次の日、僕は意を決して毛糸で編んだお花で作ったヘアピンを留めて登校した。
自作のそれは自信作だけど、今まで休日にしかつけれられなかったものだ。
ピンクとミントグリーンがグラデーションになっている糸は、僕の大好きなパステルカラー。
教室に入る前に、凛ちゃんには「すっごく可愛いから安心しな」とイケメン発言で肯定してもらったけど、正直緊張する。
一度深呼吸をしてから、教室の扉を開けた。
「陽、おはようーって、ん? 新しいヘアピン買ったの?」
開けてすぐのところに前田くんがいて、ばちっと目が合う。
「前田くんおはよう。ううん、これ買ったんじゃなくて僕が作ったんだ」
「えっ! すげえじゃん。しかも似合ってるし!」
あたかも僕が今までヘアピンをつけて来たかのように、前田くんはすんなり受けれ入れてくれた。それどころか褒めてさえくれる始末だ。
ーー僕、可愛いものをつけていても変じゃないんだ。
じわりと涙が滲んで、すぐにシャツの裾で拭う。
僕が気にしていたことを、周りは全く気にしていない。その事実が、僕を過去から解放してくれた。全ては、灰谷くんのおかげだ。
学校に来て、改めて思う。
僕も彼の呪いを解きたいと。
だけど、過去を探るというのは言葉以上に難しい。
僕と灰谷くんは中学の学区が全然違っていて、共通の知り合いは木村くんだけだ。
でも、きっと彼は灰谷くんの過去について口を割らないだろう。
そもそも本人以外から聞く話じゃない。
ならば、直球一本勝負。灰谷くんに聞くしかない。
今日も予鈴ぎりぎり。眠たげにあくびをしながら登校してきた灰谷くんな隣に座ったタイミングを見計らって話しかける。
「お、おはよう」
「はよ。今日なんか、髪についてんじゃん」
寝ぼけているのかふにゃりとした雰囲気で、灰谷くんは僕のヘアピンに触れた。
「僕が作ったんだけど‥‥変?」
「全く。似合ってるし、やっぱ手先器用なのすげえなって思う」
長い前髪から覗く瞳は弧を描いていて、目尻が優しく垂れている。
彼がこんなにも優しい顔をすることを、みんなは知らない。
本当の灰谷くんは確固たる自分を持っていて、きらきらしていることも知らない。
ただ、無口で背の高い地味な人。きっとそんなイメージだろう。
実際、僕以外はほとんど彼に話しかけない。
ねえ、灰谷くん。僕、悔しいよ。
君の溢れんばかりの魅力が、誰かの心無い言葉で封印されてしまったのが悔しい。
僕だけが変われても、意味ないんだよ。
僕は君の、心の奥に触れたいと思ってしまう。
「灰谷くん。今日の放課後、少し時間ある?」
「? あるけど‥‥」
手を引っ込めた灰谷くんは不思議そうに僕を見つめた。
「屋上で、話したいことがあるんだ」
*
放課後、僕は一足先に屋上へ着いた。
初めて訪れたけれど、街が一望できてとても気持ちのいい場所だ。
遠くの空はまだ青いのに、近くの空は薄いオレンジ色のカーテンを敷いたみたいに夕方が迫っていた。
遅れてやってきた灰谷くんは、静かに扉を開けて僕の元へ近づく。
表情は柔らかいけれど、目には疑いを孕んでいた。
「わざわざこんなところに呼び出して、なんかあったのか」
実は屋上じゃなくても、人が来なければどこでもよかった。
でも部活動の時間になると校内はいたるところに人が散っていて、屋上は逆に穴場になる。
誰にも聞かれたくない話をするにはうってつけだ。
「まずは来てくれてありがとう。ーーそして、僕の呪いを解いてくれて、ありがとう」
「‥‥呪い?」
