言っていたけれど、僕もできたよって伝えなきゃ。
いつ、どんな場所で想いを伝えようか今から胸がどきどきして苦しくなる。
だけど、逃げないって決めたから。
それまでは彼を応援するんだ。
*
文化祭まで残り二週間。ついに放課後の準備期間が始まった。
僕たちのクラスはクレープ屋をやる。
バイトがある日は手伝えないからと、灰谷くんは自らみんながやりたがらない買い出し係に名乗り出た。
すると目を光らせた女子たちが次々に手を挙げ、困った級長に指名されて、隣の席である僕も買い出し係に任命された。
生物以外の小麦粉やチョコレートソース、その他フルーツ缶などを学校近くのスーパーまで買いに行くのが僕たちの仕事だ。
十五分はかかる道を二人並んで歩く。
夕方の住宅街は、見慣れているはずに灰谷くんがいることで知らない景色に様変わりする。
「小麦粉に各種ソース、缶詰とカラーチョコスプレー、抹茶の粉に紅茶の茶葉、その他諸々って結構買うものあるな。しかも一つ一つの量が多い」
灰谷くんは級長から受け取ったメモを見て、眉間に皺を寄せている。
確かに量が多くて、男二人で行ったほうがいい内容だ。
「毎年クレープ屋は人気になるみたいで、多めに材料買っておくんだって。その分売り上げもいいから、競争率高かったみたいだよ」
「なるほどな。沢山売って派手に打ち上げしようって話か。いいじゃん」
最近灰谷くんは僕以外のクラスメイトとも話すようになって、積極的に交流を楽しんでいる印象だ。
喜ばしい変化なのに、時々僕だけ置いて行かれているような寂しさに襲われる。
「ピザとか頼みたいってみんな言ってたよ」
「デリバリーすんならgnuのコーヒーも頼んでくれねえかな。叔父さん喜ぶし」
「委員長に聞いてみたら? 本当に頼んでくれるかもよ」
gnuのことだって、本当は僕だけが知っていたいけれどいつかバレてしまうだろう。
そして、彼を目当てに訪れる可愛い子が増えて、人気店になってーー
「真城?」
考え事をしていると顔を覗き込まれ、はっと意識を浮上させる。
危ない、また余計なことを考えていた。
せっかく灰谷くんと二人きりなのに、嫉妬心が邪魔をする。
「なんかあったんなら、遠慮せず言えよ」
「あ、いや、そういうのじゃないんだ。でもありがとう」
もうすぐスーパーに着いてしまう。
このまま、気まずい空気を引きずりたくない。
気丈に振る舞って、乗り切ろうと笑みを浮かべる。
「下手くそ。作り笑いだってバレバレだったの」
「んむっ」
頬を大きな手で掴まれて、タコのような口になる。
待って、いまの僕ってちょっぴりブサイクなのでは?
灰谷くんはじっと見つめてから、小さく吹き出した。
「タコみてえ。初めて見る顔してる」
「ひゃなひて!」
「お、元気でたな」
パッと解放されると、すぐに頬を撫でて顔を元に戻す。
危ない。もう少し長く掴まれていたら、暴れるところだった。
「言いたくないならいいけど、辛い時は頼って欲しいってことだけ覚えといて」
一歩先を歩く彼。
ブレザーの端を掴んで「僕、最近おかしいんだ」と口を割る。
「灰谷くんがクラスのみんなと仲良くしてて嬉しいはずのに、時々寂しくなったり、いらいらしたりする。gnuのことだって本当はみんなに知って欲しくない。こんなこと思いたくないのに、気がついたら考えちゃって、苦しくて‥‥」
苦しいから、なんだ。いつも僕は彼に期待している。灰谷くんの答えを待って、甘えて。
困らせてしまうと分かってるのに、一度溢れたら想いが止まらなくて。
誰か僕の口を縫ってよ。これ以上彼に醜い感情を晒したくない。恥ずかしくて、顔から火が出そうだ。
灰谷くんは口元を覆って、瞳孔を大きく開いて顔を赤く染めている。
「灰谷くん?」
「‥‥あ、いや、悪い。真城、だから最近考え事が多かったのか。あー、でも、くそ」
普段は歯切れのいい彼が、言葉に迷っている。
「まじ、ごめん。許して」
腕を引かれて、そのまま灰谷くんの胸元に顔を埋める形になる。
片手で抱きしめられ、もう片方の手はまだ彼の口元に添えられている。
「ほんと、今だけだから」
耳元で聞こえる鼓動は僕のものじゃないのに、早鐘を打っているのが鮮明に聴こえた。
香水の匂いが空気と混じって鼻腔を通り、肺を満たす。
甘いのにコーヒーのほろ苦さが混ざっている不思議な香り。だけど、全く嫌じゃない。脳まで届いて、記憶として刻まれる。
きっと同じ香りがしたら、どこにいても彼を思い出す。
「なあ、あと少しなんだ。もうちょいでデザイン画も終わる。だから、待ってて」
この前から灰谷くんは胸に秘めた気持ちを打ち明けてはくれない。
だけどもやもやは消え去り、安堵感に包まれた。心が嘘みたいに軽くなる。
「うん、待ってる」
「はー、俺も充電完了」
腕が解かれて、また横並びになって歩く。
スーパーに着くと、灰谷くんがカートを押してくれた。
僕たちは平然を装ってカートの中に、リストアップされた商品を次々と入れていく。
小麦粉を取る際に手が一瞬触れても、僕が取れなかった位置の商品を後ろから彼が取ってくれても、なんてことのない顔をしていなければいけない。
なのにいちいち心臓が跳ねて、嫌でも彼を意識してしまう。
帰り道も話題を慎重に選んで、ぎこちなく話しながら帰った。
「二人とも重かっただろ。ありがとう」
級長に商品を確認してもらって、僕たちは役目を果たした。
「微妙に距離あるけど、なにかあったか」と聞かれた時は焦ったけれど灰谷くんが誤魔化してくれた。
他の人が見ても気になるくらい、僕が彼を意識してしまっているんだ。灰谷くんの顔が見れない。
僕は逃げるように部活へ顔を出して、今日は凛ちゃんと帰宅する。昔からよく遊びに来ていた公園で、ブランコに乗りながらぽつぽつ話す。
「あのね、凛ちゃん。灰谷くん、僕に話したいことがあるんだって」
凛ちゃんはなにも話さず、優しい顔で聞いてくれる。
「もし、僕と同じことを話したかったらって期待しちゃうのかいけないことなのかな」
少し錆びたチェーンを握る手に力が入った。
「期待しちゃうの当たり前だよ。だって好きな人なんだもん」
キー、キー、と音を鳴らしながら凛ちゃんは緩く漕いで、長い脚を宙に浮かせている。
「めちゃくちゃ期待して待ってでもいいんじゃないかな。だって灰谷くんが陽のこと見てる時、すっごい甘い顔してるよ」
「甘い、顔?」
「うん、特別ってバレバレな顔」
ーー充電完了。
放課後のことを思い出して、頬が薔薇色に染まる。
とくん、とくん。速さを増して規則的に流れる心臓を抑えて、僕は灰谷くんの顔を脳裏に浮かべた。
好きだ、どうしようもなく。
君のことしか、考えられない。



