✳
「ただいまー!」
無事にホテルへ戻り、ドアを開ける。
時計の針は、もう21時を過ぎていた。
「あ、おかえりー。こっちは全然大丈夫だったよ。うまくごまかしといたから」
机に勉強道具を広げ、メガネをかけた真帆がにこっと笑う。
私は靴を脱ぎ、靴下も放り投げ、そのままベッドにダイブ。
全身の力が抜けて、自然とため息が漏れた。
真帆はパタンと教科書を閉じて、私のそばに腰を下ろす。
「どうだった?」
落ち着いた声。
でも――今日のことは、誰にも言いたくなかった。
私は首を横に振るだけだった。
真帆はそれで察したのか、「そっか……」とだけ言って、自分のベッドへと戻っていった。
私も軽く着替えて、ベッドに横になる。
夕飯は抜き。でも、不思議と空腹は感じなかった。
お風呂……明日の朝でいいや。
ぼんやりそんなことを考えているうちに、私は静かに眠りへと落ちていった。
✳
試合開始のサイレンが球場に鳴り響く。
私は思わず立ち上がって、グラウンドを見渡した。
鳥肌がゾワッと全身を走る。
目の前に広がるのは、黒土と芝の緑――そのコントラストがまぶしい。
ユニフォームをまとった球児たちが、逞しくグラウンドを駆ける。
見上げれば、相原先輩が「好き」と言っていた、あの青空。
「彩っ! 何ぼーっとしてるの? もう試合始まってるんだよ!」
背後から記録係・真帆の声が飛んできた。
「……甲子園……やっぱり、すごいや」
思わず笑みがこぼれる。
すごい、この熱気。
すごい、この歓声。
すごい、この緊張感。
地方大会とは、すべてが違って見えた。
私にとっては、何もかもが初めてで、全部がキラキラしていた。
「お前、興奮しすぎだし」
くすくすと笑う声が聞こえて、思わず後ろを振り返る。
……でも、そこに声の主の姿はない。
「おい、グラウンドから目、離すなよ」
隣に、ふと現れた影。
目を向けると、そこに立っていたのは――
「なっ……! 相原先輩が笑うからじゃないですか!」
思わず睨むように見上げる。
けれど、先輩の表情はすでに“試合モード”。
真剣な眼差しで、マウンドの赤坂先輩をじっと見つめていた。
一回表、1アウト三塁。スコアは0対0。
このまま三回までは赤坂先輩でいく――そう思っていた矢先。
「相原、肩作ってこい」
監督の低い声がベンチに響く。
え……? なんで?
赤坂先輩、まだ投げられるはずなのに。
「うぃっす!」
相原先輩は軽やかに返事をして、ベンチを飛び出した。
……もしかして、もうこの回で交代するつもり……?
「キャプテン、球が安定してない」
隣から、ぼそっと声がした。
視線を向けると、同じ一年の福島武士(ふくしま たけし)くん。
スタメンではないけど、ベンチ入りを果たした一年生のキャッチャー。
「球が安定してないって……どういうこと?」
問いかけると、福島くんはグラウンドを見つめたまま答える。
「赤坂先輩、ここで投げるのにまだ慣れてない。肩に力が入りすぎてる。今はギリギリでストライク入ってるけど、いつ崩れてもおかしくねぇ。……球威、落ちてきてる」
私も改めて赤坂先輩の投球に目を凝らす。
けれど――
「……分かんないや」
