デートの定義ってなんだろう。

 体育の授業中、僕は先日灰谷くんと交わした約束を思い出して、ぼんやり考えていた。
 ステージの下に座り、端っこで隣のクラスとバレーの試合をしているクラスメイトを眺める。
 僕は体も小さいし、運動神経も悪いので補欠だ。
 一応出るならライトというポジションを担うらしいが、今のところ試合に出る予定はない。
 仲のいい前田くんにすら「あー、陽はとりあえず試合見てて」と切り捨てられた。
 一学期の体育で、走るのが遅すぎて苦笑いを浮かべられた時と同じ雰囲気だった。
 運動神経悪すぎて擁護出来ねえわ、ということだろう。自慢じゃないが、今までも同じようなことが何度もあったのでもう慣れっこだ。本当に自慢することじゃないけれど。
 というわけで僕にとってはほぼ自由時間となってしまった体育は、クラスメイトを応援するふりして考え事をする時間となってしまったのである。
 何故か僕の友人らは揃いも揃ってすこぶる運動神経が良く、試合に出ずっぱりなのだ。
 ぽつんと体育座りをしている僕って、と少し悲しいけれどこちらは強制的に思考を停止させる。
 今僕が答えを出すべくはデートの定義だ。
 友達と遊びに行くことはきっとデートじゃない。じゃあ僕が灰谷くんとサモエドカフェに行くことは、デートじゃないはずだ。
 でも、凛ちゃんと出かけるのとは明らかに心持ちが違う。灰谷くんと出かける時ってなにを着ていけばいいんだろう。
 服装のさじ加減を間違えてしまったら‥‥と考えると、途端に気分が急降下し、わくわくしていた気持ちが薄れてゆく。
 過去の苦い記憶が未だに僕の中で残っていて、邪魔してくる。
 灰谷くんはしっかり自分というものを持っているから、いつだって堂々としていてかっこいいというのに。
 今だって、彼はチーム内で活躍し、先ほどから殺人級のサーブやアタックを決め続けている。
 ネットを挟んだ向こうのコートで、木村くんが「優牙、てめえ手加減しろよ!」と騒ぐのも無理はない。
 どうやら灰谷くんはバレーボールが好きなようで、普段の体育の様子とは比べ物にならないくらい機敏な動きだ。
 いつもは大木かの如く、省エネで活動している印象で、多分僕のほうが普段は彼より頑張って動いている。
 アタックを決めようが、サーブを決めようが、灰谷くんはクールな表情を崩さない。
 でも、僕には幻覚が見える。
 耳と尻尾が生えていて得点を決めるたびに、ぶんぶん嬉しそうに尻尾を振り回している気がするのだ。
 彼のことを考えすぎておかしくなってしまったのかもしれない。
 さすがに一試合も出ないと先生に目をつけられそうなので、一応体を動かしていつでも出れるようにしておこうと思って立ち上がった時だった。

「真城、危ない!」
「へ?」

 誰かが僕を呼ぶ声がして、次の瞬間僕の顔面に勢いよくボールがめり込んできた。
 ボールは僕の顔に当たって軌道を変え、明後日の方向に飛んでゆく。
 僕は強い衝撃に耐えられず、そのまま倒れた。

「ぶへぇっ」

 ああ、最悪だ。
 どうせ倒れるなら可愛く倒れたかった。
 脳内ではそんなことを考えつつも、鼻が取れてしまったかと思うほど痛い。

「おい、大丈夫か」

 涙で滲んだ視界に灰谷くんが映り込む。
 一目散に駆け寄ってきてくれたようで、彼の声には心配が入り混じっていた。

「待て、無理に起き上がるな。鼻血出てる」

 鼻血なんて小学生以来出していない。
 なのに、よりによって彼の前で溢れてしまった。
 確かに鼻の辺りを触るとぬるりとしていて、手のひらが鮮血で染まった。
 血を視覚でも確認すると、途端に痛みが増した気がした。

