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マネージャーの仕事がようやく板についてきたのは、6月のこと。
あの感動の夏の大会までは、あと1か月を切っていた。
毎日の練習がハードすぎて、授業中はつい、うとうとしてしまう。
唯一、私が教室にいて意識があるのは弁当を食べている時と言っても過言ではない。
昼休みになり、私は何時ものように真帆の席の近くに行き弁当を広げる。
真帆の席は窓際のためよく空の様子がうかがえる。
今日も青空。
青空ということは、相原先輩の調子がいい日。
「今日は晴れてよかったね。」
真帆が、弁当の卵焼きを頬張りながら空を見つめる。
「本当に……。昨日雨だったし、相原先輩、一段とぶすっとしてたよね?」
私も、ウインナーを口に入れて話し出す。
「そうそう……。相原先輩が空見上げるときの顔ってなんか切ないよね」
「あ、それわかる。なんか泣きそうだよね、いつも」
「彩、もしかしてさ……。相原先輩好きになってる?」
「…ふぇ!?」
一瞬、口に入れていたものが出そうになる私。
確かに、この高校を選んだ理由も、野球部に入った理由も相原先輩だけど、好きだからとかの理由じゃない。
相原先輩のプレーは好きだけど。
「あははっ!彩びっくりしすぎっ!」
「真帆はどうなの?相原先輩」
「んー、いい人だと思うけど、好きじゃないね。私、先輩は無理だもん」
「ふーん……」
真帆の返事を聞いた瞬間、なぜか胸の奥がふっと軽くなる。
自分でも、その理由に戸惑っていた。
「でもさ、相原先輩めっちゃモテるじゃん?なんで彼女とかいないんだろうね?」
真帆が何かを悟ったのか、話題を少しそらす。
「……野球バカだからじゃない?それか、実は男の人が好きとか」
「いやいや、さすがにそれは!」
「だって、いつも辻先輩とキャプテンと一緒にいるじゃん?」
私がそういうと、真帆はお腹を抱えて笑い出した。
「いいよ!私、明日直接聞くんだから!」
私はムキになって、最後のウインナーを口に入れた。
「どうやって?」
「朝、偶然を装って、相原先輩と一緒に登校してくる!」
「私は?」
「明日は別々に登校しよ!」
「えー…そんなぁ…」
真帆は、ガクッと肩を下ろすのがわかった。
ここまで来たら何が何でも突き止めてやる。
だけど、ちょっと待って。
私、なんでここまで、相原先輩の彼女事情のことで一生懸命になってるんだろう______。
✳
翌日の朝、私はいつもより早めに起きて、準備を済ませる。
確か、相原先輩が登校するのは6時半くらいで、相原先輩の家から学校までの間に私の家があることが、つ
私の家の前を通るのがたぶん6時10分くらい。
私は2階の窓から、相原先輩が通るのをひたすら待った。
すると、家の前をブレザーの制服を着た1人の生徒が歩いてゆく。
あの制服は藤青学園。
それに加えて、野球部専用エナメルバックにあの短髪。
間違いない!
私はものすごい勢いで階段を駆け下り、いってきまーすといって家を出た。
約50m先にいる相原先輩。
私は勢いよく先輩に向かって駆け出した。
「相原せーんぱいっ!」
先輩の後ろから驚かせるために少し強く背中を押した。
「うおっと」
思わず声が出てしまった様子の相原先輩。
相原先輩は後ろを振り向いて私だとわかると、少しはにかんだ。
「おお、どうした?」
「いやぁーあたしの家、この近くなんですよ。ちょっとお話しながら行きません?」
「ああ、いいけど」
そして再び歩き出す相原先輩。
私はその隣に並んで歩くことにした。
「……あの、変なこと聞いていいですか?先輩って、もしかして……男の人が好きだったりします?」
「……うはははっ!お前、なんでそんなこと聞くんだよっ!」
「え、だって、先輩モテるのに彼女いないし、赤坂先輩とか、辻先輩とかの野球部とずっと一緒に居るじゃないですか?だからてっきりそうなのかと……」
「それは、考えすぎ」
一つ予想が外れて、真帆の「ほらみた」という顔が浮かぶ。
私はそれを振り払い、もう一つ確認してみる。
「……じゃあ、空に恋してるって言うのは?」
「……」
相原先輩の足が止まり、うつむいた顔に光と影が落ちる。
胸の奥を風が吹き抜けたような静寂が訪れた。
「…先輩?」
私も足を止めて、相原先輩のほうを振り返る。
「私、なんか変なこと言いました?」
そうやって聞いてみても、やっぱり何も言わない先輩。
相原先輩が言い淀んでいることは明白だった。
____何かを彼はかかえている。
だけど、それを言葉で言及することはなんだか違う気がした。
私はそのまま人差し指を上に向けた。