目が慣れてない私には、変化なんて見えなかった。
「ま、しゃーねぇよ。でもさ、赤坂先輩ってポーカーフェイスだから、気づけるの、たぶん数人だけ。監督、先輩たち、相原先輩……あとは俺くらいじゃね?」
福島くんがちらっと笑った。
「やっぱり、相原先輩も気づいてたんだ」
「当たり前だろ? ……あの人、すげぇよ。いつか俺も、あの人の球をリードしたい」
その目は、まっすぐで――本当にまぶしかった。
『ピッチャー交代……相原くん』
場内アナウンスが響き、ベンチから飛び出してきたのは――相原先輩。
頬をつたう汗が、きらりと光る。
キャプテンに背中をバシッと叩かれ、マウンドへと向かっていく。
マウンドに立つ相原先輩が、やっぱりいちばんかっこいい。
教室で見るときよりも。
友達とふざけているときよりも。
ベンチで笑っているときよりも。
その鋭い目でバッテリーの辻先輩に、にやっと笑いかけた。
これが、藤青の野球。
見ている人を楽しませてくれる、最高のパフォーマンス。
だから――気づけば、声を出して応援していた。
「ストライーク! バッターアウト!」
どよめくアルプス、沸き上がるベンチ。
あの、浪将の四番を――三振に仕留めた。
たった一球で、流れが変わる。そんな瞬間だった。
「やっぱ、あいつはすげーよ」
ベンチから赤坂先輩の声が聞こえた。
誰もが認める野球センス。
それがエース――相原先輩。
ふっと息を吐き、軽く肩を回す姿。
これは、集中してるときの合図。
自分の世界に入ってるってこと。
2アウト三塁。
スコアは依然、0対0。
バッターが睨む。吠える。
相原先輩は――キッと目を見開いて、辻先輩のリードに頷き、構えた。
……何度見てもかっこいい。って、惚れてる場合じゃない!ちゃんと見なきゃ。ちゃんと目に焼きつけておかなきゃ。
だって、これは――先輩の、最後の大会だから。
「ストライクッ! バッターアウト!」
再び審判の声が響き、笑顔でこちらへ駆けてくるチームメイトたち。
赤坂先輩がベンチの前で出迎え、背中をバシバシ叩いている。
「おっしゃー! いくぞっ!」
そう叫んで飛び出していくのは、一番バッターの前井和貴先輩と、二番バッターの一年生・梶光希くん。
頑張って……!
「頑張って!」
心の中で思っていた言葉が、声になって届く。
「「おうっ!」」
背中越しに力強い声が返ってきて、自然と笑みがこぼれた。
真帆の話では、相手ピッチャーはストレート勝負。
球は速いけど、コントロールが甘いらしい。
カキーン
聞こえてきた打球の音。
前井先輩が本塁から飛び出し、一塁へと走る。
その間、ボールはぐんぐん延びていき、レフト前で落ちた。
余裕で一塁を踏んだ前井先輩。
ベンチとアルプスからは素晴らしい歓声。
そして、続く梶くんも……
カコーン
バンドで球をうまく転がし、前井先輩は二塁に、梶くんは一塁に向けて走る。
こ、これは……
「アウトっ!」
送りバンド!
でた!梶くんの得意技っ!
前井先輩は二塁を踏み、三塁へと構える。
いけるじゃん!
藤青ってこんなに強かったの?
「油断……すんなよ」
ふと、耳元で聞こえた声。
え、っと思って振り向けば真顔の相原先輩。
油断……?