灰谷くんはじっと僕を見て押し黙ってしまう。
もし、この後の話で彼と諍いが起きて、軋轢が生まれてしまったら‥‥と考えると急に足がすくんだ。
だけど、逃げないって決めたから。
「うん、僕は好きなものを我慢してたから。僕ね、小学生の頃に「男のくせに女みたいな格好して気持ち悪い」って言われて、いじめられてたんだ」
なるべく明るい声色を保とうとしても、声が沈んでゆく。
胸の中にしまい込んだ古傷が痛み、治りかけの瘡蓋が剥がれてしまう。
「それから学校では浮かないように、僕にできる限り普通にしてた。だけど、灰谷くんが好きなものを好きでいる僕がいいって言ってくれたから、勇気を持てたんだ。このヘアピンも君がいなきゃ学校にはつけてこれなかった」
ヘアピンを撫でて、真っ直ぐ灰谷くんの顔を見る。
「灰谷くん、言ってくれたよね。「好きな自分でいるお前がいい」って。僕もおんなじ気持ちだよ。好きな服装をしている灰谷くんはとても楽しそうで、生き生きしてて、きらきらしてるんだ。‥‥そんな灰谷くんを知ってしまったからこそ、本来の姿を封印している理由が知りたいんだーー僕じゃ、君の力にはなれないかな」
声に熱が籠って、鼻の先がつんと痛む。
お節介なのは百も承知だ。それでも、伝えずにはいられない。
彼に背中を押してもらった僕だけは、灰谷くんのことを見て見ぬ振りをしてはいけないと感じた。
灰谷くんは目を伏せて、なにやら考えているようだ。
スラックスのポケットに手を突っ込み、置物のように動かない。
強く吹く風が僕たちの髪を揺らし、夕陽が後ろから照りつけてくる。
背中から心臓へ強い光が伝って、じりじりと焦げていきそうだ。
彼が黙り込んでしまった焦りから、酷く喉が渇いた。
目線だけ僕に移した灰谷くんが、薄く口を開いた。
「俺、真城の直球なところ嫌いじゃねけえけど、俺が今の姿になった理由に関してだけは、正直言って放っておいて欲しいってのが本音だわ」
長い前髪の間から、鋭い眼光が僕の胸を射抜く。狼に凄まれたような緊張感が走り、僕は一歩後ろに退いた。
「せっかく気を遣ってくれたのに、悪いな」
灰谷くんは冷たい声で言い放つ。
そして踵を返し、真っ直ぐドアの方に歩いていく。
「は、灰谷くん、待って‥‥!」
僕の声は虚しくも届かず、バタンと大きな音を立ててドアが閉まった。
はっきりとした拒絶と、恐怖からの緊張が解けたことで涙が溢れてくる。
僕は彼のとの距離間を間違えてしまったらしい。
せっかく近づけたのに、今は話すようになる前より心が離れてしまった気がしてならない。
急に力が抜けて、その場にへたり込んだ。
灰谷くんの呪いを解くどころか、彼に嫌な思いをさせてしまった。
その事実に胸が軋んで、ぼろぼろ堰を切って涙が溢れてくる。
灰谷くんに嫌われたくない。
だけど、謝ってもきっと彼は「もういいって」と僕を拒絶するだろう。
怒鳴られるより、静かに拒絶されるほうが何倍も傷つくのだと知った。
夕焼けの空には赤く染まった太陽が美しく浮かんでいるというのに、僕の心の中は絶望で真っ黒だ。視界が涙で滲んで、コンクリートの床に染みがいくつも浮かび上がる。
灰谷くんはいつも優しかったから、拒否されないだろうと僕は慢心していたんだ。
でも、実際は彼を不快にさせただけだった。
「好かれてるって、勘違いしてたんだなあ‥‥っ」
明日から、どんな顔をして会えばいいのか分からない。僕は今、絶望の淵に立っている。
*
その日の夜、夢を見た。
真っ暗な空間の先に、ぽつんと独りぼっちの灰谷くんが立っている。