「あの空のことですよ?」
私の指を見て、先輩の顔も同時に上を向く。
今日はとてもきれいな青空だった。
そして、空を仰ぐ先輩の顔はやっぱり切なげだった。
____どこか、失った一部を探しているような、そんな目をしていた。
「なんでそんな話に?」
やっと返事をしてくれた先輩の声は驚くほど優しく聞こえた。
「クラスの子が言ってたんです。先輩はいつも愛しそうに、切なそうにいつも空を見上げてるって」
私がそう言うと、先輩は目を一度見開いてから、そのまお腹をかかえて笑い出す。
「……うはははっ!鋭い奴だな、そいつは」
「え?それじゃぁ、本当なんですか?先輩が空に恋してるってっ!」
「ああ、それはほんと。特に青空が好きかな」
「え……先輩って……変人ですね?」
私がそう言うと、先輩は止めた足を前に進め、私を追い越してゆく。
「変人で結構ー」
そういって無邪気に笑う先輩の顔に私の心臓が高鳴った。
自然と私の顔もほころぶ。
「ふふっ!でも、こんな変人先輩が、野球部のエースなんですよね」
私はそう言って、駆けて先輩の横に並ぶ。
「なんか文句あっかよ」
「……ありませんっ!勝ってくださいよ?夏、私甲子園行きたいですもんっ!」
「ああ、任しとけ。連れてってやるよ」
そういってくれた先輩は誰よりもかっこよくて、私にはキラキラと輝いて見えた。
今日も私たちは、いつものグラウンドへと向かう。
あの夏の日を思い描いて。
あの夏の興奮を追い求めて_______。
✳
「おーし、全員そろったか? 出発するぞー!」
キャプテンの赤坂先輩が、バスの中央に立って確認する。
「じゃー、お願いしますっ!」
「「お願いします!」」
赤坂先輩の掛け声に合わせて、部員たちが声を揃える。
その瞬間、バスがゆっくりと動き出した。
藤青学園高校は、地区予選で優勝し、ついに甲子園へ向かう。
あの予選は、本当に夢みたいだった。
テレビで見ていた景色が、目の前に広がっていて。
みんながキラキラしてて、眩しかった。
——あの人は、特に。
「おい、巧。川崎の将星は勝ったか?」
視線の先には、三列前に座っている相原先輩。
彼は、通路を挟んだ反対側にいる赤坂先輩と話していた。
「ああ、余裕だってさ」
ユニフォームを着ていないと、普通の高校生にしか見えないのに。
でも、あのマウンドで一番輝いていたのは、間違いなく彼だった。
青空の下で躍動する姿に、私の心臓は高鳴り続けて、
——きっとこれが「好き」なんだって。
誰に教えられたわけでもないのに、そう確信した。
ちなみに、将星っていうのは将星高校のこと。
甲子園の常連で、藤青とも何度も対戦している強豪だ。
「彩! お前、好きな奴とかいねぇの?」
ぼーっと会話を眺めていた時、
後ろの席から辻先輩がひょいっと顔を出してきた。
突然の問いかけに、心臓が跳ね、顔がこわばる。
「さぁ……ね?」
——こんなところで言えるわけない!
「へぇ……ってかさ、この中で彼女いるやつ、いなかったっけ?」
辻先輩が笑いながら、わざとらしく大きな声で言う。
彼は部のムードメーカー。
いつも明るく場を和ませるけど、ちょっとデリカシーが足りないのが玉にキズ。
「え、夏樹、お前彼女いたんじゃねぇの?」
相原先輩と話していた赤坂先輩が、こちらに顔を向ける。
「え、もう別れた!」
「は? 付き合い始めたの、一週間前じゃなかったか?」
若干あきれた表情の赤坂先輩。
「んー、なんか違ったんだよねぇ」
辻先輩の調子に、周囲からくすくすと笑いが漏れる。
「……ってか、俺らの試合の日、天気どうなんだっけ?」
ふと辻先輩が思い出したように、前方に座るある人物に聞く。
「快晴だってよ」
相原先輩が少し笑みを浮かべてそう答える。
その瞬間、車内にふわりと不思議な空気が漂った。
「やっと来たな……」
キャプテンがぽつりとつぶやく。
「ああ……やっと来た」
相原先輩が、それに応える。
「あいつ、見ててくれるといいな。俺らの試合……な、青」
辻先輩が、少し寂しそうな目で相原先輩を見る。
「快晴だから、きっと、見る気満々なんだろうな」
相原先輩の声は、どこか楽しげで——けれど、どこか切なげだった。
“あいつ”って……誰のことなんだろう。
私たち一年生は、誰も口に出して尋ねなかった。
軽々しく聞いてはいけない気がして、全員が自然と黙り込んだ。
その後も三年生たちは、笑いながら話していたけれど、
バスの揺れが心地よくて、いつの間にかまぶたが重くなる。
気づけば、隣の真帆の肩にもたれて、私は眠りに落ちていた——。
✳
「__…や…っあ……彩ー!」
目を覚ますと、目の前には真帆の顔があった。
え……ここ、どこ?