「油断したら、一気に足元すくわれるからな」
そういって、真っ直ぐとグランドを見つめる相原先輩。
その言葉はなぜか、重く、ずんと心の奥に入っていった。
その瞬間だった。
カコーン
白球がバッドに当たる鈍い音が聞こえた。
三番バッターの3年生、辻先輩が本塁から一塁へと全力で駆け抜ける。
打球はショートの正面。構える間もなく、グラブに吸い込まれた。
「アウト!」
まずは、一塁に飛び込んだ辻先輩がアウトになってしまう。
二塁にいた前井先輩はそのままで動かない。
……油断しちゃいけない。
相原先輩はこうなることがわかっていたから言ったのだろうか。
そう思ってベンチを振り返ると……もう、そこに相原先輩の姿はなかった。
次の瞬間、グラウンドに立つその背中が見えた。
「藤青の青とはーおーまえだー」
相原先輩への応援歌が聞こえてくる。
打席に相原先輩の姿があった。
肩をゆっくりとあげて、グッと落とす。相原先輩は深呼吸をした模様。
2アウト三塁。
打てば一点入るかもしれない。打たなければチェンジで、振り出しに戻る。
「先輩っ!打てーーー!」
隣の福島くんが相原先輩に向かって叫ぶ。
「先輩っ!かっ飛ばせーっ!」
私も負けじと叫ぶ。
かっ飛ばせ。あの青空へ。
空さんに届くように。
カキーン
聞こえてくるのは、気持ちがいいほどの白球とバットがぶつかる音。
白球は、どこまでもどこまでも――空さんがいる、あの青空へと吸い込まれていった。
いけ……いけ……どこまでも……。
「うわぁぁぁぁあーっ!!!」
ベンチとアルプスからの今日一番の歓声が響き渡る。
「……ホーム……ラン……」
私は確めるようにそう言葉に出す。
グランドではガッツポーズを掲げながらダイヤモンドを掛ける相原先輩。
すごい。もう、すごいなんて言葉じゃ足りない。
「本当に、かっ飛ばしちゃった」
きっと、空さんがそばにいるんだ。相原先輩は、それを信じている。そう思うと、私の胸は――少し、苦しくなった。
「お、おい。お前、何泣いてんだよ」
福島くんが、不思議そうな顔でこちらを見てくる。
「私、泣いてなんか……っ!」
言いかけて、気づく。
頬を伝う熱いもの。右手で拭っても、次から次へと溢れてきて、止まらない。
だけど、その滴は止めどなく溢れてきて、ポタポタと流れ落ちる。
「あれ、なんで……?」
泣く理由なんて、どこにもないはずなのに。
なのに、どうして……こんなにも、心が震えるんだろう。
「あはは……。嬉し涙だよ。嬉し涙っ!」
そういって、私は無理矢理笑顔を作った。
そうだよ。嬉し涙だよ。
だけど、どうしてだろう。
胸の奥が、こんなにもズキズキ痛むのは。
相原先輩が、こんなにも遠くに感じるのは——。
相原先輩には、空さんがいる。
私の入る隙間なんて、最初からどこにもなかったんだ_____。
✳
「藤青学園高校の勝利っ!……礼っ!」
「「ありがとうございましたっ!」」
その後、6対3で藤青学園は見事試合の流れを最後まで浪将に渡すことなく、勝利を収めた。
グラウンドに響き渡る藤青の校歌。
ここで聞く校歌は、全校集会で聞く体育館の校歌よりもはるかに、壮大に聞こえた。
そして、じわじわと実感する__私たちは勝ったんだって。
「あ、あーちゃんっ!」
記者の質問も終え、球場からホテルへと移動するためにバスへ乗ろうとしてた私たち。
そのとき、透き通るような少女の声が響いた。
藤青野球部が一斉にそちらを振り返る。
そこに立っていたのは——
「うわっ!超美人っ!」
隣にいた真帆がそうつぶやくほどの美人。
いや、真帆も十分綺麗なんだけどね。
クリクリの目にサラサラ黒髪をなびかせた可愛らしい女の子。
だけど、顔にはまだ幼さがある。身長は私よりも高いみたい。他校の……生徒かな?