彼は僕に気がつかず、目の前に広がった一本を道を歩いていってしまう。
僕は必死に声を出そうとするけれど、なぜか声が出ない。
喉を掻きむしり、唾液と共に声にならない声が溢れ出る。でも、彼を引き止められない。
やがて暗闇が広がり、じわじわと僕と灰谷くんの境目を埋めて行く。
待って、行かないで。
僕はまだ君に謝れていないのに。
灰谷くん、置いていかないで。
僕は君の隣にいたい。
君の笑顔を一番近くで見たい。
ーーまだ君に、好きって伝えられていないよ。
「灰谷くん‥‥!」
己の声で目が覚め、見慣れた天井と天に向かって伸ばした腕が視界に飛び込んでくる。
カーテンの隙間から僅かな朝日が差し込み、鳥の囀りが聞こえてきた。
枕元と頬が湿っていて、泣いていたんだと気がつく。時計を確認すると、時刻は午前五時二十四分。
起きるにはまだ早い時間だけれど、また夢を見るのが怖くて僕はベッドから重たい体を引き上げた。
汗をかいており、じっとりと背中に肌着が張り付いている。
気持ち悪くてシャワーを浴びていると、夢の光景がフラッシュバックした。
温かいお湯を浴びているはずなのに、背筋に寒気が走り、頭がくらくらする。
烏の行水で上がり、鏡で顔を確認すると僕の顔は真っ赤に染まっていた。
頭からタオルを被って、ふらつきながら廊下を歩いているとすれ違ったお母さんに引き止められた。
「陽、熱あるんじゃない?」
「熱?」
そのままリビングに引きずられ、ソファに深く沈む。すぐに持ってきてくれた体温計で測ると、数値は三十八度を超えた。
「高熱ね、今日は学校休みなさい」
「あ‥‥でも」
「なにかあるの?」
熱に浮かされた頭には灰谷くんの存在がちらついている。僕、まだ謝れてない。
ああ、でも体が鉛のように重い。
なんだか頭痛もしてきた。今の僕に事情を説明できるだけの体力はない。
質問に答えない僕に見かねて、お母さんは「学校に電話してくるからね。その後冷えピタとか持っていくから、とにかく頭を乾かして寝てなさい」とリビングを出ていった。
僕はぼんやりしながら部屋に戻り、髪を乾かしてまたベッドに潜り込んだ。
歯列から漏れる息が熱い。
なのに酷く寒くて、不快感が拭えない。
灰谷くん、謝れなくてごめんーー
そんなことを考えているうちに、僕は意識を手放した。
それから週末を含む三日間、僕は熱に冒され続けた。
僕が風邪をひいて学校を休むと、凛ちゃんはいつも連絡をくれる。
彼女から聞いたのか、何故か木村くんのアカウントも追加されて『熱出たらしいじゃん、大丈夫ー?』とメッセージが届いていた。
だけど一番話したい灰谷くんからはなにも連絡がなく、次第にスマホを見るのをやめた。
きっと灰谷くんはまだ怒ってて僕の顔も見るのも嫌なんだろうな、と想像してしまう。
熱が出ても、ずっと寝ていられるわけではない。
昔から、体がしんどいのに意識を手放せないこの時間が苦手だった。
風邪をひくと心が弱ってしまって、後ろ向きなことばかり考えてしまうからだ。
いくらふかふかの布団に包まっても、頭の中には僕を睨む灰谷くんの顔が何度も浮かぶ。
悲しくて、寂しくて、僕は声を押し殺して泣いた。
なんで、熱なんか出ちゃうんだよ。
彼と会う時間が空いてしまうほど、どんな顔で、どんな声で話しかければいいのか分からなくなる。
想像と恐怖だけが積み重なっていくばかりだ。熱なんか下がって欲しいのに、夜が明けないことを願ってしまう。