バスの中?……なんで寝落ちしちゃってたんだろう。
「――あっ、甲子園!?」
一気に現実に引き戻され、勢いよく立ち上がる。
……その瞬間、ガツンと頭をぶつけた。
「……いったぁ……」
頭をさすりながら、ゆっくりバスを降りる。
先輩たちはすでに全員降りていて、どうやら真帆と私が最後だった。
マネージャーなのに、何やってるんだ。
1人反省する私。
「ホテル、デカッ!?」
しかし、目の前に現れた立派なホテルでそんなことはすぐ忘れる。
家族旅行でも、こんなリッチなところ泊まったことないよ。
「えーっと、ここで俺らは試合が終わるまで泊まるからな。宿泊のペアは前に決めた通り。外出するときは、俺か監督に一言な。自主練は構わんが、ほどほどにしろよ。明後日が試合なんだからな。夕食は8時から。それまでに風呂も済ませとけ。いいな?」
「「おいっす!」」
赤坂先輩の指示に皆が声をそろえて返事をする。
その後、キャプテンが順に部屋のキーを配っていく。
真帆と一緒にキーを受け取り、部屋へと向かう。
内心、私はちょっと――いや、かなりドキドキしていた。
だって、お泊まりだよ? ワクワクしちゃうに決まってる。
試合は明後日だし、まだ少し余裕あるし――。
「なに、彩。ニヤニヤしてんの?」
真帆が呆れた顔で言う。
「え、そんな顔してた?」
「気持ち悪いくらいにね」
「ふふふっ」
「ほら、また……」
だって、こんなにワクワクすること、久しぶりなんだもん。笑顔が止まらないのも仕方ない!
「――あ、ここだよ」
真帆が357号室の前で足を止める。
器用にカードキーを差し込んでドアを開ける。
私はわくわくしながら、真帆よりも先に部屋に飛び込んだ。
電気をつけて、荷物をそこらに置き、さっそく部屋を探検し始める。
「うわっ!見てよ真帆、ベッドでかっ! ……トイレとお風呂、ちゃんと別れてるよ! あっ、見て見て、ドライヤーとかもある!」
テンションの上がった私は、キャーキャー騒ぎながら部屋中をチェック。
真帆は、私が放り投げた荷物をきちんと荷物置き台に乗せ、ベッドに腰を下ろしてひと息ついていた。
今は6時前。
夕食までにはまだ時間がある。
……それにしても、喉乾いた。
「真帆、喉乾かない?」
「彩ー、悪いけど買ってきてー。私、ウーロンで」
すっかりお疲れモードの真帆。
しょうがない。買ってきてあげますか!
私はバッグから財布を取り出して部屋を出る。
えっと……確か1階にコンビニがついてたよね?
ホテルの外じゃないし、赤坂先輩に言わなくても平気だよね。
そう思いながら1人でコンビニに向かい、真帆のウーロン茶と自分用のオレンジジュース、ついでにちょっとしたおやつを買ってエレベーターへ。
るんるん気分で乗り込んだエレベーター。
えっと、部屋のある階は……確か7階だったよね。
7のボタンを押して、ドアを閉めようとしたそのとき――
「――あ、ちょっと待って!」
男の人が、駆け足でエレベーターに滑り込んできた。
ドアが閉まり、エレベーターは上昇する。
坊主頭に、黒く焼けた肌。
見たことのない制服。
……でも、わかる。この人、野球してる。全然知らない人だけど。
「あー、よかった。助かった。悪ぃな、止めてもらって」
そう言って向けられた笑顔は、驚くほど爽やかだった。
無表情だとクールなのに、笑うと一気に子供っぽさが出てくる不思議な笑顔。
「……って、藤青学園の子?」
私の制服を見て、彼が目を丸くする。
「……あ、はい」
「そうかそうか! じゃあ、野球部のマネ?」
「そうです」
……なんなんだろ、この人。
うちの野球部の誰かと知り合いなのだろうか。
そんなこんな考えているうちに、あっという間に7階に到着する。
「あ、じゃ私はここで」
そういって、軽く礼をしてエレベーターを出ようとしたとき、その人も一緒にエレベーターを降りて、「ちょっと待って」と私を呼び止める。
振り返ると、またあの笑顔で私をまっすぐ見てきた。
「ごめん、挨拶してなかったね。俺は川崎誠(カワサキ マコト)。よろしくな」
…ん? 川崎?
どこかで聞いたような。確か今日のバスの中で。
__『おい、巧!川崎のとこの将星は勝ったか?』
そうだ! 相原先輩が今日言ってた!
「もしかして、将星の?」
私は目を見開いて川崎さんのほうを見ると、川崎さんはうれしそうに笑った。
「おっ、当たり! へぇ、俺ってそんな有名人だったっけ?」
「あ、今日たまたま相原先輩が話しているの聞いて……」
「はははっ!あいつが?」
本当に仲いいんだなっておもった。
スポーツでつながった友情って……なんかかっこいい。きっと、すごく堅い絆なんだろうな。
「あ、じゃあ私これで」
そう言って軽くお辞儀をしてから部屋に戻ろうとした時、川崎さんは後ろから私の腕をそっと取った。
驚いて、彼の方を見ると彼はなんの迷いもないような目で笑う。
「ちょっと、俺と一緒にこない?相原と巧のとこ!」
「え!そんな!」
私の目はさらに見開かれる。
「いいからいいから!人数多いほうが楽しいし……な?」
そう言って、川崎さんは私の腕をぐいっと引っ張った。
抵抗したくても、力では敵うはずもなく、私は否応なく連れて行かれてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってくださいってばー!」
何を川崎さんは何しにきたのかわからないけれど、私が行ったら、邪魔になるような気が……しなくもないんだけど!