「おう、瑠璃。お前なんでこんなところにいるんだよっ!お前、おばさんたちはどうした?」
少女の姿を見た途端、バスに乗ろうとしていた相原先輩がその少女に駆け寄った。
瑠璃?どこかで聞いたことのある名前……。
__『あと、ほら、な?瑠璃ちゃんにも会ってくるとか言ってたし』
赤坂先輩があの夜ホテルで、川崎さんに言っていた会話を思い出す。
おそらく__空さんの妹。
「彩。さっきから何あの子ずっと見てるの」
隣から真帆が不思議そうな顔で見てくる。
「ねね、真帆」
私もさ、信じられないんだけど。
「ん?」
「あの子、小学生なんだよ」
「……えっ!?」
真帆は目を見開き、信じられないものを見るように瑠璃ちゃんを見つめた。
だよね。そうなるよね。
だって、すごいスタイルだもん。
この子の姉が、あの空さん。
妹がこんなにかわいいんだもん。
空さんがどれだけ綺麗だったのかは大体予想がつく。
「青、早くしろーっ!」
赤坂先輩の声がバスの開けられた窓から聞こえた。
その瞬間、瑠璃ちゃんと相原先輩は話をやめ、軽く瑠璃ちゃんの頭を撫でてバスへと戻った。
瑠璃ちゃんは、相原先輩がバスに乗ったことを確認すると素早くその場から離れる。
「彩ー!」
真帆から声をかけられ、はっとする私。
私は駆け足でバスに乗んだ。その瞬間バスの扉は閉められ発車する。
モヤモヤが胸に渦を巻く。
ぐるぐる、ぐるぐると、答えのない思考が巡っていく。
なんだろう。
バスの中は、1回戦突破ということでやや興奮気味の車内。ただ、私はどうしても、さっきの瑠璃ちゃんと相原先輩のことが気になって、笑顔が作れなかった_____。
✳
「今日はお疲れ様。みんな疲れてるみたいだから、ゆっくり休むように。夕食は七時から夕凪の間で行う。遅刻すんなよ。それまでに風呂は各自で入っておけっ!」
ホテルに到着したバスの中で、赤坂先輩がそういうと、皆返事をして、各自荷物を持ってバスを降りる。
私たちマネージャーはそのあと明日の用意をしてから自分の部屋へと向かう。
部屋に着くと、ベッドメイキングも済ませてあって、初日のようなきれいな部屋が広がっていた。
「あー……疲れたー……」
私は部屋に着いた途端、ベッドの上に転がる。
次の試合は2日後。だから明日は1日練習。
そして、藤青の相手は……
「ねえ、彩。明日の相手、将星なんだよ」
私が思う前に、真帆に言われてしまう。
そんな真帆の声はどこか怒っているようだった。
私はゆっくりと体を起こして、真帆の方を見る。真帆は私の前に立ったまま、見下ろしてきて微動だしない。
「彩さ……あんた、何しにこの甲子園に来たの?」
「え?」
何しにって……。
あれ……どうして、ここに来たんだっけ? 私……何のために、こんなに走ってきたんだろう?
真帆は私の隣に黙って座り、じっと私の目を見てきた。
「相原先輩も、辻先輩も、キャプテンも、前井先輩も、梶くんも、福島くんも皆、皆……この甲子園で勝ちに来てるんだよ」
真帆がいつになく熱く私に語りだす。
知ってる。そんなこと知っている。
あの、テレビで甲子園を見た日からそんなことは知っている。
「彩……今日の試合、何を考えて見てたの? 心、どこかに置いてきたみたいだったよ」
「え?」
真帆の予想外の言葉にあたしは思わず声を出す。
何って……。
「応援してたよ、藤青を……」
「あんな、一人だけ悲しそうな顔をして?」
真帆の言葉が胸に何かが刺さったそうな、そんな感じがした。
「相原先輩がマウンドに立った時から、彩の顔すっごく悲しそうになって……。甲子園で1勝を挙げることがどれだけすごいことかっていうのは私も知ってるよ。なのにさ、彩、なんでそんな今にも泣きそうな顔してるのさっ!」
なんでって、そんなの……。
「う……うぅっ……まほ、うっ……」
声にならない嗚咽がこぼれて、私は思わず真帆にしがみついた。
「本当はさ、あの夜。川崎さんから何か聞いたんじゃないの?」
真帆は私を抱きしめながら、優しく私の頭を撫でてくれた。
何でこんなにも、真帆は私のことがわかってしまうのだろう。