「ティッシュ!」

 灰谷くんが吠えると先生がティッシュとタオルを持ってきてくれて、彼が止血してくれる。

「保健室までの間、我慢しろ」

 我慢って、なにを? と聞く前に体がふわりと宙に浮いた。
 え、待って、これって。
ーーもしかしなくても、お姫様抱っこされてるよね。
 ヒュウ、ヒュウとやじが飛んでくるけれど、灰谷くんにはまるで聞こえていないように、全てをガン無視して保健室へ直行する。
「真城のこと頼むぞ」という先生の声が小さくなり、誰もいない廊下を彼はぐんぐん進んでゆく。
 タオルとティッシュを当てているため話せず、僕はただただ運んでくれる彼を眺める。
 髪が揺れて、青いインナーが顔を出す。
 先ほどまで動いていたからか、彼の首筋には玉のような汗が滲んでいた。

「失礼します」

 中に入ると養護教諭の先生は不在で、灰谷くんはそっと僕をベッドに下ろした。
 血が止まったか確認するために、一度ティッシュを外す。
 彼はベッドの脇にある椅子に腰を下ろした。

「連れてきてくれてありがとう。多分、もう大丈夫だから」
「いい。ここにいる」

 静かな保健室の中で、彼の低い声が響く。
 鼻血は止まったのに、まだ顔から頭にかけて熱がこもっている。
 とにかく顔についた血を吹きたくて、ティッシュで雑に拭う。

「おい、そんな強くしたら肌が傷つくだろ」

 灰谷くんは水道でタオル濡らし、ベッドに腰掛けた。

「俺がやる」

 僕の頬に手を添え、もう片方の手で優しく顔を拭いてくれる。
 いま、なにが起きているんだろう。
 心臓が早鐘を打って、呼吸が苦しい。
 冷静に考えて、これってどんな状況?

「ん、終わった」
「‥‥あ、ありがとう」
「じゃあ俺帰るわ。先生には残りの時間休むって伝えておく」

 すくっと立ち上がり、彼は僕を残して保健室から去っていった。
 呆然と彼の背中を見つめたまま動けないし、あまりにも突然の出来事で、頭もうまく働かない。
 きっと、灰谷くんって実は面倒見がいいタイプだったんだ。うん、それ以外考えられない。
 導き出した答えは曖昧で、でもそれ以上考えてしまったら期待してしまうから。
 勝手に自己完結していると、扉が開いて養護教諭の先生が帰ってきた。

「君が鼻血出た子よね。‥‥あら、すごく顔が赤いけど熱もあるのかしら」

 胸の奥でむくむく知らない感情が育っていく。
 まだ僕は、知らないふりをしていたい。
 は、と口から漏れた息が熱かった。



 教室に戻ると、前田くんが心配して駆け寄ってきてくれた。
「陽、大丈夫か」
「うん。もう血も止まったし、全然大丈夫だよ」
「お前が倒れた時、ガチで焦ったわ。でも、それ以上灰谷の動きが素早くてビビったけど。あいつ、普段は目立たないけど運動神経もいいし、何者なんだよ」
「あ、あはは」

 何者と言われても、僕だって全然灰谷くんのことを知らない。
 笑って誤魔化すしかなく、ほんのり寂しさを覚えた。
 灰谷くんはすでに体操着から制服に着替え終わっていて、肩肘をつきながら窓の外を眺めている。 
 僕も着替えなきゃいけないため、隣の席で制服を広げる。

「‥‥灰谷くん」

 少し緊張して彼の名前を呼んだ。

「なに」

 彼はこちらを振り向かないで返事をする。
 僕は気がついてしまった。
 彼の耳がほんのり赤く染まっている。

「さっきのなんだけどさ」

 着替えながら話す。
 僕がスラックスに履き替えていると、一度こちらを向いたのに彼はまた窓の方へ視線を逸らした。

「話す前に早く着替えろ」
「う、うん」

 慌てて制服に着替える。
 でも焦って手首のボタンが止められない。
 もたもたしていると、灰谷くんが立ち上がって僕の胸元のボタンを止めた。

「普通こっちが先だろ、無防備すぎんの自覚しろ。あと、手も出せ。俺がやってやるから」

 ああ、彼は本当に面倒見がいいらしい。
 きっと僕のことなんて手のかかる鈍臭いやつとしか思っていないだろう。

「‥‥ありがとう」

 構ってもらえて嬉しいのに、同時に情けなくもあって心の中がぐちゃぐちゃだ。

「いーよ。真城に手伝ってって言われれば、いくらでもするし。だから困ったら素直に頼れ」

 俯いていた顔を覗き込んできて、灰谷くんは「気遣われるほうが嫌って覚えといて」と言ってくれた。
 なんだか胸の辺りがじんわりと温かくて、でもそれ以上にドキドキする。