彼に会いたくないと思ってしまう自分の弱ささえも、悔しかった。
*
熱と悩みのダブルパンチで心が憔悴してしまい、病み上がりの日はどんよりとした気持ちで登校した。
「陽、顔色悪いよ。本当に大丈夫なの?」
なんとか登校したと連絡すると、凛ちゃんはすぐ会いにきてくれた。廊下に出て、端に寄って話す。
「ありがとう。なんとか大丈夫だよ」
「もー、本当に? 陽の大丈夫は昔から信用出来ないんだから」
「一応熱はちゃんと下がったし、大丈夫だよ」
念押ししても凛ちゃんは心配を隠さず、納得のいかない顔をしている。
気持ちの沈みを誤魔化すように薄っぺらい笑顔を浮かべると、視界の端に見慣れた彼の姿が映った。
今日も予鈴ぎりぎりで登校した彼は猫背で眠そうに歩いてくる。
そして、まるで僕が見えていないかのように隣を通り過ぎ教室に入っていった。
「ちょ、陽! なんで涙目になってんの?」
もしかしたら、話せなくても目くらい合うんじゃないかって甘い考えをしていた。
だけど、灰谷くんの視界にすら僕は入れないらしい。焦った凛ちゃんの声が廊下に響く。
「目にゴミが入っちゃっただけ。なんでもないよ」
凛ちゃん、今はなにも聞かないで。
いつになるか分からないけれど、必ずいつか話すから。
「やっぱりまだ具合悪いみたいだから、僕もう教室戻るね」
僕は凛ちゃんの返事も聞かず、教室に戻って自分の席に座る。
灰谷くんは顔を伏せて寝ている。
彼と隣になってから、僕たちは初めて朝の挨拶を交わさなかった。つきんと胸が痛んで、僕も先生が来るまで、机に突っ伏していた。
灰谷くんは授業中も窓の外を眺めたり、時折光のない目で黒板を眺めていた。
いつも綺麗に板書しているノートは真っ白で、彼がなにを考えているのかまるで分からない。魂が抜けて見える灰谷くんは、ただそこに座っているだけの人形のようだった。
昼休みなるとふらりと彼は立ち上がってどこかへゆく。
僕も凛ちゃんとお昼を食べるべく、灰谷くんの姿が見えなくなってから彼女の教室へ向かった。入り口で目の合った木村くんに呼び止められる。
「真城くん復活おめでとー! で、病み上がりに申し訳ないんだけど今日は俺と飯食わね?」
「ええ?!」
驚いて凛ちゃんのほうを見ると、先に話をしているのかやれやれという顔ををしている。
「なあ、頼むよ。ちょい話したいことあってさーー優牙のことなんだけど」
灰谷くんの名前だけ、わざと僕の耳元でいうところがずるい。彼の名前が出れば、僕は頷くしかなくなるのだから。
「わ、分かった」
「さんきゅ! じゃあ俺に着いてきて」
木村くんに手を引かれ連れてこられたのは屋上だった。
少し寒くなってきたせいか、想像より人が少ない。今日は曇りで、なおさら生徒の数が少なかった。僕たちは端っこの空いているベンチに腰掛けて、膝の上にお弁当を広げた。
「単刀直入に聞くけど、優牙と喧嘩したの?」
唐揚げを頬張る木村くんは、さらりと核心をついてくる。最短距離の質問に、僕は思わずむせてしまった。
「大丈夫? 水飲みな」
「う、うん。ありがとう‥‥で、喧嘩だっけ」
「そ。君が休んでから優牙めっちゃ暗くてさあ、あとすげえイライラしてるし。真城くんがいないからかなって思ってたけど、連絡したかって聞いたらしてなくてお前ら喧嘩してるんだなって察したわけ。すごくね、俺の推理力」
「仰る通りです‥‥」
「あはは、顔色悪いね。寒かったら俺のカーディガン貸すから着なよ」
木村くんはマスタードイエローのあたたかそうなカーディガンを脱いで渡してくれる。
