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「暑っ……!」
今年も容赦ない猛暑。
去年より暑く感じるのは、気のせいじゃない――たぶん。
「彩! それ終わったら、こっち手伝って!」
真帆が声をかけてくる。
今年になってまた部員が増えた藤青野球部。
春の大会では、準決勝で初めて将星に敗れてしまった。
あの日――。
試合が終わってすぐに、川崎さんから“ドヤメッセージ”が届いた。
正直、あれは悔しくて悔しくて……思わず「夏は絶対に勝ちますから」って返信してやった。
でも、選手ばかりが増えていくのに、マネージャーは全然増えない。
今年も前井先輩がマネージャー希望者の面接をしたらしいけど、全員不合格だったらしい。
「一人くらい採ってあげればいいのに……」なんて言ったら、また怒られるのがオチだから、黙っておいた。
なんてったって、今日は――
「いくぞ! 甲子園っ!」
前井先輩の声が、私たちの心を引き締める。
そう。今日は、夏の甲子園・第一回戦。
そして相手は……あの南聖(なんせい)っ!
選手たちは、最終ミーティングの真っ最中。
私は、水分とタオルを黙々と準備する。
真帆はミーティングに加わって、分析結果をもとに選手たちと作戦を確認していた。
そして、逞しくグラウンドへと出ていく藤青の選手たち。
今年の南聖には、あの“怪物”岩崎先輩はいない。
だけど今は――その弟がエースだ。
名前は、岩崎彰太(いわさき・しょうた)。
二年生にしてエースの座をつかみ、ポジションは兄と同じピッチャー。
でも、投げる球は兄とは違って――
パシーンッ!
「ストライクっ!」
真っ直ぐで力強い、一本勝負のストレート。
まるで、あの人のようだ……。
「本当に、あいつ……相原先輩みたいな投げ方すんだな」
私の隣で笑いながらそう言ったのは、前井先輩だった。
一番バッターの福島くんが空振りしたというのに、この余裕の表情。
でも、ほんとに似てる。
構え方も、投げる瞬間の目つきも――相原先輩そのものだった。
「だけどっ! 相原先輩には敵わないってところ、見せつけてやるかな」
そう言って、前井先輩はバットを手に、青空の下へと力強く歩き出した。
その背中は、もう立派な藤青のキャプテンで。
キラキラと、眩しく輝いて見えた。
カコーン
2番バッターの梶くんがバッドにボールを当て、ファーストと、セカンドの間をボールが抜けた。
ヒット!
「「走れっ!!梶くんっ!」」
ベンチから飛ぶ、アルプスから飛ぶ数々の声。
その声が梶くんの背中を押す。
「セーフっ!」
ギリギリでなんとか1塁に駆け込んだ、梶くん。
肩で大きく息をしているのがここからでもわかる。
そして、3番は我が藤青のエース
『3番、ピッチャー、五十嵐くん』
1年ながらエースを任された、五十嵐 要(いがらし・かなめ)。
180cmの長身に、モデルのような顔立ち。文武両道で成績もトップクラス。
マウンドに立つだけで、黄色い歓声が飛ぶほどの存在感だ。
ただし、性格だけは──難あり。
それでも結果は
カキーン
彼についてくる。
五十嵐くんの放った白球はあの青空へと吸い込まれる。
そして、しばらくたって、重力に従ってゆっくりと降りてくる白球。
レフトとセンター間におち、梶くん、五十嵐くん猛ダッシュ。
ボールはぐんぐん南聖の守備軍によって確実に内野の方へ運ばれてくる。
だけど、藤青のほうが上手で……
「セーフ!」
梶くんが3塁、五十嵐くんが2塁まで進んだ。
2ベースヒットを軽々放った五十嵐くん。
彼はいつもこんな調子。
多分、こんな彼のことを人は”天才”というのだと思う。
そして、そのあとの続くのは……
『4番……ショート、前井くん』
我らのキャプテン、前井先輩。
前井先輩のバッティングセンスは、あの相原先輩もお世辞なしで褒めていた。だから、今は藤青の4番は相原先輩の認めた前井先輩の特等席。
カキーン
またもや、あの南聖の剛速球を難なく青空へと放った前井先輩。
梶くんと、五十嵐くんは余裕で本塁を踏み、得点をあげる。
そして、その間ボールは……
「「うわあぁぁぁぁああああ」」
え……うそっ!