「あの、さっきの保健室のやつは‥‥」
「あー、あれ。俺に触られんの、嫌だった?」 

 少し声のトーンが落ちた気がする。
 彼にも不安という感情があるらしい。
 嫌だったかと聞かれれば、嫌じゃなかったから僕も混乱しているのだ。
 僕は頭を左右に振った。

「‥‥じゃあ、逆に良かった?」
「ふぇ?」 

 逆って、なに? 触られて嬉しかったかってことだよね。なんでそんなこと聞くんだろう。

「うそ、やっぱ今のなし。なんでもねえよ」
「あ、うん」
「とにかく鼻血止まって良かったな」
「ご迷惑をおかけしました」
「ガチそういうのいいから。俺がしたくてしただけ」

 また彼はそっぽを向いてしまった。
ーー俺がしたくてしただけ
 短い言葉がぐるぐる体の中を巡って、熱を引き起こす。
 ねえ、灰谷くん。今、どんな顔してる?
 ああ、でも僕の顔は見せられないや。
 だって、すごくほっぺが熱いから。

 君にだけは、見せられない。



「りーんちゃあんんんん」
「あーもうっ、その「話したいことがあるけど、事情があって言えないよお」のオーラ鬱陶しい! 話したいなら話せるところだけ抜選して話せ!」
「察しが良すぎて逆に辛いいいい」
「面倒くせえな‥‥!」

 僕は完成間際のニット帽を握りしめて、机に突っ伏した。
 凛ちゃんは完成したレジンのキーホルダーを丁寧に包装している。
 どうやら気になっている他校の子にあげるらしい。
 しかも女の子。
 凛ちゃんはバイセクシャルかつマインドイケメンなので、恋愛対象の範囲も広ければ行動もできる子なのだ。
 かっこよくて手先も器用だなんて、鈍臭い僕とは比べ物にならない。

「凛ちゃんってさ、なんですぐに好きになったとかわかんの? で、なんで行動できるの?」
「好きになったら付き合いたいから」
「簡潔かつ正確な回答ありがとうございます。でも今はそうじゃなくて! その間のぎゅってされてるところが聞きたいのっ」
「えええ、そんなこと言われても私直感的なところあるからなあ。今回の子だって同じ塾で話すようになって「あ、好きだわ」って思ったし」
「なにそれえ、キュンキュンする今度詳しく聞かせてね。新作のフラペチーノ飲みながら聞きたあい」

 彼女のように意思がはっきりしてる人たちは、僕が頭を抱える問題もさらりと解決して、 
 次のステップへ爆速で進んでゆくらしい。
 とりあえず先ほどの「抜選して話せ!」を鵜呑みにして、名前を控えて今日あったことを話す。

「今日さ、体育がバレーボールだったんだけど、僕の顔面にボールがクリティカルヒットして保健室に運ばれたんだ」
「ああ、なんだっけそれ。確か灰谷? って人がお姫様抱っこしてくれたんでしょ」

「え」という言葉と共に僕の動きがぴたりと止まる。
 凛ちゃん様には僕の頭の中が透けているのかもしれない。

「な、なんで知ってるの‥‥」

 さーと顔が青ざめる。

「木村が教室で「あいつ王子様かよ!」って散々騒いでたから。なんか二人って一緒にいるイメージ出来ないけど、割と話してるよね。どっちもデカいから廊下で話してると目立つし」
「なあんだ、木村くんかあ」
「木村と知り合いなの?」
「うん、この前ちょっとだけ話したよ」
「陽、あの綺麗な顔面に騙されちゃダメだからね。クラス中があいつのこと甘やかしまくって、私はあいつのこと我儘王子って思ってるから!」

 凛ちゃんは机を叩き、悔しそうに話す。
 そういえば凛ちゃんと木村くんは一緒に学級委員をしているんだった。
 僕にはわからない苦労が沢山あるんだろう。
 木村くんの話題になってから、凛ちゃんの顔にはでかでかと疲労と書かれている。

「木村くんとは別に仲良くないよー」

 からりと笑って話題を終えようとする。
 僕が話したいのは、灰谷くんのことだ。

「えー、寂しいなあ。俺は仲良くなったと思ったんだけど」
「エ?」

 後ろの窓からつい先ほど話題に出た我儘王子こと木村くんの声がする。幻聴かな?

