数日後、放課後のホームルームで急に担任が告げた。

「席替えするぞー」

 悲鳴と喜びの声が教室の中で混じり合う。
 もし運が良ければ今より灰谷くんの近くがいいな‥‥と、ふと考えてしまう。
 ちらりと後ろの窓際にいる彼を見ると、興味が無さそうに窓の外を眺めていた。
 くじ引きをして、自分の席を黒板と照らし合わせる。
 すっと僕の後ろに、背の高い灰谷くんが立った。
 そういえば基本彼は猫背だけど、しゃっきり背筋を伸ばして立ったら百八十センチ以上あるんじゃないだろうか。
 長い前髪の下に隠された顔面と、gnuの時のようなクールでミステリアスな雰囲気なら女の子に爆モテしそうだ。
‥‥彼が地味を装ってくれていて良かった。
 なんて、邪な考えが頭をよぎってしまう。

「俺ら隣じゃん」
「わ、ほんとだ」

 灰谷くんは今の席から一つ後ろにずれるだけだ。
 彼は窓際になる宿命らしい。
 僕たちは窓際の一番後ろの席になった。
 机を移動させて、隣に座る。
 席替えをしてどきどきしたのは初めてだった。

「これからよろしくね」
「ん、よろしく」

 彼は短く答えて、また窓の外を眺めた。
 僕はなんだか胸の辺りがぽかぽかして、彼にばれないよう顔を緩ませる。
 学校は元々好きだけど、得もいわれぬ高揚感が胸に広がった。
 授業が終わると、灰谷くんと隣になったことを凛ちゃん知らせるべく、僕は浮かれながらで家庭科室に向かう。
 どのくらい浮かれているかというと、そりゃあもう頭の上から音符がぽんぽん出てくるくらいだ。

「陽、分かりやすく浮かれてるね」

 後から来た凛ちゃんは、僕の顔を見てすぐに察してくれる。さすが幼馴染だ、と感心してしまった。

「うんっ、実はね灰谷くんと席が隣になったんだ」
「うん、だから? てか誰。陽の仲良い人にそんな名前の人いたっけ」

 はっと口元に手を寄せた。
 そういえば、凛ちゃんは彼が『ユウガさん』だと知らないのだ。誰にも言うなと言われた手前、心苦しいけれど凛ちゃんにも彼の正体は明かせない。

「えーと、んーと、灰谷くんと初めて話したって報告でした!」

 下手くそな作り笑いを浮かべて、なるべく明るく話した。

「小学生か」

 凛ちゃんは呆れたように笑って、特に気にする様子もなく今日もレジンの道具を広げる。
 僕は冷や汗をかきながら彼女の前に座った。
 ふわふわの白いハンカチで汗を拭いて、ペットボトルのいちごミルクを飲む。

「陽はさ『ユウガさん』を見つけたら付き合いたいの?」
「ぶふっ」
「うわっ、大丈夫?」

 唐突な質問に、いちごミルクを吹き出してしまう。
 で、今、なんて?

「付き合いとか、そういうのはまだ分かんないよ」
「ふうん。だって中学生の頃から言ってたじゃん、高校生になったら彼氏が欲しいって」
「もちろん欲しいけど、誰でもいいわけじゃないんだよ。好きにならなきゃ」
「助けてくれたお兄さんは好きじゃないの?」
「凛お姉様、直球すぎ‥‥」

 正直、まだ僕は恋がどんな気持ちなのかよく分からない。
 でも、灰谷くんのことを考えてしまうのはどうしてなんだろうと気になったりもする。
 凛ちゃんに相談したら答えが返ってくるかもしれないけれど、灰谷くんと僕だけの秘密だからそっと胸の奥にしまい込んだ。



 灰谷くんと隣になって一週間が過ぎた。
 僕なりに彼を観察して分かったことがある。
 まず、灰谷くんは登校するのがギリギリだ。
 チャイムの鳴る数分前に来て「はよ」と掠れた声で挨拶を交わすと、そのまま机に突っ伏す。
 担任の先生が来るまで寝続け、授業中も時折夢の世界へ旅立っている。
 でも、灰谷くんのノートはとても美しい。
 簡素にまとめられていて、無駄がない。
 この事実は、僕が板書を取り損ねてしまったところを見せてもらった時に発覚した。
 なんたることだろう。彼は字も綺麗なのだ。
 飾り気はないけれど、細いシャーペンですっきりと書かれた彼の字は僕のまん丸な字とは違って大人っぽい。
 僕のノートを見ると、灰谷くんは「字まで丸いんかよ」と言ってくしゃりと笑った。
「まで」が気になるけど笑ってくれたからいいか、と気にしないことにした。