「入った……?」
前井先輩がガッツポーズをしながら、ダイヤモンドを駆ける。
その姿はまるで……相原先輩。
相原先輩も、甲子園1回戦目でホームランを打ち上げた。
そして、彼もまた、ガッツポーズをしてうれしそうにこのダイヤモンドを駆けたんだ。
「前井せんぱーいっ!」
ベンチから叫ぶ。
やった。やったね、先輩。
きっと、相原先輩も見てくれているだろうから。
きっと、空さんも見守ってくれているだろうから。
さぁ、いこう。
これが、今の藤青野球部。全国に見せてやりましょう。
藤青野球部の底力を。
✳
「今日はお疲れ。次の試合は明後日だから、今日はゆっくり休んどけよ。夕食は昨日と同じ場所で8時からだから遅れんなよ。風呂はその間に済ませとけよ。じゃ、解散っ!あ、彩と要はちょっと残れよ」
試合終わりでホテルについた時。
前井先輩はそう言って、私と五十嵐くんだけロビーに残した。
あとのメンバーはガヤガヤと自分の部屋に戻っていく。
試合に勝ってうれしいはずなのになぜか、このロビーには不穏な空気が漂っていた。
な、何々?
そう思って隣の五十嵐くんを見上げたけれど、いつものむすっとした顔で、見なければよかったと後悔する。
「要。肩、どうした?」
前井先輩から予想外の言葉は放たれる。
「なんもないっすよ」
相変わらずのポーカーフェイスでそう答える五十嵐くん。
「お前、7回くらいから球威落ちたじゃねぇか。投げ方も微妙に変わったし。武士(福島くんの名前)も気づいてたぞ」
「チッ!」
うぇ!?今、五十嵐くんチッ!って!
私は、五十嵐くんを睨んだ。
「ちょっと、先輩が心配してるっていうのに、なんで舌打ちなんてするの!」
私がそういうと、五十嵐くんの表情が曇っていって、終いには私の方を睨んできた。
「……はっきり言わせてもらいます。西本先輩って、正直うざいです。三浦先輩みたいにデータ分析もできないし、裁縫も下手。それなのに、先輩ヅラしないでください」
信じられない。
……この人、何てこと言うの!?
私の怒りが、喉元までこみ上げる。
けど、今の私は、1年前とは違う。
私は、殴りたくなる衝動を押さえながらぐっと言葉を飲み込んだ。
「要、お前は大事なことが分かってない。明日、彩と一緒に近くの樺橋総合病院に行ってこい。わかったな。じゃ、頼むぞ、彩」
前井先輩はため息をつきながら、それだけ言って私たちに背を向けて歩き出す。
反論する余地なくその場で呆然とする私。
……もう、なんでよりによって。相性最悪のこいつと病院なんて……。
だけど、私はこの藤青野球部のマネージャーであって、主将命令に逆らうわけには行かない。
私は意を決して、五十嵐くんを見上げた。
「明日、朝食終了後の9時、ここに集合だから」
私はそう、五十嵐くんに強く言い切る。
だけど五十嵐くんは、聞いてるかいないんだか分からない表情。
私の怒りを掻き立てるのが本当に上手い。
「言ったんだからねっ!」
私は最後にそれだけ言って、くるっと五十嵐くんに背を向けた。
2人で病院とか、なんで真帆じゃなくて私なのー。
__『三浦先輩みたいに他校の分析や、裁縫もままならないくせに』
五十嵐くんの言葉が私の脳裏をかすめる。
ああ、そうか。
私、分析も裁縫もできないからか……。
なに、このネガティブループ。やめたやめた。
私はふるふると、頭を振って自分の部屋へと急いだ。
ああ、今年の夏、大丈夫かなー……。
✳
朝食を食べ終え、只今AM9:00。
私はホテルのロビーで待っている。
「なによ、あいつ……先輩を待たせるなんて」
イライラが募る。試合前だってのに。
──視界の端に、黒いジャージを着た背の高い男が通り過ぎた。あの背中。あいつしかいない。
「ちょっとっ!」
思わず声をかけて、あの大きな背中に駆け寄る。
……けれど彼は振り向いて、
「なんすか」
と、真顔でひと言。
こんのぉーーっ!