そう思っている間に、川崎さんはあっという間に相原先輩と、赤坂先輩の泊まる部屋であろう、ドアの前で立ち止まる。
__ピンポーン…
川崎さんは、躊躇なく、ドアの横にあった、インターホンを押した。
あー、押しちゃったよ。っていうか、今さらだけど、本当にいいのかなぁ。
他校の人ホテルの部屋とかに呼んじゃって……。
すると、ドアはなんの警戒もなく開き、ジャージ姿の赤坂先輩が顔を出した。
「おお、お前これを恒例化するつもりか?」
赤坂先輩は、川崎さんを見て苦笑する。
恒例化ってことは、川崎さん、春の大会とかもこうやってホテルに押し掛けたのかな?
「中入れさせろよ…。ここじゃ、ゆっくり話せねぇだろ?ちゃんと相手チームの情報持ってきてやったからさ!あと、お前んとこのマネージャーも拾ってきた!」
川崎さんは満面の笑みで、私をキャプテンによく見えるようにドアの前に立たせる。
私の肩に後ろから川崎さんが両手を置いている。
私はどんな顔をすれば良いのか分からなくて、とりあえず肩をすくめた
「なんだ? 彩お前こいつに捕まったのか?」
赤坂先輩は私を見て笑う。
これは絶対に面白がっている。
「そこ、笑うところじゃないです!」
私がそういっても、赤坂先輩はまだ笑っている。
「とりあえずお前ら入れ。彩、来たからにはちゃんと誠の話ちゃんと聞けよ」
そういって、キャプテンは、ドアを開き私たちを部屋に入れた。
川崎さんは、部屋に入るなり自分の部屋のようにベッドにダイブした。
私は、気まずすぎて化粧台のようなところにあるイスにちょこんと座った。
赤坂先輩は川崎さんがくつろいでいるベッドとは違うベッドに腰を下ろす。
「おい、巧。青は?」
ベッドに寝転がったまま、川崎さんがそう赤坂先輩に尋ねる。
「ああ、あいつなら、走りにいったよ。毎回なんだよなぁ……。ほんと俺の言うこと聞かねぇし。あと、瑠璃ちゃんにも会ってくるとか言ってたな」
「ああー、そうか……。それならお前も止めることは出来ないな」
聞いたことのない名前がまた出てきて、私の頭上にクエスチョンマークが浮かぶのがわかった。
もしかして……。 相原先輩の彼女…とか?
胸の奥がざわついて、チクチクと刺すような痛みが走る。
あたし、どうしてこんなに動揺してるんだろう……。
痛い。 苦しい。
「あ、あの……」
私は、恐る恐る口を開く。
「ん?」
赤坂先輩の視線が私に向けられる。
「その、瑠璃さんって……」
「ああ、小学生の女の子だよ。青のファンなんだ」
赤坂先輩は何の躊躇もなくそう言って私に笑いかける。
だけど――その笑顔は、どこか悲しげだった。
でも、それ以上聞いてはいけない気がして、私は口を閉じる。
胸の痛みは和らいだものの、心の奥には、言葉にならないもやもやが残った。
それから赤坂先輩は川崎さんの方に視線を戻す。
「おい、誠。いつまでくつろいでんだよ。起きろ!そして話せ!」
赤坂先輩がそう川崎さんに言うと、川崎さんはゆっくりと起き上がり、ため息をつきながら目を開けた。
「ん……。話……。あ、そうか。俺の得た情報を発表するんだったな」
川崎さんは思い出したようにそう言ってにこっと笑った。
「まず、藤青の初戦の相手は浪将(ナミショウ)。ここは問題ないだろう。青にとっては、去年負けたの雪辱を晴らす試合になるな。そして、俺ら」
そう言って笑う川崎さん。
私は食い入るように、川崎さんの話に聞き入ってしまっていた。
甲子園の世界が目の前に広がった気がした。
1つのスポーツのことで、こんなにも分析をして、こんなにも一生懸命になって。なんだか胸の奥がジーンとしてしまう。
そして、熱くなる。ワクワクしていた。
「お前らが強くなっているように、うちのピッチャーも成長しているからな」
赤坂先輩がニヤッと笑った。
赤坂先輩、相原先輩のこと信頼しているんだ。
「な、彩」
赤坂先輩はその顔のまま、私を見てくる。
「はい!負けません!」
私も笑顔で返す。
私は自然とガッツポーズをしていた。
相原先輩が何を抱えているのかなんて、今の私には見当がつかない。
だけど、それがなんだ。
今は同じチームメイトとして支えよう。
それが私の仕事。
私がここにいる意味_____。
ちょうどその時、ホテルのドアが開く音がした。
3人一斉に扉のほうに目をやる。
「……え?」
汗に濡れた前髪の奥から、相原先輩の目がこちらを見た。
その視線に、私の心臓が跳ねた。
「おお!相原ー!お前久々だなぁー。お前また体大きくなったな?」
川崎さんが、相原先輩を見るなり目をキラキラさせて相原先輩に飛びついた。
相原先輩は、まだその場で呆然としている。
「ああ、誠から相手の情報もらってたんだよ」
赤坂先輩が、苦笑いしながら、相原先輩に説明する。
「なるほどね……。で、彩はなんでここに?」
「彩は、誠が勝手に連れてきたんだよ。まぁ、マネージャーとしてこの後の情報は入れといていいかなと思って話を聞かせた」
