僕はふわふわしているものや可愛いものが好き。
 編み物を始めたのは、自分で「可愛い」を生み出せるからだ。一本の毛糸から形を変えてゆく様子は見ていて気持ちがいいし、完成すると達成感がある。
 でも、集中するためにはお供が必須。
 僕は無類のコーヒー好きだ。
 カフェラテも好きだし、ブラックも好き。
 カフェで編み物をする時間が、最近のマイブーム。
 今日も前々から気になっていたコーヒーショップに向かうはずだった。
……なのに。
 どうして僕の後ろには、さっきから知らないおじさんが付き纏ってくるんだろう。

「ね、お話しするだけだからさ。ちょっとだけカフェとか行こうよ」
「いや、本当にそういうの大丈夫なんで‥‥」

 初めて利用する駅で降りて、コーヒーショップに向かう最中だった僕。
 昔から治らない方向音痴を発揮してしまい、人気のない裏道に迷い込んでしまった。
 きょろきょろ辺りを回していたら、このおじさんに話しかけられてもう五分も経っている。
 スーツ姿の小太りおじさんは鼻息を荒くして、僕にずっと付いてくる。
 怖いし、今すぐ逃げ出したい。でも、足がすくんで走れない。
 今日は渋くてかっこいいコーヒーショップに行く予定で、ずっと放課後を楽しみにしていたのに最悪だ。

 早くどこかに行って‥‥!

 ぎゅ、と目を瞑り、一か八か走って逃げようとした瞬間、誰かが僕の肩に手を置いた。

「遅れて悪かった」
「へ?」

 ハスキーな声が上から降ってきて、咄嗟に目を開く。
 顔を上げると、シルバーのピアスが両耳にたくさん付いているお兄さんがいた。
 僕は今日誰とも待ち合わせをしていなくて、もちろんこのお兄さんのことも知らない。

「なあ、おっさん。俺、こいつの彼氏だけどなんか用あんの?」

 彼氏。僕が憧れてやまない存在だ。
 でもこのお兄さんと付き合った記憶は一切ない。

「かっ、彼氏がいるなら先に言えよ!」

 おじさんは勝手に逆ギレして来た道を戻って行く。
 僕は安心すると全身の力が抜けてしまった。
 へなへなとその場にしゃがみ込む。

「大丈夫か」
「は、はい…‥あっ、助けてくれてありがとうございました!」

 お兄さんも僕に合わせてしゃがんでくれて、また肩に手を置いた。
 僕が勢いよく顔を上げると、すぐ目の前に端正なお兄さんの顔があった。
 切れ長な瞳を長い睫毛が縁取っている。
 鼻も高くて、白皙の肌の持ち主だ。

「わあっ」

 驚いて後ろに下がると、すてんっと転んでしまう。
 青空が急に視界に入り込んできた。
 僕は驚きと恥ずかしさで身動きが固まってしまった。
「ぶはっ」と息を吐いた音が聞こえて、お兄さんは肩を震わせて笑いながら、立てるように手を差し伸べてくれる。

「もう一回聞くけど、大丈夫か」
「二度も助けてもらってすみません……」
「いーよ。久しぶりに笑ったわ」

 お兄さんに手を貸してもらうと、ごつごつと骨ばった指に、太いシルバーリングがデザイン違いで幾つか散りばめられている。
 髪が揺れて、長い黒髪の中から青色のインナーカラーが覗いていた。

「てか、なんでここら辺うろうろしてたの」
「実は、gnu(ヌー)っていうコーヒーショップを探しててたんですけど、迷子になっちゃって」
「ああ、なるほど。gnuは今日、定休日で休みだけど」
「えっ、そうなんですか?!」
「迷子にナンパ、そして定休日。あはは、逆にすげーな」

 白い歯を見せて、お兄さんは笑った。
 風に乗って彼の甘い香水とコーヒーの香りがした。

「今日は厄日ですね」
「んな落ち込むなって。こんだけ悪いことがあったら、次はいいことしかねえよ。gnuは毎週、火曜定休だからそれ以外に来ればいいだけの話」
「そっか、そうですね! また来ます」
「ん。じゃあ俺はこれで。気をつけて帰れよ」

 ひらりと手を振って、お兄さんは黒いパーカーのフードを被った。
 ダウナー系というんだろうか。
 知り合いにはいない系統だが、クールで男らしくて、かっこいい。

「あっ、お兄さんよければお名前をーー」

 助けてもらったお礼がしたくて名前を聞こうとすると、振り返ったお兄さんは口角を上げてにっと笑った。

「どうせまた会えるから、今度な」

 今度? え、いつ、どこで?
 脳内にはてながたくさん浮かんでいるうちに、長い脚で歩くお兄さんの背中は小さくなってしまった。

ーーこんだけ悪いことがあったら、次はいいことしかねえよ。

 立ちすくしている間も、お兄さんの声が脳裏に焼きついて離れなかった。