何でこんなにも、真帆の前では嘘がつけないんだろう。
私ぐっと自分の唇をかみしめて、涙をぬぐった。
そして、真帆から体をそっと離して、真帆の顔をじっとみる。
話そう。ちゃんと話そう。
私はそのあと、ゆっくりと川崎さんから聞いた話をし始めた。空さんのこと全てを。
私が話し終えたころには、真帆の頬に涙が一滴光っていた。
「彩……あたし……」
真帆はうつむきながら、涙を流す。
「ごめん」
そういって謝る真帆。
何言ってるの?真帆は悪くないよ。
「何謝ってるのさ……。何……なに真帆まで泣いてるのさっ!」
「だって……だって……」
そういって真帆は俯いたまま。
顔はあげてくれない。私が悪いんだよ。
真帆が正しいんだよ。
真帆の言葉でやっと気づいた。
やっと、私、何してるんだって思った。
ここは、甲子園。ここは、夢の舞台。
こんなところで、立ち止まっていられない。
相原先輩が目指しているのはきっと頂点。
私が、下を向いてどうする。
空さんの代わりにはなれないけれど、応援することは私にもできる。
「私、決めた」
真帆の前で宣言しよう。
私が、また泣きそうな顔をしていたら怒ってもらえるように。
「もう、あたし……笑顔を絶やさない。絶対に、絶対に、勝ちたいから!」
いや、勝つんだから。
これは、油断ではなくて、自信。
「ふふっ……。いつもの彩に戻ったね」
そういって、真帆は涙で泣き腫らした目を私に向けた。
もう、大丈夫。私は、一人じゃないよ。
真帆がいる。こんなにも力強い親友がいる。
藤青野球部のマネージャーはこんなところではへこたれない。
二人三脚で、立ち向かうんだから。
さぁ、いこうか。前を向いて。
笑顔を絶やさないで______向かうは将星っ!
✳
「――ということだから。前にも言ったと思うけど、油断してかかるな。いくら負けなしでも、相手は甲子園常連校だ。キャプテンは、あの天才キャッチャー・川崎誠だからな。真帆、分析はどうだ?」
ここは、旅館の夕食会場――通称“夕凪の間”。
全員があっという間に料理を平らげ、今は今日の反省と次の試合に向けたミーティングの真っ最中だった。
私はホテルのスタッフの手伝いで食器を片づけ、真帆は将星高校の分析データを淡々と読み上げていた。
あとから聞いた話では、マネージャーを決めるオーディションの時、真帆は藤青野球部の練習をたった一度見ただけで、強みと弱点を的確に言い当てたらしい。
キャプテンの前で、何の迷いもなく。
――とんでもない観察力。
その話を聞いた瞬間、真帆がマネージャーに選ばれた理由に深く納得した。
「キャプテンの言っていた将星の川崎誠は、甲子園を見ている人なら誰もが知っている選手です。キャッチャーであり、4番バッターでもあります。川崎選手のリードは、常に相手の弱点を的確に突いています。まるで、打者の心を読んでいるみたいに。つまり、相手選手全員の弱点を頭に入れている可能性が高いです。将星の脅威は彼だけではありません。ピッチャーの中田樹(二年)はコントロールが安定しており、川崎のリードに正確に応える投手です。また、今年の将星は攻撃重視の傾向が見られます。特に盗塁が多く、1番バッターの大野真一(一年)は、将星で最も俊足です。以上を踏まえて……とにかく、油断せずに。みんなで、勝ちましょう。」
「……おい真帆。お前、まとめる力だけはねぇよなあ」
赤坂先輩が苦笑しながら言う。
真帆は、いつもこう。
そして、いつも最後にまとめてくれるのは――
「明日の練習は、内野守備と各自の苦手コースを重点的にバッティング練習だな」
真帆の隣にいた辻先輩が、ビシッとまとめてくれる。
いつもは相原先輩とふざけ合ってばかりだけど、こういう場面では、頼れる先輩だ。
隣の真帆は、ほっとしたように表情を緩めていた。
「よし、じゃあこれでミーティング終了だ! 言いたいことがあるやつはいないか?」
赤坂先輩があたりを見渡し、私のところで視線を止めた。
「お、彩。片づけありがとな。言いたいことあるなら、こっち来て言えよ」