 昼休みになるとすぐに自分の席で菓子パンを広げ、大きな口で食べている。
 彼が口を開くと、立派な犬歯がみえてなんだか狼のようだ。
 僕はクラスで仲のいいグループのみんなと食べたり、凛ちゃんと食べたりするので、以外と昼休みに灰谷くんと話せる機会が少ない。
 灰谷くんは食べ終わると必ず席を一度立ち、黒の歯磨きケースを持って消える。
 そして戻ってくると有線の白いイヤホンをして音楽を聴き、スマホを眺めて過ごしていた。
 あまりにも僕が彼のことをちらちら見ていたので、サッカー部の前田くんに「灰谷がどうかしたん」と聞かれて焦った。
 咄嗟に「いや、灰谷くんがというより、雲が美味しそうだなと思って」と答えると「弁当食ってるのに、雲も美味しそうに見えるなんて食いしん坊か」と彼にも笑われた。

 灰谷くんは基本、というかほとんど一人で過ごしている。
 でも、たまに違うクラスの男子生徒が彼と廊下で話しているのを見かける。
 驚くべきは、灰谷くんの話している相手が隣のクラスの一軍集団に属していることだ。明るい金髪にハーフアップの彼はなにかと目立つ存在だった。
 でも、名前が思い出せない。ええと、と頭を抱える。

「なあ、俺のこと気になんの?」
「ひっ!」

 先程まで灰谷くんと話していたはずなのに、なぜか彼は教室のドアから半分顔を出して見ていた僕の前にいた。
 灰谷くんと同じくらい背が高くて、なによりイケメンだ。全身がきらきらしたオーラに包まれている。

「あれ、灰谷くんは‥‥?」
「ああ、優牙ならトイレ行ったけど。で、君誰?」

 垂れ目で目元に黒子があるイケメンくん。
 白に近い明るい金髪が眩しい。
 緩くパーマのかかった髪をハーフアップにしているところが、とても女の子に刺さりそうだ。
 じいっと顔を覗き込まれて、嫌でも鼓動が早まってしまう。

「ぼ、僕は灰谷くんの隣の席の者です」
「ああ、さっき優牙が話してた子か」

 え、僕の話題とか出るんだ。
 灰谷くんは彼になんて話したのだろう。

「言っとくけど会話の内容は教えないよ。知りたいってめちゃくちゃ顔に書いてあるけど、ダメなものはダメだからね」
「うっ、エスパーですか」
「違えよ、君が分かりやす過ぎんの。で、名前は?」
「真城陽です」
「真城くんね、オッケー。俺は木村光輝(きむらこうき)
「木村くんは灰谷くんと仲良いんですか?」

 おずおず聞くと木村くんはにやりと口角を上げて「えー気になる?」と勿体ぶる。
 教えてくれないなら無理に聞く気はない。

「あっ、教えてくれないなら大丈夫です」
「はっ?! もっと食い下がってよ! 真城くんて割とさっぱり系の人?」
「いや、さっぱり系とか意味わかんないんで」
「急に塩すぎん?」

 木村くんは「うりゃっ」と僕の髪を優しく掻き乱す。今日は天気が悪くてただでさえ爆発していたのに、さらにもこもこになってしまった。

「光輝、なにしてんの」

 いつの間にか帰ってきた灰谷くんが僕の後ろにいて、肩に手を置いて一歩後ろに引かれた。
 ぐっと灰谷くんとの距離が縮まる。

「真城くんが俺と友達になりたいっていうから構ってた」
「一言も言ってませんけど?!」
「あれ、そういう話じゃなかったっけ」

 白々しく笑う木村くん。
 恐るべし、一軍コミュニケーション。
 彼の発言がクラスの民意になるやつだ、と内心怯えた。

「真城、光輝は基本適当なことばっか言うから気をつけろ」
「合コン誘ってんのに「俺は猫派だな」とか言ってくるてめえに言われたくねえよ。俺まだあん時のこと恨んでるからな、女子にめちゃくちゃ優牙なんで来ないんだって詰められたんだぞ」
「ピーチクパーチク騒ぐなよ。中学の知り合いが混ざってる合コンとか聞いたことねえし。合コンじゃなくて同窓会の間違いだろ」