「つうか、橋本さん俺のこと我儘王子とか思ってんの! 委員会のときちょっと頼ってるだけじゃん」
「あんたのちょっとは普通の人のだいぶなの! てか手芸部に何の用よ。しかも外からって!」

 家庭科室は一階なので窓が開いてると外から普通に入れてしまう。
 木村くんも靴を脱いで軽々と窓から侵入してきた。
 穏やかな雰囲気の中に、突然ライオンがぶち込まれた様な緊張感が走る。

「ちょい真城くんのこと借りたいなーって思って。それ終わったら一緒に帰ろっかあ」

 僕の肩に手を置いて木村くんは発光する笑顔で微笑む。
 僕はだらだらと冷や汗を流すけれど、圧に負けてこくりと頷いてしまった。

「やったあ。俺、真城くんのこと気になってたんだあ」

 棒読みすぎるけど、彼は満足したらしく「迎えに来るねー」と今度は普通に扉から帰って行った。

「何事?」

 凛ちゃんに怪訝な顔を向けられるけれど、聞きたいのは僕のほうだ。
 心の中で部活時間が終わらないことを願った。



 木村くんは宣言通り、帰りの時間になるとまた僕を迎えにきた。

「真城くんって門限何時?」

 玄関に行くまでの廊下を歩いていると急に聞かれる。門限まで帰してもらえない可能性があるらしい。

「八時とかかな」
「おっけー。じゃあgnuでも行くか」
「木村くんもgnu行ったりするの?」

 自分でも呆れるくらい単純だ。
 先ほどまでビリビリ放っていた警戒心が一気に解け、話題に飛びついてしまう。

「態度全然ちげえじゃん、おもろ〜。そりゃ行くだろ、親友が働いてるし、あいつの叔父さんとも俺面識あるし」
「そうなんだ‥‥! 仲良いんだね」

 一度各々靴を履き替えるために解散して、また合流する。
 なにやら木村くんは遠い目をしていた。
 彼の整った瞳に寂しさが滲んで、すうっと光が失われてゆく。

「仲、良かったんだけどさあ。あいつ、変わっちゃったから」

 冷たくなり始めた風が、彼の美しい金髪を撫でる。前髪に隠れてあまり表情が見えない。
 だけど、彼の広い背中はとても悲しそうに思えた。

「ま、でも、今は君のおかげで楽しそうだし、心から良かったなーって思うわけ!」

 きっと、僕に気を遣わせないよう木村くんは明るく振る舞ってくれている。
 軽い口調の裏に隠された灰谷くんへの想いがひしひしと伝わってきた。彼が僕に優しくしてくれるのは、灰谷くんが僕に優しくしているからだ、と気がつく。

「だから、優牙のことよろしくな」

 僕の背中をぽんっと叩き、屈託のない笑顔を浮かべる彼を夕陽が照らす。
 僕には幼馴染で親友のようでもある凛ちゃんがいる。きっと、僕も凛ちゃんが変わってしまったら彼のように見守ることを選ぶのかもしれない。
 大切だからこそ、無闇に踏み込めないときがあるのだ。

 木村くんはそれ以上灰谷くんのことを話さなかった。代わりに、gnuに向かう間は僕らの好きなものについて話した。
 彼は音楽とファッション。
 特に邦ロックが好きで、いくつか推しのバンドがあるらしい。今度聞かせてあげるよと言ってくれた。
 僕は可愛いものや癒されるものが好きなこと。
 そしてブラックコーヒーを飲めることも伝えた。

「え、その見た目でブラック飲めんの? 俺より大人じゃん‥‥!」

 やっぱり彼も驚いたようで、口をあんぐり開けていた。その姿が面白くて思わず僕は笑う。
 木村くんもつられて吹き出し、わちゃわちゃとした雰囲気のままgnuを訪れた。

「いらっしゃいませ‥‥って、どんな組み合わせだよ」

 今日もカウンター内にいる灰谷くんは、僕たちを交互に見て複雑な顔をしている。

「俺ら友達になったんだよ。な、真城くん」
「うんっ」

 木村くんが僕の肩に腕を回すと、むっとした灰谷くんがカウンターから出てきた。
 僕はラッキーボーイなのか、また他のお客さんがいない。

「ふうん。でも急に距離近いんじゃね」
「そうかなあ。俺的には普通だけど」
「光輝、お前分かってやってンだろ」
「えーなんのことか俺わかんなあい。真城くんどこ座るう?」