そう言って、赤坂先輩は輪の中に入れるよう、少しスペースを開けてくれた。息を飲んで、私は輪の中へ足を踏み出した。立っているのは、私だけ。無数の視線が、私に突き刺さる。
「あの……まず……すみませんでした!」
深く頭を下げる。
「お、おい彩。どうした? お前、何か悪いことでもしたのかよ」
赤坂先輩の優しい声が耳に届く。
私は唇を噛み、顔を上げた。
涙が出そうだったけど、ぐっとこらえて、みんなの顔を見渡した。
そこにあったのは、真剣なまなざしだけだった。
私を笑う人なんて、一人もいなかった。
「私、甲子園に行けるってことが、どれだけすごいことか、どれだけ注目されることなのか、わかっていませんでした。先輩たちが必死に戦っているのに、私は私情を挟んでばかりで……。真帆みたいに分析が得意なわけでもないし、裁縫も下手だし、洗濯や掃除も段取りが悪い。唯一あるのは――野球が好き、ってことだけで……」
「それだけあれば十分」
私の言葉を赤坂先輩が遮った。
「それだけでいいんだよ。野球が好きって気持ちがあれば、お前はここにいていい。いてくれなきゃ困るんだ」
「え……」
「足を引っ張ってるなんて思うな。たとえそうでも、俺たちは、お前が俺たちの足を掴んだままでも、一緒に前に進むよ。お前をマネージャーに選んだのは俺だ。人を見る目だけはあるんだ。お前は心配なんてしなくていい。ベンチで俺らの応援してくれるだけで、十分背中を押してくれてるよ」
その優しいまなざしに、ぽろりと一滴、涙がこぼれた。
「青なんて、俺たちのことほったらかして、半年も眠ってたからな? それに比べたら、彩の失敗の一つや二つ、なんてことないよ」
辻先輩が冗談まじりに笑う。
でも、その話を知らなかった一年生たちは、驚いたように相原先輩を見た。
「先輩、半年も眠ってたって……眠り姫ならぬ、眠り王子ですか?」
梶くんが笑いながらツッコミを入れる。
「違ぇよ。ただの事故だよ。気づいたら、半年経ってたってだけ」
相原先輩は、ちょっとめんどくさそうに笑いながら答える。
「なんで、俺たちに教えてくれなかったんですか~」
ブーブー文句を言うのは、福島くん。
「言えって言われてねぇし?」
そう言ってニコッと笑った相原先輩が、じっと辻先輩を見る。
その笑みには――「余計なこと言うなよ」って意味が込められているように見えて、思わず私はお腹の底から笑ってしまった。
それにつられて、赤坂先輩、辻先輩、真帆、そしていつの間にか相原先輩まで、お腹を抱えて笑っていた。
“夕凪の間”______私たちの笑い声が響き渡った。
✳
ねぇ、空さん。
きっと今も、相原先輩のそばにいてくれているんだよね。
私、空さんの代わりにはなれないけれど――相原先輩が全力で野球ができるように、私なりに支えていこうと思う。
空さんが守りたかった、あの笑顔は……ちゃんと、ここにあるから。
だから、どうか安心して。
空から、青空から、見守っていてください。
きっと、先輩は空さんのために勝ってくれる。
青空に、優勝旗を掲げてくれるから――。
「ねぇ……真帆」
「な、何?」
「これ、夢じゃないよね?」
「じゃあ、私が彩のほっぺ、つねってあげよっか?」
「もう、何回も自分の頬をつねったよ……。だから……だから……。私たち、本当に……優勝、しちゃったんだよね」
目の前に広がるのは、茶色と緑の、美しいコントラスト。
そして、その空間に響くのは――
藤青の校歌。
「藤青学園高校。優勝、おめでとう」
これは、夢なんかじゃない。
紛れもない現実。
私たちは――全国ナンバーワンになったんだ。
校歌を歌いながら、ふと視線を上げると――
相原先輩が、空に向かってそっと微笑んでいた。
きっと、空さんに届けようとしているんだ。
相原先輩、最後の夏。
こんなにも間近で、先輩が野球をする姿を見るのは――きっと、これが最後。
こんなふうに、同じ場所で肩を並べて戦うことも、もう、ないのかもしれない。
空さん。
どうか、これからも――相原先輩を見守ってあげてください。
今、先輩が……
あの青空を、優しい目で見上げているように。