「そういうことか……。俺風呂入りたいんだけど。あと、川崎いい加減離れろっ!」
相原先輩は、体をねじらせて、川崎さんを引き離そうとするけど、川崎さんはしがみついて離れそうにはなかった。
「あ、じゃあ、私そろそろ自分の部屋に戻ります」
そういって、私は席を立つ。
しかし、玄関前で繰り広げられる、相原先輩と、川崎さんのじゃれあい。
「おい、お前も彩とこの部屋出ろ!暑苦しいぞ!」
「そんな照れんなって、俺とお前の仲だろ?」
部屋を出ようにも、出れない私。
そこへちょうど、誰かのスマートフォンがなった。
川崎さんは相原さんにくっつくのを一時休戦し、ポケットからスマートフォンを取り出して、耳にあてた。
「はい、もし…『誠っ!あんたどこにいんの!』
電話の相手はどうやら女の人。
私たちに聞こえるくらいだから、かなりの大声で向こうは話しているよう。
相原先輩は、その隙に洗面所へと駆け込み、バタンと扉を閉めた。
赤坂先輩は、川崎さんのやりとりを聞いて、くすくすと笑っていた。
「どこって…相原と巧のとこ…」
『はぁー?青くんたち今日こっち来たばっかりで疲れてるのに、あんたはお邪魔してるわけ!?』
どうやら、彼女は赤坂先輩と、相原先輩のことをご存じのよう。
「あー、今から帰るんだよ、美和。……で、何の用?」
そこからは、彼女は落ち着いたのか、声は聞こえなかった。
「……ああ、わかった。じゃ、俺もそっち行くわ。俺も報告しないといけないことあるしな」
そういって、電話を切った川崎さん。
そして、川崎さんは赤坂先輩のほうを見る。
「巧。相原は墓参り行ったって?」
「たぶん、今日瑠璃ちゃんといったんじゃないか?」
「……そうか。俺今から行ってくるわ。巧、お前も行くか?」
「いや、俺はいい。もう少しで夕食だしな。折を見ていくよ」
「わかった」
そういって、川崎さんはそのまま呆気なく部屋を出て行った。
墓参り? 相原先輩がそこへ行った? なんで?
誰かが──
死んだってこと、だよね?
──もう……訳が分からない。
「彩、お前も部屋に戻れ」
赤坂先輩の声に我に返る。
「あ、はい。おじゃましました!」
私はそういって、軽くキャプテンに礼をして部屋を出た。
そして、私は自分の部屋のインターホンを押す。
すると、ものすごい勢いでドアが開く。
「あ、真帆、あの…「彩!遅いじゃん!どこ行ってたのっ!すっごい心配したんだからね」
真帆が、出てくるなり、本当に心配していたんだろう。
今にも泣きそうな顔をしていた。
「ごめんごめん。ちょっと真帆に話したいことができたんだよ。とりあえず、中入れてもらっていい?」
私がそういうと、真帆は少し表情が優しくなって、うんとうなずいてドアを開けて私を入れた。
「______で? 彩は相原先輩たち3年生が私たちに何かを隠してるんじゃないかと、そう睨んでるわけね」
私は、さっとシャワーしてきたあと気持ちが落ち着けてから、赤坂先輩の部屋で起きたことを真帆にすべて話した。
真帆は私が相原先輩のことを好きだってことは知っている。
真帆はベッドの上に胡座をかいて、んーっと考えている。
私は、タオルドライしがら、ベッドの上に軽く座る。
「でもさ、先輩たちが私たちに言わないってことは、知らなくてもいいってことなんでしょ?」
真帆は私の方を向いて首を傾げてくる。
「まぁ、多分ね。だけど、あんな意味深な"お墓参り"みたいなワード出てきたら気になっちゃって」
「確かに、それは気になるけど、相原先輩の個人的な何かかもしれないじゃん」
「でもさ、個人的なことだったら、なんで他の先輩たちまで関わってくるの?」
「……確かに……。もしかして、亡くなったのが相原先輩の彼女だったとか?」
真帆自分でそう言ってから目を見開いた。
私も同じような顔をする。
確かにそれだったら、つじつまは合うかもしれない。
だけど……。
「待って。じゃあ、なんで、こんなところに彼女がいるの?相原先輩に限っては一目惚れもしなさそうだし……」
そんな反証的な考えが浮かんで、私はそう口に出してから首を傾げた。
「あー……ダメ。私、もうわかんなくなっちゃった」
真帆はそのまま仰向けに倒れ込んで、ベッドに寝転がった。モヤモヤはどんどん膨らむばかりで、全然スッキリしない。
「彩さ、そんなに気になるなら、先輩の誰かに相談してみれば?藤青の先輩に聞くのが気まずかったら、その川崎さんって人に聞いてみればいいわけだし。連絡先、貰ったんでしょ?」
そう。
私は赤坂先輩らの部屋に入る前に、川崎さんがから連絡先をもらっていた。
「青たちのこと、頼んだ。なんかあったら連絡くれ」と言って。
確かに藤青の先輩方に聞くのはどこか気まずい。
相原先輩のことをよく知っている他校の川崎先輩だったら……。
今の時刻は7時半。
私はベッドから立ち上がって自分のスマートフォンを手に取った。
そして、紙に書いている番号をゆっくりと画面に表示させる。
心臓が、さっきからドクドクと騒がしく鳴っている。