 へらへらしだした木村くんに連れられ、彼の隣に座る。

「二人で来て隣で座んのおかしくね」
「ほんっとお前分かりやすいなあ。はいはい、わあったよ」
「あ、僕が椅子のほうに座るよ」

 木村くんが移動しようとしていたので、僕は咄嗟に立ち上がる。
 すると灰谷くんがそっと僕の肩を押して、僕はその場にまた座った。

「いいよ、真城はソファで。光輝が椅子に座るべきだから」
「お前がいいよっていうな。それ俺の台詞だかんな!」
「いいからさっさと注文しろ。先に席に座りやがって」

 威嚇する狼のように灰谷くんの雰囲気がガルガルしている。

「じゃあ俺アイスのラテ。真城くんは?」
「じゃあ僕も同じので」
「かしこまりました」

 不機嫌な顔で灰谷くんはカウンター内に戻っていった。なにがおかしいのか謎だが、木村くんは彼の様子を見てにやにやしている。

「ほんとおもしれー」
「なにが?」

 こっそり聞くと、木村くんはさらに口角を上げて「真城くんには内緒」と人差し指を立てた。

「意地悪だ」

 僕はほっぺを膨らませて、拗ねる。
 するとスマホを素早く取り出して、カシャっと僕の写真を撮った。

「あざと〜。それやって違和感ないの真城くんのあざといレベル高すぎね」
「もー! あざといじゃなくてどうせなら可愛いって言ってよ」
「え〜、俺が君のこと可愛いっていったらどっかの誰かさんがうるさそうだもん。だから言わない〜」
「なにそれ、意味わかんない」

 僕がまたほっぺを膨らませると「うりゃっ」と頬を長い人差し指でつつかれ、ぷしゅうと風船から空気が漏れたように萎んだ。

「お待たせしました、アイスラテです」

 僕のほうには普通に置いたのに、木村くんの分は僕たちの間を割くようにグラスが置かれた。

「んな怒んなって。戯れてただけだろ」
「怒ってねえよ」

 僕にもバレバレな嘘だった。
 どうして灰谷くんは僕と木村くんが親しくしていると機嫌が悪くなるんだろう。

「これやるから機嫌直せよ」
「あ?」

 木村くんは鞄の中から二枚のチケットを取り出す。

「じゃじゃーん! 新しく出来たサモエドカフェの、プレオープンチケット! バ先の人にもらったんだけど譲ってやる」
「ええっ! プレオープンチケット?!」

 思わず大きな声が出てしまう。
 僕も存在は知っていたけれど、応募期間が終了してしまい、絶対手に入らないと諦めていたのだ。

「お、反応いいね。もしかして誰かとサモエドカフェ行く予定あったの?」
「え、えと」

 ちらりと灰谷くんを見ると、視線が交差した。
 彼は木村くんの持つチケットを受け取る。

「俺と真城で行こうって話してたんだよ。まだ日程決めれてなかったから助かったわ。ありがとな」
「まじかよ! 俺ってばお前らのキューピットじゃん〜! お礼は今度出る新作のケーキでいいよ」
「っとにお前は‥‥余計なこと喋らなければイケメンなのに残念なやつめ」
「なんかすげえ悪口言われてね? ま、いいけど」

 あっさり灰谷くんは受け取っているけれど、僕からすれば喉から手が出るほど欲しいチケットだ。本当に貰っていいのだろうか。

「木村くん、本当にいいの‥‥っ?」
「おー、いいよ。俺その日予定あるし、もらっても困ってたんだよね。俺の代わりにめいっぱいモフモフしてきてよ」

 アイスカフェラテを飲む彼が、急に発光しているように感じた。今の木村くんは神様みたいだ。

「まあ、本人もこう言ってるし、めいっぱい楽しんでくるか」

 チケットを口元に寄せ、灰谷くんは目を細めた。
 こうして僕たちは、週末の日曜日にサモエドカフェへ行くことが決まった。