……なんなら、前井先輩に「こいつ殴っていいですか?」って許可取っておけばよかった。
「置いていきますよ、先輩」
そう言い捨て、スタスタと歩いていく五十嵐彰太。
私は仕方なくそのあとをついていく。
ムカつくけど、これでも藤青のエースはこいつ。
性格はひねくれてる……ってもんじゃないけど、実力だけは認めてる。私も、みんなも。
「あ、藤青の五十嵐だっ!」
どこからか聞こえてきた、幼い声。
「わ、本当だ!身長おっきい!」
声のほうを見ると、小学生が何人か。野球のユニフォームに道具。これから練習なんだろう。
彼らは、キラキラした目で五十嵐くんを見つめて、駆け寄ってきた。
「ねえねえ、どうしたらあんな速い球、投げられるの?」
ひとりの男の子が、にこっと笑って五十嵐くんを見上げる。
……きっと、こいつのことだ。
「知らねぇ」とか「自分で考えろ」とか言いそう。そんなこと言ったら、藤青の評判が……
ああああ、それだけは阻止しなきゃっ!
そう思って、あたしが小学生の質問に代わりに答えようとしたとき──
「練習だ。ひたすら練習。……そしたら、きっと結果はついてくる」
……え?
「やっぱり練習か! 僕、頑張るよ! そして、いつか五十嵐みたいに甲子園で野球するんだ!」
「おう、頑張れよ」
そう言って、五十嵐くんはその子の頭を軽く撫でて、歩き出した。
……え。
あの五十嵐くんが、子どもに優しく……?
気のせい? いや、まさか。
「先輩。遅いっす」
気づけば30メートルほど先で、五十嵐くんが立ち止まって、私を待っていた。
私は慌てて駆け出す。
「ねぇ」
「あ?」
一応、聞いてみようかな。
「五十嵐くんって……子供には優しいんだね」
「別に」
そう言って、少しだけ顔を伏せる五十嵐くん。
照れてるのが、なんとなく分かった。
……なんだ、かわいいとこあるじゃん。
なんだか少しだけ、ほんの少しだけ、五十嵐くんのことが苦手じゃなくなった気がした。
__ブワッ
急に強い風が吹いて、私の髪が揺れる。
木々がカサカサと音を立てて揺れて──
「__おーい! 彩っ!」
強い風とともに、懐かしい声が背中を押した。
思わず振り向いた先に、私がずっと待ち続けた人がいた。
「……相原……先輩」
私は立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返る。
そこには──
「なんだよ、お前。練習サボって、新エースとデートかよ」
「ちがっ……!」
「お前、何も変わってねぇな」
先輩。先輩。先輩っ!相原先輩っ……!
視界が揺れる。
正確には、涙が視界を滲ませた。
葉桜の並木道。
そこに立つのは、逢いたかった人。
「うぅぅ……相原せんぱーいっ!」
私は思わず駆け出す。
逢いたかった。逢いたかったよ……。
だけど、いざ目の前に来たら、どうすればいいかわからなくて。
ただ、涙だけが流れていく。
「おお、お前。涙もろいとこ、なんも変わってねぇな」
優しく、私の頭を撫でてくれる先輩。
「おいおい、彩。俺らのこと見えてねぇだろ?……ったく、お前、昔から青一筋だもんな?」
え?
相原先輩の後ろから、懐かしい声が。
「赤坂先輩!?」
顔を上げると──
「おう、彩。前のメッセージ、ちゃんと有言実行しろよ?」
川崎さん。
「こらっ、誠! また彩ちゃんいじめないでよ!」
美和さん。
「あれ? 真帆はどうした、彩」
辻先輩。
「おい夏樹、お前まだ女の子あさってんのかよ」
……テレビで見たことある、相原先輩の1つ上の町先輩。
「うふふっ! ほんと、野球部って仲いいよね」
そう言って笑う、かわいい系の女の人。
……だ、誰?