最後の番号をタッチしおえると、私はゆっくり耳へとスマートフォンを持っていく。
呼び出し音が片方の耳で異様に大きくなっているように思えた。
『…もしもし?』
聞こえた川崎さんの声は少し強張っていた。
「すいません!彩です!藤青のマネージャーの西本彩です」
『おお、彩か!どうした?なんかあったか?』
私が、誰だか分かると、川崎さんの声は一気に明るくなった。
「あの……。ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど今大丈夫ですか?」
『いいけど、お前今出てこれるか?今、ホテルの近くにいんだよ』
「い、今ですか!?」
夕食の時間はもう迫ってきている。
私は藁にでもすがる思いで、真帆をちらっと見ると、真帆は親指をたてて、任しとけっ!と言わんばかりの表情で私を見てくる。
「…分りました。どこに行けばいいですか?」
『そうだな……。ホテルて右に行くと小さい公園があるからそこに来い』
「わかりました!今から向かいます」
私はそういって、通話終了ボタンを押した。
そして大急ぎで、バスローブから部のジャージに着替える。
真帆はというと、ベッドの上でのんきにストレッチをしている。
「真帆、あとは任せていいよね?」
私は靴を履いて、真帆の方を見る。
「うん。先輩たちには、彩はお腹壊してベッドに倒れていますって言っておくから安心して行ってきな」
そういって、意地悪そうに笑ってくる真帆。
「ちょっともう少しマシな理由……。もう、いいや!行ってきます!」
私はそう真帆に言い放って、玄関を出た。
野球部にみつからないように廊下を歩き、ホテルへと出る。
これがかなりのスリルで本当にお腹が痛くなりそうで、やっとの思いであたしはホテルを出た。
今夜は珍しく熱帯夜から解放され、頬を撫でる風がやけに心地よかった。私の半乾きの髪を風が揺らす。
今日は新月のようで、星が綺麗に見えた。
ゆっくりと歩く夏の夜の道。
横には車が通り、人通りは少ない。
街灯がぽつぽつと足元を照らしてくれる。まるで、この町全体が私を迎え入れてくれているみたいだった。
……本当はちょっと怖い。でも、気になる。知りたい。
真実が何であれ、私は──進まなくちゃ。
そんなことを感じているうちに、待ち合わせ場所だと思われる公園に着いた。
その公園には、街灯が1つだけ。
その下のベンチに2人の男女が座って何かを話しているようだった。……川崎さんは…どこだろ…。
私は公園の入り口に立ち止まってあたりをきょろきょろする。
だけど、その公園にはベンチに座っている男女以外誰もいない。
川崎さんに電話をかけてみようと思いポケットに手を入れたときだった。
「______おう!彩、早かったじゃねぇか!」
ベンチに座っていた男の人が、私に声をかけた。
「え、川崎さん?もう来てたんですか?暗くてわかりませんでした」
そういいながら私は2人の方へと駆け寄った。
川崎さんはニヤッと笑うのがわかる。
そして隣の女の人は可愛らしく笑う。かっこいい人だな、と思った。笑顔は可愛らしいけれど、目はきりっとしていて、大人っぽさがあった。
「あ、これは俺の彼女。性格は男っぽいけど一応女だから、彩間違えるなよ?」
そういって川崎さんは意地悪っぽく笑った。
隣の彼女さんはその瞬間、バシっと川崎さんの背中を叩いた。
「“これ”とか言わないでよ。それに、彩ちゃんに変なこと教えないの。私、西村美和。よろしくね」
美和_____。どこかで聞いたことのある名前。
あ、そうだ。今日キャプテンの部屋にいたとき。
__『あー、今から帰るんだよ、美和。……で、何の用?』
川崎さんの今日の電話相手。彼女と電話してたんだ。
だから、あのとき赤坂先輩ははニヤニヤしながら笑ってたんだ。
「あ、こちらこそ、あたし西本彩です。すいません、こんな時間に」
「いやいや、謝るのはこっちの方!ごめんね、今日誠がいきなり押しかけて」
「いえ、南聖のことを詳しく教えてもらえて、本当に助かりました」
そう、私がいうと、川崎さんはニヤッと美和さんの方を向いて笑った。
「何よ?」
「俺、結構役に立ってんだよ。」
「調子乗るなっ」
そうやって言い合っている2人がとても微笑ましく見えた。そして、羨ましいなって思った。
すると、急に川崎さんは何かに気付いたのか、いきなり立ち上がって私の目の前に立つ。
あまりに近かったから、思わず1歩引いてしまう私。
「あ、そうだ。お前なんだよ。俺たちに聞きたいことって……。あ、とりあえず座れ。俺立ってるから」
あ、そうだった……。
私、相原先輩のこと聞きたくてここまで来たんだった。
「まぁ、とりあえず座りなよ、彩ちゃん」
美和さんは、優しく笑ってさっきまで川崎さんの座っていた席をポンポンと叩いた。
私は2人の言葉に甘えてその席に腰を下ろす。
そして、私は軽く息を吐いた。
2人は真剣に私の方を見てくれている。
このモヤモヤをかかえたまま、私は甲子園を迎えたくない。