 合コン、女子、中学。
 気になるワードが頭の中をぐるぐる巡る。

「二人は同じ中学校なの?」
「そ。腐れ縁ってやつ」

 灰谷くんは気だるそうに答える。

「誰と誰が腐れ縁だよ。親友と言え馬鹿もの」
「親友なら細えことは水に流して、二度と俺を合コンに誘うんじゃねえ」
「それは無理。お前学校ではくそ地味だけど、普段バチバチにかっけえからその姿で来てくれるとすげえ盛り上がるもん」
「人を客寄せパンダ扱いすんな」

 どうやら中学校では今のモサモサとした姿ではなく、かっこいい灰谷くんだったようだ。
 理由が気になるけれど二人の会話に入っていけず、黙って見守っていた。

「今度また合コンすっから来いよ」
「行かねーよ。バイトあるし、恋愛とかめんどくせえんだよ」
「お前はまた‥‥。そんなんじゃ彼女出来ねえぞ」

 木村くんがやれやれと言わんばりに吐き捨てると、綺麗な舌打ちが聞こえた。

「あ、やべ。優牙がキレてきた。真城くん、あと頼むわ」
「ちょ、木村くん?」

 綺麗な笑顔を浮かべて木村くんは自分の教室に逃げ帰っていった。
 灰谷くんは機嫌悪そうに「‥‥くだらねえ」と呟いて教室の中に入っていく。
 僕は一歩後ろを歩いて彼に着いて行き、静かに隣の席に座った。

「今の話、聞かなかったことにして」
「う、うん」

 空気が重い。
 灰谷くんは机に突っ伏して、窓の外を眺めている。
 彼の雰囲気は普段より暗くて、掛ける言葉が見つからない。
 僕もぼんやり空を眺めて、突然閃く。
 もこもこの白い雲は、最近僕が気になっているとある動物カフェの生き物に似ていた。

「サモエド、知ってますか」
「‥‥知ってる、でかくて白くて、すげえ可愛い犬だろ」
「触りたくないですか」
「触りてえけど‥‥つか、なんで敬語?」
「そこの旦那にちょいと耳寄り情報がございます」
「なにが始まったんだよ‥‥」

 スクールバッグの中から、今朝駅前でもらったチラシを取り出す。
 体を起こして、こっちを向いた灰谷くんに差し出した。

「サモエドカフェ、近日中にオープン?」
「そうっ! なんと、サモエドカフェがオープンするんだって!」
「ま、まじか」

 ごくん。灰谷くんは生唾を飲み込んでチラシを眺めている。
 彼のくっきりと浮き上がった喉仏が上下した。
 先程までの重たい空気は消え去り、思った以上に効果てきめんだ。
 やっぱり可愛いは正義で、可愛いは世界を救うらしい。
 僕は意を決して、彼を誘う。
 ぎゅっと目を瞑り、握る拳に力が入った。

「灰谷くんが良ければ、一緒に行きませんか‥‥?」

 情けなくも声が震えた。
 数秒の沈黙がひどく長く感じられ、教室の雑音が普段よりクリアに耳に流れ込んでくる。

「緊張しすぎだろ」

 くすっと笑って、灰谷くんは表情を和らげた。

「いいよ、一緒に行こうぜ」

 目を開けると、窓から太陽の光が入り込んで彼を照らしている。
 艶めく黒髪に天使の輪が浮かび、彼の白い肌を際立たせる。
 世界が、煌めいている。
 たった一つの約束。
 サモエドカフェなんて可愛いところに行くだけなのに、心臓が大きく脈打って落ち着かない。

「楽しみにしてるわ」

 白い歯を見せた彼の無邪気な笑顔を、今後僕は忘れられない気がした。

「‥‥うん、僕も楽しみ」

 半分無意識に溢れた返事は、やがて空気に溶けて消えた。灰谷くんはなにも言わず、そっと微笑んだ。