「あ、彩。見たことない人、いるよな。こっちは俺の元バッテリー、町先輩」
そう相原先輩が紹介すると、町先輩は会釈をしてきたのであたしも会釈で返した。
「んで、こっちが空の親友の愛梨」
愛梨さんはにこっと笑って、「初めまして」っていってくれた。
私も笑顔で、それに答えた。
「相原……青」
後ろから聞こえてきた声。
あ、こいつの存在忘れてた。
私はぐっと、頬に残った涙を拭き、一歩下がって五十嵐くんの隣に並んだ。
「え、もしかしてお前ら……」
辻先輩が、驚いた顔で私たちを見てくる。
「辻先輩。断固として私たち付き合ってませんから」
私がそう釘をさすと、辻先輩はつまらなさそうな顔をしてしまう。
「えっと、多分みなさん知っているかと思いますが……「五十嵐要です。藤青でピッチャーやらせてもらってます」
私の言葉を奪って、勝手に話し始めたこいつに、思わずムッとする。
私は彼をは睨むけれど、五十嵐くんは全く気にしていない様子。
「知ってる。甲子園ファンならお前のことはみんな知ってる」
そういって、相原先輩が一歩五十嵐くんに近づいた。
「お前は俺に似てるよ……。昔の俺に」
その相原先輩の声は鋭くて、少し怖かった。
「どういう……ことっすか?」
初めて、五十嵐くんの顔が引きつったのを見た。
「お前、自分さえいれば勝てると思ってるだろ?」
「はい……」
「俺もそうだった」
え?
あの相原先輩が、こいつと同じだったなんて……
私は五十嵐くんと相原先輩を交互に見る。
だけど……。いやいや……ありえないって。
「俺さ、この甲子園で1回負けてんだよ。……肩、壊してな。投げられなかった」
相原先輩は淡々と話を続ける。
この話なら知ってた。あの夜、川崎さんが言っていたから。
だけどきっと、これくらいの話なら五十嵐くんも
「はい、それなら知ってますよ。浪将に負けたんすよね?」
五十嵐くんは、そう相原先輩の言葉に答えた。
相原先輩はふっと笑うと、再び言葉を紡ぐ。
「ああ。お前の言う通りだ。俺はベンチに下げられ、俺は怪我した自分を責めてずっとうつむいていた。声も出さずにな。結局藤青は負けたんだ。だけどもし……俺があそこで前を向いて現実から目を離さないでグランドに声を放っていたら、違う未来があったかもしれない。そんな俺にある人はこういったんだ。『野球は、グラウンドに出てる人だけでやってるわけじゃない。ベンチ控えているチームメイト、ベンチにさえ入れないチームメイト、応援団の皆がいるから野球が出来る。忘れたのか?』って。この言葉の意味わかるか?」
優しく、五十嵐くんに問いかける相原先輩。
だけど、五十嵐くんはふるふると首を横に振った。
「チームメイトを信じろってことだよ」
そこ瞬間、ふっと自然に五十嵐くんの顔が上がった。
「中学の時、お前がシニアで受けた屈辱はわかる。お前の求める野球がそこになかっただけだろう?……大丈夫だ。藤青にはお前の求める野球がある。信じろ、自分の力と、チームメイトを」
そういって、相原先輩は、五十嵐くんに胸にぐっとこぶしを押しつけた。
「な、なんで俺の中学を……」
「ああ、川崎だよ。あいつは、目をつけた奴をとことん分析する奴だから。わりぃな。過去、探っちまって」
すると、途端に五十嵐くんの表情が柔らかくなった。
「……ははっ!さすがっすよ。さすが、相原先輩ですよ。……俺絶対先輩に追いつくんで。待っててくださいよ」
そういって、初めて五十嵐くんが笑った。
なんだ、こんなに柔らかく笑うんだ。
いつの間にか私の顔にも笑みがこぼれていた。
「ほら、さっさと病院行って怪我見てもらえ」
そういって、相原先輩は五十嵐くんの背中笑顔で押した。
ぽんと一歩前に出た五十嵐くん。
そんな五十嵐くんに私もついていく。
私の隣には、まだ頼りないけれど確かな藤青のエース。