「あの……。相原先輩のことなんですけど…」
その言葉を聞いた瞬間、2人の顔つきがより厳しくなった。だけど私は構わず話を続けた。
「私たち、藤青の野球部1年生は先輩たちの過去に何があったかは全く知らされていないんです。だけど、きっと何かある……あったんだって私は思ってます。こうやって、他校の先輩方に聞いてまで、自分の部の先輩方の情報を得ることが正しいとは思っていません。だけど、どうしても気になって」
2人の顔を私は見ることができなかった。
下を向いて、ひたすら返事を待つ。
蝉の声が異常なほどに大きく、私には聞こえた。
「……もしかして…彩ちゃんは、青くんのこと好きなのかな?」
隣の美和さんが、優しく前を向いたまま私に問いかける。
「……はい」
私は顔を上げて、それから美和さんの横顔をみた。
その横顔はどこか寂しそうで、今にも泣きだすんじゃないかって思った。
「そっか……。青くんカッコいいもんね。青くんのどこを好きになったの?」
「相原先輩は、野球の才能に恵まれている人です。でも、それだけに頼らず、人一倍努力してるんです。そういうところが____好きになったんだと思います」
「……そっか」
美和さんはそういって、何かを決心したようにと息を吐いた。
「あの…「待て……。俺が言う」
美和さんが口を開いたところで、さっきまで黙っていた川崎さんが口を開いて美和さんが言うのを止めた。
美和さんは、私の隣で小さくわかったとつぶやく。
川崎さんは私をまっすぐと見てきた。
「彩。今から俺が話すことはすべて本当のことだからな。そして、この話を藤青の野球部1年に伝えるかどうかはお前が判断しろ。わかったか?」
「……わかりました」
私も、川崎さんの目をまっすぐと見て返事を返した。
川崎さんは______ゆっくりと口を開いた。
「青には高1のころから同じ藤青学園に通う、同い年で幼馴染の彼女がいたんだ。水木空(ミズキ ソラ)っていうかなり美人の彼女がな」
やっぱり彼女いたんだ……。
私の胸がズキッと痛んだ。
「空は、藤青で唯一のマネージャーだった。特に他校の分析が得意で、チームにとって欠かせない存在だったよ」
…完璧マネージャー!?
私、大丈夫かな……。裁縫も洗濯もできたの? いや、できるよね。ひとりで全部やってたんだから。
「でもある日、青が事故に遭ったんだ。1年の夏前──空をかばってな。命は取り留めたけど、それから半年間、意識が戻らなかった」
……そんなこと、初耳だった。
「その間も空は、病院に通いながら夏の大会に向けて前を向き続けた。結果、藤青は決勝まで行ったけど、甲子園出場は逃した。そして秋、青がようやく目を覚ました──やっと2人でまた甲子園を目指そうって時に、空が突然いなくなったんだ」
「いなくなった……?」
「転校だった。突然だった。藤青の皆もショックを受けた。空は、甲子園球場の近くにある樺橋総合病院で治療を受けていた。──癌だったんだ」
……ちょっと待って。
頭が混乱する。
相原先輩の事故。空さんの病気。あまりに突然すぎて、気持ちがついていかない。
「そして春。空は俺たちの学校──将星高校へ転校してきた。美和が空の一番の友達になった。けど、空は青のことを話そうとしなかった。どうやら、病気のことを黙ってここへ来たらしい」
「……」
「夏、空は体調を崩して入院した。将星は甲子園出場を決め、藤青も同じく出場した。でも空は、青の試合を観ようとはしなかった。だから俺たちは、藤青と連絡を取って、2人を引き合わせたんだ。やっと、気持ちが通じ合った」
私の胸がぎゅっとなる。
「藤青は、将星を破り、強豪・南聖にも勝った。でも次の浪将戦で、青は肩を負傷して敗退した。落ち込んだ青に、空は“春のセンバツでまたここで会おう”と約束したんだ。それから再び遠距離が始まった」
季節が流れて、春が来て──
「藤青は約束を果たして再び甲子園に戻ってきた。でも空の病状は悪化していた。1日目の将星戦は観に来れたけど、南聖との試合は外出許可が下りなかった」
「……」
「青は空のために必死で戦って、南聖に勝った。けれど──ホテルに戻る途中、空の容体が急変したって連絡が入って……青は急いで病院へ向かった。けど、間に合わなかった。空は、みんなに見守られて息を引き取ったんだ」
……愛しい人を失うこと。
それは、どれだけ苦しくて、辛くて、悲しいことなんだろう。
「私なら……きっと立ち直れない」
それが、今の私の正直な気持ち。
たぶん、野球もやめてしまうと思う。見れば苦しくなってしまうから。
「だろうな。俺も、そうかもしれない。だけど空は、青に“ある言葉”を残していった」
「……ある言葉?」
「なんだと思う?」
唐突に問われて、私は頭をフル回転させる。
もし自分に時間がなくて、愛する人に何か言葉を遺すとしたら……。
「私なら…自分の道へ進んでというと思います。私に構わずに……」
私がそういうと、隣の美和さんと、川崎さんが目を見合わせてにこっと笑いあう。