僕が顔を青くしているのは体調が悪いからじゃなくて、抉られていくような鋭い発言に心を痛めているからだ。
心中をなるべく察せないように、寒いということにして有り難く受け取る。
彼は僕より背が高いから、オーバーサイズで彼に包まれているみたいな気持ちになった。
木村くんも灰谷くんと同じで、ブランド物の香水の匂いがする。
「うん、いい絵面だ。ちょい写真撮っていい?」
「へ?」
間抜けな顔をした僕を一枚写真に収めて、木村くんは誰かに送っているようだった。
「ちょっと、勝手に送らないでよ」
「いいから、あとで全部分かるよ。あと、絶対俺に感謝する」
「なに意味のわからないこと言ってーー」
「あ! 真城くん、目にゴミが入ってるよ、俺が見てあげる」
まだ僕が喋っている途中なのに、急に彼は僕の頬に手を当てて顔を覗き込んできた。
ちっとも目なんか痛くない。
目の前に木村くんの美しい顔面が広がり、息を呑む。こんなの後ろから誰かに見られたら、キスしてるって勘違いされちゃいそうだ。
「光輝、真城になにしてんだよ」
あと数ミリで僕たちの唇が触れそうになった時、求めていた彼の声が空から降ってきた。
木村くんは肩を引かれ、近づいていた顔がまた急に離れた。
「あらら、狼の登場だ。んな怖い目すんなよ」
「あ? お前が突然写真送ってきたんだろうが」
僕を睨んだ何倍も鋭い目つきで灰谷くんは木村くんをきつく睨む。
「真城、そのカーディガン今すぐ脱げ。寒いなら俺の貸してやる」
灰谷くんは自身が着ている黒いカーディガンを脱いで僕に渡す。驚いて固まっていると、木村くんとは反対側に座り木村くんのカーディガンに手をかけた。
「脱げないなら手伝ってやってもいいけど」
瞳には熱が宿っており、思わず心臓が跳ねた。
慌てて脱いで木村くんに返却する。
「せっかく貸したのにもう戻って来ちゃった」
「お前が真城に貸す必要ねえから。今後一切な」
「はいはい、言われなくても分かってるっつの」
木村くんは広げていたお弁当を素早くまとめ、立ち上がった。
「じゃあ俺はこれでお役御免だな」
ひらりと手を振って彼は帰ってゆく。
待って、今二人にされたら僕は何を話していいのか分からない。咄嗟に彼に向かって手を伸ばすと、灰谷くんがその手を掴んだ。
「他のやつに、助け求めんなよ」
合わさった手から灰谷くんの体温が直に伝わって、心臓が早鐘を打つ。思わず手を振り解いてしまう。
気まずい空気が流れ、とりあえずカーディガンを着た。
「か、カーディガンありがとう」
「ん」
もう会話終了。灰谷くんは隣に座っているのに僕のほうを見ない。なんだよ、他のやつに助け求めんなって言ったくせに。
どうして僕と二人になると黙っちゃうんだよ。
もやもやが溜まりに溜まって、ついに爆発した。僕の瞳から、ぽろりと涙が溢れる。
「‥‥灰谷くん、」
ごめんね、と謝ろうとした時だった。
「ーーごめん。真城のこと、傷つけた」
彼が先に謝る。僕と同じように、膝の上で拳を強く握りしめている。
俯いていた顔を上げた彼と、視線が交差する。
灰谷くんの濡れた瞳を僕は初めて見た。
「ずっと謝りたかった」
一筋の涙が灰谷くんの頬を伝う。僕は居ても立っても居られなくなって、思わず彼に抱きつく。
「灰谷くん、僕もごめんね。僕だって灰谷くんのこと傷つけたよね」
「違う、真城は悪くない。俺が弱いからお前に辛い思いさせたんだ」
長い彼の腕が僕の背中に回り、力強く抱きしめられる。