そして後ろには逞しい味方。
自然と前に出る一歩。
大丈夫、大丈夫。
きっと、今の藤青は強い。
……私の隣には、今、こんなにもまっすぐな目で前を見てるエースがいる。
それだけで、きっと、大丈夫な気がした。
✳
「__え、つまり先生。五十嵐くんは投げられないんですか?」
「はぁ……。だから何度も言っているように、五十嵐くんの肩は野球肩になっていて、無理して投げたら選手生命が危うい。だから、残念だけど、1か月間投球禁止だ。わかったね?」
わかったねって……。
医者は淡々と今の五十嵐くんの怪我の現状を話す。
だけど、だけど……
「何かないんですか?何か、何か……」
「先生」
ここで初めて、五十嵐くんが口を開いた。
「痛み止めの注射、ありますか?」
その言葉を聞いた瞬間、医者は驚いた顔をして、目を見開いた。
「いいかい。痛み止めは、痛みがないだけで、治ったわけじゃない。医者としてそのような自殺行為はおすすめできない」
悔しかった。
ここまで来たのに──
うちのピッチャーは五十嵐くん以外にいないことはない。
だけど、この甲子園で通じるピッチャーは……彼しかいないことが現状だった。
「いいっすよ」
え?
「え、ちょっとまって……いいって……」
私は思わず立ち上がって五十嵐くんを見た。
彼に瞳はあまりにも真剣でまっすぐと医者を見つめていた。
「痛み止め、打ってください」
「もう一度言うよ?君はまだ若い。来年もある。ここで無理すれば、お先真っ暗だ。悔しいと思うが……「前井先輩たちは最後だ」」
五十嵐くんの、叫びにも似た鋭い声が病室に響いた。
「俺はまだ次がある。でも、前井先輩たちには……これが最後の甲子園なんです」
その瞬間、目の前の彼がまるで別人のように見えた。
あんなに冷たかった彼が、こんなふうに声を震わせている。
今、私ができること。
それは――深く、深く頭を下げることだった。
「お願いします……。私からも。痛み止め、打ってあげてください」
五十嵐くんの意志を、信じること。
きっと今、彼は変わろうとしている。
前に進もうとしているんだ――そう思った。
「……はぁ。50球。それ以上は絶対に無理だぞ」
医者はため息まじりに頭を抱えながら、了承してくれた。
診察室を出て、私と五十嵐くんは顔を見合わせて、ふっと笑い合った。
その後、明日の朝にもう一度来るように言われて、私たちはロビーで呼ばれるのを待った。
「……なんで、先輩があそこで頭下げたわけ? ぜってー反対されると思ってた」
そう言って、五十嵐くんは不思議そうに私を見た。
「……出たいんでしょ? 試合に。しかも、自分のためじゃなくて、先輩たちのために頑張るとか……かっこいいじゃん」
そう言うと、五十嵐くんは照れたように笑った。
「俺さ、中学の時、ひとり浮いてたんだよ」
突然、彼が語り出す。
私は黙って、ただうなずいた。
「自分で言うのもなんだけどさ、俺、多分――野球の才能あるんだと思う。小さい頃から兄貴の影響でずっと野球をしてて、それがただ楽しくて。リトルリーグでも結構活躍して、中学に上がればシニアで俺の名前を知らない奴なんていないくらい、有名だった。でも、俺の野球についてこられる奴は、気づいたら一人もいなくて。気がつけば、俺だけが一人で野球してた。一人で投げて、一人で打って。勝っても、誰も喜んでくれなかった」
さっき、相原先輩が言っていた言葉の意味が――ようやく、わかった気がした。
__『中学の時、お前がシニアで受けた屈辱はわかる。お前の求める野球がそこになかっただけだろう?』
そういう意味だったんだ。
じゃあさ……
「五十嵐くんが求める野球って、どんな野球なの?」
そう問いかけると、五十嵐くんはふっと、私に笑顔を向けた。
「自由な野球。全力を出せる野球。それから……見てる人が楽しんでくれるような……そんな野球。――相原先輩がやってたような、野球」