「空も同じような言葉を青に遺したんだ。だから今、青は前を向いてる」
美和さんは隣で鼻をすすって泣いていた。
私だって、真帆がいなくなったらって思うと想像できないくらいに怖い。
「青の好きな天気知っているか?」
川崎さんが、優しい声で私に尋ねる。
これなら私も知っている。前に、相原先輩に答えをもらった。
「わかります!青空です」
「青空と聞いて、何か思わないか?」
青空と聞いて思い当たること_____。
「相原先輩と空さんの名前をつなげたら……」
青空。
なんて運命的なんだろう。
なんて、儚いんだろう。
そして、どれだけ空さんが、相原先輩の中に生き続けているのか――私の胸に、静かに風が吹いた気がした。
神様は、残酷だ。
2人を引き離したことも──そして、そんな先輩と、私を巡り合わせたことも。
でも、これも何かの“意味ある出会い”なんだと、信じたい。
「それからもう一つ。空の口癖は、今も青の背中を押してる」
「……空さんの口癖?」
もしや──
「“かっ飛ばせ”とか、ですか?」
相原先輩が最初の自己紹介のとき、得意技だって笑っていた──
『得意技は、かっ飛ばすこと』
あの顔を思い出す。
「そう。『かっ飛ばさないと、ぶっ飛ばす』──それが、空の口癖だったんだ」
「かっ飛ばさないと……ぶっ飛ばす!?」
その言葉に、思わずクスッと笑ってしまった。
隣の美和さんも、涙をこぼしながら微笑んでいる。
そして、つられるように川崎さんも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「空さん……相原さんが浪将に負けたとき、本当に“ぶっ飛ばし”に来たんですか?」
「ああ。あのときの青は、ギリギリだった。表情も声も、今にも崩れそうで。でも、空が来て──笑って、叱ってくれた。あいつを救ったのは、あの瞬間の空だったんだ」
――私の入る隙間なんて、どこにもなかった。
どれだけ相原先輩のことが好きでも、その隣にいたのは空さんだったんだ。
「彩ちゃん。次は……彩ちゃんの番だよ」
美和さんが私の方を向いて、やわらかく微笑んだ。
私の番? 何の――
「彩ちゃん、青くんのこと、好きなんでしょ? 空と青が付き合っていたのは、もう過去の話。今の青くんは、誰のものでもない。……空の代わりになれなんて言わない。でも、今の彩ちゃんのままで、そばにいてあげてほしい。支えてあげて。いつか、自分の気持ちを伝えてあげて。それが、空の願いでもあると思うんだ」
「……でも、どうして私なんですか? 相原先輩のこと、きっと他にも好きな人はたくさんいるのに……」
「彩ちゃんじゃないとダメな気がする。これは、私の勘なんだけどね……。でもね、私の勘、けっこう当たるの」
美和さんはそう言って、私の手を両手で包み込んだ。
その手の温もりが、胸の奥にまで染み渡る。
心が、ほんの少し、温かくなった。
「俺からも頼む、彩。あいつ、筋金入りの野球バカで、空バカでもある。正直、扱いづらいかもしれない。でもな……お前なら、ちゃんと支えられる気がするんだ」
川崎さんも、優しく笑ってくれた。
――もし、相原先輩と付き合えるなら。
それはきっと、奇跡のようなことで。一生分の運を使い果たしてしまったって、構わないと思えるくらい、幸せなこと。
でも、今の私に何ができるかなんて、わからない。
それでも――
前を向かなきゃ。
もう、立ち止まってなんかいられない。
一歩でいい。小さな一歩でいいから、前へ進もう。
遠回りでも構わない。たとえ不器用でも、自分の足で、ちゃんと歩いていこう。
「……私、頑張ります。藤青野球部を、裏から支えます。空さんに負けないように。今度は、私が支える番です。そして……全部が終わったら、相原先輩に、自分の気持ちを伝えたい。ちゃんと、自分の言葉で」
そう言って、二人の顔を見ると、美和さんも川崎さんも、満足そうに笑ってくれた。
――これでいいんだ。
今日のことは、私の胸の中にしまっておこう。
そして、受け入れよう。
空さんの存在を。
空さんの死を。
相原先輩の想いを。
私は、連れてきてもらったんじゃない。
一緒に、ここへ来たんだ。
そう思えるように、今できることを、精一杯やるだけ。
「なんかあったら、また俺たちに頼れよ」
そう言って、川崎さんが私の頭をやさしく撫でてくれた。
「そういえば、彩ちゃん、夕飯は大丈夫?」
「あ、友達がなんとかごまかしてくれてるんです。じゃあ、私、これで失礼します」
ゆっくりと立ち上がると、夜空には無数の星がきらめいていた。
蝉たちの鳴き声が、夏の夜を彩る。
正直、まだ不安はある。
でも――やれるだけ、やってみよう。
私にできることを。
「じゃ、次に会うときはグラウンドでな」
二人が笑って見送ってくれる。
そして、三人は公園を後にし、それぞれの道を歩き出す。
進む道は違っても、目指す場所は同じ。
信じる道を、それぞれが選んで進んでいく_______。