「俺さ、好きな服装してると怖いとか性格悪そうとか決めつけられること多くて。クラスでは馴染めねえし、中学の時バレー部だったんだけどそん時も先輩に目つけられてハブられて辞めた。なんか、そういうの全部嫌になったんだよ。次第にクラスメイトと関わるのもめんどくさくなって、自分の存在を消すように学校では過ごしてた。高校生活なんて、それでいいと思ってたんだ。自分の本当の姿は、一部の人にだけ明かせればいいって諦めて過ごしてた。ーーでも、真城が自分の好きなもの諦めてんの見て、なんか心が痛くて、悔しくなった。きっと屋上に呼び出された時、同じ気持ちだったよな。それなのに、逃げてごめん。傷つけて、ごめん」
やっと彼の本音に触れられた。一見強そうな彼にも怖いものや嫌なものがあって、僕と同じだったんだと今更知る。
だからこそ、彼を傷つけてきた人たちが許せない。悲しさからではなく、悔しさから涙が溢れた。喉が燃えるように熱くて、同時に鋭く痛む。こんなに悔しいと思うのは、初めてだった。
「うん、僕悔しかった。だって好きな服装をしている灰谷くんはすごく楽しそうで、目がきらきらしてるんだ。だから、君から「好き」を奪った人たちが、許せない‥‥!」
彼の背中に回した手に力が入る。
「真城、俺のために泣いてくれてるのか」
「え‥‥?」
ふわりと軽やかに灰谷くんが僕の頬に手を添える。
「俺のために泣いてくれるやつなんか、誰もいなかった。真城だけだ」
こつん、とおでこが合わさり、僕は大きく目を見開いた。
「ありがとう、俺のために怒ってくれて。俺、真城と同じ学校で良かった」
優しい彼の言葉に、涙が止まらなくて手のひらで顔を覆う。
「僕も灰谷くんと出会えて良かった。君と話せないと寂しくて、辛かった」
「俺も。もう絶対避けたりしないって、誓う」
灰谷くんは僕の手をそっと顔から外し、涙を拭ってくれる。僕は安心からわんわん泣いて、灰谷くんの涙はいつのまにか笑顔に変わっていた。思う存分泣き、目をパンパンに腫らした僕の横で灰谷くんはぽつりと呟いた。
「‥‥俺、将来ファッションデザイナーになりたいんだ。まだ自信ねえけど、俺のたった一つの大切な夢」
ファッションデザイナー。なんて素敵な夢なのだろう。でもそれ以上に、彼が夢を教えてくれたことが嬉しい。
思わず僕は立ち上がって、彼の手を取った。
「灰谷くんなら、最高のデザイナーになれるよ!」
嘘は一切混じっていない、純粋な気持ちだった。灰谷くんが洋服を見る目には、静かな熱が籠っていた。彼の内に秘めた情熱は、この先きっと大勢の人に届くだろう。
「やっぱ俺、真城のことーー」
灰谷くんが、咄嗟に自分の手で口を覆う。
「っぶねえ‥‥!」
「? どうかしたの?」
僕が顔を覗き込むと、頬と耳と赤く染めてそっぽをむいた。
「いや、なんでもない。この話、真城と光輝にしかしてないから内緒にしてて」
「親友の木村くんと僕にしかしてないの? じゃあ、僕って灰谷くんにとって親友ってこと‥‥?!」
「いや、真城はどっちかっつうと‥‥って、んなこと気にしなくていいから。俺が夢について話したいのが二人ってこと。そんだけ」
頭を掻きながら、灰谷くんは目を逸らした。
僕は彼の隣に座り、熱に浮かされている間のことを話す。
連絡がなくて寂しかったこと、ずっと謝りたかったこと。
灰谷くんも学校が楽しくなかったと話してくれた。
いつのまにか青空が広がっていて、僕の心と同じように晴れ晴れしている。
昼休みが終わるチャイムが鳴り、教室に戻る途中でまた木村くんに会った。