__『……大丈夫だ。藤青には、お前の求める野球がある。信じろ、自分の力と、チームメイトを』
相原先輩。
ここにもいましたよ。
あなたのプレーに、心を奪われた青年が。
先輩……あなたはやっぱり、すごい人ですね______。
その後、私たちは会計を済ませて、皆が練習しているグラウンドへと向かった。
青空の下――どんな物語を描こう。
あの相原先輩や辻先輩、赤坂先輩が見せたような、感動の渦を。
私たちも、きっと巻き起こせる。
藤青の野球を――。
✳
球場に鳴り響く、もう聞き慣れたあのサイレンの音。
でもこの音が、勝利を告げることもあれば、敗北を知らせることもある。
今日のあたしたちにとっては――
「将星高校……優勝」
……敗北の音だった。
泣いている。みんな、みんな泣いている。
準決勝まで、五十嵐くんをエースに据えて、強豪校を次々と倒してきた藤青。
でも、この決勝戦だけは――五十嵐くんをマウンドに立たせなかった。
理由は……彼の体のことを考えた、前井先輩と監督の判断だった。
五十嵐くんは、泣き叫んだ。
でも、前井先輩はその意思を、最後まで曲げなかった。
きっと、本当は一番――
一番、五十嵐くんを出したかったのは、前井先輩のはずなのに。
だけど、試合に出られなくても、五十嵐くんはベンチで誰よりも大きな声を出して、戦っていた。
きっと、それは――相原先輩。
あなたの言葉が、あのときのまま、五十嵐くんの中に生きていたから。
先輩。ごめんなさい。
あの卒業式の約束、守れなかった。
やっぱり……連覇って、簡単なものじゃないね。
でも――来年。
来年こそは、ちゃんとあの優勝旗を取り返してみせるから。
だから――
「__彩」
……え?
球場からホテルへ戻るバスに乗ろうとしたそのとき、誰かが私の名前を呼んだ。
声の主は、もうわかっていた。
でも、その人がここにいるなんて、どうしても信じられなかった。
恐る恐る振り向くと――
「あ、相原……先輩?」
やっぱり……そうだ。
「な、なんで……?」
言葉にならずに、私は一歩一歩、先輩に近づいていく。
「さぁ、なんでだろうな」
そう言って、意地悪そうに笑う相原先輩。
「……なんかさ、ここ、空がよく見えるだろ?」
そう言って空を仰ぐ先輩の横顔は、どこか切なくて――
でも、あの頃と何ひとつ変わらなかった。
そう、相原先輩には……あの人がいるから。
「彩ー! もう出発するよー!」
真帆がバスから私を呼ぶ。
「あ、うん! わかった! ……じゃあ先輩、私、これで……って、わっ!」
不意に、先輩が私の手首をつかんで引き寄せた。
バランスを崩した私の体は、そのまま先輩に預けられる。
え、ちょっと、まって……
皆、見てるのに……!?
焦る私の視界が、急に暗くなった。
先輩のジャケットが、私たちを隠したその瞬間――
唇に、やさしい温度が落とされた。
頭が真っ白になって、言葉も出ないまま、先輩が私から離れていく。
「それが、俺の答え。……洗濯する前に、ポケットの中、確認しとけよ」
そう言い残して、先輩は去っていった。
呆然とその場に立ち尽くす私。
そして、先輩の後ろ姿が見えなくなった時、急に思考が回転する。
――え、えええ!?
私、今……キス、された……!?
『洗濯する前にポケットの中は確認しとけよ』
先輩のセリフを思い出し、私は慌ててポケットの中を探る。
そして、見つけたのは――
相原先輩の電話番号とメッセージアカウント、そして、小さなメッセージカード。
そこに書かれていた言葉は……
『お前のこと好きだから、付き合って。 ――青』
「えええええええええええっ!?」
空を見上げると、青空が眩しく笑っていた。
__空さん
今日も、相原先輩のこと……ちゃんと見守っていてくださいね______。