「な、言ったろ。俺に感謝するって」
してやったりという顔で笑う彼に、僕は「木村くんには敵わないや」と微笑み返した。
*
無事灰谷くんと仲直りできてからあっという間に時間は過ぎ、そろそろ文化祭の出し物を決める時期になった。
僕と灰谷くんの距離は相変わらずで、結局彼の親友になれたのかは不明だ。
でも、毎日彼と談笑して過ごす日々は穏やかで、心の底から仲直りできて良かったと思っている。ただ、ふとお腹が空いたような物足りなさを感じてしまうことがあった。
もっと灰谷くんのことが知りたくて、もっと近づきたいと思ってしまう。
ああ、きっとこれがーー
「完全に、恋だね」
頬杖をついて僕の話を聞いていた凛ちゃんが、不貞腐れながら言い放つ。
今日は部活が休みなので、教室にて放課後お菓子パーティーを勝手に開催中だ。
「ちょっとお、凛ちゃんもっと楽しそうに話そうよ」
「陽が好きな相手のことなにも話さないからでしょ! どこの馬の骨かも分からない男にあんたのことは渡さないからっ」
「凛ちゃんってもしかして、僕のこと好きなの‥‥?!」
「ほざけ。あんたを男として見たことは一度もない」
「もう、マジレスしないでよ」
僕が焼いてきたクッキーをもぐもぐ食べている凛ちゃんはリスみたいだ。
僕だって話したいけど、約束は破れない。
だから今の感情を話すしかなかった。
「ちな、そいつどんくらいかっこいいの」
「控えめに言って、宇宙一かな」
「なんだそれ、ぞっこんじゃねーか」
「えへへ、日に日にかっこよさが増してくんだよお」
「惚気るならそいつの情報教えてから惚気ろお」
「それは凛ちゃん相手にも出来ぬのだよ。すまない」
「きー! その変な話し方がさらに気にさせんの!」
半分ふざけながらなんとか誤魔化す。
正直、いつまで灰谷くんのことを黙っていられるか不安だ。
今すぐにでも話していい許可が欲しいなあ、と考えているとがらりと扉が開いた。
「は、灰谷くん‥‥?!」
「真城、まだ残ってたのか」
どっ、どっ、と心臓が大きく跳ねて、鼓動がうるさい。たった今好きな人がいると話していたばかりだ。
会話が聞かれていないか不安になってしまう。
「なに?」
不安のあまり灰谷くんを凝視してしまった僕を、彼は不思議そうに見つめてきた。
凛ちゃんがいる手前、普段のようには話せず焦って下手くそな笑顔を浮かべる。
「ううん、なんでもない。灰谷くんも残ってたんだね」
「職員室に用あったから。でももう帰るわ、じゃあな」
「う、うん! また明日!」
灰谷くんが教室から出ていくと、ため息が溢れた。
どうやら話は聞かれていなかったらしい。
黙って僕たちの様子を観察していた凛ちゃんは、疑いの目で僕を見る。
「陽、分かりやすすぎるよ。好きな人が誰かバレバレ」
「やっぱり?」
頬を掻いて、もう誤魔化せないと悟った。
灰谷くんを前にすると、明らかに鼓動が早まるし、つい目で追ってしまう。
彼の前だけは平常心でいられない僕だ。
「何年の付き合いだと思ってんの。まあでも、今はさっきの人のこと話したくないならいいよ。いつか話せる時に話してね」
「‥‥凛ちゃん、ありがとう」
「その代わり、またこのクッキー焼いてきて。これすっごく美味しい」
「もちろん!」
この時、僕は知りもしなかったんだ。
玄関で木村くんとすれ違った彼の顔が、薔薇色に染まっていたことを。
「あれ、優牙顔赤くね?」
「赤くねーよ。じろじろ見んな」
「ふうん」
木村くんの、不適な笑みの理由も。



